◆グレイ
許嫁という関係性を手放したのは自分の意思だ。
元より、彼女が許嫁を認めていなかったのだし、手放したとしてもさして変化はない。
ただ、親からの強制力が薄くなったということくらいか。
「あとは、俺が対外的にスフィアを手元に留めておく理由がなくなったことか……」
今、彼女は別の男の女になっている。
しかし、アルザスでの一件を見ても、二人に恋人特有の甘い雰囲気は感じられなかった。恐らく、アントーニオ公爵の令息と俺の立場は大して変わらないのだろう。
「スフィアのことだ。何か条件をつけて付き合っているんだろうな」
公爵家の令息という立場は、貴族界隈の中でも中々に使えるだろう。
奔放に見えて打算的な彼女は、自分を安売りなどしない。
「ということは、俺はまだ彼女の価値に見合ってないって思われてるのかな」
そんなことはない、とはっきりと否定できないのが辛いところだ。
俺より幼いのに、俺よりも、いや、下手をすると兄たちよりも達観しているスフィア。
彼女については分からないことの方が多い。
特にその思考については。
男達を袖にし続けるのは何のためか。
ライノフ家に手を出した理由は。
最近では、情報省がセヴィオの不正を暴いたいうが、裏にスフィアらしき影があった。
「彼女は一体何がしたいんだ……」
彼女がいとこのアルティナに好意を寄せていることは知っている。
しかし、どうもただの好意とも違う。
自分がアルティナとくっつきたいのかと思えば、俺とアルティナをくっつけようとするし、何ならアルティナが誰かに恋をしているのを良しとしている節もある。
「本当、スフィアにだけは常識が通じないよな……ははっ」
だが、そこが目を離させてくれない理由でもある。
次は何をするのか。何をしてくれるのか。
彼女の動きが耳に入ってくるたびに、少しわくわくしている自分がいた。
もしかして、恋ではなく執着なのかもしれない。
いや、執着よりももっと別な感情に置き換わっているのかもしれない。自分の中ではもうスフィアを想うのが当たり前すぎて、感情の名が行方不明になっている。
彼女との距離は遠い。
年も離れているし、同じ学院に通っているわけでもないし、彼女から王宮を訪ねてきてくれるわけでもない。
だが、昔より焦燥はなくなっていた。
「……やっぱり、あの話を知ってからだよな」
スフィアの生まれた理由。
きっと兄が言ったように、理由はそれ――王家へ血を戻すため――だけで生まれたわけではないのだろう。
しかし、俺を許嫁にしたことといい、全くのゼロというわけでもないと思う。
別に、憐れな生まれだ、と同情から彼女を解放したわけではない。
そんな感情を彼女に抱くのはおこがましすぎる。
ただ、彼女がもしこのことで苦しむことがあったら、その時は俺が手を差し伸べたいと思ったんだ。
だが、どんなに助けたく支えたく思っても、『そういう理由の許嫁』という枷がついた手では、彼女は握れないだろう。
手を取ったら最後。
血のための許嫁と認め、苦しみに骨を埋めるようなものだ。
それでは駄目なんだ。
それではスフィアは一生『自分は血のために生まれた』と思ってしまう。たとえ、俺がそんなじゃないと言っても、彼女の疑念は消えないだろう。
だから、俺はただの一人の男に戻りたかった。
手を差し出すとき、彼女が望むのなら俺は継承権を捨ててもいいと思っている。
これは誰にも言っていない。
昔は、王妃として彼女を迎えたいと思っていた。
だが、もし王家に入ることで彼女の心に疑念が残ってしまうのなら、俺が王家を捨てる。
「もう……きっと俺は彼女を手放せないんだろうな」
王位は……まあ、グライド兄上もいるし大丈夫だろう。
元々直系でないのなら、今更正妃だろうが側妃だろうがどっちでも大差ない。
執事からはよく「よくそこまでされて諦めませんね」と嘆息されることもある。
「諦めるとかの次元じゃないんだよなあ……」
自分でも時々、自分は馬鹿かと思うことがある。
元々諦めが悪い性分ということも手伝っているんだろうな。
「でも、好きに理由なんてないんだよ。好きだから好きで、ずっと見ていたいから隣にいてほしいだけなんだから」
彼女の隣に立つにふさわしい男になるために。
彼女が倒れそうなときに、支えとして選んでもらえる男となれるように――。
「まだまだ頑張るしかないよなあ……」
はたして俺は死ぬまでにスフィアと結婚できるのか……。
いや、彼女の場合、本当に一生片想いもあり得るから怖いんだよ。
「クソッ……アルティナの兄に生まれたかった……」
アルティナをずっと傍で見てられるぞ、と言えば一発でオッケーしてもらえそうだ。本気で。
「ははっ! しょうもなっ」
しょうもない。が、そんな馬鹿みたいなことを考えるのもまた楽しい。
ただの令嬢では味わえない様々な感情を味わわせてくれる彼女は、刺激的な存在だ。
一度味わえば忘れられぬほどに。
「――それで、グレイ様。本日は一体どのような理由で私は呼び出されたわけでしょうか?」
「やあ、スフィア! 嬉しいよ、俺の招待を受けてくれるなんて」
「グ・レ・イ・様ッ! あれは招待とは言いません! わざわざ『アルティナに関係することで頼みたいことがある』と書かれて……私がその名を出されたら断れないのはご存じですよね!? 脅迫です!」
「まあまあ落ち着いて。お茶でも飲んで」
もう、と怒りながらも素直にソファに腰を下ろしてくれるのは、昔から比べたら随分進歩したと思う。
昔なら『まず用件を手紙で言ってください』といって、接近する隙すら与えてくれなかった。
よく頑張ったよ、俺。
「それで、アルティナお姉様に関係する話ってなんですか?」
「スフィア……アルティナにアルザスのお土産を渡したよな……」
「ええ、アルザスの砂と貝で置物を――ッハ! やはりお気に召さなかったとか……!?」
「俺もほしい」
「はぁ?」
「あれ、俺にも作ってほしい」
「はぁぁぁん!?」
首を限界まで曲げている。ほぼ直角。よくそこまで曲がるな。曲がってても可愛いが。
「――っまさか、お姉様に関することって……!!」
「そう、これ」
「~~ッ! グレイ様ァァァァ!!!!」
「はははははっ!」
きっと扉の外では、執事がまた嘆息していることだろう。
だが俺は、「お戯れを」などと玲瓏な声で言われたあの時や、「デートですよ」と腕を組まれ虫払いにカモられていたあの頃より、鬼のような形相で首に手をかけられている今の方がずっといい。
気付いているかな、スフィア。
君が俺から逃げなくなったことに。
願わくは、俺が手を伸ばしても逃げないでいてくれることを。
と、感傷に浸っている暇はないかな。
それよりも――。
レイランド家の血の秘密が漏れているという。
それはレイランド家というより、スフィアに危機が迫り来る可能性があるということ。
このような特殊な秘事を知っている者達が『普通』であるはずがない。
「大丈夫だ、スフィア。君だけにこれ以上背負わせはしないよ」




