◆とある場所で
もはや、この屋敷は夜しか鍵が開いていないのではと思う。
夜に来て夜に帰る。お陰で昼間の姿など忘れてしまいそうだった。
昼間は何食わぬ顔でブルー・ブラッドの仮面を付ける、オレらの主。
以前はその仮面の厚さは刃も通らないほどに分厚かったのに、今は少し薄くなったらしい。
いや、そぎ落とされたのか?
「遅いぞ」
「ごめんって。夜は長いんだしそう焦んないでよ」
「私は一晩中お前の寝顔を見ていられるほど暇じゃないんでね」
相変わらずの主の冷たさに思わず苦笑が漏れる。
だけど、この冷たさがたまんないんだよね。
「そんなツンツンしないでって。そんなだから好きな女の子にも振られるんだよ」
「お前の頭は叩けばさぞかし良い音がするんだろうな。今度その空っぽの頭を持って音楽隊にでも入隊してこい。皆手を叩いて笑ってくれるさ」
「えぇ、笑ってくれるかなあ? スフィアちゃん」
「おい……」
おー怖。にらまれちゃった。
「あれは私のだ。勝手に手出しするな」
「そんなこと言っても、これからオレは嫌でもスフィアちゃんと会うことになるだろうし。主もスフィアちゃんに会いたいなら、こんな回りくどいことせずに会いに行けばいいのに」
「黙れ」
主の頬に入った、赤い一本傷が彼の表情に合わせて歪む。
端正な顔に入ったそれは、昨年、家督を父親から奪い取った時の代償。
二十歳にもならない自分より年下の男を、オレが素直に主と仰いでいる理由は、本家分家の血筋だからだけじゃない。
普段、人の良さそうな貴族面をひっさげているのに、ふとした拍子に出す、貴族の精神とは正反対の気性に惚れ込んでいるから。
正義も倫理も笑いながら一顧だにせず爪先で踏みにじり、踵で砂を掛けるその精神は、先代の主よりもずっと狂っている。
「惚れ惚れしちゃうねえ」
「はぁ……もう一度言うが、お前はただ情報を集めて、他の蟻どもに手出しをさせないよう見張っているだけでいい。くれぐれもお前が蟻になるな」
ああ、きっとオレの惚れ惚れって言葉が、スフィアちゃんに向けてのものだと思ったんだろうな。
主のものを取るはずがないのにどんだけだよ、その独占欲。
「かっしこまりぃ」
本当、この男がオレ達の主になってくれて良かったよ。
自分が一番まともだと思ってるのがもうね。
一番まともじゃないのはお前だってのに。
頭は馬鹿みたいにいいのに、自分ことに関してだけはすっぽり抜け落ちてるところが可愛いんだよね。
先代も悪くはなかったんだけど、拝金主義なとこがあったからね。
金が欲しいなら盗めばいい。
金が必要なら他人を騙せばいい。
金なんてその気になればいくらでも集められるんだから、そんなことに労力を費やしたくなかったしちょうど良かった。
「ああ、そうだ。あの女はまだ来てねぇの?」
「今夜は来られないそうだ。『学生が忙しいってのはよく知ってんでしょ』だと」
「え、じゃあオレと主だけ? 特に報告することないんだけど、もう終わり?」
「そうだな。お前が無事に使用人になれたことも確認できたし、要件はもう終わりだな」
「えぇ、じゃあ主はオレだけのためにわざわざ王都まで来てくれたの? やっさし~」
「そんなわけあるか、ついでだ。私も一応まだ貴族なんでな。社交っていう家督を継いだものとしても責務があるんだよ」
「あはは、大変だあ。オレみたいに平民になればいいのに」
元は貴族だったけど、今のオレは平民。
あの女はオレが平民になるって知ったとき「馬っ鹿じゃないの?」と奇特なものを見る目を向けてきたけど、オレにとって自由な分、貴族より平民の方が良いんだよね。
気付けば、主がオレの顔をじっと見つめていた。
「……お前、どうして名前を捨てた」
「え、名前ならあるけど」
「どうして籍を抜けるときに、名前じゃなく姓を名前にして残したんだと聞いてるんだ」
ああ、なるほど。
「だって籍を外れるってことは、オレはもう分家じゃないってことになるでしょ」
「まあ、系譜ではそうなるな」
「そんなの嫌じゃん」
オレはこのネジが吹っ飛んでる主を間近で見ていたいんだ。
普通に生きるより、絶対に楽しい。
「せめて名前でだけでも主と繋がってたかったんだよ――分家の『エノリア』として。そのためだったら、ドロワなんて名前なんて必要ないんだ」
主はふっと鼻で笑っていた。
でも少し機嫌が良くなったようだ。口端が薄らと上がっている。
「エノリア子爵も、こんな息子をもってさぞ頭が痛かろうな」
「関係ないよ。オレも親父も個人主義だし。本家に尽くせるのなら何だって良いんだよ。それに、それだったら先代から追い落とした主だってそうじゃん」
「元は同じ血なだけあって、私もお前達も似たもの同士というわけか」
分かってるのかな。
どれだけオレがその言葉を嬉しく思ってるのか。
「オレは、王家の血を引くより主と同じ血を引いてる方がずっと嬉しいよ」
今度ははっきりと笑ったのが見えた。
「残念ながら、お前の主はそんなに寡欲ではなくてな。私は王家の血も欲しい。正統な王家の血が……」
主の唇が「スフィア」と呟いた。
「主が欲しいものは全部、オレが手に入れてきてあげるよ」
どんなことをしたら、あの女の子は堕ちてきてくれるだろうか。
「待っててね、スフィアちゃん」




