19 気持ち悪い
生まれて初めて、女性からあからさまな悪意を向けられた。
貴幼院時代にフィオーナから悪意を向けられた事はあったが、あれは単なる嫉妬であり、スフィア自身を嫌悪してのものではない。事実、誤解が解けた後では仲良い茶飲み友達である。
しかし、彼女のそれは、フィオーナのものとははっきりと違うと分かってしまった。
「サリューナ=チェスター。チェスター侯爵家の次女で、当学院の二年です」
「どう? スフィア。知り合い?」
カドーレが教えてくれた情報を脳内で復唱してみるも、さっぱり彼女の情報など出てこない。
「貴幼院で……一緒だったわけでもなさそうですね」
貴幼院で一緒だったなら、アルティナと勘違いするほどに似た人物をチェックしていないはずがない。しかし、貴上院でなにか関わりがあったわけでもない。
アルティナにひっついて、時折彼女の周辺にいる三年生と関わりをもつことはあったが、二年生など接点が皆無だ。
――もしかして、攻略キャラ!?。
いや、公式HP掲載の攻略キャラ一覧に、女キャラはいなかったはずだ。
――それに、アルティナ様をよそに、他の女キャラルートなんて作ってたとしたら、本社にサイバーアタックしてたはずだもの。
作るのならまず、アルティナルートを作ってからでないと許さない。一体どれほどアルティナルートの情報を求めネットの海を彷徨ったか。危うく血迷って『二万で裏ルート・アルティナ編の秘密コード教えますよ』というSNSのダイレクトメッセージにのりそうになった。
「やっぱりただの僻みよ、僻み。スフィアがモテるのが気に食わないんでしょ」
「そうですかね」
まあ、これが本来の反応かもしれない。今まで大きな悪意が向けられなかったのも、ヒロイン補正のうちか。
――シナリオが変わってきてるんだし、こういうこともあるわね。
「どうするの、スフィア」
「どうもしませんよ。実害があるわけでもないですし、このまま放っておきますよ」
これも、大人の世界が近づいてきた証拠かもしれない。惚れた腫れたにかかる熱量が増すのだろう。
すれ違いざまに悪口を言われるくらい、可愛いものだ。
「それにしても、カドーレが調べてくれて助かりました。今朝頼んで放課後には特定するなんてすごいです!」
「そういった役割を求められることが多いですから」
「ああ、カドーレのお父様は、騎士団統括相の秘書でしたね。なるほど、情報収集はお手の物ということですか」
途端に、スフィアの目が輝いた。
離れてしまったし、これからどうしようかと思っていたところだ。
「カドーレ! あなたは今日からブリック二号です!」
「嫌な予感がするので、丁重にお断りします」
間髪容れず綺麗に腰を折られ、断られてしまった。
まあ、弱みを握ったわけでもなし、無理だろうことは分かっていた。
「それに僕は一人の面倒をみるので手一杯なので、ガルツとブリックのように、スフィアの下僕として働く余力はないんですよ」
「ガルツとブリックを私の下僕だと思ってたんですか……」
中々、容赦ない認識の仕方をする。
彼らが聞いていたら、むせび泣いていたことだろう。
「子分ですよ」と訂正すれば、隣でリシュリーが「変わりないわよ」と呟いた。
「でも、このくらいの情報ならいつでもお渡しできるので、そこは頼ってもらって大丈夫ですよ」
「充分ですよ。ありがとうございます、カドーレ」
「いえいえ」
微笑みを交わせば、二人の間にのほほんとした空気が流れる。
カドーレと話していると、どこか落ち着く感じがある。彼が周囲よりも大人びているからだろうか。
「ちょっと、あたしのスフィアと良い雰囲気出してんじゃないわよ、カドーレ」
「そんなつもりはありませんよ、リシュリー。というか、スフィアはリシュリーのものでは――」
「もうそれ聞き飽きた!」
噛みつく勢いで威嚇しているリシュリーに、当のカドーレはあははと、まるで子供を相手にしているような穏やかさを向けていた。
これがガルツならこうはいかない。
この角がとれた感じはやはり、他の者より達観しているからできることだろう。
精神年齢が高いというか、底が知れないというか。彼の父親が秘書をしているのも影響しているのかもしれない。静かに眼鏡の奥で笑む姿は、まるで有能な参謀のようだ。
――一体どんな育ち方をしたら、こうできた子になるのかしら。
いつもリシュリーの言うことに従っているが、彼の場合、従わざるを得ないわけではなく、あえてそうしているのだろう。
もしかしたら、リシュリーもカドーレのその優しさに気付いているのかもしれない。幼馴染みと言うし、素直にスフィアは二人の関係性を羨ましく思った。
◆
さて、例のサリューナの件。
放っておこうとスフィアは決めたのだが、どうやらその決断が誤っていたらしい。
あれから特に彼女とは会わずに済んでいるのだが、何やらここ最近、周囲の空気が歪になる瞬間があるのだ。
学院全体がおかしいというわけではない。
ただ、本当にごく一部。すれ違った時に一瞬空気が淀んだり、食堂に入った瞬間に氷を踏み抜いてしまったような気まずさが漂うことがあった。
しかも、その時の相手がサリューナということではないのだ。
すれ違った集団も、食堂で一番空気を冷やしていた集団にも、サリューナはいなかった。
――どういうことなの……。
てっきり、サリューナ個人からの悪意を無視すれば、収まることだと思っていた。何かちょっかいをかけてくるのなら、その時に反撃してやれば良いと。
そしてやはり今日も――。
受ける講義が同じで、一緒に教室に入った時だ。
リシュリーの後ろについて、教室に足を踏み入れた瞬間。それまで学生ならではの騒がしさがあった教室が、粘着質の雨でも降ってきたかのように、じっとりと重くまとわりつくものに変わった。
「なんだか最近、空気が気持ち悪くなる時があるわよね?」
「え、ええ、そうですね」
「なんなのかしら、全く」
リシュリーも空気の変化を敏感に感じ取っていたようだ。
しかし、その気持ち悪さの理由が、二人には分からなかった。
体温と同じ温度の風を、緩やかに頬に当てられている――そんな感じの気持ち悪さ。強い嫌悪でもなく、好奇でもない。肌にまとわりつくようなこの感覚には、どこかで覚えがあるような気もする。
――原因が特定できないから、手の打ちようがないわ。
ただ空気が悪いだけ。
それだけならば、我慢すれば良いだけの話。それだけならば。
しかし、それからまた数日経った日の放課後。
スフィアは、二人きりで、と呼び出された。
「何かご用でしょうか」
授業が終わったあとの空き教室。
彼女は先に来ていた。
「アルティナお姉様」
振り向いた彼女の表情は、曇っていた。




