1 その一族の名は
それは、スフィアが夏休みに入る直前の、とある日の深夜。
家族も使用人達も寝静まった頃、ジークハルトはベッドではなく、ひとり自室のソファに座り、彼女を初めて見た日からの思い出を回想していた。
最初から違和感があった。
世の中には『十で神童、十五で天才、二十過ぎればタダの人』という言葉もあるが、それは彼女には当てはまらない。彼女は生まれたときから神童と言え、十五歳になった今もなお、その怜悧さは衰え知らずなのだから。
初めて彼女を見たのは、生まれた直後だった。目は閉じたままだったし、泣き声は弱々しくて、そこに彼女の意思など感じられない、どこにでもいる普通の赤子だった。
しかし、二回目。母の体調が落ち着いて再び会った時には、もう彼女には自我が芽生えているように感じられた。
開いた目はエメラルド色をしていて、その美しさに惹かれた。
しかし、同時に不思議にも思った。
――どうして、彼女は僕を『見て』いるんだろう。
彼女の瞳は、ただ自分を映していたのではなく、はっきりと兄という存在を『認識』していた。まるでこちらの言っていることが分かっているかのように反応を返してきたのだ。
普通であれば気付かなかった程度の差だろう。もし、彼女との年の差が三歳程度であれば自分は気付きようもなかったし、赤子など普通滅多に見ることはないものだ。
だが、グレイやグライドの赤子姿も見てきたことと、充分に思考できるだけの年だったことで、彼女が普通の赤子とは差があることに気付いた。
「だからって、別に何かするわけでもないがな……」
たとえ、その身に女神が宿っていようと、悪魔に乗っ取られていようと、何か態度を変えるつもりはない。彼女が何者であろうと、妹であることには変わらないのだし。
「スフィア……」
可愛い可愛い大切な妹。
生まれた瞬間から重い枷をはめられた妹。
彼女は、未だにその枷の存在を知らない。
知らなくていい。知ってしまったら、重さで歩けなくなってしまうかもしれない。彼女の天真爛漫さが、無邪気さが、あの無防備な笑顔が失われてしまうのが、何よりの恐怖だ。
「何が血の秘密だ」
それによって与えられた特権もあれば、意味の分からない呪縛もある。いい加減、もう解放してくれとも思う。王家直系の血を引いていると聞いたとき、嬉しさよりも面倒臭さが勝った。まあ、血の価値に恥じない人間でいようとは思うが、それだけだ。
自分達はレイランドであって、レイドラグではないのだから。
しかし、そうは思ってくれない者達もいるわけで。
「…………っ」
組んでいた両手が軋む。
面倒な者達に目を付けられたなと頭が痛くなる。
すると、ノックもなしに部屋のドアが開いた。
「ジークハルト」
物音を立てずに入ってきたのは、父であるローレイだ。
父は、廊下に人影がないかを慎重に確認してから、静かにドアを閉める。
「すみませんね、母様との時間を奪ってしまって」
「なに、気にするな。レミシーの愛らしい寝顔を見る時間が増えただけだよ。それにしてもこんな時間を指定して呼ぶだなんて、何か危ない話かい?」
部屋に明かりはない。あるのは、窓から差し込む白い月明かりのみ。
しかし、二人は明かりには近寄らず陰の中に身を置き、会話を続ける。
「スフィアを狙う者達の目星が付きました」
薄暗い中でもはっきりと分かるくらいに、ローレイの顔色が変わった。まとう空気に冷たさが混じる。
「誰だい」
固い声が、じりじりとした二人の間の緊張をさらに高めていく。
おもむろに、ジークハルトの口が開いた。
「ライノフ……」
ローレイの目がみるみる見開かれていく。
「『レニ=ライノフ』ですよ」
「親が親なら、子も子だ」と、言ってローレイは、入ってきた時と同じように、静かに部屋を出て行った。




