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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第5章 同盟
97/354

提案

昨日は一日お休みしてしまいました、すいません。

またまた書き直していると0時更新どころか1時更新にも間に合わず、結局お休みしてしまいました。

その分長文になりましたので、2話分と思って頂ければ幸いです。

 地峡に向って移動するハサール人のただ中にあって、ニルファルはイゾルテに誘われて移動指揮車(自称)に乗り込んでいた。

「ふふふっ、今日は借りてきた猫のように大人しいな、ファル」

言葉に詰まることもなく言い切ったイゾルテは、いつになく自信ありげで余裕がありそうだった。その一方でニルファルは心臓がドキドキと激しく脈打ち、身体もふらついて、彼女の腕にすがりついていた。

「だ、だって……だって……こんなの初めてなんだ! ああ、イゾルテ、そんなに激しく動かないで! そんなに激しく動かれたら、私は……私は……どうにかなってしまう!」

感極まった()の渋い声に、イゾルテはどん引きしていた。

「……と言っています」

「そ、そうか、通訳ご苦労。でも、感情は込めなくていいからな」

「畏まりました」

そう言って頭を下げたのは、地峡に置いてきたはずの通訳のおっさんだった。


 ハサール人の宿営地と地峡の間は300ミルム{300km}ほどの距離があったのだが、実はイゾルテは毎晩こそこそと連絡を取り合っていた。お互いの方向が分かっていたので、双方の遠くと話す箱{無線機}に穴の開いたお皿{パラボラアンテナ、というかパラボラ反射鏡}を装着することで有効距離を約4倍まで伸ばしたのである。そして、ようやく捕虜の尋問と重症の捕虜の引き渡しが一段落したというので、込み入った話をするために通訳を寄越すように命じたのだ。そして新たなキメイラ小隊に護衛された彼が一行に合流すると、彼は待ちに待った情報も伝えてくれたのだ。バネィティアと政変が起こったことと、その後にのこのこのと前元首がやって来てすごすごと帰って行ったことである。そう、バネィティア船団はプレセンティナ艦隊が出港するのを待っている間に、政変を知らせる船にすら追い抜かれていたのである。本人が知ったらあまりの間抜けさに自ら穴を掘って入りたい気分だろうが、まあとにかく、イゾルテは交渉の材料が揃ったと見てニルファルを移動指揮車(自称)に招き入れたのだ。


 移動する車内という場所は、これから話す内容とも関わっていて、この重要な交渉に相応しい場所だ……と思っていたのだが、どうもニルファルは馬車が――というか床が動くことが物凄く苦手のようだった。彼女はこれまでも移動指揮車(自称)に散々出入りしていたし、中で一晩過ごした(しかもぐっすり熟睡していた)ことすらあったのに、動き出した途端に腰が引けてガクブル状態になってしまったのである。

「私に動くなと言われても困るよ、御者は壁の向こうに乗ってるんだし。それに街道でもない草原を走ってるんだから、揺れて当然だよ」

「だから! 草原に馬車なんか要らないんだ! というか、すぐ壊れちゃって使い物にならないんだ! と言っています」

「でも、こいつもキメイラも壊れてないだろう?」

「そ、そうだけど……と言っています」

「それに揺れだって、馬に比べれば大したことないよ?」

「あれは馬が揺れてるだけだ! 大地は揺れたりしない! と言っています」

「これだって馬車が揺れてるだけで大地が揺れてる訳じゃないよ?」

「でもでも! 私は足元が揺れるのなんて初めてなんだ! と言っています」

ハサール人は基本的に馬車の類を使わないのだ。何故なら馬車が草原の移動に耐えないから。スラム人を奴隷にしないのと同じ、どこまでも合理的な理由である。


 泣きそうなニルファルが可愛そうになって、イゾルテは彼女の手を引いてソファーに連れて行って座らせた。するとニルファルは腰を下ろした途端に落ち着きを取り戻した。

「あれ? 全然怖くないぞ? そうか、馬と比べるからいけないんだ。象と比べれば全然マシだな! と言っています」

彼女は両足で馬体を挟み込むことでどんな姿勢でも落馬しない自信があったのだが、馬車ではそれが出来ないから不安だったのだ。縋り付いたのがイゾルテだというのもいけなかった。軽い上に非力なので、ふらふら揺れて全然安定しなかったのだ。(と言われても、主に彼女を揺らしたのは、ガクブルしながら縋りついたニルファルなんだけど) だが一旦腰を下ろしてしまえば、その揺れはどちらかというと象の輿に乗っているような感覚に近かった。そして落ち着いて周囲を見回してみれば、確かに揺れは大きくなかった。文机は(固定されているかもしれないから)ともかく、その椅子すらも動いてはいなかったし、ソファーの前のテーブル(ちなみに折りたたみ)には大きい木製のティーカップ{マグカップ}が置かれていたが、倒れる気配もなかった。その中に入ったお茶も、波立ってはいるもののこぼれる気配はなさそうであった。象に乗っていた時にはカップなどもっての外で、革袋から直接飲むしかなかったのだから大違いである。もっとも、彼女とエフメトはその揺れを言い訳にしていちゃいちゃしていた訳だが。

 だがイゾルテは彼女の言葉を聞いてひそかに驚愕していた。

――象、だと!? スラム人からは大型の動物が居たとしか聞いていなかったが、まさか象だったとは! しかもファルがそれに乗ったということは、荷運び用ではなく、輿に人が乗り込む戦象部隊ということか……!

彼女は遠目でしか象を見たことがなかった。しかもそれは子供の頃のことである。11年前の籠城戦の折に、包囲するドルク軍にいた戦象を贈り物の望遠鏡{双眼鏡}で見たのが最初で最後なのだ。だからその大きさは図鑑に描かれた情報でしか分からなかった。

――なんてことだ、全長30mの巨獣が出てきては、キメイラなんて踏み潰されてしまう! 太刀打ち出来ないぞ……!

……この当時の図鑑なんて嘘っぱちばっかりなのだ。度々(たびたび)兵器として使われているのに……。まあ、普段は50cmくらいのイカやタコを見かけていても、どこかに100mクラスのが居るのだと思うようなものかもしれない。だがイゾルテが読んだのは図鑑だけではなかった。

――いや、古ヘメタルのスキピア将軍はザマアの戦いで戦象の突撃をいなした(注1)という。それに火炎壺と火炎樽を使えば進路を逸らすことは可能なはずだ。そう、分かっていれば対処は可能だ! 

つまり、この場で戦象部隊の存在を知ったことは僥倖とすべきだった。

――今の私はリーヴィア義母上の娘、つまりスキピア・アフルークヌスの子孫みたいなものだ。だから戦象など……デキムスに戦わせよう! 私は後方で見守ることにして!

彼女はほうっと溜息をつくと落ち着きを取り戻した。


 ニルファルはそんなイゾルテの動揺にも気付かず、腕を組んで考え込んでいた。

「おかしいぞ。スラム人やドルク軍の馬車はガタガタ凄い音を立てていたのに……と言っています」

イゾルテは自慢げに胸を張った。

「キメイラとこの移動指揮車(自称)は、不整地――草原を走るために作ったんだ。普通の馬車なら、いまごろお茶は全部(こぼ)れているよ」

ニルファルの見た馬車は荷運び用の物だろうし、ハサールと旧アルテムス領内の街道(旧へメタル街道を除く)は整備が行き届いていないから、普通よりもガタゴトと五月蝿いだろう。だから、例えばドルクの帝都を走る人間用の馬車はもうちょっとマシなはずだった。少なくとも、椅子にクッションくらいはついてるだろう。だが、コルク製柔軟車輪(砕いたコルクを袋詰めしたタイヤもどき)が普及しているプレセンティナの人間用の馬車はそれより遥かに振動が少ないし、贈り物の二輪荷車{自転車}の仕組みを再現したアームとバネの構造{独立懸架サスペンション}を用いたキメイラと移動指揮車(自称)に至っては、(はな)から不整地(ダート)を走行することを想定しているのだ。多少のギャップなど板バネとコルク製柔軟車輪が衝撃を吸収してしまうので、乗り心地も良ければ車体に対するダメージも少ないのだ。戦闘用に頑丈に作っていることもあって、おいそれと壊れるものではない。


 イゾルテは静かに語りだした。

「かつてへメタルは、国中に都市を作り、石造りの街道と橋と水道を作った」

「イゾルテ、突然どうしたんだ? と言っています」

「まあまあ、ひとまず聞いてよ。へメタルが滅びて500年以上経つ今でも、陸上輸送の中心はへメタル街道だ。その後に興った小さな国々では、せいぜいレンガ造りの街道が精一杯だったんだ。しかも、それすら整備が行き届かないからすぐにボロボロになってしまう。もちろんそんなのでも無いよりマシなんだけど、国境を越えるような街道は誰も作らなかった。いや、作れなかったというべきかな、他国に攻められては困るから」

ニルファルは首を捻った。

「別に、街道なんか通らなくても攻め込めるぞ? と言っています」

草原を行き来するハサール人にとっては街道などランドマークでしかなかった。いちいち街道沿いに移動していたら、街道脇だけ(家畜が食べて)草が無くなってしまうではないか。

「ああ、そうだ。ハサール人にはそれが出来る。タイトン人やドルク人にも攻めこむことだけは出来るが、補給線を維持できないんだ。例え都市を陥落させても、街道が繋がっていなければ長くは維持できないだろう。いや、維持する意味が無いと言うべきかな」

「そういうものなのか? と言っています」

都市経営に全く関心のないニルファルは、不思議そうに首をかしげるばかりだった。

「都市は、商業と工業のためにあるんだ。商売をする相手も、材料を売ってくれる相手も居なければ立ち腐れになる」

「まあ、それは分かるけど……。でも、それとハサールにどんな関係があるんだ? と言っています」

「ハサールなら、街道を通らずに物を運べるだろう?」

ニルファルはすっと目を細めた。ようやくイゾルテが要求らしい要求を突きつけてきたと思ったのだ。

「それはそうだが……どれくらい運ぶんだ? と言っています」

「そうだなぁ、仮に10万人が住んでるとして、その食料が年間……15,000トンくらい(注2)かな?」

「い、いちまんごせん……とん!? と言っています」

ニルファルは目を剥いた。馬に荷を背負わせるとしても、せいぜい100kg程度――武装して多少の荷物を背負った人間がそれくらいの重さだからだ。つまち15万頭の馬が必要ということになる。そしてその馬を連れて行くためには最低でも1万人のハサール人が必要であり、そのためにはさらに3万頭くらい馬が要るだろう。

「……無理とは言わない。だが、それをしろと言うのか? イゾルテは歓迎すれば女子供を逃してくれると言ったじゃないか! と言っています」

激高するニルファルに対して、イゾルテは静かに答えた。

「喩え話だよ。それに、今話しているのは講和についてだ。皆はちゃんと大陸に逃すよ」

「講和?」

「言ったろ、国同士が仲良くなる方法を相談させて欲しいって。ハサールには旧アルテムス領から出て行ってもらう。スラム人の独立も認めてもらう。しかもその上で我々に力を貸して欲しい」

あまりにも一方的な要求にニルファルは鼻白んだ。だがイゾルテの提案はまだ続いていたのだ。

「だがその代わりこちらは――」


 ― 大陸中の全ての草原をあげるよ ―


ニルファルはぽかんとした。……というか、通訳のおっさんがぽかんとして通訳していなかったので、「何で通訳してくんないの?」と不思議そうな顔をしていた。

「おーい、決めゼリフなんだからちゃんと通訳してくれぇー」

「は、はい、すみません。#(’”+*=~$&#」

「……!」

今度こそニルファルはイゾルテの言葉にぽかんとしたが、すぐに訝しそうに眉を潜めた。

「プレセンティナは小さな国のはずだ。持っても居ない物を譲ると約束するのか? と言っています」

「確かにプレセンティナは小さな国だ。だが、ヘメタル同盟は順調に拡大している。近日中にバネィティアも同盟に下る事がほぼ確定したし、そうなればイタレアの諸都市も雪崩を打って同盟に参加するだろう。何かと意見のまとまらないヘスチア連合も順調に切り崩しているし、大国に挟まれたヘーパイスツ王国もいずれ身を寄せてくるだろう」

バネティアやらヘーパイスツやら聞いたこともない国の名前を言われて、ニルファルは混乱した。

「待ってくれ、そもそも……ヘメタル同盟って何だ? と言っています」

「プレセンティナが主導する同盟だよ。ふっふっふ、プレセンティナ市民権を持つものは、なんと、同盟の領内で自由に……商売が出来るんだ!」

イゾルテは自慢気に胸を張ったが、ニルファルは何が凄いのかさっぱり分からなかった。

「はあ? と言っています」

「だからさぁ、それぞれの領主にちょこっと金を払えば、自由に草原の草を家畜に食べさせていいんだよ。草なんか生えてても領主は全然嬉しくないんだから、きっと安く売ってくれると思うんだ」

「ひょっとして、私にプレセンティナ人になれと言っているのか? 私はハサール人で、今はドルク人の妻だ。そ、それとも、エフメトと離婚して嫁入りし直せと……? と言っています」

ニルファルは真っ赤になって目線を逸らしながらも、チラチラとイゾルテの顔を盗み見ていた。イゾルテはパタパタと手を振るとそれを否定した。

「いやいや、違うよ。市民権は身分じゃなくて、権利なんだ。プレセンティナ人じゃなくても市民権は得られるんだよ。実際、ホールイ3国の王や貴族もプレセンティナ市民権を持っているけど、プレセンティナの皇帝の命令に従う義務は必ずしも無いんだ。離婚することは大賛成だけど」

「良く分からないが……仮に権利があったとしても、そんな大量の荷物を運ぶのは大変だ。その上、土地土地の領主に金を払うなんてとても出来ない、と言っています」

イゾルテはニヤリと笑って壁をバンバンと叩いた。

「これと同じ物があっても?」

ニルファルは目を剥いた。キメイラほどではないにしても、移動指揮車(自称)が軍事技術の塊であることは彼女にも分かっていた。キメイラの前に手も足も出なかったハサールにとっては、まさに喉から手が出るほどに欲しい物だ。

「これをくれると言うのか!? と言っています」

イゾルテはにっこりと頷いた。

「と言っても、戦闘用じゃないから装甲は全部剥がすし、壁も天井も薄くて良いだろう。それに6輪じゃなくても良いから、随分とシンプルで軽くなると思う。でもこれだけの容積があれば、10トンは楽々詰めると思うんだ。車輪を太くして馬を増やす必要もあると思うけど、馬にとっても担ぐより牽いたほうが楽だろう? 10頭牽きで1500両、それで15,000トンを運ぶことができる」

「せん、ごひゃく……りょう? と言っています」

イゾルテがさらりと言ってのけた数は、地峡でハサール軍を散々に打ち破ったキメイラの10倍だった。もしそれだけのキメイラがあの場にいたら、最も広いところでも7ミルム{7km}しかない地峡など完全に塞がれ、一兵残らず殲滅されていただろう。その悪夢のような情景を思い浮かべ、ニルファルは目のくらむ思いがした。

「プレセンティナはそんなに沢山作れるのか!? と言っています」

「同じものを量産するだけなら簡単なことだよ。その気になれば一月とかからないんじゃないかなぁ?」

「……!」

ニルファルは衝撃を受けたが、それはもちろんキメイラをそれだけ量産できるのだと思っての事だった。実際には、キメイラの量産は中身の金属製のギミックがボトルネックになっているので、今のところはどう頑張っても月間30両くらいが限界だった。その上兵員の教育の方も大変なのだ。色々ギミックが多い上に整備が大変なので、予備役兵の通常訓練日程ではとてもじゃないが覚えきれそうになかった。

 だがイゾルテの言うように、移動指揮車(自称)のようなギミック無しのなんちゃってキメイラなら、製材所――丸ノコによる規格角材大量生産システムの導入により木造家屋・木工製品の生産コストが劇的に下がった現状では、安く、素早く、大量に生産することが可能になっていた。というか、道なき所に開拓地を貰っちゃった避難民たちからの要望で、キメイラっぽい荒れ地用4輪馬車が量産され始めていたのだ。そしてそれは彼らでも十分に乗りこなせてもいた。イゾルテの頭の中にあるのは、まさにその馬車であった。


「私達がどこそこに運んで欲しいと言って馬車を渡すから、ハサール人は家畜とともに草原を通って移動しつつ馬車を届けるんだ。何なら、途中で別の氏族の連中に交代してもらってもいい。そして我々は輸送代金の一部を領主達に払い、残りは馬車を届けた者に支払う。我々は安く物を運べて嬉しいし、領主たちは草がお金になって嬉しいし、ハサール人は広い地域で遊牧できる上に金も手に入って嬉しい。誰も損をしないんだ。ただし、ルールが守られる限りは、ね」


 その提案はニルファルにとって青天の霹靂だった。少し前まで彼女の世界はハサールだけだった。ハサールの文化、生活、そして誇り、それが彼女の全てだったのだ。だからハサールを理解しない他の民族――スラム人もドルク人もタイトン人も、全ては全て人の形をしているだけの動物に過ぎなかった。だからエフメトと婚約させられた時は頭に来たし、本人がのこのこやって来たと聞いて顔を隠して様子を見に行ったのだ。毒を塗ったナイフを持って。

 だが流暢にハサール語を操るエフメトと出会い、彼やハシムからドルクのことを聞くと、なるほどと目から鱗が落ちることもあった。エフメトの語るドルクの帝都の様子に心を踊らせた。そしてドルク軍の戦い方を目の当たりにして目を見張った。それでもまだ基本的にはハサールの方が上だとは思っていたが、ドルクにはドルクなりに文化と生活と誇りがあるのだと、そしてそれはよく理解もしないで否定してはいけないものだということは理解していた。それに、最初は常軌を逸しているように思えたあんな行為も、実際に体験してみれば満更でもなく、それどころか今となっては自らエフメトの(以下略)

 それはともかく、そんな風に考え方の違うハサールとドルクにも、「同盟」という考えはあっても土地を「共有」するという概念はなかった。どちらにとっても領地は力によって奪い取り、君臨し、支配するものであったのだ。既に征服した旧アルテムス領も、いずれドルクとハサールで境界線が引かれることになっていた。農地の復興の目処が立たない現状では、都市部とそれ以外という分け方になるだろう。今は共通の敵がいるから良いものの、戦いが落ち着けばどうなるかわからない波乱含みの処置である。ハサール国内にドルクの都市がポツポツと飛び地で残されることになるのだし、その都市は城壁で囲まれたままハサール以外の軍隊を駐留させるのだから。

 だが、イゾルテの唱える和解案はそんな常識を覆すものだった。まずヘメタル同盟というものが良く分からない。同盟といえば軍事的な取り決めなのじゃないかと思ったが、イゾルテが自慢気に胸を張ったのは商売の権利だった。そしてその権利を使って放牧地を借りると言うのだから驚かざるをえない。しかも実際に金を払うというのではなく、遊牧ついでに荷物を届ければその手間賃から勝手に払っておくと言うのである。ハサール側にとっては、事実上タダみたいなものだ。というか、逆に残りの手間賃まで貰えるというのだ! そして更に、そこまでハサールに便宜を払ってもタイトン側も儲かると言うのだ! 

 とはいえ、剽悍なハサール人を自由に行き来させる度量がタイトンにあるとは疑わしかったし、のこのことタイトンの奥深くまで分け入るのも危険に思えた。そうやってハサールを分断させた上で一斉に襲い掛かって根絶やしにするのではないか? そんな疑いが捨てきれなかった。……それを言ったのがイゾルテでなければ。

 ニルファルは溜息を吐いた。イゾルテの話は信じがたかった。善意に満ちた笑顔を向けるイゾルテが「善意じゃない」と言うのだから何を信じればいいのだろうか? 

「イゾルテはそれが本当に出来ると思っているのか? と言ってます」

「時間はかかるよ。ヘメタルを滅ぼしたゲルム人が、タイトン人と同化するのには何百年もかかった。でも、これはそこまではかからない。たぶん、10年で大きく変わるよ。だって儲かるんだから! 多少怪しいなぁって思っても、実際に儲かっちゃえばみんな受け入れるもんだよ!」

ニルファルは商売を知らなかったが、楽しそうに笑うイゾルテを見ていると少し興味が湧いてきた。

「物を運ぶだけで、そんなに儲かるのか? と言ってます」

「そりゃそうだよ! 例えば森の中にはそれこそ売るほどに木が生えてるよね? でも、プレセンティナには一本も木がないんだ。森の木こりから二束三文で買った丸太をペルセポリスに運べば、まず10倍の値段にはなるよ」

「10倍!?」

「うん、そして製材所で角材や板に加工されて更に2倍になり、大工や職人の手によって家や家具になればさらに5倍の価値の製品になる。都市は食べ物を一切生み出さないけど、そうやって生み出された価値あるものが、食べ物を買い入れる対価になるんだよ」

「なるほど、そういうものなのか。と言ってます」

これまで何の気なしに行っていた「移動」という行為そのものにそれほどの価値があるのかと、ニルファルは驚かされていた。もちろん馬車がなければ輸送量が限られるのでそれほど割のいい商売にはならないのだが、この移動指揮車(自称)のように草原を走ることができる馬車が大量にあるのなら、いちいち農民を脅して小銭を巻き上げるよりも遥かに稼ぎが良さそうだった。しかも、これまで通り遊牧生活を送りながら片手間にやればいいというのだ。これほど美味い話があるだろうか?

――さっきの都市の例でも、1500人のハサール人と15000頭の馬なら1部族……というか、大きな氏族(注3)でも十分に出せるだろう。スラム人やドルク人でも操れるんだから、ハサールの女でも馬車くらい御せるはずだろうから。あるいは氏族の本隊は留まったまま、少人数で出稼ぎのように馬車を届けるのもいいかもしれない。昨年までやっていた略奪と似たようなものだしな……。

旧アルテムス領で行ってきた略奪というのも、実際には村々を廻って税を受け取って来るようなもので、実際に暴力や戦闘が行われることは少なかったのだ。たまに反抗する者が現れると見せしめも兼ねて虐殺した訳だが。

 だが、どちらも出稼ぎという点では似ていても、イゾルテの言っているのはタイトン人に憎まれるどころか喜ばれる行為なのだ。イゾルテと同じタイトン人たちに。そう考えて思わず笑みを浮かべたニルファルは、いつの間にかタイトン人の事も単純に敵と見做すことが出来なくなっていることに気付いた。少なくとも、ドルク人と同じ程度には。笑顔を向けられて嬉しいと感じられるほどには。

――スラム人のこともこんな風に思える日が来るのだろうか……?


「面白い。本当に出来るのなら、こんなに面白そうなことは他にないだろう。

 でも、父上はイゾルテを信じない。いや、仮に信じたとしても、あんな罠にかかってあれほどの損害を(こうむ)った以上、このまま受け入れる訳にはいかないんだ」

「そうだろうなぁ。でも、まずは信じてもらえないと話にならない。だからこうして誠意を見せているつもりなんだ」

「えっ……ハサール人を逃すのは、そのためだったのか!?」

「うん、そうだよ」

ニルファルは愕然としていた。純粋な善意だと信じていたのに、そんな裏があっただなんて衝撃だったのだ。

「……親切じゃなくて?」

「親切でもあるよ。仲良くしたい人を助けたいと思うのは、助けたいと思うからでもあり、それを切っ掛けに仲良くなりたいという気持ちもあるからだよね?」

そう言われると、確かにそういうものかもしれないとニルファルも納得せざるを得なかった。そもそも純粋な善意なんてありえるのだろうか? エフメトへの愛だって、結局は心だけじゃなくて身体が(以下略)。だがそれでも、ニルファルがエフメトを愛していることは間違いないのだ。イゾルテが政略的な目的を持っていたのだとしても、彼女の態度を見ていればそれだけでない事が、間違いなく善意もあるという事が、確信出来るではないか! ニルファルは迷いを振りきって笑顔を見せた。

「そうだな。でも、実際問題どうするんだ? 父上が認めなければ話はまとまらないぞ?」

「初めての商売相手に大きな取引は禁物だよ。まずは小商(こあきな)いを繰り返して相手が信用できるか試すんだ。お互いにね」

ニルファルは首をひねった。

「つまり……? と言っています」

「何氏族か選んで、実際にやらせてみればいい。その報告を聞いて実際にやっていけそうかどうか決めるんだ。こちらも配慮するよ。

 それにこれはスラム人との問題を解決する上でも重要な問題だぞ。地峡での戦いの結果を知って、スラム人の独立機運は過熱するぞ。私はファル達の敵で、スラム人の同盟者なんだ。その私が言うんだから間違いはない。

 ハサールには、彼らが支配下から抜けだしてもやっていけるだけの経済的な基盤が必要になるだろう。その意味でも、私の案は悪いものではないはずだよ」

 ニルファルははっと息を呑んだ。ともすれば忘れそうになるが、イゾルテは魔女なのだ。父を罠に嵌めたことを考えれば、クレミアを蜂起させたのも、今後起こるであろう大陸でのスラム人の反乱も、イゾルテが裏で糸を引いているのだろう。

――自分で仕組んでおいて忠告してくるとは! しかもそれを隠そうともしないとは……。イゾルテにとっては最初からこの講和が目的なんだな。罠を仕掛けたのも、女子供を助けるのも、こうして脅してみせるのも。

ニルファルは苦笑した。

――こんなことを繰り返していれば、確かに魔女と言われるだろうな。もっとも私はもう既に魔女に魅入られてしまったようだけど……。

「分かった。約束は出来ないが、父上には話をしてみる。だがエフメトはどうなるんだ? ハサールが講和すればエフメトは孤立することになる」

そこまで言ってニルファルははっと息を呑んだ。

「はっ、ま、まさかエフメトを殺すことで私を自由にしようと……!? ああ、私はどうすればいいんだ!? と言ってます」

彼女はソファーに座ったままくねくねと悶えた。

「……それはとても魅力的な提案だけど、そうじゃない。講和を結んで船で帰ればいいだけだよ。こう伝えてくれないか。

 『アムゾン海の全てのガレー船を廃棄もしくは引き渡せ。そうしたら、今後アムゾン海での商船の往来を制限しないから、略奪品を持ってドルクに帰れ』……と」

「ふーん、そんなんで良いのか? 良く分からないが伝えておく、と言ってます」

「ああ、ニルファル、頼んだよ」

そう言ってイゾルテはニヤリと笑った。ニルファルは分かっていなかったが、これは譲歩に見えて中々に嫌らしい策であった。

 食糧問題に直面するエフメト軍にとっては、安全に撤兵できるこの条件はなかなかに魅力的に見えるはずだ。その上、どのみちプレセンティナ海軍に圧倒されっ放しのアムゾン海艦隊を処分すれば航行権を保証するというのだ。略奪品と合わせればそれなりの成果と見做すこともできるだろう。これを受け入れれば当然アムゾン海を通した海上交易が盛んになるのだから。だが、いったい何処と? ドルク軍に略奪を受けたエウノメアー王国の港やプレイアダス七都市連合のエライノー市がドルク船を受け入れるだろうか? そう、必然的に交易相手はスラム人都市に限られるのだ。そしてその交易が盛んになればなるほど、ドルクとハサールの間に溝が入ることになる。ハサールがスラム人と敵対する限りは。その上その海上交通はプレセンティナ海軍の監視下で行われるのだから、ドルクが敵対行動を見せる度にその航路を封鎖してドルク船を拿捕してやれば、その損害の大きさがやがて抑止力として働くようにもなるだろう。そしてついでに、あの忌まわしいガレー船を根絶させられるという個人的な宿題も終わらせることが出来るのだ。(アムゾン海限定だけど)

 イゾルテは最後に、思い出したように皮肉を付け加えた。

「ああそうそう、それとエフメトに礼を言っておいてくれないかな。お前が(そそのか)してくれたおかげで、バネィティアがタダで手に入ったって。おかげでメダストラ海全域を制覇できた、本当にありがとう! って」

当然ながらニルファルには良く分からなかった。彼女は首を捻りながらも承諾した。

「ふーん? それも良く分からないけど伝えておくよ、と言ってます」



 交渉が(と言っても非公式な予備交渉に過ぎないが)終わって3日後、イゾルテたちは地峡に辿り着いた。事前に連絡していたので、混乱を避けるためにスラム人たちは全て地峡から追い出されていたのだが、彼らは入り口(◆◆◆)の周りに(たむろ)し、地峡に入ろうとするハサールの女達を見てニヤニヤとしていた。

――まあ、敵意(◆◆)旺盛な連中だからこそ自分の町を守ってないでここに来た訳だろうが、なんでわざわざ反感を買うようなことをするかなぁ……

いっそニルファルを男だと勘違いして襲った(と、イゾルテは未だに思っていた)男たちのように、真の愛に目覚めちゃえばいいのに、とイゾルテは思った。

 ひとまずイゾルテはプレセンティナ兵を整列させて壁を作り、ハサール人たちにはその間を通らせた。そのおかげでなんとか表向きは穏やかに通過出来そうだった。……その事件が起こるまでは。


「*+*#=!?」

一人の老婦人が突然何事か叫びながらスラム人の男に掴みかかり、反対に殴り飛ばされたのだ。慌ててプレセンティナの海兵が間に割って入って両者を引剥したのだが、それを皮切りにハサール人たちの目つきが変わった。それまでは怯えるばかりだったのに、敵意とも欲望ともつかない鋭く血走った目をスラム人達に向けるようになったのだ。

「ファル、いったい何なんだ? 今の言葉は聞き取れなかった」

ニルファルに解説して貰おうと思って振り向くと、彼女も蒼白な顔をしていた。

「それは息子の物だ、返せ! と言っていました」

隣に居た通訳が教えてくれたが、やっぱり事情は分からなくて、イゾルテは首をひねった。するとニルファルが静かに語りだした。

「私達が首にかけているネックレスは、自分自身の記録なんだ。親が子に与え、子が人生を刻みながら鎖を増やし、結婚して半分を相手と交換し、子を生むごとに削っていく。死ねば躰は野に晒されるが、ネックレスだけは肉親の手元に残り、分け与えられる。一つ所に留まらぬ我らにとっては、これこそが自分の墓であり、家族の墓なんだ」

 イゾルテがスラム人達を見ると、確かにジャラジャラとしたネックレスを身に付けている者が大勢いた。中には幾つも重ねている者もいるようだ。彼女はニルファルに「ネックレスをちょうだい」と言った時のことを思い出した。ニルファルが突然泣き出して自決するとか言い出したことだ。

――なんて事だ、ハサール人たちは肉親のネックレスを探しているのか! さっきの老婆は息子のネックレスを見つけたのだな……。くそ、スラム人達は遺体を埋葬するときに金目の物を剥いだのだろう。同じ国に住んでいながら、スラム人は何でハサール人の風習を知らないんだ!

 イゾルテは白いラッパ{拡声器}でハサール人達に叫んだ。

「落ち着く、たのむ! ネックレス、私、取り戻す! 今、堪える、たのむ!」

そしてそのままタイトン語でスラム人達に呼びかけた。

「ハサール人のネックレスは全てプレセンティナ軍が買い取る! 頼むから今は見せびらかすな! 気付いていないだろうが、それは恥ずべき行為だ!」

だが、そう言いながらイゾルテははっと気付いてしまった。スラム人達は見せびらかしていたのだ。ハサール人達の風習を知った上で、誇ってみせていたのだ、まるで死体を積み上げて、それを踏みつけにするように……!

――そのハサール人達を倒したのもお前たちではないだろうが!

イゾルテは内心で怒りを感じたが、それは諸刃の剣だった。彼女はこれまで多くの敵と味方を殺してきたが、敵として殺した者の肉親を見るのは初めてだったのだ。だから彼らが死んだ肉親を悼むのを見るのもこれが初めてだった。楽しかったこの10日あまりのことを思うと、彼女は胸が張り裂けそうだった。仲良くなったおばさんたちや娘たちは、今は愛する人の形見を取り返そうと目を血走らせていたのだ。そしてそれを手にした時、きっと彼女達は思うはずだ。だれが彼の命を奪ったのかと。


 お前だ!


幻聴がイゾルテの耳を打った。だが本当にそれは幻なのだろうか。半月前の戦のことを黙ったまま、いけしゃあしゃあと歓待を受け続けていたこの10日あまりこそが幻ではなかったのだろうか? 今はネックレスに目が行っていても、この地峡を抜ければ彼女たちは真実を知ることになるだろう。そして自分たちが歓待した少女こそが、父の、夫の、息子の仇だと知るのだ。

――そうだ、私だ。スラム人達は墓を暴いたに過ぎない。殺したのは私だ。狡猾にも罠に誘い込み、一方的に虐殺したのだ。

ハサールの歴史にも魔女として彼女の名が刻まれることは間違いないだろう。あるいは彼女が殺した者たちの肉親は、ネックレスに新たな鎖を繋ぐことでその恨みを記録するのかもしれなかった。

 魔女の名の重みに潰されそうになりながらも、イゾルテは地峡に足を踏み入れるハサール人達を静かに見守り続けた。



 ハサール人(と家畜)の行列が無事に地峡に入ると、それを見守っていたイゾルテはほっと息を吐いた。だがそれは、スラム人とハサール人の間であれ以上揉め事が起こらなかったことに対してだろうか? それともハサール人に罵られなかったことに対してだろうか?

イゾルテが自問していると、ハサール人の行列とは入れ替わりに固い顔をしたアントニオが駆け出して来るのを見て眉を顰めた。と言っても、別に彼の顔を見たくなかったという訳ではない。

「アントニオ、お前は船に残っているはずだろう? 勝手に出てきちゃダメじゃないか」

「殿下……急報が入りました」

「何だ?」

「すいません、こちらへ」

「ん? 別にここで言えばいいだろうに……」

イゾルテはアントニオに付いてニルファルたちから距離をとった。


 どさっ


 その音を聞いてニルファルがふと目を向けるとイゾルテが地面にしゃがみこんでいた。そして、足でも捻ったのか近くに居た兵士とアントニオと呼ばれた少年が左右から肩を貸すと、そのまま移動指揮車(自称)の方に向かって行ってしまったのだ。

「イゾルテ、どうかしたのか!?」

ニルファルが呼びかけたが、彼女は何の反応も返さずにそのまま去って行ってしまった。

――えーっ? 別れの挨拶もないのか?

タイトンの風習には謎が多いが、別れ際に声もかけないで冷たくする風習でもあるのだろうか? 濃厚な何かを少し期待してしまっていただけに、彼女はがっかりした。だが彼女が肩を落としていると、通訳がススっと彼女の脇に寄ってきて耳打ちした。

「悪いことは言いません、このまま速やかにお帰り下さい。イゾルテ殿下に限ってそんなことはないと思いますが、変事が有るかもしれません」

その神妙な顔と歯切れの悪い言い草に、彼女は追求せずにはいられなかった。

「いったい何だというのだ。私は敵とはいえ、イゾルテの友のつもりだ。別れの挨拶ぐらいしたいのだが、ひょっとしてタイトンではわざと冷たくするのが作法なのか?」

通訳は少し逡巡したが、結局口を割った。それを口にするのは本来彼の職分を越えることだが、そもそも彼は一介の通訳であって軍人ではないのだ。それにさっさと行け、という忠告からしてすでに職分を越えていた。

「……御身内に不幸があったのです」

――身内の不幸くらいで大げさだなぁ。

……と思うのは、あまりに身内が多すぎて戦が一度もなくても年に最低5人は死ぬのがニルファルにとっての常識だからであった。その上彼女は先日の戦闘で大量に身内を失っているはずであり、自分を差し置いて何事かと、ちょっと不満でもあった。だがそんなに余裕があるのは、彼女がその死を聞いて我を忘れるのは二人だけであり、その二人が無事であることが既に分かっていたからでもあったのだ。彼女はそこまで考えてはっとした。

――あれほどの衝撃を受けるということは……まさか皇帝が?

「……そうか、分かった。御忠告感謝する」

ニルファルは神妙に頷くと、自分自身も地峡に足を踏み入れた。



 その後、彼女が地峡を抜けて大陸側に足を踏み出したのは、たっぷり5時間ほど経った後の事だった。濠に橋を渡して近道が作ってあったにも関わらず、わずか10ミルムほど移動するのに5時間である。入った時にはまだ高かった日も、今は西の地平線に沈みそうになっていた。

――何にせよ、事故がなくて良かった。

ニルファルは責任者らしき男が差し出した書類――ハサール人達が確かに地峡を抜けて大陸に入ったという確認の書類(ハサール語)に署名をすると、颯爽と馬に跨った。

「ありが、とう!」

彼女はせっかく通訳に教えてもらったのに結局イゾルテに言えなかったタイトン語を叫ぶと、馬の腹を蹴ってハサール人の行列を追った。だが追いつく前に伝令の印を身につけた男が待っていた。彼はニルファルに近づくと一礼して耳元に囁いた。

「可汗が危篤とのことです。大至急お戻りを」

「…………」

はっと我に返った時ニルファルは鞍からずり落ちそうになっていて、伝令の男が支えてくれていた。戦闘でもない時に馬から落ちそうになるなど、いったいいつ以来だろうか? だがニルファルは恥ずかしいとは思わなかった。そんな瑣末なことを恥ずかしがる余裕などなかったのだ。

 その知らせはドルクにもタイトンにも、そしてもちろんハサールにも最悪の未来が訪れることを示していた。誰が選ばれるにしても、代替わりしたばかりの可汗が講和に応じることなど有り得ないのだ。統率力を疑われる立場にある者は決して弱腰にはなれない、本音がどうであろうと先代の仇を討って見せねばならないのだ。だからきっとハサール軍は全軍で以って突撃することになるだろう、僅か半月あまり前に多くの血を吸ったばかりのこの地峡に向って……。


 ニルファルはその場で振り返ると、その更地――半月前までは更地だった地峡を血の気の失せた顔で見つめた。恐らくイゾルテは、この要塞(◆◆)をわざと二ルファルたちに見せたのだろう。ハサール軍には絶対に突破できないということを示すために。だから講和に応じろとという言外の意味を込めて。だが事態はイゾルテの善意も悪意も越えて、最悪の方向に進んでいたのだ。

「案内しろ! 急ぐぞ!」

矢も盾もたまらず、ニルファルは馬を疾走らせた。

注1 以前にもちょこっと出てきましたが、ヘメタル時代にポエニ戦争(っぽい戦争)がありました。

 ザマアの戦い=ザマの戦い

この時敵の大将であるハンニバル(っぽい人)は虎の子の戦象部隊をけしかけてきましたが、これを予測していたスキピア将軍(コルネリオとリーヴィアの遠い祖先)は、予め部隊間を広めに開けておいたので、象はそこを素通りしちゃいました。本人たちは真剣なんでしょうけど、(はた)で見てたら拍子抜けしちゃいそうですね。

この戦いに勝ったスキピア将軍は、アフルークを征した男、という意味のアフルークヌスという称号を貰いました。


注2 米で考えてみました。米と小麦で違うじゃんとか、肉とか野菜とかはどうなのよ、というツッコミは置いといてください。ちなみに、単位あたりカロリーは小麦粉も精米もほとんど同じです。

 1合=150g

 1石=1000合=150kg

3食1合ずつ食べてると、1年間にだいたい1石=150kgの米を食べることになります。そんな訳で、10万人分の年間食料は15,000トンとした訳です。

「すごい量の輸送量が必要なんだ。だから都市には街道が必要なんだ」と言いたいだけなので、厳密さは追求しないでください。


注3 たまに訳が分からなくなりますが、民族>部族>氏族>一族>家族です。真ん中あたりを混同しちゃうことがよくあります。


ハサールとの講和案は、本来はもっと後で言い出す予定だったのですが、冷静に考えるとこのタイミングしかないように思えて急遽追加しました。

(そのせいで書き直しになって一日投稿を休みました)


全てが思う通りに動いていたのに、突然軋み出す回でした。

急転直下っぽい感じですが、次回で5章が終わります。

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