14・天はこうも私に試練をお与えになるのか
グレイのスラッとした指がスフィアの目の前まで迫る。
現実逃避をしているスフィアの頭でも、この手が何をしようとしているのかは女の直感で分かった。
しかし逃げるには前も後ろも障害物。しかも考える時間も残されていない。
最早その指先はスフィアの頬を撫でられる距離にあった。
――よし。頭が滑ったとか言って頭突きしよう。
逼迫した状況というのはこうも人を脳筋にするのか、と出した結論にスフィアは自分で嘆息する。
しかし、そう決心した時――
「そこまでだ王子様」
聞き覚えのある声と共に、クロスの向こう側から細い円筒の様な物が押し入り、グレイの側頭部に突きつけられた。
よく見れば、細い円筒だと思ったのは長銃の先端だった。
呆気にとられていると、今度は卓の四辺を覆っていた白が消えた。
宙を翻る重い音と共にクロスは卓から引き剥がされ、床に投げ捨てられる。
何が起こったのか、と明るくなった卓の下でスフィアが唖然としていると、突然両脇を掬い上げられた。
「にッ――兄様!? 何故こちらに!?」
掬い上げた手の主を見れば、ここに居るはずのないよく見知った顔。
その肩には先程の円筒――猟銃が掛かっている。
「やあ! マイ・スウィーティ。何もされてないか?」
ジークハルトはスフィアを丁寧に下ろすと、卓の下から這いだしてきたグレイに顰めた顔を向けた。
「よう、グレイ。お前、スフィアに何してくれてんだ?」
その普段とは違う砕けた口調は、ジークハルトとグレイが旧知の仲である事を窺わせた。
「いえいえ、何もしてませんよ。……まだ」
グレイは笑いながら「降参」とばかりに両手をあげてみせたが、余計な一語のせいでジークハルトの顔が鬼の形相になる。
「ほらほら、グレイもわざわざ煽らない。ジークハルトも乗せられないでよ」
すると、初めて聞く穏やかな声が背後から掛けられた。
スフィアが声のした扉の方を振り返れば、そこにはグライドとアルティナ、そしてグライドとグレイと良く似た顔をした黒髪の青年が立っていた。
彼はにこやかな顔で進み出ると、紳士の礼をとる。
「はじめまして、スフィア嬢。グリーズ=アイゼルフォン第一王子だ。君のお兄さんとは同学からのよしみさ」
そう言うと、グリーズはスフィアの横を通り過ぎ、目の前に居たグレイの頭に拳骨を落とした。
グレイが「痛ッ!」と小さな悲鳴を上げる。
「全く……レディを怖がらせてはダメだろう! 見てみろ、ジークハルトの顔。あれ、弾が入ってたら撃たれてたぞ?」
「今度からは一発は残して帰ってきてやる。グレイの為にな」
「ははっ! 是非ご勘弁願いたい」
目の前の展開について行けず、スフィアはオロオロと首を巡らす。
彼女はジークハルトに説明を求めるように、彼の袖を引っ張った。
「あの……兄様。これは、一体――?」
困惑の視線を向ければ、ジークハルトはまるで赤子を落ち着かせるような優しい手つきでスフィアの頭を撫でる。
「大丈夫だよ。スフィアがこうやって今日連れて来られたように、僕も昔からよく連れて来られててねえ。アイゼルフォンの三兄弟とは顔見知りってわけさ」
「嫌だなぁ、顔見知りだなんてそんな他人みたいに。兄弟のように思ってるって言って下さっても良いんですよ?」
「おい、余った弾寄越せ。グリーズ」
「やだよ。弟の殺人幇助はしたくないからね」
そう言ってグリーズが陽気な笑い声を上げれば、また場が騒がしくなる。そこにグライドも加われば、四人は何とも楽しそうに会話を弾ませはじめる。
スフィアは密かに安堵の溜め息をついた。
――良かったわ、兄様が来てくれて。危うく一国の王子様を脳挫傷にしてしまうところだったわ。
そういえばヘイレンがグリーズの行方を聞いた際、グライドが友人と狩りだと言っていた。まさかその友人がジークハルトだったとは。なるほど、確かにジークハルトも友人
と用事と言っていた。
――シスコンもここまで来ると有用だわ。
特にグレイに対しては、最大の盾にして最強の矛の役割をしている。まさかシスコンに感謝する日が来るとは思わなかった。
――でもやっぱり、グレイ様と会うのは今後も避けるべきね。
受け入れたくないし、無下にも出来ないのならそれが最善策だ。
常にジークハルトが居るとも限らない。
――これから……どうしようかしら。
スフィアは全てのフラグを折る気概を持って生きてきた――僅か八年だが――。しかし今後はその必要がなくなってしまった。
生まれて八年で生きがいを奪われてしまった。何という超早期燃え尽き症候群。残りの八十年位どうやって過ごそうか……などと、スフィアがぼんやりと考えていると、いつのまにかアルティナが隣に来ていた。
「ア、アルティ――」
「ねえ……あの方、スフィアのお兄様なの?」
そう聞くアルティナの視線はスフィアではなく、向こうで騒いでいる者達の一人――ジークハルトに注がれていた。
「ジ、ジークハルト兄様の事ですか?」
嫌な予感がスフィアの頭を過ぎる。
「そう……ジークハルト様っていうのね――」
そう溢す声には甘い響きが漂っている。
「あ、の、アルティナお姉様?」
そういえば、彼女のゲームでの性格はどうだったか。
いや、シナリオの構成上仕方のない事ではあるし、彼女にはまるで非はないのだが。
スフィアは、恐る恐る横目にアルティナの姿を捉える。
そう、彼女は――
「ジークハルト様……素敵だわぁ」
――とっても惚れっぽい性格だった――ッ!!
アルティナのジークハルトを見る目は、恋する乙女のそれと同じ色をしていた。
うっとりと悩ましい溜め息を溢し彼を見る姿はとても可愛らしいが、正直あまり彼はお勧め出来ない。
「ねえ、スフィア! 彼にお付き合いしている方はいらっしゃるの!? 彼はどんな子がお好きなの!? 彼は――」
アルティナの怒濤の質問攻めにあっていると、突如身体に体当たりの様な衝撃を受け、思わず「゛うっ」と呻きが漏れる。
「だっからぁ! スフィアはやらないって!! 特にグレイは絶対近付くな!! お前色々と黒いんだよ!」
「やだなぁ、兄弟の中では私が一番黒くないですよ。ほら、灰色ですし」
「髪色の話じゃないんだよっ!!」
一体何の話をしているのか。
ジークハルトは三兄弟に絶叫しながら、スフィアの小さな身体をクッションを抱くみたいに力任せに抱き締める。
「スフィアは、あんな奴等よりお兄ちゃんの方がいいよな?」
まるで捨てられた子犬のような目をして見てくるが、正直、そのまま捨て置きたい。
「大丈夫だよ、スウィーティ。例え王家でも、あんな奴等にお前を渡しはしないから。なんなら、ずっとお兄ちゃんが一緒に居てあげるからな」
諫める気力もなくジークハルトの頬ずりもされるがままに任せていたが、身に刺さるような視線を感じ、スフィアは我に返った。
刺すような視線の主は、案の定彼女だった。
「……スフィア? どういう事……ですの?」
視線の強さもさることながら、アルティナの口端もひくついている。相当ご立腹だ。
「ち、違うんです!? こ、これは兄妹の、ただの……!」
スフィアが身を捻り、慌ててジークハルトの腕から逃れようとするも、彼の腕はぎっちりスフィアの腰に巻き付いて離れない。
――ええい! 邪魔だ! シスコン!!
そうやってジタバタしていると、アルティナは何かを悟ったように力無く頭を垂れた。
「そう……。スフィア、貴女は私の邪魔をしないと思いましたのに――」
「待――ッ! お姉、さ……!!」
――止めて! その続きを吐かないで! ええい!? まだ離れんか!!
「あんたとは……お友達解消よっ!!!!」
その言葉の破壊力たるや。
スフィアは力無く愕然とその場に膝を折った。が、ジークハルトの腕によって支えられ、ちくわの様なしなりを見せた。
ちくわの様になったスフィアを、アルティナは吐き捨てるように鼻を鳴らして一瞥すると、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「ア、アルティナお姉様ぁ……」
スフィアは哀愁漂う顔で、閉じられた扉を見つめた。
シスコンが、一番厄介なグレイに対して最大の防御策になると思ったが、同時に最大の足枷になろうとは思わなかった。
「…………世界が憎い」
――どうあっても世界は私とアルティナお姉様の仲を邪魔するのね。
ならば、戦ってやろうではないか。
――こうなったら、世界の思い通りには絶対させない。フラグだろうがシナリオだろうが全て滅茶苦茶にバッキバキに折ってやるわ!
一度は消えかけた闘志が、再びスフィアの中で頭をもたげる。
「……ジークハルト兄様」
先程まで何の反応も示さなかった妹が突如出した声に、ジークハルトは驚きと共に密着させていた身体を離す。
彼女の声は静かだが、芯の様な強さが宿っていた。
「ジークハルト兄様、ご安心を! 私は絶対に! 誰のものにもなりませんわ!!」
それはジークハルトへ自分の決心を伝えたと見せかけた、彼への宣戦布告だった。
スフィアの身体はジークハルトと向き合ってはいたが、その瞳は彼の向こうに見える、灰色の少年を見据えていた。
グレイは腕を組み目を細めると、まるで「受けて立とう」とでも言いたげに「へぇ」とだけ漏らした。
「帰りましょう、兄様。お父様も呼んで――」
スフィアはジークハルトの手を取ると、そのまま踵を返して三兄弟に背を向けた。
「スフィア嬢!」
その背を、グレイが声を上げて呼び止める。
「貴女が社交界デビューをする十八歳。……あと十年。それまでに必ず貴女の心を手に入れてみせます。許嫁ではなく私の恋人になっていただく!」
「……お戯れを」
スフィアは肩越しにちらとグレイを視界に入れた。
最後に見た彼の顔はとても楽しそうで、口元は大きな弧を描いていた。
――――レイドラグ国第三王子・グレイ=アイゼルフォン 改変未了
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