16 そんなことさせるものですか
『落ちては駄目』
それが、まずスフィアの頭によぎったことだった。
視界に映る景色はひどく緩慢で、アルティナの瞬きすら感知できる。
肩に受けた衝撃は思いのほか強く、階段を上っていた不安定な体勢を崩すには充分だった。
既に片足は完全に階段から離れ、もう片足も靴裏が階段の角に触れているだけで、ここから体勢を立て直すのは無理だと分かる。
ゲームの中では、悪役令嬢であるアルティナが嫉妬に駆られて、ヒロインであるスフィアを階段から突き落とした。
しかし――。
――お姉様じゃない。
スフィアの肩を突き飛ばしたのは、アルティナの隣にいた令嬢だ。
だが、ここでこのまま落ちたら、きっとアルティナが突き落としたことになってしまう。世界はなんとしてでも、彼女と自分に役割を全うさせようとしているのだから。
――そんなことさせるもんですか……っ!
落ちてもすぐに立ち上がれ。
大したことないように振る舞え。
骨が折れても、なんでもないように装え!!
「……っ!」
スフィアはグッと歯を食いしばり、きたる痛みに備えて身体を強張らせた。
しかし、身体を襲ったのは痛みではなく、温かく柔らかな衝撃。
「大丈夫か、スフィア!」
「グ……グレイ……さ、ま?」
すんでの所で、グレイがスフィアを抱き留めていた。
驚きに目をぱちぱちと瞬かせるスフィア。スフィアにはっきり意識があることが分かると、グレイは、はぁと深く長嘆し、次にキッと階上を睨み付ける。
「誰が――っんぐ!」
しかし、下から伸びてきたスフィアの手によって、言いたいこと半ばでグレイの口は閉じられる。
スフィアを見つめるグレイの顔は『何をするんだ』と言っていた。しかし、スフィアはその視線には答えず、まるで何事もなかったかのように、グレイの腕の中から立ち上がる。
「あ……危なかったですね。私ったら慌てていて、つい足を滑らせてしまって……」
深紅のドレスの裾を手ではらい、何ともないとばかりに、自らの足で残りの階段を下りていく。
「本当、私って駄目ですねえ……あはは」
「いや、スフィア――」
「グレイ様、助けてくださってありがとうございました」
振り返り、訝しげな顔をしている彼に満面の笑みで礼を述べる。
――……大丈夫。
ちゃんと見えた。
アルティナは自分を助けようとしてくれていた。
マーメイドラインのドレスは、いつものドレスと違って足の動きがはっきりと見える。彼女は確かに、振り向いて自分が落ちそうになっているのに気付いたとき、こちらに踏み出そうとしていた。ただ彼女を囲んでいた他の令嬢達が邪魔で、身動きがとれなかっただけだ。
それさえ分かれば充分だ。
階段の最後の一段をおりると辺りを見回した。
ホールにいた者達は皆、固唾を呑んで事の成り行きを見守っていたようだ。あれだけ騒がしかったのに、嘘のように静まりかえっている。
スフィアは、裾を広げ深々としたカーテシーと共に頭を下げた。
「皆様も、私の不注意で場を騒がせてしまい、申し訳ありませんでした」
顔を上げ、スフィアがにっこりと笑えば、そこでようやく張り詰めていた場の空気も緩む。
――これでいい。
スフィアは階段の上を振り仰いだ。
たじろいでいる令嬢達の奥で、アルティナが初めて見る顔でこちらを見ていた。泣きそうな、痛そうな、戸惑っているような。彼女の美しい青い瞳が小刻みに揺れていた。
今すぐに彼女に大丈夫だと伝えたい。
しかし、それは叶わない。
――今は、彼女の傍に行っては駄目よ。
彼女の名を呼ぶことすら許されない。呼べば、衆人の今日の記憶に彼女の名前も記されてしまう。階段から令嬢が落ちたときに、アルティナ嬢も傍にいたな――と。
彼女を悪役令嬢にするきっかけは、少しも与えてはならない。
だからスフィアは、ただ無言で小さく会釈するだけに留め、静かにホールの人混みの中へと入っていった。
◆
階段から落ちたのはスフィアの不注意であり、怪我もなく無事だと分かると、ホールのさざめきも徐々に戻り、彼女がホールの中へ戻るれば、、完全に元の賑やかさを取り戻していた。
所々で「驚きましたな」「良かった良かった」とスフィアの事と思われる会話も聞こえていたが、それ以上を言及するような声はなかった。
しかし、ホールの端にいた二人は違った。
強張った顔で、すっかり令嬢達もいなくなった階段の方を見つめる。
目撃できたのはただの偶然だった。
昔から何をしでかすか分からない彼女を、目で追うのが癖になっていた。
だから、はっきりとその瞬間も見えていた。
「なあ、おい……これはちょっと……っ」
「うん……。ちょっとどころか結構まずいかも……僕たちが思っていた以上に……」
階段を上るスフィアを、令嬢の一人が、密かに肘で突き飛ばした瞬間を。
二人の脳裏に、先ほどのスフィアとの会話が蘇る。
そして、二人とも後悔した。
「まさか、ここまでだったなんて……っ」
「俺、今以上にスフィアと離れたことを後悔したことはねえよ」
綺麗にセットされていた髪を、ガルツはぐしゃぐしゃに乱す。己の不甲斐なさに、脳が煮えたぎり、そうせずにはいられなかった。同じく隣のブリックも、神経質そうに親指の爪を噛む。
「――っそうだ、スフィアは!?」
慌ててホールを見回したが、あの特徴的な赤髪は見当たらなかった。
「もう……帰っちゃったのかな……」
「だったら良いが」
突き落とされたというショックは決して小さくないだろう。しかも、彼女が大好きだと言う相手の連れから。辛くないはずがない。
そんな中で、あれだけ平然と振る舞って見せたのだ。
きっと、もう笑う気力も残っていないに違いない。
「どうか学院ではこんなことは起きないでくれよ」
「カドーレとリシュリーが守ってくれたら良いんだけど」
「そう願うしかねえな」
二人は無言で、誰もいない階段を見つめた。




