26.言えない秘密
グレイも大人しく向かいのソファに座り、執事が用意したミルクティーに口を付ける。
スフィアがカップをソーサーに置いた音に、グレイの肩が跳ねた。
「それでグレイ様。レディの手紙を無視するとは、どういったご了見かお聞かせいただいても?」
「いやぁ、あの、最近仕事が沢山で……その、て、手紙を送ってくれたのかい? あはは、もしかして書類にまぎれちゃったのかもなぁ……なんて」
「…………」
「…………」
不貞を妻に詰められる夫ってこんな気持ちなんだろうな、とグレイは背中に冷や汗を流した。
「……どなたか他に好きな方でもできましたか」
「違うっ!」
グレイは勢いよくテーブルに手をついて身を乗り出した。テーブルの上に置いていたティーセットが、ガチャンと騒がしく揺れる。
向けられたグレイの切羽詰まった表情に、スフィアの方が目を丸めて身体を退いていた。
「あ……っ、すまない……」
気まずそうに視線を落とし、ついでに腰もソファへと下ろしたグレイだったが、今にもその場から逃げたそうに落ち着きなく身体を揺らしている。
スフィアはグレイの様子を観察した。
違うと言った彼の言動は嘘には見えなかった。
あそこまで焦って否定するということは、本当にそれが理由ではないのだろう。
――だったら尚更どうしてよ。
「元より父親同士が勝手に決めたあってないような許嫁関係でしたが、それでも一方的に理由も告げられず関係解消を突き付けられた者の気持ちを、グレイ様は考えたことがありますか?」
「それは、すまないと思っている」
「……それでも理由は話してくださらないんですね」
不服を表情に表わしてみるも、スフィアには到底目の前に座るグレイが口を割ってくれるようには見えなかった。
申し訳なさそうに項垂れているが、その口はしっかりと結ばれている。
そこまでして言えない理由はなんだ。
アルザスで一体彼は何を知ったというのか。
――悶々とはしなくなったけど、これはこれで不愉快だわ。
スフィアはカップに残ったミルクティーを飲み干すと、席を立った。
「許嫁解消は、冗談や一時の感情変化ではないと理解しました。でも理由は言えないということも。でしたら、これからは王子と一令嬢です。節度のある距離感でお願いしますね、殿下」
「違うんだ! 君を怒らせたいわけじゃないんだ。ただ、この理由だけはどうしても言えない。どうか分かってほしい……俺が君を大切に思う気持ちは、少しも変わらないから」
目線を合わせるようにグレイまで立ち上がり、二人してテーブルを挟んで睨み合う。
いや、睨んでいるのは自分だけで、彼の目は切に訴えている。
「理解を求めるのなら、それ相応の説明をしていただきませんと。何も話さずご自分の言葉だけを理解しろとは、随分と虫の良い話ですね!」
「確かにそう聞こえるかもしれない……っ、だけどこれは君の事を思ってであって――」
「私の為と仰りつつ、私の意思を無視するのは矛盾しているのでは!?」
なぜ自分がこれほど激昂しているのか、スフィア自身にも分からなかった。
もしかすると、彼は自分の嫌がることはしないと、心のどこかで無意識に思っていたからかもしれない。
色々と邪険に扱ってきた。しかしそれでも彼は、鷹揚としていつの間にか隣にいるのだ。
――甘えていたんだわ、私も。
彼にノーと突き付けられることはなかった。突き付ける側だったのだから。
しかし今回初めて拒否され、それが存外に心を重くするものだと分かった。
「もう……結構です。元々私は許嫁を認めておりませんでしたし、こうなっても何も不都合はありませんから」
「スフィアッ!」
「――っ!?」
ツイと顔を逸らし部屋を出て行こうとするスフィアを、グレイは腕を伸ばし引き留めた。
後ろから肩をしっかりと抱き締められ、スフィアの足も強制的に止まる。
グレイが引き寄せる力を強めれば、身長差のせいで必然的に彼の唇はスフィアの髪をかすめる。
「俺を恨んでくれてもいい。だが、俺の気持ちだけは疑わないでくれ……っ頼む」
もう一度、「頼む」とグレイは肩を抱く力を強めた。
項垂れ、耳の傍で呟く彼の声は熱い。
「意味が……分からないですよ……」
「分からなくて良い。君には……君だけには知られたくないんだ」
隠されると気になるのが人の性なのだが、しかし恨んでもいいと言ってまで苦しそうに拒否する姿を見ると、無理矢理暴こうという気も萎んでしまった。
それに、彼の様子を見れば、悪意ある隠し事とは思えなかった。
一応彼も王子なのだし、何かしら権力者特有のしがらみでもあるのかもしれない。
頭に上っていた血もさがり、次第にスフィアの思考も冷静さを取り戻す。
「俺の気持ちは昔とちっとも変わってないから。君が初めて王宮に来た日、談話室で俺が君に言った言葉を覚えているか――許嫁じゃなく俺の本当の恋人になってもらう、と言った俺の宣言を」
「ええ、覚えてますわ」
絶対になるものかと心の中で誓った覚えがある。
「同じだ。許嫁でなくなっても俺は君が好きだ。君を恋人にすることも諦めてない」
「私にはガルツがいますのに?」
グレイの抱き締める手に、さらに力が籠もった。
「それでもだ。先の事は誰にも分からない。俺は、君が苦しい選択を迫られたとき、君の逃げ場になりたいんだ。それは許嫁なんて誰かが決めた関係だからじゃなくて、俺の意思で手を差し出し、君の意思で俺の手を取れる関係でありたいと思っている」
「ふぅ」とスフィアは細長い息を吐くと、肩口に巻き付いたグレイの腕を外す。思いの外軽い力でも離れたのは、きっともう逃げないと分かっていたからなのだろう。
そして、やはりスフィアは逃げずグレイと向き合った。
「グレイ様は、どうして私の事が好きなのです」
「え゛っ!」
「許嫁だったことを除いても、最初から異常なほど好意を寄せてくださってましたよね?」
あの時は、攻略キャラだから最初から好意を持たれているのだろうくらいにしか思っていなかった。他に理由があっても、一目惚れだろうとしか。
しかし、それにしては執着が過ぎる。
普通の攻略キャラならば、とっくに折れているだろう程の辛辣さを向けても、彼は依然として好きだと言った。
この世界で長らく生きてきた身として、何となくその違いは分かってきた。
グレイの好意は、ガルツと同じように予定調和以外のなにかで発生したものなのだ。フラグどうこうというものでは最早ない。
――って事は、彼のメンタルの強さは、人気キャラゆえじゃなく地なのね。
とても恐ろしいメンタル強度だ。
「グレイ様はきっと当時もさぞおモテになったでしょう? なのにどうして、まだあの時十歳にも満たない私を好きになったのです? やはり幼女趣味なんですね」
「待て待て待て! 勝手に答えを出さないでくれ!」
「幼女趣味でしたら、そろそろ私は対象外になりますし……あっ、なるほど! だから許嫁解消なんて言いだしたんですね!」
「~~っ君、相当怒ってるだろ!?」
「ええ! だって結局は、何も教えないって言われたようなものですから」
スフィアはグレイの胸を邪魔だというように押すと、ソファに戻った。
「何か海より深い事情がお有りなので、許嫁解消については目を瞑りましょう」
明らかにグレイは安堵に表情を緩めていた。
しかしスフィアの「ただし」という言葉で、口がキュッと結ばれる。
「グレイ様が私をいつ、どこで、どうして好きになったのかは吐いてもらいますからね」
「恋愛話なのに、取り調べみたいな雰囲気を出さないでくれ」
「不必要な発言を許した覚えはありませんよ」
「君、判事が向いてるよ」
再び二人はソファで向かい合う事になった。
「俺がスフィア初めて見たのは、君がまだ五つの時だ」
グレイは過去を語りはじめた。




