5 怪我の功名
「ッアアアアアアア!? 僕たち夫婦の天使が傷物に!! 確かに赤い頬もチャーミングだけど、そんな痛々しい赤は許せないよ!?」
「お父様、誤解を生みそうな言い方をしないでください」
誰が傷物だ。ピカピカ新車だわ。
最初にスフィアの頬を見たローレイは、号泣しながらスフィアを抱きしめると「レミシー、大変だああああ!」と叫びながら母を呼びに行ってしまった。
「まったく大げさな……」
父の愛の大きさに溜息をついていると、二階からあり得ない入射角と勢いで階段を曲がり下りてくる、より厄介な存在が現れる。
「父様! スフィがどうしましたか――って、あああああああああああ!!!!」
階段を下りきったジークハルトは、スフィアを視界に捉えた瞬間、ローレイの叫びの理由を理解したようで、同じくこの世の終わりのような絶叫を上げ――。
「もう僕は駄目だ……スフィアを守れなかった僕に生きている価値はない。このままここで朽ち果てよう」
その場でビターンッと五体投地した。
「にっ……兄様……何もそこまで……」
たかだか頬が腫れたくらいで親子そろって大げさな。
「セバスト、僕の身体はスフィアの部屋下の庭に埋めてくれ。墓標には『可憐なるスフィアの愛する兄ジークハルト』と彫ってくれ。それで一日一回はスフィアのことを話しに来てくれ。ああ、それから棺桶の内側にはスフィアの絵をしこたま貼ってくれ。そして――」
注文が多い。
「かしこまりました、ジークハルト様」
どこから現れたのか、気付けば背後からぬっとセバストが現れた。律儀に胸に手を置き、了解に頭を下げている。
「……セバストさん、嫌なら嫌って言っていいんですからね?」
いくら家に仕えているからといっても、そこまでの忠義は示さなくても良いと思う。というか、自分の絵をしこたま貼られた棺桶が部屋から見える場所に埋まっているというのは、中々にホラーではなかろうか。
セバストは、ほほと笑っていた。
私室のソファでマミアリアに頬の手当を受けていると、レミシーがやって来た。ドアから覗かせた顔が曇っていたから、恐らくローレイが伝えたのだろう。
「スフィア、怪我したって聞いたのだけれど……大丈夫なの?」
マミアリアが手当を終えて出て行くのと入れ替わりに、レミシーが入ってくる。
スフィアの頬に貼られたガーゼに、そっと触れるレミシー。
「平気です。まだ少し腫れてますけど、もう痛みは引いてますから」
「あぁ、スフィア……ッ、痛かったでしょうに……」
レミシーはスフィアの隣に座ると、頬に触れないようにスフィアを抱きしめた。久しぶりの母の胸の温かさに、スフィアの頬も自然と緩むのだが、するとやはり痛みが走る。
「……お母様、どうして嫉妬って男性ではなく、同じ女に向くんでしょうか」
「そうね……たとえ怒ってはいても、愛する人は傷つけたくないからかしら」
「それは、分かる気がします」
――私も、アルティナお姉様になら傷つけられても、傷つけたくはないもの。
レミシーは「もうそういう年頃なのね」と、苦笑しながらスフィアの頭を撫でた。
「懐かしいわぁ、私の時もそういった女同士の諍いはあったもの」
「お母様も頬を叩かれたことがあったんですか?」
母はコクリと頷いた。
意外だ。いつもにこやかで、周囲に花を飛ばしているような母は、そういったものとは無縁だと思っていたのだが。
「でもっ、暴力は駄目よね! それにちゃんと事情を聞かずに判断するなんて、許されないわ! 私のスフィアに痛い思いをさせるだなんて許せないっ!」
「お母様……」
ぷりぷりと怒る母はやはり、怒っていても花を飛ばしていて可愛い。
「だから、今度叩かれたのなら間髪容れずに叩き返しなさいね」
「お母様?」
「左の頬を打たれたのなら、左右の頬を叩き返しなさい」
「お母様っ!?」
スフィアは、初めて母の中に『レイランド』を見た気がした。
◆
「スフィア……昨日は大変だったそうじゃない」
昼、スフィアが食堂でリシュリーと食事をとっていると、トレーを持ったアルティナが通りがかりに声を掛けてきた。
アルティナはスフィアのまだ赤いままの左頬を眺め、少しだけ眉根を動かす。頬のガーゼは流石に目立ちすぎるため、まだ多少の赤味は残っているものの、これなら髪で隠せるだろうと、剥がしてきていた。
「……っく!」
突然胸を襲えて、苦痛に満ちた呻きを漏らすスフィアに、アルティナとリシュリーが「どうしたの!?」と切羽詰まった声を出す。
「お……お姉様に心配してもらえるだなんて……っ全身殴打されとくんでした。そうしたらきっと今頃、怒濤の勢いで泣いてくれていたはずっ!」
スフィアを見る二人の目が、憐憫にスッと細くなった。
「その自信はどこから来るの……というか、誰も心配したなんて言ってないのよ」
「じゃあ、お姉様は私のこの頬を心配してくださらないんですか? うぅっ」
潤んだ目でスフィアが見上げれば、アルティナは「うっ」と顔を引きつらせる。
「そ、それはその……ま、まあ? 誰かが怪我を負ったならば、気に掛けるのは令嬢の嗜みというか……心配してないこともないことはないというか……」
しどろもどろに返すアルティナの頬は、スフィアの左頬と同じ色に染まっていた。いや、スフィアのよりも幾分か濃いくらいだ。
――っはぁぁぁぁぁぁ……お姉様のツンデレでしか得られない栄養があるのよね。
やはり、本場仕込みのツンデレは控えめに言っても最高である。ニヤニヤとアルティナの動揺を眺めていると、「そ、それよりも!」とアルティナが無理矢理話題を変える。
「それよりも、私はあなたが二年生の女子の彼氏をとったって聞いたのだけれど。まさか、あなたがそんなことをするはずはないわよね?」
「当然です。今回のは、彼女の同意を得ずに別れた気になっていた男子が、私に告白してきたというだけで、しっかりと私はお断りしております。ただ、偶然その男子生徒が私の手を掴んでいる場面を彼女が見てしまったようで、それで……」
「なるほどね。まあ、よくある勘違いの修羅場ってとこかしら。災難だったわね、スフィア」
「お姉様に心配してもらえたので、結果オーライです」
「それだけ調子良く言えるのなら、大丈夫そうね」
フッと微笑んで、アルティナは学友達の待つテーブルへと去っていった。
スフィアは、金髪が優雅に揺れる背中を見送りながら、思わず頬をにんまりと緩める。
『あなたがそんなことをするはずがないわよね?』――これは、アルティナに信頼してもらえていると、自惚れても良い台詞ではなかろうか。
――ああ……よかったわ、ここまで頑張ってきて。お姉様の信頼を勝ち取るために生きてきたっていっても過言じゃないもの!
幸せな気持ちに胸を弾ませていれば、リシュリーが額を指先でツンと突いてきた。
「随分と嬉しそうね、スフィアったら」
「えへへ~、怪我の功名ってやつですかね」
リシュリーには功名が何か分かったようで、「相変わらずね」と呆れた溜息を吐くと、途中だった食事を再開させていた。
こういうことになるのなら、時には修羅場も悪くはないな、とスフィアは思った。
もしかして、そう願ったのが間違いだったのかもしれない。




