39 スフィアの願い
「おっはようございま~~~す! 愛しのアルティナお姉様ぁん!」
朝イチで見つけたアルティナに、スフィアは容赦なく飛びついていく。当然、そのままアルティナが受け入れるはずもなく、突き出した右手でスフィアの顔をがっちり掴み、飛び込みを阻止する。
周囲はもはやスフィアの奇行にも慣れ、朝の風物詩として眺めているのみ。
「いつもいつも……っ、あなたは恥じらいというものを……っもう少し身につけなさい……!」
突進と拒絶という力がギリギリと拮抗していたが、スフィアが「てい!」とアルティナの右腕の肘を内側からツンとつつく。
「かしこまりましたわぁ~ん、お姉様!」
アルティナの右腕はカクンと折れ、たちまちスフィアがアルティナの懐へと潜り込んだ。
「全然かしこまってないじゃない!? こういうことを止めなさいって言っているのよ!」
「それはできない相談です~」
全身でこのほとばしる愛を伝えていかなければ。
――絶対に私がお姉様の味方だって、信じてもらわないと!
でなければ、あっという間に世界の予定調和力で、アルティナとは敵対させられてしまう。信頼関係を少しでも築いておかないと、あっという間にシナリオに飲み込まれてしまうのだ。
「はぁ……まあ、もういいわ。そのまま聞きなさい」
何をしても離れないスフィアに、アルティナのほうが先に根負けした。
「あなた、王都で今度は何をしたのよ」
「何を……とは?」
はて、何かしただろうか。
本気で分からないと首をコテンと傾げたスフィアに、アルティナは片眉を上げて口をへの字にする。「まったく」と呆れているのが表情から伝わってくる。しかし、あきれ顔のアルティナもやはり最高なので、しっかり瞬きせずに網膜に焼き付けておく。
「異国の商人に散財させたそうじゃない。しかも盛大に」
ああ、とスフィアはアーディンのことを、そこでようやく思い出す。
スフィアにとっては、つい先日のことでも、アルティナに関する記憶以外は順次消滅されていく。こと、攻略対象に至ってはデリート優先対象である。
「特に私がお金を使わせたわけではありませんが、まあ、お金をばら撒いたということ散財と呼ぶのでしたらそうですね」
「お金をばら撒く!? どういうことなの!?」
「実に景気よく愉しそうにばら撒いていましたよ」
やはり、空から金貨が降ってくるというのは、それ相応の噂にはなったということか。
「私はその場にいただけで、特にその商人の方に何かしたわけではありませんよ。ご安心ください」
「その場にいたってだけで安心はできないけど……でも、本当にあなたが無理矢理に使わせた、なんてことではないのね?」
「え、もしかしてお姉様……私のことを心配してくださって……スフィア感激ィ!」
スフィアが感極まってアルティナの肩口に頬をする寄せれば、「熱い!」と摩擦熱にアルティナは再びスフィアの顔を引き離す。
「ご安心くださいお姉様。私は一言も買ってとも、お金を使ってとも言っておりませんわ」
これは本当だ。勝手にアーディンが自爆したに過ぎない。
まあ、カネをばら撒きたくなるようには仕向けたが。
「それにしても、お姉様はどうしてそのような話を知っておいでで? もしかして、同じ日に王都にいらっしゃいました?」
「……よくその体勢で、普通に会話を続けようと思えるわね」
アルティナの突っ張りをくらい、スフィアは、アルティナからは完全に顎裏しか見えないほどに仰け反っている。しかし、腰に巻き付いた手は頑として離れない。
幼い頃より何度も突っ張られてくれば、この程度慣れたものだ。
先に折れたのはやはりアルティナで、突っ張っていた手をゆるりと外すと、自らの豊かな金髪を溜息と共に掻き上げる。
「エノリアが教えてくれたのよ。彼、ちょうど休みだったんだけど、王都に行っていたみたいで」
「へぇ、そうだったんですね。でも、先に言ったとおり私は何もしてませんから」
「それなら良いけど」と、アルティナは未だに肩口に顔を寄せるスフィアの額を、ピンッと人差し指で弾いた。
「気をつけなさいね。噂なんて尾ひれが付いて広がるものだから」
スフィアが「はぁい」とぬるい相槌を打ったところで、二人を引き裂くチャイムが鳴った。
◆
アルティナと別れ、慌ててロッカーに教科書を取りに行けば、リシュリーもちょうど準備をしているところだった。
「おはよう、スフィア。相変わらず、朝からアルティナ様に熱烈ね」
「おはようございます、リシュリー。見てたんですか」
「見てたっていうか目立ってたしね」
「アルティナお姉様は私の生きる意味ですから、常に熱烈に愛を伝えないといけないんです!」
「なんの義務かしら……。にしても、アルティナ様アルティナ様って、本当妬けちゃうわ」
ぷっくりと膨らましたリシュリーの頬を、スフィアは苦笑して指でつついた。
「何を言っているんですか。リシュリーは私の大切な友人じゃないですか。貴重なんですよ。私がこんなに仲良くしてる女友達って、リシュリーだけなんですから」
スフィアにも、クラスメイトや知人はいる。
だが、個人的にこうして声を掛けて長話するほどの友人となると、数えるくらいしかいない。そんな中、リシュリーの存在はスフィアにとっては、とても貴重で大事だった。
「私、リシュリーのこと大好きですよ」
ツンと尖ってそっぽを向いていたリシュリーの口が、にんまりと緩んだ。
「あたしも、スフィアのこと大好き」
二人を顔を見合わせると、ふふ、とお互いに照れくさそうに頬を染めて笑った。
まさか、自分が誰か女友達と、友情を交わす日がくるとは思わなかった。
前世で、あんなことがあった自分にとって、女友達はいわばトラウマでもあった。だから、アルティナだけにのめり込んだのかもしれない。
しかし今は、リシュリーがいてくれて良かったと思う。
ガルツとブリックは子分で戦友とも呼べる仲ではあるが、女友達のそれとは少々違う。カドーレも同じく頼りになる友人ではあるが、大好きなどと言えるような関係ではない。
やはり、女友達でしか得られない感情というのもあるのだ。
「あーあ、もう夏休みね。こうして毎日、スフィアの顔を見れなくなるのは寂しいわ」
「夏休みは夏休みで、また遊びましょうね」
そうね、とリシュリーが細い目をさらに細くして肩を揺らし、二人は手を繋いで授業へと向かったのだった。
「あと半年ですか……」
廊下から見える吸い込まれそうに青い空に向かって、スフィアはひとり呟く。
アルティナと同じ学院に通えるのも、あと半年。
せめてその間だけは、悪役令嬢とヒロインではなく、学院に通う普通の友人として過ごせればと願うばかりである。
手を引いて、小走りで先を駆けているリシュリーが、振り返らずに声を掛ける。
「ねえ、スフィア」
「ん? どうしましたリシュリー」
「スフィアが一番大切にしてるものってなぁに? それがないと絶望してしまうてくらいの……」
「絶望……変わったことを聞きますね」
「ふふ、好きな人の地雷は知っておきたいじゃない。踏みたくないもの」
「確かに」
好きな人というところには今更もう触れない。
「そうですね、私はやっぱりアルティナお姉様でしょうか」
「やっぱり。そうだと思――」
「もそうですが、ガルツにブリック、カドーレ。レイランド家の皆に、私を助けてくれるたくさんの人達。そして、当然あなたもですよ、リシュリー」
「っそんなこと言って、スフィアったらもう……っ困っちゃうわよ」
「ふふ、大好きって言ったばかりじゃないですか」
「本当……困っちゃうわ……」




