18 誰しもの姫
新年会が行われているホールを離れ、ひとり王宮の庭園へと出たリシュリー。
皆、光に群がる蛾のようにホールの煌びやかな賑わいに夢中で、庭園など誰も気にしない。所々に立つ灯籠の灯りが、歩くに困らない程度の明るさを保ってくれていた。
「面白いことをしているな、リシュリー」
サク、と枯れ葉を踏む音と一緒に声をかけられる。
「お父様」
振り向けば、黒い上着に金の肩章が夜闇によく映えた父が、庭園の入り口からこちらへと歩いてきていた。
「先ほどの、レイランド侯爵令嬢の騒ぎはお前か?」
父は笑っていた。
「とんでもないわ。あれは勝手にそこら辺のザコ女達が悋気を起こしただけよ」
リシュリーは鼻で嗤った。
「だが、そうなるように持って行ったのはお前だろう?」
二人は顔を見合わせ、目元だけを緩める。
なんとはなしに、二人の足は王宮から遠ざかる方へと進む。窓から漏れ出る煌々と輝くホールの灯りが二人の背を照らし、顔の陰をより濃くする。
「ピクシーの倅はどうした」
「カドーレならとっくに帰ったわよ。スフィアが可哀想で見てられなかったみたい」
「あれの息子にしては、また随分と常識的な感性を持ったものだ」
「あら、つまりは伯爵様って常識的じゃないってことなの? でもライノフ一族の血は引いていないでしょう?」
「血は引いていなくとも、私の秘書をできている時点で似たり寄ったりだよ。あれは時々欲望に身を任せすぎることがある。万が一のためとはいえ、異国の踊り子なんぞに子を産ませるし、それを手元で育てていたからな」
「ふぅん、じゃああたし達と一緒で変わり者ってことなのね。じゃあ、血とかじゃなくて単にカドーレだけが堅物なのね」
「さあ……人は最後まで分からないものだからな」
意味深なことを呟いて、父はそこで話は終わりだとばかりに足を止めた。しかし、リシュリーはまだとばかりに歩を進める。
「リシュリー、楽しそうだな」
「ええ、楽しいわ!」
その場でクルリとオレンジ色のドレスを翻し一回転する娘を見て、父親は満足げに腕を組んだ。
「新しい当主には期待できそうだな。しばらくは不抜けた当主が多かったようだが、やっとまともなのが現れた。前のも悪くはなかったが、血のことは知っていたはずなのに、興味ないとばかりに私腹を肥やすことだけで、面白みはなかったからな。それに比べお前達が羨ましいよ。一人の女を巡って国を騒がすとは、これ以上馬鹿げた面白いことはないだろう」
「あら、それって主を貶しているのかしら?」
「とんでもない。それでこそ悪の貴族、ライノフ一族だと褒めているんだよ。貴族が皆、品行方正と思われてはたまらんからな。我々のような存在は必ず必要だ。この世から悪が潰えた試しはないのだからな」
ライノフ一族の歴史は古い。それこそ、正当な王家が血脈を保っていた時代から続く家系である。ただ、その中でも何度か王家や他の貴族家と衝突して領地替えや、爵位変更を繰り返してきたせいで、その古さを知る者達も少ない。どこにでもいる一般的な中庸貴族くらいにしか認識されていないだろう。
「そういえば、去年辺りかしら……エノリア子爵が西の方でいろいろと動いていたようだけど」
「なあに、新しい主の力になれればとちょっと手を出しただけだよ。だが、どうやら主から余計なことをするなと怒られたようだ」
「ああ、だから父様もあたしに腕輪を譲ったのね」
「若い者には若い者なりの考えがあるだろうしな」
リシュリーは「じじ臭っ」と肩を揺らして笑った。
「そういえば、あの温厚なレイランド侯爵が、血相を変えて出て行ったな。その息子も」
「お父様がその顔を作ってあげたかったのかしら?」
「いや、あの慌てようだと、娘の様子がいつもとは違ったんだろうさ。大丈夫なのか? もしここで彼女がショックを受けて、そのまま家に引きこもってしまったら。お前が考えている結果には結びつかなくなるんじゃないのか?」
「安心してよ、お父様。スフィアはそんなに普通じゃないわ。大丈夫よ、彼女はこんな事くらいでは崩れないの」
「随分と彼女を信じているんだな」
「ええ」
娘が語る様子は、神を崇拝するような恍惚としたものだった。対象を絶望に堕としたいはずなのに、何故こんなにも娘は生き生きとしているのだろうか、と父親は僅かに眉間を寄せた。
「だって愛してるから、信じてるの!」
しかし、臆面なく満面の笑みでそう言った娘を見れば、疑問に思った自分に笑いが出た。
そうだった。
娘は娘である前に、一族の血を引いているひとりの悪だったのだ。
◆
新年会から数日経ち、新年の祝賀ムードもすっかりと薄くなった王宮の一室――ヘイレンの私室と続きになった小部屋で、男達は顔をつきあわせていた。
「ローレイ、スフィア嬢の様子はどうだい」
「あの後、スフィア嬢は大丈夫だったのですか!? すぐにホールを出たようでしたので、もしや泣いていたのでは……っ」
ヘイレンとグレイが、苦しみを浮かべた顔でローレイに尋ねる。
新年会の時、スフィアが階段から落ちかけた。
ちょうど現場を見たのはグレイだけだったが、騒ぎが起こったとき皆ホールにおり、その事実だけは知っていた。
「僕たちも驚いて、すぐに彼女を追ってホールを出たんだけど、彼女に声をかけた時はけろりとしたものだったよ」
「まあ、それがスフィアの本心とは限りませんが。だが、泣いてはいなかった。それどころか、あの場に留まれば祝賀の雰囲気を壊してしまうから先に帰ると、気遣いまで見せる余裕まであったよ」
ローレイとジークハルトは『何事もなかった』と言っているのに、しかし二人の表情は何事もないものではなかった。
それは、聞いていた他の三人にも充分に理解出来ていた。
「私とジークが気付いたときには、既にスフィア嬢はグレイが助けた後だったから、その現場を見ていないのだが……何があったか分かるかい、グレイ」
グリーズが横目で隣のグレイを窺う。
私は、とグレイは少し言い淀むが、逡巡の後、ゆっくりと口を開いた。
「ダンスにスフィア嬢を誘おうと探していたら、彼女が階段を上っていくのを見つけたんです。先にはアルティナ嬢や他の令嬢もおり、一緒に二階から見物でもするのかと思ったんですが」
「スフィアはアルティナ嬢が昔から好きだからね。今でもよく彼女に手紙を出しているよ」
ローレイが状況に納得だと頷く。
「であれば、やはりスフィアが足を滑らせただけだったのかい」
「それが……はっきりとした断言はしにくいのですが、私には、先にいた令嬢がスフィア嬢を突き落としたように見えました」
ドッ、という場を一喝するかのようなけたたましい音が、円卓をビリビリと震わせた。
ジークハルトの拳が円卓の上で震えていた。
「……それはつまり……僕の妹は、そのご令嬢のどれかに故意に落とされた、ということかな? まさか、それがアルティナ嬢なんてことは……」
血走った目を向けられ、グレイは思わず息を呑む。
「い、いえ、アルティナ嬢は違います」
ジークハルトのギチギチと握られた拳に浮かんでいた血管が、幾分かマシになったのを見て、グレイは内心で息を吐いた。殺気だけで殺されそうだった。
「どこのご令嬢だ? 可愛い可愛いこの世の何よりも尊く代えがたい存在であるスフィアを傷つけたクズは。しっかりと代償を払ってもらわなければ気がすまないな」
「落ち着きなさい、ジークハルト」
「しかし、父様……!」
「大丈夫だよ、今じゃないってだけさ。しっかりと調べた上でしっかりとお礼をすればいい。その時は、一時の感情は家をも滅ぼすと教えてあげよう。ヘイレン、貴族家がひとつくらい減っても構わないよな」
ヘイレンはこめかみを押さえて嘆息した。
「落ち着け、ローレイ。これだから温厚な奴がキレると恐ろしいんだ」
今日の夕食のメニューは肉だよなと聞くトーンで、貴族家を潰えさせようと言うローレイに、ヘイレンだけでなく、グレイもグリーズも口端を引きつらせていた。
ジークハルトがキレるのは予想済みだったが、まさか温厚が人間の皮を被っているようなローレイまでがここまでキレるとは、と二人はヘイレンの言葉に深く頷いた。
このジークハルトにしてこの親ありだろう。
「しかし、残念ながら私にはその突き落とした令嬢の名前が分からず……アルティナ嬢と一緒にいたので、デビュタント前の令嬢とは思うのですが」
ジークハルトが、ぼそりと「使えない」と呟いていた。「王子なのに……」と同じく呟けば、グリーズが背中を撫でてくれた。あっちではなく、こっちが兄で本当に良かった。
「――それと、ライノフのことだが」
ヘイレンの言葉で、全員の顔色が変わる。
夏も終わるといった頃、ローレイとジークハルトから連絡があり、こうして集まったことがあった。そこで告げられたのは、ライノフ一族が例の血を狙う者かもしれないという話だった。
「元々、昔から良い噂のない貴族だった。何か裏で悪いことをしているのだろう事は分かっていたが、中々尻尾を掴ませない狡猾さもある。しかしスフィア嬢のおかげで、パンサスでの悪事を露見させることができた。それで領地替えを行ったのだったが……それではまだ懲りていなかったようだな」
「ベレッタ嬢は、ライノフ一族がスフィアを狙っていると言いました。並々ならぬ執着を抱いているとも。恐らく、彼女は血の秘密を知らないからそう言ったんでしょうが」
「まあ、相手と状況を考えると、ライノフが血の秘密を知る者と考えたほうが妥当だね」
ジークハルトの言葉をローレイが補強する。
「しかし、ライノフ一族ということは、ライノフ家以外にも仲間がいるということですよね」
ライノフ家だけであれば、一族などという言い方はしないだろう。
恐らく、とグリーズが唸りと共に口を開く。
「以前、父様をニセモノ呼ばわりした者が不自然に獄中死しましたからね。王宮に勤める者の中にライノフの名がないとすると、その一族の方が王宮に潜んでいるのでしょうね」
よし、とヘイレンが手を打った。
「ローレイ、ジークハルト卿。その一族の方は私達に任せてほしい。だから、そちらはライノフ家からスフィア嬢を守ることに専念してくれ。証拠がない以上、私達もまだ表だっては動けない」
五人はお互いの顔を見渡し、頷きあった。
「この国の姫のために」――と。




