23.ツルツルの床で開脚すると戻らない
図書館はまさに圧巻の一言だった。
荘厳な入り口の扉が開かれると、天井までぎっしりと並んだ本がスフィア達を出迎える。フロアは中央吹き抜けの二階建てになっており、上にも下にも本と人の気配があり、図書館だというのに静かな賑わいあった。
「凄い本の数。まるでこの国全ての蔵書がありそうですね」
「はは! さすがにそこまでじゃないけど、でも確かに貴幼院とは比べ物にならないくらいはあるよね。この図書館にしかない本もあるし」
図書館では普通の声の大きさでも響いてしまう。
必然的に二人の声は秘やかになり、互いの声に耳を傾けるときは距離が近くなる。
「そんな珍しい本もあるんですか! ぜひ見たいです」
自分より背の高いアイザックに耳打ちするため、爪先立ちをするスフィア。
年下であることを存分に感じさせる愛らしい行動に、アイザックは耳を近付け「仰せのままに」と冗談めかした言葉と一緒に笑った。
「それではお姫様、書架の迷路に閉じ込められませんよう、どうぞわたくしの手をお取りくださいませ」
「ふふ、お願いしますわ」
ただ優しいだけでなく、こういったクスリとするユーモアもあるのだから、きっとアルティナ以外にも彼に好意を寄せている女性は多いのだろう。
実際、一緒に歩いているとチラチラと女子の視線を感じたし、彼の名を呼ぶ猫のような甘い声も聞こえた。
その度に一人一人の名を呼んで笑顔で挨拶を返す彼は、やはり紳士的でとても優しい。
静かな空間を奥へ奥へと進んでいく。
奥へ行くほど触られることが少ない本になるのか、次第に人気が背後へと遠ざかる。
得も言われぬ空気。どこかソワソワと握られた手が落ち着かない。目的の書架に到着しても、本を手に取って読んでも、むず痒い空気が纏わり付く。
「あ、あの……スフィアじょ――!?」
本を興味深そうに捲っているスフィアに声を掛けようとした瞬間、アイザックは瞠目し、スフィアの身体を覆い被さるようにして抱き締めた。
「スフィア嬢!」
「きゃっ!」
スフィアが驚きの悲鳴を上げると同時に、アイザックの背中にはバサバサバサと本が降ってくる。
「アイザック様!?」
「ふぅ……間一髪だったね」
上を見上げれば、誰かが片付け忘れたのか、二階の手すり付近に本がいくつか残っていた。
「大方、あそこに詰んであった本が崩れてきたんだろう。……大丈夫だったかい、スフィア嬢」
「わ、私は大丈夫です! それよりアイザック様の方が!?」
「ああ、大丈夫。軽い本ばっかりだったからそんなにダメージはないよ」
何でもないと制服についた埃を払うアイザックの胸に、スフィアは飛び込んだ。
「……アイザック様って本当にお優しいですね。実は私、学院ではいつも一人で……親しいお友達ができても、いつの間にか皆さん私から距離を置くんです」
「そういえば、リシュリー嬢も……」
ハッとしてアイザックは口を噤んだ。
もしかすると、仲良しに見えて二人の間には何かあるのかもしれない。いやしかし、スフィアはリシュリーは単に一人が好きと言っていた。変に勘ぐっては失礼だろう。
アイザックは脳裏に過ってしまった雑念を追い払うように頭を振ると、胸に縋りつくようにして小さくなっているスフィアの肩を抱いた。
「可哀想に……大丈夫だよ、スフィア嬢。僕が一緒にいるから」
「優しすぎますアイザック様……っ」
静かな空間の中では、互いの心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
すると再びバサバサと本が降ってきた。二人はビクッと肩を揺らし慌てて身体を離す。
どうやら、辛うじて二階の手すりに引っ掛かっていた本が落ちてきたようだ。
「さ、さあ……! そろそろ他の施設も見に行こうか! また本が降ってきたら危ないからね」
「そそそそうですわね!」
そうして次なる見学場へと二人は向かう。
図書館を出て行く時、最後に振り返ってアイザックは思った。
いつもはしっかりと手入れが行き届いている図書館。なのに、なぜあんな奥まった二階に本が残っていたのだろうかと。
「……変な事もあるもんだ」
しかし、変な事はこれだけで終わらなかった。
歩いていると突然、空からバケツをひっくり返したような雨が降ってくるし、温室に行けばツルに足を絡め取られる。
実験棟の横を通り過ぎれば実験の失敗だろう爆発に巻き込まれるし、舞踏室に行けばホールに踏み入った瞬間、足を滑らせ転倒した。
その度にアイザックはスフィアを助けてずぶ濡れになり、額にたんこぶを作り、全身煤塗れになり、股は裂けた。
学院内を回りきる頃には、アイザックは戦場帰りかと思うほどに満身創痍だった。
「だ、大丈夫ですか……アイザック様……」
アイザックのあまりのボロボロ具合に、スフィアの声も同情が混じる。
「あ……ぁあ、だ、大丈、夫……さぁ……」
全然大丈夫そうに見えない。
「それよりほら、あの木々の奥が剣闘場だよ」
二人は最後の施設、剣闘場へと向かっていた。
紅葉の壁と絨毯の奥に、チラチラと石造りの開けた場所が見える。
「剣闘場だけ奥まった場所にあるんですね」
「やっぱり武器を使うし危ないからね。周囲に植えたこの木々で、はっきりと他の場所と区別してあるんダバ――ッ!」
「アイザック様!?」
木々の中にある剣闘場への道を通っていたら、突如アイザックの頭の上にドサッと木の枝が落ちてきた。
「……今度はなんだい」
げっそりとした顔で頭の上を手で確認するアイザック。
「ピーッ!」
「あいた――っ!?」
小さな嘴がアイザックの手を突いていた。よく見れば、落ちてきたのは木の枝ではなく、木の枝で作られた鳥の巣である。
頭の上でピーチクパーチク鳴く雛。そこへ我が子の悲鳴を聞いた親鳥が、嘴を尖らせて滑空してくる。
「うわわわわわ!? 違っ、違う! 君の子供を狙ったんじゃ――っ!?」
親鳥は「ピィッ!」「ピギョッ!」「ピシャァァァ!」と絶叫しながら、逃げるアイザックを追いかけていた。繰り出される嘴は槍術師範の如き鋭さ。
『まあ、剣闘場では周囲の鳥まで武術に優れているのですね』などと言っている場合ではない。
スフィアはアイザックの頭から巣をおろし、手近な木の上へと返し叫ぶ。
「鳥さーん、子供達も無事ですよー。わざとじゃないので許してくださいませー」
言葉が通じたのかは分からないが、それで鳥はアイザックから離れた。最後に尻を一突きして。
「た、助かったよ……スフィア……ッ嬢」
身体だけでなく声もヨボヨボである。
アイザックはほうほうの体で木の幹に背を預けた。満身創痍を通り越して、死地に踏み込みかけていやしないか。
「アイザック様、すみません……」
「あはは……どうして君が謝るんだい。君のせいじゃ――」
「私のせいですっ!」
声を荒げたスフィアに、アイザックは目を瞬かせた。
「アイザック様……やはり黙っているのは心苦しいです……っ」
「心苦しいって……一体……」
「私、実は……」




