40 カドーレとリシュリー
自分を呼ぶ「カドーレ」という声に思わず、教科書をしまおうと手にしていた鞄を取り落としてしまった。
足元に落ちた鞄から、ザザーと教科書が流れ出る。
「あら、ごめんなさい。そんな驚くとは思わなかったわ」
まったく謝意の籠もっていない謝罪をしながら、彼女――リシュリーはせめてもの詫びだというように、床の教科書を拾っていく。
「ん? これ……手紙?」
教科書の間に紛れて流れ出ていた白い封筒を、リシュリーが手にする。
「ええ。家から送るより王都で直接、郵便商会に出したほうが早いですから」
しかし、すぐにカドーレの手によって奪われる。
カドーレは、手早く封筒と全ての教科書を鞄にしまいこんだ。
「珍しいわね。誰宛よ」
「昔の知り合いですよ。久しぶりに会って僕の近況を聞かれたので、その返事です」
「ふぅん、あっそ」
リシュリーはさほど興味はないようで、裏側にある自分のロッカーへと姿を消す。ガサガサとした紙の音が聞こえるから、彼女も下校準備をしているのだろう。
何となく、彼女の準備が終わるのを、ロッカーに背をもたれかけて待つ。待てと言われたわけではない。ただ、いつからかこうして彼女の側に着いていることが、自分の役目みたいになっていた。
コツンと踵を響かせ、ロッカーの陰から姿を現したリシュリー。
「ねえ、カドーレ……どうやったら、あたしだけを見てくれるのかしら」
まるで、自分が彼女に想いを寄せられているかのような台詞だったが、抜けた主語が自分でないことは充分に知っている。
「リシュリー、今のままじゃ駄目なんですか。リシュリーは充分に彼女の大切な人じゃないですか」
「馬鹿ね、それじゃ駄目なのよ」
目が細く普段でも微笑程度に見える彼女の表情は、今は確かに笑っているのに、しかしどこか悲しそうに見えた。
それはきっと、何かに耐えるように僅かに刻まれた眉間の皺のせいかもしれない。
「彼女が縋る対象はあたしだけで良いの。あたしだけが……良いのよ」
「彼女にばれたとき、全てを失うんですよ」
「ばれたときには、あたししかいない状況にすれば良いじゃない。ゆっくりとじっくりと壊していって……彼女の喜怒哀楽全て、感情っていう感情全てあたしのものにしたいの」
強欲なことだ。
「そして、一族のお姫様として一生囲ってあげるの――って、カドーレ。文句ありそうな顔ね?」
「……僕は元々賛成はしていませんから」
「あんたの家は、うちに仕えるのが役目でしょ。それが、あんたの先祖が死にかけたときに救ったうちへの恩返しなのよ。末代までブリュンヒルト家の犬になるっていうね」
「――っ分かってます。だからこうして協力してるじゃありませんか」
目の前まで来たリシュリーの視線から逃げるように、カドーレは顔を背ける。
正面からは、薄い溜息とも言えない微かな息漏れが聞こえた。
「まあ、でも……そこまで嫌だったら、あたしが家を継いだら解放してあげるわよ……」
鞄を持つ手の力が増し、ギュッと革が鳴く。
「そんなこと……僕ができるはずないって……知ってるくせに……」
「何か言った?」
自嘲を含んだ独り言は、カドーレの耳にしか入らなかった。
「リシュリーには、僕がいないと駄目だって言ったんですよ」
向き直り、コツンと額を合わせたカドーレを、リシュリーは拒まなかった。
鞄を握っていない方の手で、リシュリーの空いた手をそっと握った。
何かあればいつもこうして必ず手を繋いで、側にいてくれた幼馴染みのカドーレ。
一族の血を引いていないからか、自分と違ってまっとうな幼馴染み。
「……あたしがあんたに返せるものなんてないわよ」
「見返りが欲しいだけなら、とっくに離れていますよ」
そりゃそうだ。
一度も自分がカドーレに優しかったことなど、ないのだから。
「僕は、僕の自由意志であなたの側にいることを選んだんですよ、リシュリー」
「でも、あたしは――」
「もう、何も言わなくていいです。あなたが、自分の理性と本能の間で苦しんでいることは、誰よりも僕が理解していますから」
これだけ理解してもらっていても、やはり自分には返せるものはないのだ。
「……好きにしたら良いわ」
そうは言いつつも、こうして握られた手を離してあげられないのだから、やはり自分はまっとうではないのだろう。
「夏休みが始まるわね」
カドーレは何も答えなかった。




