27.あの日からはじまった
『許嫁ができた』と父であるヘイレンから聞かされたのは、グレイが十歳の時だった。
相手の令嬢はまだ五歳だという。
いずれは王位を継がなければならないと、この間聞かされたばかりで今度は許嫁までもかと、グレイはウンザリとして聞いていた。王子に生まれてしまったばかりに、こんなにも自分の人生の自由がないのかと、既に十歳にしてグレイは半ば人生を諦めていた。確かに王子として良い暮らしはできる。ただ、良い暮らしと不自由さを天秤にかけて、ほんの少し不自由さの方が荷が重かった。
「しかも相手の令嬢がレイランド侯爵家とは。完全に父上の自己満足じゃないか」
二人の仲の良さは知っていた。侯爵の令息であるジークハルトという、中身が読めない男も兄のグリーズと仲良くしている。
一家揃って王家と縁を持つとは、それほどに父はレイランド家が好きなのかと思っていた。
「そういえば、父上は侯爵によくご令嬢を連れて来いと言っていたな。まあ、息子ばかりでつまらないんだろうな」
しかし令嬢が生まれてから五年も経つというのに、未だその願いは叶えられていない。「名前は確か……スフィアとか言ったっけ」
どんな子か少しだけ興味が湧いた。
「グライド兄上、ちょっとご一緒していただけませんか」
ちょうど暇を持て余していたグライドを誘い、レイランド領まで密かに訪ねた。
しかし、訪ねた時ちょうど他の来客の姿が見え、連絡なしにきた身としては訪ねるのは憚られた。
「残念だったな、グレイ。日を改めるか、どうせ父上がまた王宮にって誘ってるだろうからその時を待てよ」
「そうですね。でも、せっかくここまで来てこのまま引き返すのももったいないですし、少し屋敷の周辺を散歩してきます」
言うと、グレイは馬車から降り、屋敷の柵沿いに周囲を見て回ることにした。そうして屋敷の裏手に回ったとき、柵の向こう側一面に色とりどりの美しい庭園が現れた。
「バラか。確かアルティナもバラが好きで育てていたんだか」
そんな事を思いながら眺めていると、赤や白の中に鮮やかな青色が閃いた。
「女の子?」
すぐに察した。
「もしかして、あれがスフィアか!」
まさか訪問を断念した後で、目的の少女を目に掛かることができるとは思ってもいなかった。
しかし、彼女は一人ではなかった。同じ年頃の男の子の手を引いてキャッキャしている。
「客人の息子か」
二人共楽しそうに薔薇園の中を駆け回っている。
「やはりまだ子供だな」
あんな幼い少女を許嫁にとは、随分とせっかちなことだ。まだ人格や好みもはっきりとできていない年だろうに。将来の王妃に相応しくない性格だったら、どうするつもりなのだ。王妃という者は、顔が可愛かったから、などという適当な理由で選んでいいものではないというのに。
「……まあ、幼くとも確かに可愛いな」
真っ赤な髪に夏空のような青のワンピース。相反する色が互いに引き立て合っている。
彼女の兄と同じエメラルドの大きな瞳は、まん丸とした大きな目に収まり繊細な美しさが宿る。対して走って血色の良くなった頬が子供らしく、愛らしさもある。
「…………」
思わず彼女の後ろをついて走る少年などより、彼女だけを目で追ってしまう。
「いやいやいやいや、ないないないない」
五つも下の幼女とも言える少女に、一体どんな感想を抱いているのか。
今のは一般的視点からのただの感想で、決して深い意味はない。
グレイは邪念を追い払うように頭を振ると、少女を見る表情を一転させた。
「にしても、彼女も可哀想に。勝手に親に相手を決められて」
見ている様子だと、どうやら少年の方はスフィアの事を気に入っているようだ。ここから見ても分かるくらい、男の子は顔を赤らめている。
「まあなんとも可愛い小さな恋だ」
こうして彼女もこの先色々な男達と出会い、様々な事を経験していくだろう。やはりこんなに早く、許嫁などつくってしまったら可哀想だと思えた。
子供は無邪気に庭先を遊び回っているくらいが、ちょうどいい――
「――んん!?」
グレイは目を擦り、柵に顔を押し付けるようにしてしがみ付く。
「彼女、今何をした!?」
少女のあどけない声が「ジョン」と誰かの名を呼んだ。
次の瞬間、「バウッ!」と元気に吠えながら、大型犬が薔薇園へと突っ込んできたではないか。たちまち少年と大型犬との追いかけっこが始まる。
少年は半べそをかいてスフィアに助けを求めている。しかし彼女は「まあまあ遊んもらって良かったですね、ジョン」とのほほんと笑っている。
あの少年は、自分の身に何が起こっているか分からないだろう。しかし、グレイの位置からはハッキリ見えていた。
スフィアが少年の尻に何かを忍ばせた瞬間を。
「――嫌いです!」と、少年に向かって叫ぶと、彼女は走って屋敷へと戻ってしまった。
気付けば少年は犬にズボンの尻を食い破られ、憐れな格好で延びていた。
「――ふふっ」
少年には悪いがこれは――
「あははははははっ!」
笑わずにいられるものか。こんな事。
少女は少女にして少女にあらず、だった。
「お、いたいた。中々戻ってこないなって思ったら、こんな裏で何してんだ、グレイ」
「あ、兄上」
目尻に滲んだ涙を拭うグレイに、グライドは首を傾けた。
「どうしたんだ。転びでもしたか?」
「ああ、これですか。違いますよ……ただちょっと面白いものが見られて思わず、ね」
「そうか。楽しそうなら何よりだ?」
グライドの首は依然として傾けられたままだったが、適当な相槌は彼らしかった。
「まあ、いいや。これ以上ここにいても仕方ない、そろそろ帰ろうか。彼女に会える機会はまた今度にしてさ」
「それもそうですね。……早く、彼女に会いたいものです」
五歳とは思えない少女。
あんなに無邪気な顔をしておいて、しっかりと少年を追い詰める準備までなされていたとは。
馬車に乗り込んだ直後、ちょうど屋敷から客人が帰るところが見えた。
侯爵の隣で楚々とした笑みを浮かべて見送る彼女は、庭でも一件など幻と思わせるくらいに平然としている。きっとにこやかに客人を見送っている侯爵も、見送られている客人も知らない。彼女が何をやったのか。
「……知らなくていい」
口の中で粒やいて、グレイは馬車窓のカーテンをしめた。
「出してくれ」
グライドの声で、馬車はレイランド家から遠ざかっていく。
ガタガタと揺れる馬車の中、グレイは口元を隠した手の下で密かに笑いを浮かべていた。
見送りの際の彼女の様子を見るに、あの大型犬はイタズラで仕掛けたわけではないのだろう。はっきりとした目的をもっての行動だと思えた。
その目的も理由も分からない。わからないが、そこがまた興味を掻き立てた。
「あれでまだ五歳とは……」
末恐ろしい。
相手に悟られないように行動を成就させる力量。
何食わぬ顔で、普通の令嬢の仮面を被る精神力。
突発的な思いつきではなく、策略を巡らせられる用意周到さと実行力。
実に向いていると思ってしまった。
『王妃』という座に。
お飾りの王妃など元より不要だ。ただ可愛いだけなら、犬や猫と結婚するのも変わりない。ほしいのは、王が間違った道に踏み出そうとしたとき、手綱を握って引き戻せる自我のある王妃。
まあかたかだか五歳の少女に、その能力を垣間見るとは思ってもみなかった。
「成長が楽しみだよ、スフィア」




