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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第5章 同盟
96/354

缶詰

またまた0時に間に合いませんでした。

今回は、以前感想欄で白木つぶらさんから頂いたマンガのネタを使わせていただきました。正確には、マンガの前日譚というべき話でしょうか。

マンガはこちら

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=43598975

 ハサール人たちの集結を待つ間、イゾルテはニルファルと同じ天幕でハサール人の生活を体験することにした。護衛の責任者でもある小隊長は渋ったが、イゾルテは変に警戒するより思い切って腹を割った方が良いと主張した。

窮鳥(きゅうちょう)懐に入れば猟師も殺さずと言うではないか」

彼女は重々しく(のたま)ったが、小隊長は意に介さなかった。

「殿下はニルファル姫を信頼しておられるようですが、私には信じきれません」

「大丈夫だって。それにヘメタル建国の王ヘームルスと弟のレウスは狼に育てられたとも言うぞ(注1)」

一転して気さくに言った言葉には小隊長も動揺した。違う意味で。

「狼って……実は殿下の方が警戒してませんか?」

「そ、そんな事はないぞ!」

「せめて護衛は付けさせて下さい」

「男子禁制に決まっているだろう。ハサールの風習では、男女が二人きりになるだけで密通したと看做(みな)されるらしいぞ」

「では歩哨だけでも」

「返ってハサール人を刺激するだろう。それに、ニルファル一人でも十分に護衛になるぞ。逆に歩哨が居たとして、ニルファルが襲いかかって来ても止められるのか?」

ここまで言われても隊長は引き下がらなかった。彼には具体的で切迫した懸念があったのだ。

「そうかもしれません。でもニルファル姫が……寝ぼけて抱きついてくるかもしれませんよ?」

「う゛っ……」

イゾルテは頬をひきつらせた。ニルファルの死の抱擁は確かに脅威だった。悪意がないところがより一層始末に困る。エフメトはよく生き残ってるなぁ、と少し感心してしまった。(彼女には知る(よし)もないことだが、ニルファルは性感帯を刺激されるとすぐに真っ赤になって離れるのである。エフメトはそうやって生き残ってきたのだ。というか、彼はむしろ離れようとする二ルファルを無理やり押し留めて、さらにさらに強い刺激を与え続ける事によって……以下略)

「……なるほど、分かった。夜は移動指揮車(自称)で寝ることにしよう」


 こうしてイゾルテは、ハサール人の集結を待つ間ニルファルに付き従って乗馬のコツを教わったり、羊の追い方を教わったりした。騎射の仕方も教わろうとしたのだが、これは短弓を引くこともできなくて挫折した。

「指が、痛くて、引けない! 力が、無いからじゃ、ない!」

針仕事の後遺症であった。後半はたぶん嘘だけど。

「なら、相撲でも、取ってみるか」

「相撲?」

「ほら、あそこで子どもたちが、遊んでいる」

ニルファルの指差す方を見てみると、ちょうど二人の少年が組み合ったところだった。そして組んだままわさわさと相手を触り合いもつれ合って、ちょっとサビカス伯爵夫人の唱える真の愛を思い出しかけた……が、片方が投げ飛ばされて頭から地面に落ちるのを見て、彼らが真の愛に覚醒していないことが確認された。

「は、はははは、あれを、ニルファルと? 死ぬ! 私、きっと、死ぬ!」

イゾルテが悲鳴を上げると、ニルファルは腕を組んで考え込んだ。

「うーん、そういえばドルクには、ちょっと変わった相撲があると、エフメトが言ってたなぁ」

「変わった、相撲?」

「相手を持ち上げて、3歩歩くか、相手の背中を地面につけると、勝ちなんだそうだ」

それはルールを聞く限り、ハサールの相撲やタイトンのパンクラチオン(ほとんどなんでもありの徒手格闘技)より遥かに安全そうに思えた。

「平和だなぁ。それなら、いいかも。絶対、勝てないけど」

「えっ、い、いいのか? ちょっと、その……淫靡だぞ?」

「は?」

イゾルテは一瞬、単語を聞き間違えたのかと耳を疑った。だがエフメトがわざわざニルファルに教えた格闘技となれば、何か裏があるのかも知れないと思い直してゴクリと唾を飲み込んだ。エフメトという男は(性的な嗜好の意味で)侮れない男なのだ。(性的な嗜好の意味で)信頼できる男なのだ。

「ど、どう、やるの?」

「上半身裸になってオイルを塗るんだそうだ。ぬるぬるつるつる滑る相手をくんずほぐれつしながらなんとか捕まえて、仰向けに押さえつけるか、持ち上げて3歩歩くんだ(注2)」

「裸……ぬるぬる……くんずほぐれつ……」

イゾルテは思わず油まみれでぬるぬるのニルファルを想像してしまった。石鹸まみれでぬるぬるの姿は今も瞼に焼き付いていたが、オイルまみれというのは斬新であった。

――ご、合法的に直接触りまくるのか……!

ドルク人はなんて卑猥なのだろうかとイゾルテは舌を巻いた。本当は男同士のスポーツなのだということは想像も付かなかった。というか、エフメトはそんなことは一言も言わなかったのだ。だっていずれニルファルと二人で試合をしようと思っていたから。

「し、仕方、ないなぁ。ニルファルが、したい、なら……」

イゾルテがもじもじしながらそう言うと、ニルファルがポンっと手を叩いた。

「駄目だ、そういえば、オイルがない」

その言葉にイゾルテはだらしない笑みを引っ込めた。それはとても危険な徴候だったからだ。

「……もう物資が、足りない、のか?」

地峡が封鎖されたことで物資が足りなくなれば、どうしてもスラム人と接触しなくてはいけなくなるだろう。それがどのような形になるとしても、軋轢が生じるのは疑いようがなかった。

「違う違う。ハサールは普通、油は獣脂を使うんだ。だから、温めないと、液体にならない」

イゾルテは獣脂……つまり脂身まみれのニルファルを想像した。そして……生まれたばかりの時のヘレネーとマヌエルを思い出した。ぐちょねちょで触りたくなかった。彼女は石けんで我慢することにした。

「……やめよう。汗かいた、風呂に、入ろう」

「おお、それはいいな」



 ハサールの食事は野菜が少なめだったが、海上生活にも慣れているイゾルテにはあまり苦にならなかった。彼女にはそれより、こってりした料理が多い事の方がきつかった。陸軍所属の兵士たちの感想は逆で、こってりした肉料理は気にならなかったが、野菜が少ないことに閉口していた。だがそれらを差し引いても、ついさっきまで元気に駆けまわっていた羊の肉を使った串焼きやクリームシチューっぽいスープなどは絶品だった。

 とはいえ、毎日毎日肉料理ばかりだと魚が食べたくなるのがプレセンティナの人間である。そんなイゾルテの心の叫びを聞きつけたのか、7日目の朝に贈り物が届いていた。それは金属で出来た角の丸い直方体{缶詰、さんまの蒲焼}と、縦長の円筒形{桃缶}と、平たい円筒形{ネコ缶、ささみ入りまぐろミックス}の何かだった。

「ずしりと思いが……インゴット(金属の塊)という程でもないな」

イゾルテはそれを軽く振ってみたが、音もなく、内部で何かが動く気配もなかった。表面を見ると、それぞれ魚や果物や猫の絵が描かれていた。

「これは……? 絵は食べ物っぽいが……」

桃が切り分けられている絵{桃缶}や、茶色いソースがかけられた魚のソテーの絵{さんまの蒲焼}を見る限り、それは食べ物の絵のようだった。だがそう考えると、猫の絵が描かれた丸くて平たい形の物{猫缶}は……

「ままままままさか。そんなワケがないではないではないではにかっ!」

動揺するあまりイゾルテは舌を噛んでしまった。

()ぅ~! おひふけぇ(おちつけー)おひふけぇ(おちつけー)。ひとまず()れは見な()った()とに()よう」

イゾルテは丸くて平たい形の物{猫缶}をソファーに向ってポイっと放り投げると、残り2つを持って文机に腰掛け、じっくりと観察し始めた。

「うーん、やはりこの輪っかになっている部分が怪しい。紐で吊るすためのフックかな?」

イゾルテは書類用の綴紐(とじひも)を取り出すと、小さい方{さんまの蒲焼}の輪っか部分を立たせようと、ナイフの背を押し当てて少しばかり力を入れた。すると……

 ぱかっ

軽い破裂音とともに、裂け目が入ってしまったではないか!

「ああっ! 何てことだ、壊してしまった……。金属なのに意外に繊細なんだなぁ」

イゾルテはがっくりしたが、その隙間からは僅かに生臭くも甘い匂いが漂ってきた。

「や、やはり食べ物……なのか? だがそうすると……」

彼女の視線はソファーの方に向かいそうになったが、慌てて頭を振った。

「み、見ていないぞ! 丸くて平たい金属{猫缶}なんて、私は見ていないんだ!」

そして深く深呼吸をすると、四角くて平たい物{さんまの蒲焼}の観察を続け、それに没頭することにした。クール(?)でストイック(?)で残虐な死体すら見慣れた彼女にも、事実から目を背けたくなることがあるのだ。

 よくよく観察すれば、その裂け目は最初から彫り込まれていた溝にそって広がっているようだった。しかも、リング部分を立たせたことによってテコの原理でそこに力が加わるようになっていたのだ。つまり、敢えてそこに裂け目が出きるように設計されていたのである。

「ということは……こ、これはフタだったのか!」

イゾルテはその設計に衝撃を受けた。まず食べ物を金属で密閉するという加工技術がスゴい。そして、わざと切れ目が入りやすいように予め溝を掘っておくという細工がスゴい。ついでにフタを開けるための梃子までフタにくっつけておくという親切さがスゴい。更についでに言うと、瓶と違って再利用できなさそうな贅沢さもスゴかった。

「何という無駄遣いだ……。金属の器まで使い捨てだというのか? 銀の袋{ぽてちの袋。アルミ蒸着フィルム}を超える贅沢さだぞ!」

技術的には非常に興味が湧いたものの、ケチな彼女には真似したいとは全然思えなかった。普通の保存食でいいじゃん、と。あるいは瓶詰めでいいじゃん、と。

「まあいい、まずはフタを開けてみるか……」

イゾルテは立ちかけたリングに指を通すとゆっくり引き上げた。するとギギギッと言うかすかな音とともに切れ目が次第に広がり、遂にはカパっと完全に切り離された。

「おおぉ~! 綺麗に切れるものだなぁ!」

フタの方は曲がってしまったが、器の方は溝にそって綺麗に四角く穴が開いていた。そしてその中には魚のソテーが茶色いソースに浸かるように入っていた。

「魚だぁ……。メロピーまで行った時にはこんなに恋しくなかったのに、なぜ今はこんなに嬉しいんだろう?」(タイトン語)

「やっぱり、ハサールの食事が、舌に合わなかったのか?」(ニルファル語)

「いやぁ、美味しいことは美味しいんだけど、肉料理ばかりというのがどうも……」(タイトン語)


奇妙な沈黙が二人(◆◆)を包んだ。


 イゾルテがきりきりと首を回して後ろを見ると、ニルファルが抜身のナイフを持って立っていた。

「……ファル、何故、ナイフを?」

「イゾルテが、悲鳴を上げてたから。くせ者が、居るかと思って」

「…………」

イゾルテは頭を抱えた。ニルファルが心配してくれた事は嬉しかったが、よりによって絶賛戦争中の相手国の重要人物に贈り物を見られてしまったのだ。エロイーザに見つかったのも含めて、移動指揮車(自称)に贈り物が届く度に毎回見つかっている事に気付いたイゾルテは、控えの間に繋がる扉に鍵を付けていなかった事を心底後悔していた。本来そこにはメイドが居るはずで、鍵の代わりをするはずだったのだ。でもメイドを戦場に連れ出すのが心苦しくて、結局ペルセポリスに置いて来てしまったのだ。

――兵士が興奮しないような老メイドを連れて来れば良かった! 説教されるのが嫌で連れて来なかったのは私の我儘だというのか!?

イゾルテは内心で悲鳴を上げたが、冷静に考えれば我儘以外の何物でもなかった。だが今はとにかくこの場を誤魔化すことが先決だった。

――離宮じゃないから遺跡から届いたという言い訳は無理だし……。ああ、何て言えば良いんだ!?

イゾルテが固まったまま必死に考えを巡らせていると、ニルファルがイゾルテの肩越しに金属容器を覗きこんだ。

「これは……魚なのか? なんだか、甘い匂いがする、けど」

意外と普通な反応に、イゾルテはポンっと手を打った。あまりに文化が違いすぎて、ニルファルはプレセンティナには普通にこんな物があるのだと思い込んだのだ。イゾルテは彼女に話を合わせた。

「保存食、だ。食べて、みるか?」

「いいのか? 食べてみたいぞ!」

意外にニルファルが乗り気になったので、イゾルテは少し後悔した。彼女は神の食べ物はいまいち信じ切れないのだ。例の薄いフライ{ぽてち}は警戒しすぎて台無しにしてしまった訳だが、今回は今回でさらっと猫の肉なんかを……

――見ていない! 私は見ていないぞ!

イゾルテは頭を振ってソレを記憶から追い払うと、ニルファルのナイフを奪ってグサリと突き刺した。もちろん魚のソテー{さんまの蒲焼}にだ。

「食器が、ない。これで、我慢して」

そう言ってナイフを差し出すと、驚いたことにニルファルはイゾルテにナイフを持たせたままパクリと齧り付いた。

――危なっ! 私よりよっぽど不用心だなぁ

ニルファルはもしゃもしゃと魚を咀嚼しながら考えこむように腕を組んだ。

「何というか……不味くは、ない。甘いのは、良い。でも、少し、クドい」

その感想を聞いてイゾルテはがっかりした。匂い通りに甘いのは良いとしても、クドいのは嬉しくないのだ。彼女は今、さっぱりした物が恋しいのである。彼女の目は、自然と次の標的へと移っていた。桃の絵が描かれた容器{桃缶}を見て、果物なら酸っぱ爽やかかもしれないと気付いたのだ。彼女は傷みやすい桃を生のまま食べたことがなく、甘ったるい蜂蜜漬けしか食べたことが無かったのだ。だから桃自体まで甘ったるいとは知らなかったのである。

「じゃあ、こっち、食べよう」

彼女はそう言って、今度は指をリングに引っ掛けると、迷いなくパカっとフタを開けた。いかにもいつもの事ですよ、という風に装ったのだ。そして中にあった淡桃色……というか肌色の切り身にナイフを突き刺すと、滴る透明な汁を金属容器{桃缶}で受けつつニルファルに差し出した。すると彼女は再びパクリと齧りついたが、今度は目を剥いて突然大きく仰け反った。

「危なっ!」

イゾルテが「ナイフを咥えた格好で突然動くなよ!」と言う非難の眼差しを向けると、ニルファルは仰け反ったままブルブルと震え出していた。

――まさか、毒!?

「吐け! 早く吐くんだ! きっとまだ間に合うよ!」

イゾルテは慌ててニルファルに縋り付くと、タイトン語で喚き散らしながらペシペシと必死にボディーブローを放ったが、それが全然効いていないことは彼女がフラつきもしないことから明らかだった。

――うう、私はこんなことで友を失ってしまうのか! しかもどう考えても私がファルを暗殺したと思われちゃうから、このまま全面戦争になってしまう……! なんて物を送ってくるんだ!

彼女は神に呪いの言葉を叫ぼうと息を吸い込み、そして絶叫が響き渡った。


「うぅーまぁーいぃーぞぉぉぉ!」


イゾルテは驚きのあまり目を剥いて固まってしまった。仰け反ったままのニルファルが、ようやく果肉を飲み込んで絶叫したのだ。

「これは何という食べ物なのだ!? こんなに甘くて美味しい食べ物は初めて食べたぞ!」

目を爛々と輝かせるニルファルに覗き込まれると、イゾルテはすっと目を逸らした。

「えーと、その……桃?」

「桃と言うのか! タイトンにはこんなに甘い果実があるのか……!」

「えーと、桃は、主に、ドルク産。すぐ腐る、だから、あまり、買えない」

「そうか、じゃあ、もう二度と食べられないかもしれないな……」

そう呟いたニルファルは、悲しそうな顔で未練がましく金属容器{桃缶}を見ていた。普通に考えればドルクに嫁入りしたら散々食べれそうだが、彼女はそこまで思い至っていないようだった。それに、確かにこの(◆◆)桃は確かに二度と食べられないだろう。イゾルテはすっと金属容器{桃缶}を差し出した。

「全部、いいよ」

「ほ、本当か!? やったぁ! ありがとう、イゾルテ!」

「……!」

ニルファルががばっと腕を広げてそのまま抱きついて来そうだったので、イゾルテは慌てて金属容器を放り投げた。するとニルファルはバックジャンプしながら器用にそれをキャッチし、着地したその場で中身を貪り出した。大きな果肉を無理やり口に入れてムシャムシャと咀嚼し、少しでも口の容積に余裕ができると透明な汁を流し込んだ。凄まじく行儀の悪い食べ方だったが、凛々しいはずの彼女の目尻は完全に重力に負けて下がり切っていて、その幸せオーラの前にイゾルテは何も言えなかった。やがて最後の果肉を食べ終え、汁の最後の一滴までも飲み干したニルファルは、幸せそうにほうっと溜息を吐くとフラフラとソファーに歩み寄り、仰向けに倒れこんだ。

 ゴツッ

「痛っ!」

ニルファルは後頭部に感じた痛みに悲鳴を上げると、その痛みの原因を手に取った。

「おおっ、まだあったのか!」

「そ、それは……!」

だがイゾルテが制止する前に、ニルファルは速攻でパカっと開けてしまっていた。開けてしまったのだ、そのパンダーラの箱(注3)を! イゾルテが果物の容器{桃缶}を開ける所を見ていたので、彼女はその禁忌をやすやすと犯してしまったのだ!

 イゾルテは真っ青になってぶるぶると震えだした。ニルファルはこれらの食べ物をタイトン人の普通の食事だと思っているのだ、当然その手の上にある禁忌の食べ物もタイトン人は普通に食べているのだと考えるだろう。そう、「タイトン人は猫を食べるのだ!」と。そして「イゾルテは今まで何匹の猫を食べたんだ!?」と詰め寄られるだろう。「猫を食べる人間なんて信じられるものか!」と言って交渉は決裂するのだ。講和どころか、ハサール人を大陸に逃すという事まで信じて貰えないかもしれない。いや、それどころか「猫たちの仇! 天誅!」と言って今この場で殺されるかもしれなかった。

――私はどこで間違ったんだろう……。誤解で、しかも「猫を食った」という最悪の濡れ衣を着せられて死ぬとは、嘘で塗り固めた私らしい死に方かもしれないな……。

イゾルテは目を閉じて涙を流した。


「ふーん、猫って、割りとさっぱりしてるんだなぁ」


イゾルテがゆっくりと目を開くと、桃を完食して全て飲み込んだはずのニルファルがもしゃもしゃと何かを咀嚼していた。イゾルテは咄嗟に文机の上の四角い容器{さんまの蒲焼}を確認したが、中身は減っていなかった。ゴクリと唾を飲み込むと、イゾルテは意を決してもう一度ニルファルに目を向け、そこで決定的な現場を目撃してしまった。ニルファルが手の上の容器{猫缶}から指先で猫肉(と彼女は思っていたが、本当はマグロと鶏肉のほぐし身)を摘むと、パクリと指ごと咥えたのだ!

「……!」

イゾルテは衝撃のあまり椅子に座り込んだ。

「狼や猪より臭みがない。蛇に近いか? いや、サンショウウオ? 少なくとも、カラスやかわうそよりは、全然マシだな。でも、味付けはもう少し、塩が欲しい」

「……!」

比較対象としていろいろと信じられない動物の名前を挙げられて、イゾルテは口を開けたまま硬直してしまった。その様子に気付いたニルファルは、すっと立ち上がってイゾルテのもとに歩み寄ってきた。

「ごめん、ごめん。これも、独り占めしちゃう、ところだった。イゾルテも、食べろ」

イゾルテの目は、ずずいと差し出されたパンダーラの箱{猫缶}とニルファルの顔を忙しく行き来した。

――まずい! 私が食べなければ、なぜ食べもしない食料を持って来たのかと疑われることになってしまう。そうすれば神からの贈り物について何か悟られてしまうかもしれない……!

イゾルテは何か言って誤魔化さないとと思いつつも、結局何も言葉が思いつかずに口をパクパクとさせることしか出来なかった。それを見てニルファルは何かを悟り、すっと目を細めた。

「もしかして――」

「……!」

――ああ、食べれないと気づかれてしまった!

絶望のあまりイゾルテは手のひらで目元を覆った。

「――手が汚れるのが嫌だったのか? それなら、ほら」

ニルファルがそう言うと、突如イゾルテの口の中に何かが差し込まれた。

「あ……んっ? ……ちゅぱっ」

驚いたイゾルテが手をどけると、ちょうどニルファルの指がイゾルテの口から引き抜かれるところだった。

「#$&?=*}|=!」

混乱して声にならない悲鳴を上げたイゾルテの目の前で、指先にわずかに猫肉が残っていることに気付いたニルファルは、その猫肉を指ごとパクリと咥えた。そして更に指についた油を舐めとるように何度も何度も丹念にぺろぺろと舐め上げたのだ! まるでイゾルテに見せつけるように!

「……!」

猫を食べたという背徳感と、ニルファルの指を咥えてしまったという衝撃、そして、イゾルテの唾液のついた指先を目の前で舐めてみせたニルファルの挑発的な仕草に、イゾルテすっかり混乱し、のぼせ上がっていた。そして真っ赤になったイゾルテと目が合ったニルファルも、自分が舐めている指をついさっきイゾルテの口に差し込んだばかりであることを思い出した。二人は真っ赤になって互いに目線をそらしたが、お互いにチラチラと盗み見るうちにその視線が幾度と無く絡まりあった。そして沈黙に耐え切れなくなったニルファルは、恐る恐るイゾルテに問いかけた。

「……イゾルテ、まだ……食べる?」

イゾルテは答えなかった。彼女はただコクリと頷いたのだ。

「あ……ちゅ……んっ……ちゅぱっ」

「まだ、食べる?」

イゾルテはほうっと熱い溜息を吐きながら、もう一度コクリと頷いた。

「ちゅっ……ちゅぱっ……ちゅぽっ」

「まだ……食べる……よね?」

イゾルテははぁはぁと荒い息を吐きながら、やはりコクリと頷いた。

「これが……最後だぞ」

そう言うニルファルの頬も上気して、少し息が荒くなっていた。

「んっ……あっ……ちゅぷっ……ちゅぱっ……うんっ……ちゅぽっ……」

今度は猫肉を全て舐め取られても、イゾルテはニルファルの指をいつまでも舐めまわし、ニルファルも指をイゾルテの舌に絡ませ続けた。

「ちゅぴっ……ちゅぷっ……うんっ……ちゅっ……ちゅっぽん……あんっ」

遂にイゾルテの唇からニルファルの指が引き抜かれると、イゾルテは最後に残念そうな声を上げた。その声を聞いたニルファルは、背筋がぞわぞわっとして鳥肌が立った。だというのに彼女にはそれが不快ではなかった。逆にこれから何か決定的な事が起こるという予感とその出来事に対する期待感に、彼女の鼓動は昂っていた。

「イゾルテ、まだ……食べたい?」

イゾルテはコクリと頷いた。熱を帯びた彼女の視線を浴びると、ニルファルの顔は火が着きそうなほどに熱くなった。

「もう、猫肉がない。でも、舐めるだけなら……」

そう言って彼女がペロリと唇を湿らせると、それに応えるようにイゾルテもペロリと唇を舐めた。ニルファルの目はその湿った唇に釘付けになった。

「イゾルテ……!」

「殿下ぁ~! 朝食の準備が出来ましたよ~!」


気まずい沈黙が二人を包んだ。


「殿下ぁ~! 起きてます? 殿下ぁ~!」

言葉を失った二人を余所に、イゾルテを呼びに来た兵士は独り言を始めた。

「どうしよう、こういう時は中に入っていいのかなぁ? いいんだよな、きっと。エロイーザちゃんもいないし、仕方ないんだよな、きっと。アントニオの話しじゃあスケスケのネグリジェで寝てるらしいけど、見えちゃっても役得――じゃなくて、仕方ないんだよな! きっと! じゃあ、失礼しまぁ~す」

ガチャガチャと扉を開けようとする気配が伝わってくると、イゾルテはついに爆発した。

「良い訳あるか! 入って来るな!」



 その日、若干の気まずさを伴いながらいつものようにニルファルと行動を共にしていると、午後には2万人以上の大規模な集団が到着した。既に集まっていた人数と合計すると3万5千ほどにもなるだろう。そして一団の代表として、ニルファルの従姉妹だという40前後の女性が挨拶にやって来た。ニルファルによれば、現状ではクレミアに残るハサール人の事実上の代表者だということだった。

「私はデミル族の長バイラムの妻、フェルハです」

ニルファルが間に入って通訳をしながら、ところどころ注釈を付け加えた。

「クレミア半島の、東半分を治める、デミル部族の族長の妻で、私の従姉妹のフェルハ姉様だ」

「私は、プレセンティナ帝国の、皇女、イゾルテ、です」

「彼女はプレセンティナの公主(可汗の娘)のイゾルテです」

「敵であるあなたに腰を折るつもりはありませんが、我々が幸運を喜んでいるとだけは言っておきましょう」

それはつまり、ありがたいけどお前に礼なんか言わないぞ、ということだった。

「姉様! イゾルテは僅かな供だけを連れて、自らここに赴いたのですよ?」

「ニルファル様、あなたは他国に嫁いだ身とはいえ、可汗の娘でしょう。いったいどちらの味方なの?」

「だけど……!」

イゾルテは二人のやりとりは半分くらいしか分からなかったが、フェルハの硬い顔と口調からだいたいどんな内容か察することは出来た。

「私も、戦の事、(わび)ません。ただ、皆さんの安全だけ、保証します。私の、命に懸けて。信じて、下さい」

いつものように頭を下げるイゾルテを見てニルファルは呆れて肩を竦めたが、初めて見るフェルハは戸惑った。とはいえ、彼女には初めから他の選択肢など無いのだ。

「……分かりました。半島を出るまでは、休戦を認めましょう」

気が進まないという姿勢を貫きつつも、言いなりになるしか無いのである。



 挨拶が終わってニルファルがフェルハを案内していると、フェルハは二人きりになった時を見計らって低い声で問いかけた。

「ニルファル様、……戦はどうなったのですか?」

彼女を含めてクレミア半島にいるハサール人には、今はまだ地峡が封鎖されているということしか知らされていなかったのだ。もっとも、ハサール軍がそのまま黙っていると思う者は誰一人居なかった。だが援軍がいつまでも現れず、従軍しているはずのニルファルがイゾルテ達とともにここにいるということが、朧気ながらも彼女に予感を与えていたのだ。ニルファルの方も当然それを聞かれることを予測していたが、イゾルテの安全のためにもクレミアに残された全てのハサール人の安全のためにも、今の微妙なバランスを崩すことは避けたかった。

「大陸に抜けるまでは内密にして下さいますか? そうでなければお話できません」

そう言ったニルファルの硬い顔を見て、フェルハは自分の想像が間違っていないことを確信した。

「やはり、皆が動揺するような結果なのね。分かりました、この場限りと致しましょう」

「戦いは……負けました。惨敗です。父上は8万の兵を率いていたはずですが、戦場を離脱できたのは1万か2万と言ったところでしょう」

「まさか……!」

フェルハの顔は真っ青になっていた。「封鎖を突破できなかった」という程度にしか考えていなかった彼女には、その結果は余りにも衝撃的だった。クレミアに取って返したハサール軍に、クレミアを本拠とする者達が多く含まれていたことはほぼ間違いがないだろう。クレミアから出征したのは人口的に2万騎ほどだろうが、そのうちの3/4が死んだとすれば1万5千もの男たちが死んだことになるだろう。

「私は捕虜となりましたが、イゾルテの話ではどうやら父上は無事に撤退されたようです。バイラム殿の消息は……分かりません」

「……スラム人がそれほど強かったのですか?」

ニルファルは口篭ったが、いずれ分かることだと思い直して正直に話した。

「いえ、スラム人も居たようですが……損害のほとんどはプレセンティナ軍によるものです」

「…………」

その時フェルハの胸中を駆け巡った感情はニルファルには読み取れなかった。だがそれは当然だった。フェルハ本人ですら整理がつかないほど矛盾する気持ちが複雑に絡み合っていたのだから。


 プレセンティナが一族の者達を殺した事に対する反感、憎しみは勿論あった。未だ被害者の名が分からないこの時点ですら、ともすればその感情は堰を切って溢れだしそうだった。伯父である可汗が無事だと聞いて、夫も無事かもしれないと希望を持つことも出来たが、それでもやはり不安は大きかった。なにせ四人に一人しか生き残れなかったのだ! まして血の気の多い息子たちが皆無事である可能性など絶望的だろう。だが、その責任を女のイゾルテに対して追求するのは筋違いにも思えた。それに血気に逸った誰かがイゾルテを殺しでもしたら、ここにいるハサール人全てが危険に晒されることになるのだ。

 純粋に政略的に考えれば、イゾルテを人質に取って地峡を押し通ることが最良であるようにも思えた。だが、もしそれをすればこれまで綿々と築き上げてきたハサールの誇りは地に堕ちるだろう。戦に負け、困窮するところに手を差し伸べてきた相手を、しかもか弱い娘を人質にするなどということを許せば、素朴さと勇敢さを美徳としてきたハサールの価値観を、ハサールの誇りを大きく傷つけることになるだろう。

 ハサールではドルクと同じように世代ごとに後継者争いを繰り返しながらも、ドルクとは違って陰湿な足の引っ張り合いに堕することなく、純粋な競い合いが行われて来た。それは彼らの行いが可汗に相応しく誇り高いものであるかどうかが常に問われて来たからであり、決着が付けば遺恨を残さないことが美徳とされて来たからだった。帝位争いに敗れれば(すべか)らく死を(たまわ)るドルクとは、そして勝つためになら何をしても許されるドルクとは、そこが大きく異なるのだ。他者から(特にスラム人から)見れば独善的ではあるのかも知れないが、そういった価値観を強く共有してきたからこそハサール人の連帯感は強く、少ない人口で6倍を超えるスラム人を支配してこれたのである。

 ましてイゾルテは、敵であるハサール人の安全を保証するために自ら進んで人質になったも同然なのだ。わざわざ捕らえて縄を打たなくとも、逃がしさえしなければいい。もっとも、今更逃げるようなら最初からここにいる訳はないのだが。


 フェルハは深くため息を吐いた。結局彼女の出来る事は一つなのだ。戦いの結果を知らないかのように憎しみを押し殺し、かといって媚びることもなく、超然とするしか無いのである。だがそれでは彼女たちの生殺与奪の権を握るプレセンティナの不興を買うかもしれない。

「一族は私が抑えます。ニルファル様はプレセンティナとの仲介役をお願いします。貧乏くじですが、ドルクに嫁いだあなたにしか頼めないことですから……」

彼女がそう言ったのは、仲介役としてプレセンティナ寄りの立場を取るということは、いずれ一族の不満の矛先に立たされる可能性があると思ったからだった。だが申し訳無さそうなフェルハの顔を見ても、ニルファルはあっさりと笑い飛ばした。

「私は嬉しいですよ。イゾルテのためにも、フェルハ姉様のためにも働けますから。それに、きっと父上やエフメトのためにもなるでしょう」

「クレミアに取り残された私達だけでなく、可汗のためにもなると?」

「イゾルテは……プレセンティナは恐ろしいです。でも、恐ろしいばかりでもありません。イゾルテは、私達ハサールとも仲良くしたいと言ってくれました」

もともと末っ子でお気楽なニルファルであったが、この期に及んで敵の言葉を額面通りに信じている彼女の脳天気さにフェルハは愕然とした。

「……それを、信じると言うのですか? 何万人ものハサール人の命を奪った者の言葉を……!」

彼女の言葉にはプレセンティナへの敵意が僅かに滲み出ていた。

「エフメトは、色々なことを教えてくれました。ハサールの外には違う考え持つ人々がいるということも、そしてそんな人とも分かり合えるということも。イゾルテの考えは……まあ、いろいろ理解できないこともありますけど、それでも、彼女の心は信じられます!」

静かながらも確信を持って言い切ったニルファルに、フェルハは目を見張った。結婚式から(というか、覆面をしてシーツの血を確認してから)一年余り、僅かな間に彼女は大きく成長したようだった。

「……大きくなったのね」

「え゛っ……そうですか? ドルク風の料理も慣れると美味しくて、ついつい食べ過ぎちゃうんですよね……」

しょんぼりするニルファルにくすくすと笑いながら、フェルハは心を決めた。

「分かりました、私も信じます。イゾルテ姫ではなく、彼女を信じるあなたを信じるわ」



2日後全ての部族の全ての氏族が集結を終えると、イゾルテとハサール人達は地峡に向けて移動を開始した。

注1 元ネタはローマ建国の王ロームルスと弟のレムスです。

   ヘームルス=ロームルス

   レウス=レムス

二人は一時期、雌狼に育てられたそうです。つまり狼少女ならぬ狼少年だった訳ですね。……あれ? 意味が変わってる?


注2 元ネタはヤールギュレシ、いわゆるトルコ相撲と言うやつです。女性に泥レスをやらせる見せ物がありますが、あれは許せませんよね。ヤールギュレシをすべきです! もちろんスポーツとして!


注3 パンダーラ=パンドラ です。ええ、言わずと知れたパンドラさんです。実はパンドラさんはゼウスが作った人造……じゃなくて神造人間だったそうです。つまりプロメテウスを罰するために、爆弾(箱)と時限装置(パンドラさん)をセットにして彼の弟に贈った訳です。悪いのはどうみてもゼウスですね。パンドラさん悪くないよ!


食いしんぼな話でした。こういう出来事があったからこそ、イゾルテは缶詰の中身が食べ物だと知っていた訳です。

百合? いえいえ、女の子同士で「はい、あーん」をやっただけです。お弁当のおかずを交換する女子高生やOLと変わりませんよね?

ちなみにイゾルテによると、猫肉はほのかに甘い、背徳的な味だったそうです。その甘さはきっと……桃缶のシロップですね。ニルファルの指に付いていたんでしょう。

背徳的に感じたのは猫肉だと思ってたからです。本当は単に味の薄いマグロと鶏肉のほぐし身なんですけどね。

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