37 そうだったのか!(違う)
スフィアの様子を、陰から見守るガルツとブリック。
「なあ、スフィアが言ったとおりになると思うか?」
「いやぁ、どうだろう。流石にそんなことはしない……って普通は思うけど、スフィアが絡むと皆普通じゃなくなるからねえ……」
二人は顔を見合わせると。首を横に振った。彼らの表情は、過去のあれやそれやを思い出しての苦痛と同情に満ちたものだった。
「何も考えるな。俺たちは指示されたことだけやろうぜ」
「そうだね。深く考えると涙が出てきそうになるしね」
◆
少年が立ち去ると、すっかりスフィアはまた元の無表情に戻ってしまった。
――一体何が彼女を笑わせたのか。もしや少年の存在か?
しかし、通りには他にもたくさんの子供がいるが、彼らが目の前を過ぎ去っても、スフィアはこれといった反応を示さない。
であるとするならば、次に考えられる可能性はカネか。
――そういえば、笑ったように思った一度目も、確かカネを払うときだったか。
アーディンは隣にあった店で適当に買い物をしてみた。
しかし、支払を終えても、スフィアはやはり笑わない。実に難しい。
――これも違うとなるとなんだ? 彼女は何を見て笑っていたんだ?
少しでもスフィアの感情の起伏の手がかりがほしくて、アーディンはチラチラと隣で静かに佇むスフィアを見やる。そこで気付いた。
スフィアはヒールを履いた足を――というより踵を、モゾモゾと上下に揺らしていたのだ。
「スフィア、もしかして足が痛いのか!?」
スフィアは何も言わなかったが、エメラルド色の瞳が、今度はアーディンを確かに捉えていた。
「悪かった。すぐに休める場所を……」
アーディンは、どこかに入れる場所はないかと街中に視線を巡らす。そこで、ちょうど良い店を見つけた。
「あの店までいけるか。無理なら俺が抱き上げるが」
できれば男らしいところを見せたいし、抱かせてもらえるとありがたいのだが、やはり、スフィアは首を横に振り、先に足を踏み出したのであった。
そうして、スフィアの歩調に合わせて二人並んでたどり着いた店は、小洒落た仕立屋。
中央部の仕立屋に比べると、一階の出窓に飾ってあるドレスは少々質素ではあるが、外周部にある店の中では高級店に入るのだろう。
取り扱っている生地や飾り物の質は、決して悪くはない。それに、『グランエイカー』印の宝飾品まで飾られており、平民街の中にある店でも目利きは確かだ。
アーディンは店主に事情を話し、採寸用の個室を借りることにした。
仕立屋の場合、採寸用の個室がいくつも用意されている場合が多い。他の客がどのような服を仕立てたか、誰が仕立てに来たかなど秘匿するためだ。この店は一階は店舗で、二階だ全て採寸部屋になっていたようで、二人とも二階へと通された。
部屋は、大きな鏡と丸テーブル、仕切り、ソファが置かれ、調度品はシンプルな部屋である。しかし、ふんわりとしたベージュベースの花柄の壁紙を、茶色の腰板が引き締め、シンプルながらも部屋全体を品良く仕上げていた。
「ここなら、しばらくは休めそうだな」
向かい合わせでソファに座ると、アーディンは店主を呼んで、店にある一番高い生地や宝飾品を持ってこさせる。
次々と部屋に運び込まれる、青やピンク、白や緑といった艶やかな生地の数々。それと一緒にテーブルには、毛氈の敷かれたトレーの上で煌めく宝飾品も並べられる。
「スフィア、あなたと出会った記念だ。本当はもっと高いものを贈りたいんだが、ひとまずの気持ちとして受け取ってほしい」
店主自らスフィアに色々と似合うものを説明しているが、彼女の表情が晴れることはない。
「遠慮せず、欲しいものを好きなだけ贈ろう」
遠慮しているのかと思って、そう口を挟むが結局は一緒。
――普通の女性ならば、これだけでも目の色を変えて、あれやこれやと欲しがるのに……。
まあ、正直そのつれなさで余計に欲を煽られている自覚はある。
しかし、そこに欲をかき立てられているのは、当のアーディンだけだ。何を勧めても反応を返さないスフィアに、すっかり店主はお手上げのようで、当惑した視線をアーディンに向けていた。
「少し、空気でも入れ換えるか」
部屋には窓の代わりに、小さなバルコニーがしつらえてある。
アーディンは戸惑いが混じった部屋の空気を入れ換えるため、バルコニーへの窓を開けた。
バルコニーの奥行きは、二歩も歩けば詰まってしまう程度だが、市場の賑わいが眼下に広がる光景は、中央部にはない愉しさがある。これにはアーディンも思わず高揚してしまう。
「スフィア、こっちへ来てみろ。随分な賑わいで楽しいぞ」
手招きをしながら、下を覗くアーディン。
しかし、思いのほか上体を乗り出してしまい、先ほど道でやってしまったように、懐から金貨がこぼしてしまう。「しまった!」と思ってもバルコニーの柵は間が広く、床で跳ねた金色の幾枚かは、コロコロと下へと転げ落ちていった。
空から降ってきた金色に、下からは歓声が上がっている。
「アハハッ!」
そして、楽しそうな声は下だけではなく、背後からも聞こえた。
慌てて振り向くと、スフィアがあの顔で声を上げていたのだ。鮮やかな、人目を釘付けにするあの笑顔で。
「――っまさか!」
三度目だった。
全ての状況に共通していたことといえば……。
そこでアーディンの脳内は、一つの答えを導き出す。
懐に残っていたカネを一枚、わざと落としてみたのだ。
金属が石床に跳ねる澄んだ甲高い音を立てて、金色はまた通りへと落ちていく。
「ふふっ、とっても綺麗ですわ」
「はっ…………!」
――初めて喋った……!
少し高めの、それでいて耳に煩くはない鈴を転がしたような声。実に麗しい。
「~~~~っ!」
指先から得も言われぬ痺れが脳天へと突き抜けた。
考える暇もなく、アーディンは懐から袋を引っ張り出し、中身全てをバルコニーの外へと放り投げる。あちらこちらへで声が上がるが、それよりもアーディンの目も耳も、ソファの上で、キャラキャラと目を細めて笑うスフィアの姿に釘付けだった。
「そ、そんなに気に入ったのか!」
「とっても綺麗です」
音なのか、金色が陽射しに反射する輝きなのか。彼女が何を綺麗と言っているのかは分からないが、初めて彼女が露わにした感情の尊さの前ではなんでもよかった。
「レーベ! 馬車に積んであるありったけのカネを持ってこい! 大至急だ!」
アーディンが部屋の外に控えていた従者に声を掛ければ、バタバタと従者の足音が遠ざかっていった。
よほど急いだのだろう。息を切らした従者が、トランクケースを持って部屋に入ってきた。革張りのトランクの中には、アーディンの懐に入っていた袋と同じものが、いくつも収められている。
「主人、どちらの品を購入されるので――って、何をなさるおつもりです!?」
従者は、場所柄、スフィアへの贈り物の支払に呼ばれたのだと思ったようだ。
金貨一袋では足りないほど、たくさんの買い物をしたのかと思えば、突如、自分の主人が正気とは思えぬ行動に出たから堪ったものではない。
袋をわし掴んだアーディンは窓の外に向かって、中身をばら撒きだしたのだ。
「あっはははは! まぁまぁ……っふふ、とっても愉しいですわ」
「そ、そうか! まだたくさんあるからな。もっと楽しんでくれ、スフィア!」
しかも、とても満ち足りた表情で。
これに従者は数瞬意識を失いかけるも、すぐに我を取り戻し、アーディンの腰へと絡みつく。
「おやめください、主人! 何をなさっているのです! それは今回の買い付けの支払に必要なものですよ!?」
「買い付けなんかより、もっと大事なものがある! それは彼女の笑顔だ!」
「金で買える笑顔なんか危険すぎですって!」
「うふふ、あははははは!」
「もっとその美しい笑声を聞かせてくれ、スフィア!」
「正気に戻ってください、主人!」
止められると、余計にやりたくなる――人の性だろうか。
アーディンは腰に従者を巻き付けたまま、次々に金貨の入った袋を空にしていく。
チャリーンと金貨が宙を舞えば、スフィアの笑いが響き、アーディンの表情は恍惚と赤くなり、従者は悲鳴を上げる。
そして、店主は悲喜交々の部屋の中で、無心を貫くことにした。
理解しようとすれば、ただ『女を笑わせるために、金貨を湯水の如く道に投げ捨てている異国の男』という、どう足掻いても理解不能な状況が浮き彫りになるだけだから。
「オホホホホホホホホ!」
「可愛いぞスフィア!」
「主人んんんんんんん!」
地獄だ、と店主はそっと部屋を出た。
◆
仕立屋のバルコニーの下。
「あーあ……」
すると、そんな残念な声を出しながら、地面に散らばった金貨を、町衆に混じって拾う者が約二名。




