36 彼女の微笑みの理由
「え……スフィア、もしかして今、笑ったのか……?」
しかし、アーディンが彼女の顔を見ても、先ほどと同じようにスフィアは仮面を被ったかのような無表情である。
聞き間違いだったのだろう、とアーディンはその場で会計を済ませ、店を出た。
隣に立つスフィアを、盗み見るアーディン。
やはり、ここで別れてしまうのは惜しかった。しかし、彼女はどう見ても乗り気ではない。緊張しているのか、それともただ怒っているだけなのか。
いや、よく考えれば、彼女はこの場でさっさと別れれば良いだけだ。なのにまだ隣にいるということは、少なからず自分ともう少し一緒に居ても良いと思っているということではないのか。
アーディンがじっと視線を送っていると、スフィアが瞳だけをスライドさせ、アーディンを見た。すると、見られていることに気付いたスフィアは、一瞬目を大きく見開くと、視線だけでなくパッと顔まで逸らしたのだ。
「ス、スフィア……少し、歩こうか……」
つま先を通りの先へと向け、スフィアに付いて来てくれるように態度で促す。
もし、彼女の先ほどの態度がそういう意味なのであれば……。
スフィアはやはり何も言わなかった。が、一歩踏み出した足はアーディンと同じ方向へと向けられていた。
やはり彼女こそ運命の――。
アーディンの喉がゴクリを音を立てた。
二人は、つかず離れずの距離で通りをゆっくりと歩く。
平民の街にあって、異国のイケメンと赤髪の美女はこの上なく目立つものの、そこはやはり活況に沸く街だからなのだろう。皆、二人に目を奪われはするものの、すぐに自分の仕事に向きなおり、よく通る元気のいい声を上げていた。
王都中央部であればこうはいかない。
二人に目を奪われた者達は、ヒソヒソと扇子の下で密か事を囁き合ったり、どこの家の誰と誰だとか、早速噂の種にしようとじっとりと観察してきていただろう。その中を歩くのは些か辛いものがあっただろう。
しかし、今二人がいるのは外周部。街を活気づける商人や、子供、家から聞こえてくる雑多な声の多さは、会話のない二人にはちょうど良かった。
スフィアは、アーディンの半歩下がった斜め後ろを歩いている。相変わらず顔に表情はなく、整っている分余計に、彫像のように冷たく見える。
しかし、それでもアーディンは目が離せないのだ。彼女が歩く度に揺れる赤髪は陽射しを受け、赤色ではあるが、海面のようにキラキラと乱反射して息を呑むほどの美しさである。長いまつげに髪色と対照的な緑色の瞳。細い顎先と、きゅっと結ばれた小さな口は、無表情だというのに妖しさ漂う。
フラウ王国で美女と言えば、大抵は肉感的な肢体を持つ艶っぽい女性が求められる。
だからこそ、スフィアの無垢で清涼な美しさは稀であり、惹かれざるを得なかった。なんとしてでも、ものにしたい。
「さて、どこを見ようか――っと!?」
行き先に、つま先と頭をアーディンが悩ませていると、突如、足にドンッという衝撃を受ける。
目線を下げれば、小さな少年がアーディンの足にしがみつき、えんじ色のドレープを物珍しそうに引っ張っていた。
「おじちゃんのふく、へんなのー!」
「おじ……っ!?」
脛まで垂れたドレープの先を、少年はまるで洗濯物を広げるように、バタバタと大きくあおぐ。
「こ、こらっ、やめないか……! 俺のこれは遊び物じゃないんだぞ」
キャハキャハと楽しそうな声を上げる少年が、手を大きく上下させる度に、布の動きに引っ張られるようにして、アーディンの身体も大きく揺れた。
「危ないからやめなさいと言っているだろう、少年!」
正直、強引にでもドレープから手を離させたかったが、そばでスフィアが見ているため乱暴なことはできない。子供に泣かれては、彼女に悪印象をもたれてしまう。
恐らく、従者もどこかの物陰からハラハラしながら見ているに違いないが、決して邪魔をしないようにキツく言ったため、助けに来る望みは薄い。
「ええい……っ、いい加減やめるんだ!」
我慢の限界が近く、アーディンはドレープを控えめにだが、少年の手からひったくるように引いた。
次の瞬間、反動で懐からお金が入った袋が頭を出した。紐が緩んだ袋の頭からは、チャリチャリと、中に詰まっていた金貨や銀貨が落ちていく。
「わあ、すっげえ! きんいろのおカネだ!」
アーディンはクシャリと前髪を握りつぶした。
「あぁあぁあ……またやってしまった。金など普段自分で持ち歩かないからな」
足元に散らばるお金を拾おうと腰を曲げれば、また懐の袋からチャリチャリと残っていた金貨が落ちる。
「ふふっ」
「……え」
楚々とした笑い声が聞こた。
振り向くと、今度は間違いなくスフィアは微笑んでいた。
一体何に対して笑っているのか。
口元を指で隠し、目を細めて、可憐な声で笑っている理由は何なのだ。
アーディンはすぐさま辺りを見回した。
彼女の興味を引くものが通ったのかもしれない。何か美しい花でも見つけたのかもしれない。大道芸でもやっているのか、奇抜な服を着た者でもいるのか。
しかし、通りはいたって賑やかなだけで、目に付く面白いものも美しいものも見当たらない。
「ねえ、おじちゃんって、オカネモチっていうやつなの?」
足元で、一枚の金貨を眩しそう空にかざして見つめる少年が、キラキラと目を輝かせながらアーディンの裾を引っ張る。
思わず舌打ちが出る。今はガキに構っている暇などないのだ。スフィアの笑った理由を探さねば。
「ああ、そうだな。その一枚はくれてやるから、さっさと向こうへ行ってろ」
「えっ、やったあ! たいせつにするね!」
「大切にするな。使え」
少年は「やったー!」と、金貨を手にして、嬉しそうに通りの人混みへと紛れていった。
その間中、スフィアはずっと笑っていた。




