20 虫の居所が悪いの
家にいてもぐるぐると余計な事ばかり考えてしまうからと、スフィアは気分転換に王都の外周部へと来ていた。
ドレスをただのワンピースへと換え、赤髪は一つに纏めて帽子の中へ押し込む。
滅多に貴族と出会わない外周部は、今のスフィアにとっては息の付ける場所である。その中で、スフィアは一軒の喫茶店へと入った。
頼んだ紅茶の香りは薄く、お湯の温度も熱すぎる。
しかし、普通では飲まないその違いが今は安心できた。
「……はぁ」
帽子を隣の椅子に置き、コクリと一口紅茶を飲む。
喫茶店と言うより、居酒屋が昼間にも開いているというような店で、薄暗くガヤガヤとした雰囲気が誰もスフィアの赤髪に注目させなかった。
「お姉様と会えないのは辛いけど、学院にいる間だけだから、お姉様が卒業したらまた元に戻れるわよね――ッチチ」
つい、いつも通りに飲んでしまい舌先を火傷してしまう。
「すみません、お水をいただけますか」と、恰幅の良い女店主に声をかければ「はいよぅッ」と威勢のいい声が返ってくる。
「お水ですよ、どうぞ」
「あ、ありがとうござい――っ」
やけに早いなと思いつつ顔を上げれたら、水を持っていたのは、店員とは思えないような男だった。金縁眼鏡の奥から向けられた目尻の垂れた目には知的さが宿り、ボトルグリーンの上着がよく似合っている。どう見ても平民ではない。
男はコップをスフィアの目の前に置くと、そのまま向かいの席へと自分も座った。
「え、は? あの……」
相席か、と思ったものの周囲を見回せばそこら中に空席がある。
――ということは……。
一瞬にしてスフィアの瞼が重くなる。
スフィアは向かいに座った男の目的をナンパだと結論づける。
――本当、物思いにふける時間すらこの世界はくれないのかしら。世知辛いわぁ~。それにしても、どこかで見たことがあるような……。
重くした目そのままに、男の顔をつぶさに観察してみる。
「そんなに熱烈に見てくれて嬉しいな」
頬杖をついてこちらを緩やかな笑みで見てくる男に、スフィアはこれ見よがしな溜息を吐いた。
「すみません、そこのテーブル使うので、席を移動してもらってもよろしいですか」
「おや、誰か使う予定だったかな??」
男が首を傾げた次の瞬間、ドンッ、という音と共に、男の目の前で水が散る。
「ええ、私のお水さんが使うので」
叩きつけるように男の目の前に置いたコップからは水が飛び散り、テーブルだけでなく男の手や眼鏡までも濡らしていた。
「…………」
男の温和な表情は変わらなかったが、口元が微かにヒクついている。
「あら大変。これ以上濡れられないうちに、そこの席を空けられたほうがよろしいと思いますよ」
男は濡れた眼鏡を懐から取り出したハンカチで拭いながら、ははっと笑う。
「そんなに邪険にしないでくれよ。この間挨拶した仲じゃないか」
「はい?」
「新年会で。君はアルティナ嬢の隣にいただろう?」
新年会で挨拶した相手となると……。
「ああっ! お姉様のダンス講師の!?」
「そう。シネル=グラフォードだ」
あちゃあ、とスフィアは内心で顔を覆った。
アルティナの想い人を邪険にしてしまった。いや、元より相手が惚れてこないようにするため、好印象を与えてはならないのだが、それにしても初っぱなから邪険にしすぎてしまった。少量のしぶきとはいえ、水をかけてしまった。口だけで抑えておくべきだった。
――お姉様に、私のことを野蛮令嬢だなんて吹聴されたら困るもの!
これ以上、アルティナからの好感度を下げたくない。
「こ、これは失礼しましたわ。まさかこのようなところに、貴族の方がいらっしゃるとは露も思わず」
「僕もまさか、スフィア嬢がこんな下町の店に、ひとりで入っていくとは思わなかったよ」
「私の名前を……?」
「その赤髪は有名だ、特に貴族の間では。それに、新年会でも目立っていたからね」
大丈夫だったかい、と聞いてくるあたり、『目立っていた』という言葉が指すのは髪色ではなく、あの騒ぎの事だろう。まったく、嫌な覚えられ方をしたものだ。
「それで、私に何かご用でしょうか。ただこの店にお茶をしに来たわけではないのでしょう?」
先ほどの彼の口ぶりからするに、どこかで見られて後を付けられてきたようだ。十中八九ナンパだろう。
すると、シネルはテーブルに置いていたスフィアの手を握ると、ズイと顔を寄せた。
「僕と付き合ってほしい」
「ご冗談を」
ただでさえ、男問題で問題が生じているというのに、これ以上余計な接触は増やしたくない。下手に回りくどい言い方をせずに、さっさとお引き取り願おう。
「シネル様には、もっと相応しいご令嬢がおります。ただ髪が赤いだけの生意気な小娘などシネル様とは釣り合いませんわ」
一応アルティナの想い人である手前、断り方もオブラート五枚重ねにして柔らかくしておく。本当なら「嫌だ、帰れ」くらいの事はいいたい気分である。
「あっはははは! 面白いね、君」
「いえ、まったく面白みのない小娘ですからお気になさらず。それよりも、もっとご自分の周りに目を向けられては?」
きっと黄金の美女が転がっているはずだから。
突然シネルは、一転して「あぁ……」と投げやりな声を漏らした。
「もしかして、アルティナ嬢のことを言っているのかい」
「そっ……」
「残念だけど、アレはないかな」
――アレ……ですって?
もしかして、この男は今、アルティナのことを指して『アレ』呼ばわりしたのだろうか。仮にも大公家令嬢を、自分の生徒を、自分に好意を寄せてくれている女性を指して。
スフィアが目を丸くして言葉を継げないでいると、シネルはぐっと上体を寄せ、スフィアの顔に己の顔を近づけ嘲笑を浮かべた。
「大きな声じゃ言えないが、大公家のお嬢様は僕には荷が重いんだよ。仕事でなければ、関わりたいとも思わないね。なんて言ったって、さすがは令嬢界のトップ。ワガママだし高飛車だし、彼女の良いとこってのは、顔と身体くらいじゃないか――――っ冷た!」
「それ以上喋らないでください。次は熱湯をかけますよ」
シネルは頭から水をしたたらせ、向かいのスフィアは空になったコップを手にしている。
一口も飲んでいなかった水は結構な量があり、ポタポタと毛先から落ちた雫が、彼の顔や肩だけでなく、テーブルや床も濡らしていた。
「悪かったよ、レイランドのご令嬢。自分の思いと違うからと、どうかそんなに怒らないでくれよ」
言い訳がましく胸の前で両手を振るシネルの胸ぐらを、スフィアの手が掴む。
「次にお姉様を侮辱してごらんなさい。二度と社交界に出入りできないようにして差し上げますから」
シネルだけに聞こえるように耳元で囁くと、スフィアは投げ捨てるようにして胸ぐらから手を離す。ドスン、と落ちるようにして椅子に座ったシネルを一瞥することもなく、スフィアは、紅茶一杯にしては多すぎる額のお金をテーブルに置き、そのまま足早に店を出て行ったのだった。
◆
店内は、身なりの良い男が可愛い少女に派手に水をかけられたとあって、「なんだ痴話喧嘩か」と野次馬的興奮が渦巻いている。
「よう、色男の兄ちゃん! 修羅場かい?」
「どうせ浮気でもしたんだろう! ハハハッ!」
一人が好奇心に負け、言葉を飛ばせば、二、三言他の客からも声や笑いが飛ぶ。
「いえいえ、浮気だなんて。彼女の気持ちには応えられないと伝えたら、このざまでして」
シネルが両手を広げ、見てくれとばかりに濡れた身体を見せれば、客達から「おお~」と面白半分と憐れみ半分の声が上がった。
「へえ、女に嫉妬を貰うたぁ隅に置けないもんだ。ところで、兄ちゃん。良い格好をしてるがどこの貴族だい?」
「実家は西のノファス近くです。僕は、ウェスターリ大公家でダンス講師をしているんで王都に住んでますがね」
へえ、と客達からの感嘆を受け、シネルは満足そうに口元を深くつり上げた。
シネルが店を出たところで、ひょろりとした男が近付いてきた。
「水もしたたる良い男にされましたね」
「本当だよ」とシネルは、ぬれそぼった前髪を大きく掻き上げる。
「で、これで良かったんだろ。僕の役目は」
「ええ、上出来ですよ。はいこれ、次の新しい就職先。王都からは遠いですが、その分給料は弾むようと言っておきましたから」
ひょろ男は懐から取り出した紙片を、シネルへと差し出した。
「助かるね。どうせ貴族家の次男坊なんて、王都にいても仕方ないし。心機一転やりたかったところだったからね」
シネルは紙片をひょいと受け取ると、胸の内側にしまい込む。
「それじゃあな。良い仕事をありがとうよ、大公家の使用人くん」
シネルは振られたにしてはスッキリとした明るい表情で、ひょろ男へ軽やかに手を振りながら人混みへと消えていった。
「ひゃは! あ~楽しみ」




