29 まさか、見えるんですか……
「申し遅れました。僕はトニア=ヘルセンと言います」
――せっかくお姉様が気持ちよくノロケてくださってるのに! 嫉妬で悪役令嬢化したらどうしてくれるのよ!!
彼女の場合、元のゲームストーリーでは『好きな人を奪われて悪役令嬢化』という流れであり、少しの嫉妬も油断ならない。だから彼女の前では、決してモテを見せないようにしてきた。そのための先回り除草作戦である。
それを、よりにもよってアルティナの前でよくも。分かっているのか、世が世ならば死んでいたところだ。ここが江戸時代ならば、切り捨て御免で刀を振るっていた自信がある。
――江戸時代じゃなくて命拾いしたわね、この、不埒者!
まず江戸時代にアルティナはいない、という細かい点については無視するものとする。気持ちの問題である。
スフィアは閉じた瞼を片方だけ薄ら開くと、テーブルの隣で跪いている男を、細やかに観察した。
見たところ、自分の名前も知らないし、グレイやアルティナにも気付いていないと言うことは、社交界に出るような貴族ではないのだろう。
――ふぅん……大方、どこかのボンボンってところかしら。
次にスフィアは、隣のアルティナと向かいにグレイの様子を窺う。
アルティナは、特に大したこともないように、ケーキを口に運んでいる。自分のことでないなら、口出ししないというスタンスなのだろう。あーんしてほしい。
グレイは、手に持ったカップを円を描くように揺らし続けているが、その水面を見つめる笑みは薄ら寒い。
二人とも下手なことはできないのだ。
王子と大公家令嬢。周囲には令嬢や婦人達の視線がある。
トニア=ヘルセン――攻略キャラ辞典を捲っても出てこない。つまり、世界の強制力は大して強くない。
――だったら、私は……。
「お姉様ぁ、私のケーキもどうぞ一口お召し上がりくださぁい」
「へ? ス、スフィア?」
「ほら、あーんしてくださいませ。そしてお返しに私にあーん仕返してください!」
アルティナは、スフィアの行動にきょとんと目を瞬かせている。アルティナだけではない。グレイもカップを揺らす手が止まり、花を手にした男も目を丸くしていた。
「どうされました、お姉様? ほら、あーんですよ」
「どうしたって、あなた……せめて何かしらの返事は――」
「え? 返事ってなんのことです?」
訝しげに眉を顰め、分からないと首を傾げたスフィアに、アルティナも首を傾げる。
「グレイ様、何か私に話しかけましたか?」
「え、いや……俺は何も……」
スフィアの不思議な態度に、グレイもアルティナ動揺に困惑の表情を浮かべる。二人の視線はチラチラとスフィアが背を向けている男――トニアに向けられていた。
当のトニアも状況が分からないと、花を差し出したままの体勢で固まっている。
「あの、赤髪のお嬢様……」
「はいお姉様っ、あーんですよ。その美しい口を大きく開けてくださいね~」
トニアが再度話しかけようとするも、スフィアはケーキをアルティナに差し出すばかり。あまりの状況に、アルティナも思わず言われるがまま口を開けて、ケーキを受け入れてしまう。
「スフィア……その……聞こえてるよな?」
無視し続けるスフィアにグレイが戸惑いながら声を掛けるも、やはりスフィアは首を捻るばかり。
「先ほどからお二人ともどうされたんですか? 急にソワソワされて」
「いや、俺から言うのもなんだが、君へアプローチしている男に気付いているよな?」
「はい? アプローチしている男……グレイ様のことですか?」
グレイとアルティナは互いに目配せをする。
『これはスフィアがおかしくなったのか、それとも自分たちのほうがおかしくなってしまったのか』と。
二人がそう思うのも無理はない。
スフィアの態度は、男の存在そのものを認識していないかのような振る舞いだった。わざとらしく言葉を遮ったり、視線を無視をしているわけではない。ごくごく当たり前に三人の会話を楽しみ、店員を探すときも男の存在を視界に入れているのに、瞳が一瞬たりとも揺らぐことなく素通りするのだ。
次第に、膝を折っていた男も焦り始めたのか、乱暴にテーブルに手をついた。
ガシャンッと食器が煩く揺れる。
「きゃっ!」
さすがにこれにはスフィアも気付いた。安堵の空気がグレイとアルティナ、そしてトニアの間に流れる。
しかし、それも一瞬。
「お、お姉様……っ、今、勝手に食器が動きましたわ……っ」
身体を震わせ、アルティナの肩にしがみつくスフィアの顔は蒼白だ。
「勝手ってあなた……だって、今そこの殿方が……」
「先ほどからお姉様もグレイ様も、いったい何なんです!? まるで私達以外に誰かそこにいるみたいに仰って」
「え」と、スフィア以外の三人は息を呑んだ。
「ふ、二人とも変な顔をなさって……まさかお二人とも、ナニカ見えてらっしゃるんですか……?」
身をすぼませ、震え声でアルティナとグレイの間で、視線を右往左往させるスフィア。その様子は二人から見れば、とても嘘を吐いているように見えない。
『ナニカ』という言い方に、グレイとアルティナの背筋に冷たいものが伝い落ちる。
「もしかして……『トーラ公の亡霊』が……!? そんな……っ私、てっきり噂話だと」
「ト、トーラ公の亡霊って、な、何かしら」
声を裏返らせつつも、アルティナが平静を装って尋ねれば、スフィアは戸惑いながら口を開いた。
「その昔、南方にトーラ公という殿方がいらっしゃったらしいんです」




