30 トーラ公の話
ゆっくりと確かめるように話されるそれは、いつの間にかスフィア達だけでなく、店内全ての興味を引きつけていた。
「彼には幼い頃より将来を誓った、同い年の許嫁がいたんですが、許嫁とは北と南で遠く、二人は長い間手紙だけの交際を続けていたんです。『こちらは暑い日が続いているけど、北はきっとまだ涼しいんだろうね』『アウリの実が成ったから、パイを妹と焼いたの。母から教えてもらった私の得意料理、早くあなたに食べさせたいわ』そんな、恋人達が当たり前にする会話を、二人は文字で重ねていきました。何年も、何年も。彼女はどんな声だろうか、彼はどんな姿だろうか……きっと、夜空に浮かぶ月を眺めては、互いに思い馳せていたと思います。そして二人はついに、十八歳で行われるデビュタントの前日、王都のとある場所で会おうと約束します」
「……それで」
アルティナが固唾を呑むと一緒に、令嬢もご婦人達も一緒にゴクリと唾を呑む。
「長年手紙だけで思いを募らせてきた二人。初めて会う気持ちは、何物にも代えがたい高揚感だったと思います。トーラ公は彼女のために花屋でたくさんの薔薇を買い、その花束片手に、待ち合わせの場所でずっと待ち続けました。しかし、日が真上にこようとも、傾こうとも、星が輝き出そうとも、誰もトーラ公に声を掛けなかったのです」
「そんな……っ、どうして彼女は来なかったの!? ひどいわ!」
アルティナが悲しそうに絞った声を出す。グレイは、「アルティナ……」と肩を押さえて、浮きかけたアルティナの身体をソファに戻す。彼は「最後まで聞こう」と、神妙な面持ちで首を振った。
「お姉様。実は、彼女はちゃんと待ち合わせ場所に来ていたのです」
「だったらどうして二人は出会えなかったの!?」
スフィアは、悲しそうに眉を曇らせ、悲しそうに目を伏せた。
「……その場にトーラ公がいなかったからです」
「え、でも……彼は花束を持って待っていたって……」
「デビュタントの時期、南方は嵐に曝されることが多く……トーラ公は王都へ来る途中、大雨で緩んだ山肌がなだれてきて馬車と共に……」
「そんな……っ」
震える手で信じられないと口を覆うアルティナ。彼女がグレイに視線を向ければ、グレイも悔しそうに眉間を険しくする。
「確かに……デビュタントがある新緑の季節は、南方では大雨が降ることが多い。王都まで山間部も多いし、馬車で通っているときに――ということも……」
グレイの言葉に、店内は完全に沈黙してしまった。
中には、すすり泣く声すら聞こえてくる。
「じゃあ、まさか花束を持って待っていたトーラ公は……っ」
「許嫁の彼女は、不運なことに私のように『見えない人』でした」
二人の省かれた行間で、皆トーラ公がどうなったのか理解していた。
「でも、それだったら彼女は見えなくとも、トーラ公は彼女を見つけられたんではなくて」
スフィアがゆるゆると力なく首を振る。
「二人は確かに長い交際で愛を育んでいたのでしょうが……文字でしかお互いを知りませんでした」
「――っ二人はお互いの姿を……!」
アルティナがハッと気付くと一緒に、令嬢たちも言葉が出ないとばかりに皆俯いてしまった。
「誰も悪くない……不幸が重なった結果です。今でもトーラ公は花束を持ち、彼女を探し続けているそうです」
スフィアが窓の外へと視線を飛ばし、「ほら」と道を挟んで向かいにあるガス灯を示す。
「あそこが待ち合わせの場所だったらしいです。手紙のやりとりで思い描いた彼女と似た女性が現れると、彼は未だに花束片手に、声をかけ続けているのだそうです」
「な……っなんて悲しいことが……っ」
アルティナは青い瞳を潤ませ、胸元から取り出したハンカチでズズッと鼻をかむ。店内も、あれだけ賑わっていたのにいつの間にかお通夜だ。店員すらも目頭を押さえている。
「泣かないでください、お姉様」
スフィアはアルティナを優しく抱き締めた。
「私には見えませんが、どうか彼が現れた際は、優しく微笑んで、そっとしておいてあげてください。きっといつか、生まれ変わった彼女と結ばれることを信じて」
「そうね。勘違いさせては駄目だものね。いつかきっと、トーラ公を見つけてくれる彼女が現れるはずだわ」
ふわり、と風が窓から入ってくる。白いレースのカーテンが純白のドレスのように大きく膨らんで、店内に薔薇の香りをもたらす。
「薔薇の香り……もしかして、トーラ公がそこにいるのですか、お姉様?」
アルティナは傍らに膝をついたトニアを一瞥し、しかし、今度は首を横に振った。
「いいえ、何もいなくてよ」
「そうですか」
穏やかに微笑みあう二人の様子に、周囲の者達も同意に頷いていた。
「さあ、美味しいケーキもいただいたし帰りましょうか。花屋に寄って」
「はい、薔薇の花束を買いましょうね、お姉様」
「まったく、アルティナ。君は優しい女性だよ」
三人は席を立つと、そこにいるトニアなどまるで見えていないかのように、さらりと通り過ぎ出て行ってしまった。
「…………あれ?」
一緒に涙を呑みながら聞いていたトニアは、自分が話のトーラ公だと気付くまで五組の婦人達に素通りされた。
アルティナが花屋で薔薇の花を吟味している頃、店の外で待つスフィアの腕を、グレイが肘でつついた。
「…………嘘だろ」
「あ、ばれました?」
あっけらかんと言うスフィアに、グレイは口端を引きつらせる。
「途中まで信じかけたよ。本当に見えちゃならないものが見えてるのかって」
「どうです? 即興にしては、よくできたお話だったでしょう」
「ああ、君は詐欺師になれるよ。店内の女性達まで巻き込んで。皆ハンカチを濡らしていたよ」
「ふふ、だってお姉様の前で私を口説こうだなんて、失礼千万ですから。存在自体認めてあげませんよ」
「恐ろしい人だ」
「お姉様が幸せであれば、なんだって良いんですよ」
そこへ店内から声が掛かる。
アルティナが真っ赤な薔薇の花束を持って「これはどうかしら」と、掲げていた。
「とっても綺麗だと思いますよ」
「きっとトーラ公も許嫁も気に入るさ」
二人の言葉に、アルティナは「よね」と嬉しそうにはにかむと、店員へと渡していた。
「ただの噂話にここまで心を寄せられる彼女は、感受性豊かで、誰よりも優しいと思うんですよ」
「ああ、知っているさ」
願わくは、その笑顔が曇ることがありませんように。
その後しばらく、スイーツ店前のガス灯の麓には、薔薇の花が供えられ続けたという。




