◆ローレイとレミシー
起こさないようにと夫婦の寝室へ静かに入れば、ベッド脇のランプはまだほんのりと明かりを灯していた。開け放した窓からは、冷えた夜風が入り込み、カーテンを大きく膨らませている。
「レミシー、まだ起きていたのかい」
僕の愛する妻であり、世が世ならこの国の王女様であったレミシーは、枕にもたれて本を読んでいた。
「ええ、この本が面白くてつい。夢中になっちゃった」
「君が楽しいのであれば良いけど、夜更かしは駄目だよ。君のせっかくの美貌が霞んでしまうよ」
「まあっ、ローレイったら」
彼女の丸い額にキスを落とし、一緒の布団に入る。
「そういえば、マミアリアはどうだい? スフィアの侍女だし、君と話すことも多いだろう」
「そうねえ。とっても良い子だし、よく気がついてくれるから助かるわあ~。スフィアとも仲いいみたいだし」
うふふ、とレミシーは小さく首を傾けて微笑む。そのぽわぽわとした笑みを見ているだけで、こちらまで幸せな気分になる。
「それに、スフィアと同じ髪色だなんてまるで娘が増えたようで、とっても楽しいわ」
「君のその愛情深いところが大好きだよ」
肩を抱き寄せれば、本を閉じて素直に僕の肩にぽんと頭を乗せてくる。「あらあら」なんて言いながら、嬉しそうに頬を緩めている妻。
「君が僕のお嫁さんになってくれて、本当に幸せだよ……ヘイレンには悪いけれど」
若い頃、ヘイレンとレミシーを奪いあったことは、今では良い思い出だ。まあ、彼女と無事に結ばれた方だから、良い思い出なんて言えるんだろうけれど。
「あの頃のあなたは、今以上にそれはそれは熱烈に私を口説いてくれていたわよね。嬉しかったわあ~いつも真面目で物静かだった先輩が、皆の前であんなことを――」
「わあわあわあっ! まだ覚えてたのかい!?」
「当然よ。ふふ、死んで生まれ変わっても忘れないと思うわ」
数十年前の記憶を掘り起こされ、顔が熱くなった。彼女は嬉しそうに笑っているが、若気の至りというか、気持ちが暴走したというか、そんな自分でもあり得なかったな~なんて思うようなことを思い出させられるのは少々痛苦しい。
「……ヘイレンのせいだ。僕がずっと好きだったのに、急にヘイレンが出て来るから……っ」
「あら、じゃあ私は陛下に感謝しないとだわ。お花でも贈ろうかしら」
ヘイレンの求婚を盛大に断ったことから、レミシーは彼を気遣って、ほぼ王宮へは出入りしていない。舞踏会も新年会も、彼女は家に残る。
ヘイレンはそこまで狭量な男ではないし、彼も奥方を迎えている身なのだが、やはり周囲の目もあり、レミシーのほうが気遣って控えているのだ。
「少し騒ぎすぎたからね、僕もヘイレンも」
しがない伯爵家の三男と王太子が一人の女性を奪い合うという、当時は格好のゴシップの餌となってしまった。これは、僕ら世代が引退するくらいにならないと、彼女の社交界復活は無理かもしれない。
「あー……でも、君が社交界に戻って、また余計な虫が付くのは勘弁したいな……」
「あらあら、私はあなたしか目に入りませんよ」
「僕もだよ。どんな奥方よりも君が一番魅力的だから、嘘をつけない僕は、奥方達への挨拶の社交辞令でさえ言うのを躊躇ってしまうんだ。まったく……困った花だよ、僕の最愛は」
かつて社交界の花と呼ばれたレミシーは、未だに衰え知らずに美しい。
しかし、今やその異名は、僕たちの娘のものとなろうとしている。
「スフィアも、色んな男達から言い寄られているみたいだし……まあ、あの子はなんか……うん。自分で追い払っているから心配は要らないと思うけど」
噂では、アントーニオ公爵家の令息と付き合っていたとかないとか。グレイ殿下には、許嫁関係なしに口説かれているっていうし、ラブレターは常に貰ってくるし、とんでもない色女だ。さすがレミシーの娘。
「それに、スフィアにはジークハルトがいるから安心だし」
親の欲目を抜きにしても優秀過ぎる息子、ジークハルト。
本当に僕の息子かと疑いたくなるほどに完璧なんだが、スフィアを溺愛する姿を見ると、確かに僕の息子だと安心する。分かる。スフィアは天使だよな。
「ねえ、ローレイ」
「あ、可愛い」
「んもう、また言葉と心の声が逆になっているわよ」
「ん、すまない」
「なんだい」と答えたつもりだったけど、キュッと胸の掴んで見上げてきたレミシーを見て、どうやら本音が出ていたらしい。よくある。
「ねえ……大丈夫よね? この血のことが漏れてるって聞いたけれど……」
眉をしかめるレミシー。
「大丈夫だよ。僕もヘイレンもいるし、あの子達に危害が及ばないようにする。何より、ジークハルトもスフィアも、そんなに弱くないよ」
「確かに、あの子達は私とは似ず、とっても積極的だし、なんでもできてしまうくらい優秀なのは分かっているわ。でも……やっぱり心配なのよ。何かあっても、私には何もできないから余計に」
血の秘密が漏れていることを彼女に伝えたとき、彼女が真っ先に言ったのが『どうして今なの』だ。
それは彼女も、その血がどのような理由で狙われるのか、利用される恐れがあるのかを知っているから出た言葉だろう。
レミシーは、もう自分が狙われないことは知っている。
僕と結婚して子供を産んだから。
その代わり、スフィアが狙われることになる。彼女が産んだ子であれば、間違いなく正統な王家の血を引いていると言えるから。その子を擁立して、アイゼルフォン家へ王家の交代を訴えられる可能性がある。というか、血を狙う理由はそこしかない。
ジークハルトも狙われる可能性はあるが、スフィアに比べるとそこまで警戒する必要はない。子ができても彼が認めなければ正統性の確認は難しいのだし。
「……やっぱり、デビュタントを迎えたらすぐにでもグレイ殿下に嫁がせるしか……」
「それは駄目よ!」
握っていた僕の胸元を、グイッと力強く引っ張られる。
「私が陛下ではなくあなたを選べたのは、レイランドが愛に生きる一族だったからよ。父もそこをよく理解していたからこそ、あなたとの結婚を許したのだから。それを……守るためだからと言って、娘に望まない結婚を強いるなんて……そんなことできないわ!」
「……そうだね。悪かった、スフィアの意思を尊重するよ」
「ずっとそんな狙われるなんてことなかったのに……どうしてあの子達が……何もできない自分が悔しいわ」
「そんなことないさ。……君も子供達も僕が守るから、絶対に」
レミシーは小さく頷いてくれた。
「それじゃあ、そろそろ――」
寝ようか、と言おうとした瞬間、パァンッ、という発砲音が部屋に鳴り響いた。
「…………」
レミシーが窓の外に向けて銃口を向けていた。
「やだわぁ、危うく蜘蛛が入ってくるところだったわ」
窓辺に現れた小さな蜘蛛を寸分違わず打ち抜いたレミシー。しかし、彼女は何事もなかったかのように銃をさっと枕の下にしまい込んだ。
そうだった。彼女は血を引いていると同時に、幼い頃から後継者としてレイランドの教育を受けてきた人間だった。ジークハルトのように。何もできないと彼女はいつも言うが、絶対にそんなことないと思う。
彼女はささっと窓を閉めると、布団に全身を潜り込ませた。
「さあ、窓も閉めたし早く寝ましょう、あなた」
「……はい」
血の秘密がばれたとて、レイランド家ではそこまで心配する必要はないのかもしれない。
「僕の妻は色んな意味で最強だよ」
「うふふ、弱いよりかは良いでしょう」
「箱入り奥方の思考じゃないんだけどな……まあ、そこも可愛いけど」
よく子供達を見て『誰に似たのかと』言われるが、間違いなく僕たち似だろう。
次回から五章スタートです。
よろしくお願いいたします。




