7 いってらっしゃいませ~
図書館で言葉を交わしたあの日から、イーロイのスフィアに対する猛アプローチが始まった。
確か『あまり女性と接したことがない』と言っていたはずなのだが、嘘ではなかろうか。
実にフランクで紳士的に声を掛けてくる。
「おはよう、スフィア嬢。どこにいても君は華やかで目を惹くね。思わずこうして声をかけてしまったよ」
から始まり、
「今日のランチは一緒に食べないかい。君の話が聞きたいんだ。ああ、もちろん例の友人との約束があるのなら、無理しないでほしい」
を経由し、
「放課後、また図書館で語らわないかい? 君のことを知るのはとても楽しいんだ。それこそ数多に詰まれた考古学書や数理書よりも遙かに興味深い」
と、一日を通して校内で遭遇する度に声を掛けてくる。
しかも、リシュリーといる時などは挨拶だけで、決して強引に誘おうとしない。
実に惜しい。
過去一番の優良物件なのだが。アルティナにとっての。
しばしこの様子を見ていたリシュリーが「ああ、またか」というような目を向けてくるのだが、仕方ない。
また、なのだから。
「それでスフィア、今回はどうするの? すごくいい人よね、イーロイ先輩って」
「そうなんですよ。良い方なんですよねえ」
「じゃあ付き合うの?」
リシュリーの頬が僅かに膨らんだ。
「いいえ。というか、私は一応ガルツと付き合ってますんで」
さすがに二股は侯爵家令嬢という肩書きに泥を塗る。
別に名前になら泥を塗られても構わないのだが、家族に風評被害が出るとなれば話は別だ。
「あんなの数にいれてないわよ。何なら眼中にも入れてないわ」
この犬猿め。
そこでふと気になる。
彼女が向けてくる好意は何なのかと。
「リシュリーは私と付き合いたいんですか?」
「きゃっ! 直球ね、スフィアったら」
頬を両手で包んで、くねくねと身体を揺らすリシュリー。
背の高い彼女が右に左に揺れている様は、とある妖精の谷に生息しているニョロニョロっとした奴を想起させる。
「あたしは、別にスフィアの彼氏や彼女になろうと思わないのよ。ただ、私の隣にスフィアがいてくれるだけで嬉しいんだから」
つまり、自分がアルティナに向ける感情と似ているということか。
スフィアの場合、傍にいたいという感情よりも上に、『アルティナに幸せになってもらいたい』という感情があるが。
「っていうか、全部好き」
「悪どいことをしてるって知ってもですか?」
クス、と意地悪な笑みを向けるスフィアに、リシュリーは恍惚とした笑みを返す。
「むしろ、それを知ってからもっと好きになっちゃったわよ。他人にやらせず、自分の手と頭だけでもって全てを斬り捨てるだなんて、かっこよすぎるのよぅ」
リシュリーはほう、と熱い溜め息を漏らした。
今言われた点のどこにうっとりするものがあったのか。
スフィアは首を捻ったが、しかし自分の裏側を知ってもこうして一緒にいたいと言ってくれる女友達は素直に嬉しいもので、思わずスフィアの頬も緩む。
「そこまで思っていただけるだなんて光栄です。ぜひ、これからも私の一番の女友達でいてくださいね」
「もちろんよ、一生そばにいるわよ」
何だか面映ゆい空気に、二人して顔を見合わせると笑みが漏れた。
「ああ、それでよ。どうするの棘の薔薇姫様」
「やめてくださいよ、その不本意なあだ名は」
「やだぁ、とっても素敵だと思うけど。ただの薔薇姫よりもっと不可侵の高貴さが漂ってるじゃない」
「いえ、棘うんぬんではなくて、薔薇はアルティナお姉様のモチーフなので。お姉様以外が冠するのは非常に遺憾なんですよね」
至極真面目な顔で言えば、リシュリーが「あぁ」と顔を引きつらせる。
そんな顔をされても、アルティナがこの世で一番薔薇が似合う女性殿堂入りという事実は変わらない。異議も認めない。
「とりあえず、イーロイ先輩についてはもう考えてありますので、ご心配には及びませんよ」
さすが、とリシュリーが口元に深い弧を描く。
すると、リシュリーの指がスフィアの下瞼をするりとなぞった。
「それって、日に日に濃くなるこのクマと関係あるのかしら?」
スフィアの目の下には、薄らと青いクマが出来ていた。
しかも日に日に濃くなっていっており、連日の寝不足が窺える。
しかし、スフィアは疲れたとも、眠れなくてとも言わない。ただ意味深な笑みを浮かべるだけ。
リシュリーも分かったもので、それ以上の答えは求めない。
「なるべく早く解決してね、スフィア。じゃないと、せっかくの綺麗な顔がもったいないわ」
「ええ。あともう少しで仕上がりますから」
「あら怖い」
ふふ、と二人は令嬢必携の楚々たる笑みを交わした。
「……あの、そこの棚、僕のなんですが……暗殺計画はもっと隅でやってください」
カドーレは、『今度は僕がブリックの役どころか』と額を抑えた。
◆◆◆
その日も朝からイーロイは、スフィアの姿を探していた。
「イーロイ先輩ー!」
すると、何と今日はこちらこら声を掛ける前に、お目当ての令嬢が駆け寄ってくるではないか。
「イーロイ先輩、大変なんです!」
しかし、お目当ての令嬢――スフィアは何やら慌てた様子。
いつも静淑を守っている彼女にしては珍しい。
「スフィア嬢、そんなに急いでどうしたんだい? しかも大変って……」
「大変なんです! これを見てください!」
そう言って、彼女が手渡してきたのは古ぼけた表紙の本。
「先輩、この本の意味が分かりますか?」
何だとイーロイは本をめくってみるが、すぐにその手は固まった。
「……っ何だ、この本は!?」
イーロイは唸るような驚きの声を上げた。それと共に止まっていた手が高速でページをめくり始める。
そして、あっという間に全てをめくり終えたイーロイは、スフィアの肩を掴んだ。
彼の顔は驚愕に瞠目している。
「スフィア嬢、一体この本はどこで手に入れたんだ!」
「先輩ったらすごいです。意味が分かったんですね」
しかし、イーロイは苦虫を噛みつぶしたような悔しそうな顔で首を横に振る。
「違うんだ。僕はこの本を読んだわけじゃないんだ」
まあ、分かっていたことではあるが。
当然だ、彼は読んでいないのだから。いや、読めるはずがないのだから。
「コレは、見たこともない言語で書かれている書物だ」
「やはりそうなんですね!」
イーロイの言葉にスフィアは驚きを露わにした。
「両親に聞いても分からず、様々な国の文献を読んでいると仰っていたイーロイ先輩なら、どこの国の言語か分かると思ったのですが……」
「北のロッテンベルの文字に似た部分もあるが、しかしそれも一部。西奥にこのような四角い文字や簡素な線の文字を書く少数民族がいたとも思ったが、しかし僕が知る知識ではまったく読めない」
眉根を寄せて本を見つめるイーロイ。
苦悶の表情にも見えるが、彼の目の中にほのかな輝きが瞬いたのを、スフィアは見逃さなかった。
「そういえば、我がレイランド家は歴史ある家なのですが、昔から今の土地にいたのではなく、遙か北方からやってきたのだとか……」
「北……」
スフィアの声はしっかりとイーロイの耳には届いているようだが、しかし彼の目は少しも本から離れようとしない。
あれだけスフィアを追っていた目が、今は目の前の古びた一冊の本に釘付けだ。
「もしよろしければ、その本は先輩に差し上げますわ」
「えっ! いやきっとこれは貴重な本だよ!? もしかすると亡国の文献かもしれないというのに」
「意味の分からない者が持つよりも、可能性のある方の手に委ねた方が、その本も幸せと思いますわ」
「しかし……僕はこの学院を卒業したら国に戻らねば……っ」
本を持ったイーロイの手に、スフィアが上からそっと手を被せた。
はっとしてイーロイは、そこでようやくスフィアに目を向ける。
「先輩……先輩の一番大切な想いは何ですか?」
「僕の想い」
「未知のものを追い求めるのが楽しいと仰っていた先輩は、どこに行ったんです。卒業すれば国に戻らなければと言われましたが、卒業するまで一年も時間があるはずです」
スフィアの言わんとしていることを察し、イーロイの眼が一回り大きく開いた。
さすが、頭の回転が速い。
「……しかし、そうなると君とは……っ」
「先輩、時間は有限ですわ。ですが、私とは生きていればまたいつか会う機会もあります。ここで優先すべきことはもう先輩にはお分かりですよね?」
イーロイの手を握るスフィアの手に力が籠もった。
同時にイーロイの瞳が揺らぎ、しかし何かを決心した光が宿る。
「ありがとう……スフィア嬢。確かに、君の言うとおりだ。ここで行かなければきっと僕は一生後悔する」
「はい」
二人の間を、春の暖かな風が通り過ぎる。
華のかぐわしい香りが二人の世界を甘く包み、穏やかな空気が流れる。
それはまさに、出会いとは反対の別れを想起させる、寂しくも希望に満ちた晴れやかな雰囲気。
「スフィア嬢、僕はこの本を必ず解読してみせる」
「はい。そうしたら、その本をお話に来てください」
二人は本を互いに握りしめ、見つめ合い瞳で頷いた。
「そうと決まれば、こうしちゃいられない! すぐにでも旅支度をととのえなければ!」
言うが早いか、イーロイは校舎内へと走り去っていった。
きららかな希望を宿した目で、スフィアに別れを告げて。
「いつまでもお待ちしておりますわーせんぱーい!」
その背を、スフィアは大手を振って見送っていた。
そうして、彼の背が見えなくなれば手を下ろし、ふっと微笑んだ。
「まあ、きっと二度と会うことはないでしょうけど……ね」
この世界を一周回ったとて、絶対に彼にあの本は読めないのだから。
その二日後、三年のとある留学生が突然学院をやめて旅に出たらしいという、摩訶不思議な噂が聞こえてきた。




