◆ロクシアンとベレッタ
僕は十歳のとき、黒猫を拾った。
朝、何気なく窓辺から外を見れば、ずぶ濡れの黒猫が家の前で寝ていたんだ。
飢えで倒れるほど貧しい者がいるのは知っていた。
しかし、それをまさか自分の家の前で見るとは思ってもいなかった。
急いで駆け付ければまだ息はあって、僕は黒猫を屋敷に運び入れたんだ。
黒猫は『ベレッタ』と名乗った。
僕は、きっと彼女はお腹をすかせて倒れていたのだろうと思って、スープを出したんだけど、そこで彼女のちぐはぐさに気づいた。
彼女のテーブルマナーは完璧だった。
ずぶ濡れのローブを纏い、大きくウェーブしている髪は肌にまとわりついている。スプーンを持つ手にはところどころ血が滲んでいる。
なのに、彼女にはちっとも卑しいところはなく、むしろ静謐な高貴さがあった。
僕の、面白いものに目がないという悪癖が疼いた。
真夜中を思わせる真っ黒な髪に、月のような金の瞳が褐色の肌に浮かんでいる。
確か、南の国には褐色肌の人が多いと聞いたことがある。
であれば、隣国の貴族がやってきて迷子になったのか。それとも、何かしらから逃げてきたのか。
風呂に入れようとローブを預かれば、控え目だが仕立ての良いワンピースが現れた。
やはり、ただの民ではない。
僕と同じだ。
「ねえ、ベレッタ。どうしてあんなところで寝てたんだい?」
彼女の髪をタオルで乾かしながら尋ねてみる。
寝てたっていうのは、僕なりの配慮だ。貴族だとするなら、行き倒れなんて言われたくないだろうからね。
だけど、この黒猫は僕の予想の上をいく。
「あら、随分と気の回るお坊ちゃまだこと」
気遣いを見透かされ、形の良い唇を引いてクスと笑われれば、こちらの方が恥ずかしくなるというもの。僕の幼稚な貴族たるものという思考など、彼女の前ではただの背伸びでしかないと思い知る。
「ああ、ごめんね。そんな顔しないでよ、褒めたつもりなんだ」
振り向いたベレッタが、俯いていた僕の前髪をくしゃりと優しく撫でてくれた。
「あたしにも君みたいな弟がいるから、つい、ひねた口をきいちゃったんだ」
ごめんよ、とベレッタはもう一度謝ってくれた。
「……もしかして、あの子があたしの手を取らなかったのも、本当はこんな姉に嫌気がさしてたからかもしれないね」
強気な金の瞳に寂しさが映り込んだ。
すっかり髪も身体も乾いたっていうのに、まだ雨に打たれているように見えた。
気がついたら、僕は自分より大きな身体のベレッタを抱きしめていた。
「違うよ、ベレッタ! 僕はベレッタの言葉を嫌だとは思ってないよ。ただ、自分の幼さを思い知らされてちょっと……恥ずかしく思っただけだから。だから、ベレッタは気にしないで」
ベレッタは一瞬驚いたように目を瞠った後、嬉しそうに、でもちょっとだけ悲しそうに目を細めて「ありがとう」と呟いた。
「皆、君みたいな貴族だったら良いのにね」
何となく、彼女の言わんとしていることは分かった。
「ま、僕の家は子爵だし、権力闘争なんかとは縁遠いからね」
「本当……十歳とは思えない賢さだね」
ベレッタは苦笑交じりに嘆息していた。
「あたしの弟も、君みたいに賢さを上手く生かしてくれたらいいんだけどね」
「どんな子なの?」
「君よりうんと幼い……まだ五歳の弟さ。あまり感情は表に出さないけど、その分よく人を見てる」
「へえ、賢そうだね」
ベレッタは瞼で頷いた。
「幼い弟だけが、あたしのよりどころだったんだ。あの子だけがあたしを必要としてくれた。あの子だけが、あたしに笑いかけてくれたんだよ。無償の愛ってのを初めて実感したね」
遠くを見るような目には今、その幼い弟が映っているのだろう。
眼差しの温かさから、彼女がどれだけ弟を大切に思っているか伝わってくる。
「あたし、貴族が嫌いなんだ」
唐突に告げられた言葉。
貴族である自分を前にして言う言葉じゃないようにも思えたが、嫌な気持ちは全くしなかった。
彼女の言う『貴族』というものが、ひどく限定的なものに思えたから。
少なくとも、僕やこの家、彼女の弟に向けて『嫌い』と言われたものではない。
「貴族が嫌いだから、ベレッタは家を出たんだね」
「そんな上等なものじゃないよ。あたしは結局、どうにもいかなくなって逃げ出した口だからさ」
自嘲のセリフだったが、彼女の瞳に卑屈さはない。
とことん猫のような人だと思う。
彼女は逃げ出したって言ったけど、それは単に彼女にはその家が狭すぎただけだろう。気に入らなければふらっと姿をくらまし、自分に心地良いところを自分で探す。
僕には、彼女の生き方がまぶしく思えた。
僕には絶対できない生き方だ。
「でも、いつか必ずあの子を迎えに行くよ、あたしは。あの家から出すために」
彼女の身に、家に、何があったのか知らない。
知らなくても良いと思う。
多少ミステリアスなくらいが、彼女にはふさわしい。
夜を身に纏った、匂い立つような黒猫。
「さて、それじゃああたしは行こうかな。食事とお湯まで借りて悪いけど、今のあたしには返せるものがなくて、ごめんね」
「大丈夫、今から返してもらうから」
「は?」
僕の言葉に、ベレッタは目も口も丸く開けて呆けた顔をする。
「ベレッタは弟を『いつか』迎えに行くって言ったよね。それって今じゃまだ準備不足ってことでしょ? だったら、この家にいて準備を進めればいい。そのついでで良いから、僕にはベレッタの得たものを教えてよ」
「え、ちょ……はあ!?」
「つまり僕の先生になってってこと」
「それ、お坊ちゃまには良いことなんて何もないじゃないの!?」
「そんなことないよ」
そんじょそこらの家庭教師なんかより、彼女から教わるものの方が刺激的でさぞ面白そうだ。
両親を丸め込む自信ならある。口のうまさには自他共に定評があるからね。
「それに貴族の中で得られる情報ってのも大事だと思うよ」
これにはベレッタも唸っていた。
「ベレッタ、何事も足場の安定は大切だよ」
「~~っ本当、君って十歳なの!?」
「僕の家の前で倒れたのが運の尽きだね」
ベレッタは貴族に必要なことなんか教えられないとかなんとか、しばらくぶつくさ言っていたけど、貴族らしさなんて必要ない。
「僕の人生が面白くなるんだったら、何でも大歓迎だよ」
外に出ては様々な知識や技術を持って帰ってきたベレッタの教育によって、ロクシアンは子爵家でありながら貴幼院の生徒会に名を連ねるほどまでに成長した。
ただ、女遊びまでそつなくこなせるようになってしまった、という弊害も発生してしまった。




