31 姐さんっ!
スフィアとグレイとのお茶会から屋敷へ戻ってきたアルティナを、最初に迎えたのは使用人のエノリアだった。
エノリアは、ニコニコとどこか満足げな笑みを浮かべているアルティナに、首を傾げる。
「何か良いことでもあったのですか?」
「ええ、とても素晴らしい純愛の話を聞いたのよ」
アルティナは、はぁ、と胸を押さえきらきらしい溜息を吐く。
「純愛……ですか。どのような?」
首を傾げたエノリアに、アルティナはスフィアから聞いたトーラ公の話を、嬉々として語ってきかせた。
「やはり純愛は素敵よねえ。いつまでもひとりの女性を探し続けるだなんて、乙女の憧れだわ」
うっとりとして頬を手で包むアルティナに、しかし、エノリアは「そうですか」と言いつつも、怪訝に眉を顰めていた。
「それにしても、お嬢様がいるのに、スフィア様に声を掛けるとは、そのトーラ公という……幽霊? も失礼ですね。ご気分を害されませんでしたか、お嬢様」
「それは仕方ないもの。トーラ公が探していた女性がスフィアと似ていたからでしょ」
「では、もし声を掛けてきたのが他の、普通の男性でしたら?」
「なあに、それ。スフィアのほうがモテるのを、私が気に食わないんじゃないかって言いたいの? 悋気持ちだって」
「あ、いえ……そのようなことは……ただ私はお嬢様が嫌な気持ちにはなってほしくないなと……」
アルティナは赤いマニキュアが輝く細い指を、顎に添え「うーん」と視線を宙に放る。
「それでもやはり気分は悪くならないわね。そりゃあ好きな人が別の女性を口説いていたら、多少なりとも嫌だけど……た、多少ね! 別に何とも思っていない殿方が誰を口説こうと構わないわ」
「そうなんですね、承知いたしました」
「ふふ、変なエノリア。何を承知したのよ」
「お嬢様を嫌なことから守るためには、お嬢様のことは全て把握しておきませんと」
「頼もしい使用人だこと」と、アルティナは侍女のリィアを呼びながら、私室のある二階へと上っていった。
「……なるほどね。誰彼構わず嫉妬するわけでもないんだ」
今回は金の無駄遣いだったな、エノリアは口の中で舌打ちをして、仕事へと戻った。
◆
ベレッタに出していた手紙の返事が届いた。
学院の様子でもなんでも知りたいと言った彼女には、ひと月から二月に一度の頻度で、身の回りで起きたことの報告のような手紙を送っている。
いつも「ははは! また姫は面白いことに巻き込まれているね!」と、肉声が聞こえてきそうな勢いのある文字で、彼女の感想という返事が来るのだが、今回返ってきた手紙の内容は少しばかり違った。
「おや、スウィーティ、どうしたんだい? そんなに穴が開くくらい手紙を見つめて。差出人は誰かなあ? 男だったらどうしよっかなあ?」
サロンのソファに座っているスフィアの背後から、ジークハルトの手がにゅっと伸びて、スフィアの手から封筒をかすめ取ろうとする。しかし、彼の手が封筒を抜き取る前に、スフィアの顔がグリンと彼を振り返った。
「兄様! ね、姐さんをお家に招いてもよろしいでしょうか!」
興奮に目尻を赤くして、鼻息と語気を強くするスフィアに、ジークハルトは首を傾げた。
「姐さん?」
「お久しぶりです、ベレッタ姐さん!」
「あはは! 相変わらず元気だねえ、姫は」
姐さんことベレッタを屋敷に迎え入れた瞬間、スフィアは待ってましたとばかりにベレッタに抱きついた。
「姐さんも、相変わらず衰え知らずのモッフモフボリューミーで……」
彼女のトレードマークである、胸元の大きく開いた服からは、今日もこぼれんばかりに褐色の双丘が覗いている。抱きつけばちょうど目の前がソコであり、スフィアはここぞとばかりのその弾力を堪能する。
自分のは諦めた。柔らかさは他人から補給することにした。
「それにしても突然で悪いね。これからしばらくは中央に腰を据えようと思って」
「ああ、姐さんは西と中央を行ったり来たりと言ってましたものね」
「そうそう。だから家を探そうと思ってね。でも王都の宿屋は高くってね、あまり長居して探せそうになかったから、姫が手を差し伸べてくれて助かったよ」
再会を喜び合っていると、サロンの方からローレイ達がやってくる。
「こんにちは、ベレッタ嬢。私は当主のローレイ=レイランドだ。隣が妻のレミシー。そして……」
「スフィアの兄のジークハルトです。僕とは以前パンサスでチラッと会いましたね」
ベレッタはスカートの手で払うと、裾を摘まみ美しいカーテシーをしてみせる。
「レイランド侯爵様とご家族の皆様、ご機嫌麗しく。ベレッタと申します。この度はお屋敷に置いていただき、感謝申し上げます」
「セヴィオでは娘がお世話になったようで。どうぞゆっくりと我が家のように過ごしていってくれ」
ローレイが「では」と挨拶を終えると、マミアリアがやって来て、ベレッタの荷物を手にする。
「では、ご案内いたします」
白と黒のメイド服に身を包んだマミアリアを見て、ベレッタはニヤリと片口を上げた。
「随分と様になってるじゃないかい、マミアリア」
「様ではなく、板に付いていると言っていただきたいものですね」
セヴィオでは、ある意味ライバルであったマミアリアとベレッタ。絶妙に空気が緊張する。
「ベレッタ姐さんのお部屋は、三階の客間を用意してますから」
しかし、ベレッタが屋敷にいるという高揚で気付かないスフィアは、意気揚々と階段を先に上っていく。
次の瞬間、胸元から取り出した投げナイフを、ベレッタが閃光のような早さでマミアリアに投げた。しかし、その刃先はマミアリアに到達する直前に、金属的な甲高い音を立てて床に落ちる。
マミアリアの右手にはどこから取り出したか、短刀が握られていた。
へえ、とベレッタの両の口端は楽しそうに深くつり上げる。
「随分と板に付いているじゃないかい、マミアリア」
「当然です。私はレイランド家のメイドであり、お嬢様の侍女ですから」
ベレッタは笑いながら床に落ちた投げナイフを拾い、胸元へとしまった。
「娼婦よりそっちの方が随分と似合ってるよ。良い主人に拾われて良かったね」
「ええ、本当に」とマミアリアが自慢するように顎を上げた時、先に三階へと消えたスフィアが、ひょっこりと階段の陰から顔を表わす。
「何をしてるんですか、お二人とも。早く上ってきてくださいよ」
二人は顔を見合わせ、肩をすくめると「はい」とスフィアを追いかけた。
風呂の準備ができるまでくつろいでいてと言われ、ベレッタは少しばかり屋敷内を散策させて貰うことにした。
一階に下り、応接室や料理場などを覗いて回る。
「はぁ~やっぱり侯爵家ともなると広さが全然違うね」
昔に住んでいた貴族の屋敷は子爵家で、正直そこまでの広さはなかった。
「それに、どれもこれも高そうなものばっかりだよ」
『侯爵家と比べないでよ!』とロクシアンの声が聞こえた気がしたので、心の中で「ごめんよ」と謝っておいた。
「何かお探しですか、レディ」
ちょうど次の部屋を見てみようと玄関ホールを横切ったときだった。
少し高いところ――階段の踊り場から声をかけられる。
振り向けば、スフィアの兄が、タコを高速でかみ砕いていた姿など幻だったかのような、貴族然とした冴え冴えとした微笑を浮かべ立っていた。




