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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第5章 同盟
95/354

歓迎

舞台は再びクレミアに戻ります。

 石鹸で身体を洗い、謎の容器に入った謎の液状石鹸{リンスinシャンプー}で髪も洗ってさっぱりしたニルファルは、ついでに5日間着たままだった服も簡単に洗っていた。服が乾くまでの間裸でいるのはイゾルテの精神衛生上よろしくなかったので、代わりにクローゼットに残っていたエロイーザのメイド服を身に付けた。残念ながらミニスカではないやつである。ちなみにイゾルテの服(とブラ)はサイズが(いろいろと)小さくて入らなかったのだ。

 エロイーザもアントニオも居ないので仕方なくイゾルテが手ずからお茶を淹れ、二人で一服して人心地が付くと、彼女は通訳を呼び入れた。彼はニルファルのメイド姿を見て目を白黒させていたが特には何も言わなかった。通訳を文机の椅子に座らせると、イゾルテとニルファルは並ぶようにソファーに座った。

「ニルファル、半島に残るハサール人を集めて欲しい」

イゾルテの言葉を通訳されると、ニルファルはすっと目を細めた。

「どうするつもりだ、と言ってます」

「大陸に逃がす」

余程意外だったのか、通訳の言葉を聞いてニルファルは目を丸くした。

「条件は何だ、と言ってます」

「条件? うーん、条件……」

イゾルテはもじもじと恥ずかしそうにはにかみながら、チラチラとニルファルの顔を盗み見た。それを見て何かを察したのかニルファルは真っ赤になってそわそわしだした。

「じょ、条件は……その……考えてなかった!」

イゾルテは恥ずかしそうに顔をそむけた。すっかり考えから抜け落ちていたのだ。用意周到な彼女らしからぬ失敗である。

「…………」

しかし、通訳されてもニルファルはなかなか返事を返さなかった。そして、何故かニルファルはちょっと怒っているようだった。

「で、条件は何だと言っています」

「え? ああ、いいよ、今回は」

「何もないのか、と言ってます」

「うん、いいって」

「何か言え、と言ってます」

「…………」

――遠慮とかじゃないんだけどなぁ。それともハサール人的には面子の問題とかがあるのかな?

「えーと、じゃあ、そのネックレスをくれる?」

そう言ってイゾルテがニルファルの胸元を指さした。今は服の下で見えないが、風呂に入っている時にもそれだけは身につけていたのだ。服装は簡素なのにそのネックレスだけはやたらとジャラジャラして――いたような気がするが、実はイゾルテはあんまり覚えていなかった。なぜならその左右により魅力的なものがあったからである。どちらかというと彼女はそちらの方が欲しかった。……色んな意味で。

 だが通訳の言葉を聞くと、ニルファルは胸を押さえ真っ青になってしまった。そして俯いて涙を溢しながら、ぶつぶつと何かつぶやきだした。

――えっ? あれ? そんなに大切なの?

「ごめん、えふめと、みんなを助けたらすぐに自決するから許してくれ、と言ってます」

「嘘だから! やだナー、そんなの冗談に決まってるじゃン!」

イゾルテは思わず立ち上がって叫んでいた。ニルファルは通訳の言葉を聞いて顔を上げると、冗談を本気にしたことが恥ずかしかったのか、照れ笑いを浮かべながら涙を拭いた。イゾルテはニッコリと微笑みながらも頬がヒクヒクと痙攣するのを止められなかった。

――そんなに大切なモノなのか!? ……結婚指輪みたいなものなのかな? そんなにエフメトに惚れてるのだとしたら、羨ましいなぁ……

女としてそんなに深く愛せる夫がいること……ではなく、もちろんそんなにニルファルに惚れられているエフメトが、である。

――しかし、うかつな条件を出せないぞ。無条件でいいと思ってるのに、なんで私が追い詰められているんだ?

「えーと、じゃあ、友達になって欲しい」

「そんなのでいいのか、と言ってます」

「うん、友達として相談に乗って欲しいんだ」

「どんな相談だ、と言ってます」

「仲良くする方法だよ」

「仲良く? と言ってます」

「ニルファルとエフメトだって仲良くなれたのなら、私達も同じように仲良くなれるはずだろう?」

イゾルテがそう言うと、ニルファルはまた真っ赤になってチラチラと彼女を盗み見た。

「同じようにするのか? イゾルテとなら嫌ではないが、と言っています」

「私だけじゃなくて、タイトン全部とだ」

するとニルファルはまた真っ青になった。

「い、いやだ、タイトン中の男と寝ろと言うのか!? と言ってます」

「いやいや、そうじゃなくて。……って私とならいいのか!? って、いや、通訳するな!」

――くうぅ、私はノーマルなんだ! 心が揺れ動くのは動揺しているだけなんだ! うっかりうなずきそうなのは、ちょっと疲れていて頭が重いからなんだ! そうに違いない!

ぶんぶんと頭を振って気持ちを切り替えると、彼女は改めて言い直した。

「私が言っているのはお互いの国同士で仲良くしたいということだ。その相談をさせて欲しいってことだよ」

「約束はできないが、相談だけなら構わない、と言っています」

「良かった!」

こうして当初の目的通り、ハサールの中枢に近い人物に講和の仲介役を頼むことが出来たのである。自らあられもない姿を晒して背中を洗ったり、ニルファルの人となり(と肉体)をじっくり観察した甲斐があるというものである。全てはイゾルテの計算通りだった。そうに違いない。……たぶん。何れにせよ、こうして話はまとまった……ように思えた。

「それで、他に条件は無いのかと言っています」

「…………」

イゾルテは一瞬途方に暮れたが、色々と考えて無難な落とし所を捻り出した。

「じゃあ……歓迎して欲しい」

「歓迎? と言っています」

「私もニルファルといっしょにハサールの集落に行くから、そこで歓迎して欲しい」

ニルファルは一瞬絶句し、真剣な顔をして忠告した。

「彼らの家族も今日死んだかもしれない、と言っています」

だがイゾルテは寂しそうに答えた。

「分かってる。それでも、手遅れになる前に合流だけはしなくてはいけないんだ」

その言葉を通訳されてもニルファルには意味が良く分からなかったが、ハサールの集落へ案内して歓迎することは約束した。



 イゾルテは地峡の防衛と対ドルク軍用の縦深陣地の構築をデキムスに無茶ぶりすると、キメイラ一個小隊だけを率いてニルファルとともにハサール人の集落を探しに出かけた。大打撃を受けたハサール軍はしばらく動きが取れないだろうし、一個半大隊145両のキメイラが補助すれば現状の封鎖線でも十分に対応できるだろう。少なくともドルク軍が到着するまでは大丈夫なはずだった。

 昼はニルファルとともに馬を走らせ、夜は移動指揮車(自称)で寝泊まりすることわずかに3日、ニルファルはどうやってか500人ほどのハサール人の集団を見つけ出した。集落と言っても頻繁に移動しているはずなのだ。恐らくはスラム人の蜂起の後にもスラム人集落から距離を取るように移動したのだろうし、あらかじめこの位置を知ることは出来なかったはずである。

――謎だ……。馬を選んでいたのがポイントなのか? どっちにしろ我々にはマネが出来ないなぁ。

イゾルテは馬をニルファルの側に寄せてその方法を聞いてみた。

「ファル、どうやって、やってる?」

 二人は毎晩移動指揮車でいろいろと話しをしていた(ニルファルは芋虫型夜着{寝袋}に(くる)まってソファーで寝た)ので、随分とコミュニケーションがスムーズになっていた。もっともどちらも正しいドルク語を知らないので、かなりハサール語混じりになっていた。言うなればニルファル語(注1)である。後にエフメトやムスタファを大笑いさせるなんちゃってドルク語なのだが、もちろん二人は気づいていなかった。貴重なハサール語通訳を捕虜の尋問のために置いてきたことが仇となっていた。

「何の話だ?」

「仲間を探す、方法」

ニルファルは首を捻ってうんうんと唸りだした。

「うーんと、その……なんとなく?」

秘密を隠しているとか勿体ぶっているという雰囲気ではなかった。イゾルテはその反応に見覚えがあった。

――これはあれだな。水夫に泳ぎ方を聞くようなものか。

ゲルトルート号の試験航海の時に会った泳ぎの達者だという老水夫と同じ反応だったのだ。当たり前にできるので、どうやっているのか自分でも分からないのだ。

「待ってて欲しい。話をしてくる」

ニルファルは悩むのを諦めて、馬を駆ってその集落へと向かって行った。


 二ルファルを見送ると、護衛のキメイラから小隊長が降りてきた。

「殿下、宜しいのですか? こう言っては何ですが……裏切られる可能性もあります」

「私はニルファルを信じる」

イゾルテは毅然として言い切った。僅かな日数ではあったが一緒に寝泊まりしてみて、彼女の裏表のなさはよく分かっていた。多くの隠し事を抱え込み、裏表が多すぎて時に本当の自分を見失いそうになるイゾルテにとっては、ニルファルの素直で無邪気で天真爛漫な心根は、何よりも魅力的に思えていた。……身体も魅力的だけど。だがやはりイゾルテには、その責任に伴う慎重な考え方も求められた。

「だが、隊長の危惧も分かる。ニルファルが彼らを説得できない可能性は高い」

「……では?」

「戦闘準備だ、馬を後ろに繋ぎ直しておけ。ただし装填はまだだぞ。それは相手の動きを見てからでも十分に間に合う」

「分かりました。イザという時は殿下は馬でお逃げ下さい。我らが時間を稼ぎます」

「はははは、無駄だよ、無駄。私の馬術の腕でハサール人から逃げられる訳がないだろう。彼らが襲って来れば、その時は……突入するしかない」

イゾルテの最後の一言は、顔を伏せ、喉の奥から絞り出すように発せられていた。多くの女子供が虐殺されれば、彼らはそれ以上の犠牲を出さないために退かざるを得なくなるだろう。そしてイゾルテは彼らに憎まれ、魔女としての悪名を高め、友人を一人、永遠に失うのだ。いつも堂々と、あるいは飄々としているイゾルテの苦悩に満ちた内面を初めて目の当たりにし、小隊長は思わず息を呑んでいた。

「そうなれば、どのみち彼らに未来はない。我らに殺されるか、スラム人に殺されるかだ。気は進まないがな……」

「……畏まりました」

 暫くしてニルファルは2騎のハサール人を連れて戻って来たが、それは老人と中年の女性だったのでイゾルテと兵士たちはほっとため息を吐いて警戒を解いた。小隊長は安堵のあまり腰が砕けそうになったが、幸い誰にもバレなかった。


「イゾルテ、長老を連れて来た」

「ファル、ありがとう」

イゾルテが丸兜{ヘルメット}を取ってその金髪と白い美貌を露わにすると、ハサール人たちは息を飲み、すっと目を細めた。

「……スラム!」

敵意を示す彼らに、ニルファルが慌ててとりなした。

「違う、イゾルテ、タイトン人。黒毛馬、栗毛馬、それくらい、違う」

イゾルテにはほとんど同じだと思えたが、彼らにとっては重大な違いなのだろう。プレセンティナ人も帆船をマストや帆桁の数で21通りに言い分けるのだから、似たようなものだろう。

「タイトン、違う。金色の髪、いない」

長老が(こだわ)ったのは、若かりし頃に何度も旧アルテムス領内に略奪に行った経験があったからだった。旧アルテムス領内は比較的にゲルム色が強い地方だが、それでも金髪の者はほとんどいなかったのだ。それを察したイゾルテは文句を言った。

「タイトン、色々。金髪、ずっと北方、母親と、同じ」

イゾルテのドルク語(と彼女は思っているが、本当はニルファル語)はなぜか彼らに通じた。

「北? ふーむ、確かに、西のタイトン、船のタイトン、少し違う。なるほど」

船のタイトンというのはプレセンティナの商人や水夫のことだろう。旧アルテムスの人々に比べれば、プレセンティナにはルキウスやテオドーラのような黒髪で彫りの深い純粋なタイトン系が多いから、傾向としての違いが見て取れるのだろう。もちろんイゾルテだけが主張しても聞き入れられない所だろうが、ニルファルが弁護しているからか、彼女の主張はあっさりと受け入れられてしまったようだ。

 イゾルテはふと気付いた。

――あれ? 長老もドルク語ができるのか。ハサールとドルクは以前から意外と親密だったんだな……

……とイゾルテは思ったが、長老はハサール語を喋ってるだけだった。ニルファル語に慣らされたイゾルテの耳には、方言がキツくてところどころ分からないけど、大意はなんとか通じる、という感じだった。だが、それはどちらかというと長老の方が言いたかっただろう。


「自己紹介、遅れた。私、プレセンティナの、皇女、イゾルテ。あなた達の、敵。だけど、恨み、ない。スラム人、襲う、ダメ。大陸へ、逃す、したい」

あらかじめニルファルから聞いていたのか、長老たちは彼女の言葉を聞いても驚きはしなかったが、反駁した。

「ここは、ハサールの、土地。勝ち取った。血を、流して」

「だけど、今回、勝った、スラム人」

「…………」

それに肩入れした……というか、自分たちの戦いにスラム人を利用したイゾルテがそれを言うのは、事情を知る者にとっては片腹痛い限りだが、何れにせよハサールが負けて窮地に陥っていることは事実であった。戦って手に入れたと主張するのなら、負けた以上はもはや自分たちの物ではないと認めざるを得ないのだ。

「でも、これ以上、血、嫌だ。女子供、犠牲、嫌だ」

「しかし……」

逡巡する長老に、イゾルテは深く頭を下げた。

「頼む、この通り、だ」

それを見てニルファルが目を剥いた。

「イゾルテ! なんでお前が、頭を下げるんだ?」

「……頼みごと、あるなら、当然では?」

イゾルテが不思議そうに小首を傾げると、ニルファルは呆れたように小さく首を振り、再び長老たちに話しかけた。

「イゾルテ、私の、友。歓迎、欲しい」


 ニルファルの言葉を聞いてイゾルテは不審に思った。内容にではなく、話し方にだ。流暢にしゃべっているようなのだが、長老の言葉のように聞き取りにくいのだ。

――なんでファルが長老たちに話しかける時は変な言葉になるんだ? ……ああ、かれらの間ではハサール語で話してるのか。

そう納得して、イゾルテははたと気付いた。

――じゃあ、何で私がなんとなく理解できるんだ!? ひょっとして私はドルク語のつもりでハサール語を覚えさせられちゃってたのか!?

正しくはドルク語をハサール語で補完した中間言語である。ニルファル言なのである。イゾルテは適当なドルク語を教えたニルファルをちょっと恨みそうになったが、よく考えれば一番被害が大きいのはニルファル本人である。イゾルテは普段ドルク語もハサール語も話す必要などないのだが、ニルファルはドルクの皇子の妻なのだ。将来そのへんてこなドルク語が邪魔になって正しいドルク語を修得するのに苦労することは間違いなかった。

――まあいいや。ハサール語のつもりで覚えよう……。


長老はニルファルの言葉に頷いた。

「それは、承諾。この女が、世話、する」

「ありがとう。感謝、する」


 イゾルテ達を迎え入れたハサール人達は、彼女の金髪とキメイラを見て露骨に警戒したが、キメイラから兵士たちが降りて来てスラム人でないことが分かり、ニルファルと長老が北方のタイトン人も金髪なのだと説明すると幾分警戒を解いた。別にスノミ人全員が金髪な訳でもないと思うし、そもそもイゾルテはスノミには行ったこともないのだが、彼女はとりあえず黙っておいた。

――タイトン人よりもスラム人を警戒している理由は、やはり復讐を恐れているからか? 女子供は旧アルテミス領でのハサール人の振る舞いを知らないから、タイトン人の恨みを買っているという自覚がないのだろう。だがそれは私も同じことか。地峡で彼らの夫や息子を虐殺しておきながら、素知らぬ顔で偽善を働こうとしいているのだから……。


 長老たちとニルファルが天幕に集まって相談をする間、イゾルテ達は半分ほどの兵士をキメイラに残しつつも、残りの半分は別の天幕に案内されて謎の液体を手渡された。

「殿下、この白くて臭い怪しい液体は何でしょう? このあたりの石鹸とかでしょうか……」

「うーん、馬乳酒ってやつじゃないか?」

イゾルテは世話係のおばさんに話しかけた。

「これ、馬の、乳の、酒?」

「そう、馬乳酒は、馬の、乳の、お酒。おいしい」

イゾルテはお椀の中身を見つめた。馬乳酒はどう見ても美味しそうには思えなかったが、いきなり酒を出すのだから歓待している事は確かなようだった。ならば飲まねば礼を失するだろう。

「うーん、物は試しだ。えいっ」

「あっ、殿下! 毒味がまだ……!」

小隊長が止める間もなく、イゾルテはゴクゴクと一気に馬乳酒を煽っていた。

「あれっ、意外と普通だ。ちょっと酸っぱくて弾ける感じもするけど、酒精はワインより弱いくらいだぞ」

「……大丈夫なんですか?」

「ああ。お前たちも飲んでみろ」

イゾルテがそう言うと兵士たちもおっかなびっくり口を付けた……が、半分くらいの兵士は「うえっ」と馬乳酒を全く受け付けなかったし、残りも一口飲んだだけで微妙な顔をしていた。それを見てイゾルテは首を傾げた。

「おかしいなぁ、牛の乳と大して変わらないだろう?」

その言葉に兵士たちは愕然とした。そして小隊長が顔を強ばらせながら恐る恐る問いかけた。

「……殿下は牛の乳を飲んでるんですか?」

「……栄養があるんだぞ、あれは」


 牛乳は腐りやすいので新鮮な内に飲む必要があるが、ペルセポリスには牛自体がほとんど居ないので牛乳など全く流通していなかった。だから、バターやチーズは国外から沢山入って来るからありふれているのに、牛乳は飲むどころか見たことすらない者が多かったのだ。では何故イゾルテが牛乳を飲み慣れているのかと言えば、成長に良いと聞いて厩舎で牛を飼っているからである。何の成長を望んでいるのかは(公然の)秘密だが。そして彼女が離宮を留守にしている間、余った牛乳をメイドや料理人達が料理やお菓子作りの研究に流用したりしているのだ。

 例えばエロイーザは持ち前の優れた才能により、クリームシチューを開発して見せた。ホットミルクを作ろうとして野菜スープが入っている鍋にどばどばと牛乳を注ぎ込んでしまい、尚且つそれに気付きもせずに火にかけて温めるという、彼女以外の何者にも不可能な偉業を成し遂げたのである。もちろん失敗も多いのだが、それもやっぱりエロイーザが、持ち前の優れた才能によりぺろりと処理してしまうのだ。

 だからイゾルテは、彼女たちが勝手に牛乳を飲み食いしちゃうことも大目に見ることにしていた。ただし、彼女が離宮にいるにもかかわらず牛乳を使いきってしまった場合には、罰としてエロイーザの胸を揉む――じゃなくて搾ることにしていた。イゾルテに仕え始めた時には大差なかったあの胸が、この数年で大きく膨張したのは牛乳の効果に違いないのだ。だから彼女の胸に付いた脂肪の半分は、本来イゾルテの物であるはずなのだ! だが残念ながら、いくらエロイーザの胸を絞ってみても乳じゃなくて悲鳴しか出なかった。そしてその悲鳴はなんだかちょっと嬉しそうな響きを伴っていた。

 

 それはともかく、牛乳を飲んだことのない者には馬乳酒はキツイかもしれないとイゾルテも納得し、おばさんに注文を出した。牛乳だって温めれば飲みやすくなるのだ。

「私、馬乳酒、好き。でも、彼ら、苦手。温める、願う」

折角の酒を無碍にされて不機嫌になるかとイゾルテは危ぶんだが、おばさんはにっこり微笑んだ。他の者達が顔を顰める中でイゾルテだけは美味しそうに飲み干したからである。きっと馬乳酒はタイトン人の舌には合わなかったのだろうけど、イゾルテは気を遣って美味しそうに振舞っているのだとおばさんは思ったのだ。

「それなら、バター茶、淹れる」

「バター茶?」

「お茶に、乳と、塩と、バター、入れて、温める」

イゾルテは一瞬、その発想の斬新さに目を剥いた。

――塩ミルクティーってこと!? いや、スープと考えるべきか? ふむ、それならありかも。

「お願い、バター茶、楽しみ♪」

イゾルテがにっこりしてそう言うと、おばさんもにっこりして天幕の外に出て行き、すぐに鍋を持って戻ってきた。

「バター茶、貰ってきた」

茶というだけあって、いつでも飲めるように準備されていたのかもしれない。鍋の中を覗くと、ちょっとトロっとしたクリーミーな感じの白い液体が入っていた。

「おお、美味しそうだぞ!」

イゾルテは思わずタイトン語で叫んでしまったが、弾けんばかりの笑顔を見て否定の意味と捉える者はいない。おばさんも顔を綻ばせてお椀に取ったバター茶をイゾルテに渡した。

「ああ、いい香りじゃないか。どれ、味はどうかな……うん、美味しい! でもやっぱりお茶というよりはスープだなぁ」

兵士たちはもはやイゾルテの感想を信じ切れなかったが、こうまで喜ばれては飲まざるをえなかった。だが半信半疑に口をつけてみれば、思いの(ほか)(しょ)っぱ美味しかった。驚き、ごくごくと勢い良く飲み干す兵士たちを見て、おばさんも満足げだった。



 イゾルテ達がバター茶に舌鼓を打っていると、相談を終えたニルファルが訪ねて来た。

「イゾルテ、この集落は、大陸に行くことを、承知した。他の集落にも使いを出して、ここに半島の全てのハサール人を、集めることにした。ここに来る途中、スラム人に見つかった時のため、手を出すな、という命令書を、用意してくれないか?」

「…………」

眉をひそめて沈黙したイゾルテを見て、ニルファルは彼女が命令を出し渋っているのだと思った。

「……ダメなのか?」

イゾルテは悔しそうに顔を伏せた。

「だって、だって、私は……! スラム語、知らない……」

ニルファルはガクッとした。

「……なるほど。でも、タイトン語で、良いんじゃないか?」

「読める、かなぁ……?」

イゾルテは首を傾げた。

 プレセンティナ商人と取引をする都合で都市部のスラム人にはタイトン語を話せる者は多いようだが、読み書きとなると敷居は高いだろう。特に農村部のスラム人は絶望的である。彼らはプレセンティナの国旗すら知らないかもしれなかった。

――いや、今の時点でハサール人を積極的に追っている奴らが居るとしたら、新年に会った彼らのような独立に積極的な一派だろう。それならプレセンティナのことも聞き知っているはずだな……

「分かった、書くよ。でもスラム人は、読めないかも。だから、国旗、作ろう」

「国旗? プレセンティナのか?」

「うん、こっちに、ある」

イゾルテは移動指令車(自称)へ二ルファルを連れて行くと、壁にかかった白い旗を示した。

「この赤いのは……獅子というやつか? イゾルテは見たことあるのか?」

「えーと、一応は……」

イゾルテが見たことがあるのは剥製と敷物だけだった。だから国旗ほどには活き活きとしていなかった。

「これを借りていいか? 女達に同じものを、12枚作ってもらおう」

「12? 分かった。私は、要請書、12通、書いておく」

「要請? 命令じゃないのか?」

イゾルテは肩をすくめた。

「スラム人は、部下じゃない、から」


 ニルファルは文机で書類を書き始めたイゾルテの背中を黙って見つめた。ニルファルは最初この年下の友人のことを皇子だと思っていた。皇女だと分かった後も、小柄で非力で隙だらけの彼女がエフメトの言う魔女だとは思わなかった。だが彼女は誰彼に断ることもなくあれこれと勝手に命令を発し、全てを仕切っているようにも見えた。ここに来る時も部下が止めていたようだったが、結局反対を押し切って僅かな伴だけを連れ、のこのこと敵の中にまでやって来たのだ。そして彼女は今、「スラム人は部下じゃない」と言った。イゾルテのハサール語はかなり怪しいが、ドルク語(と思ってるが実態はニルファル語)ならちゃんとコミュニケーションは取れていた。だからニルファルには彼女が言外に『プレセンティナ人になら命令できるんだけどね』と肩を竦めたのが分かった。分かってしまった。

 ニルファルは静かに問いかけた。

「イゾルテ、姉はいるか?」

「うん? いるよ」

書物を続けながら何気なく答えたイゾルテの言葉に、ニルファルはほっと溜息を吐いた。

――良かった。イゾルテは魔女じゃなかった。

恐ろしい可能性を否定され、彼女は安堵した。だがテオドーラのことを思い出したイゾルテが、余計な一言を呟いてしまった。

「姉上は、今頃、どうしてる、かなぁ?」

ニルファルは、彼女が「地峡で軍を指揮している」姉を心配しているのかと思った。

「……心配か?」

「うん、心配、だよ。身重、だから」

「身重……? 妊娠しながら、軍を指揮しているのか?」

「はははは、まさか。姉上は、軍とは、一切、関係ないよ。国を、出た、こともない」

「…………」

軽く笑い声を上げたイゾルテとは対照的に、ニルファルは真っ青になっていた。

 父を罠に嵌めて数万のハサール兵を死に追いやった魔女は、ニルファルにとって憎むべき敵であった。労苦を共にした部下たちが一方的に殺されたという個人的な恨みもある。あの地で死んだ兵達の無念を思うと、魔女は八つに引き裂いても飽き足りなかった。そしてドルクにとっては、エフメトの盟友(?)であるヒシャームや兄の皇子を殺した魔女は、より大きな脅威であった。その首を取ればエフメトにとっては大きな手柄となるだろう。たとえ手を下したのがエフメトの部下ではなく、妻であったとしても。


 ニルファルは静かに両手を伸ばした。その美しい金髪に隠れた白く細い首は、戦士として鍛えられたニルファルの手にかかれば簡単に手折(たお)ることが出来るだろう。それは一瞬で終わる。苦痛を感じる(いとま)もない。悲鳴を上げることも、絶望に満ちた瞳で二ルファルを見上げることも、ない。だからニルファルが躊躇する必要など何もなかった。


 『でも、これ以上、血、嫌だ。女子供、犠牲、嫌だ』


ニルファルの手がピクリと震えた。

――そういえば、私を襲った男たちはイゾルテと口論していた。あれはスラム人だったのか?


 『頼む、この通り、だ』


手の震えはますますひどくなった。

――スラム人が命令に従わないから、その身を呈して我々を守っているのか……!


 『ニルファルと、私は、敵。だけど、仲良く、望む。捕虜、違う、客』


「……!」

ニルファルは迷いを振り切ると、イゾルテに向って手を伸ばした。


「あっ!」


突然のことにイゾルテは悲鳴を上げた。

「あー、失敗、した。書き直し、だよ。ファル、邪魔!」

ニルファルは腕に力を込めて、イゾルテをぎゅっと抱きしめた。

「ごめん、イゾルテ。ごめん……」

そう言うと、彼女はイゾルテの髪に顔を埋めて嗚咽をもらした。

「えっ? あの、もう、いいから、うん。すぐ、書き直す、から。だから、大丈夫、だよ!」

慰めようとするイゾルテの優しさに、ニルファルはますます力を込めた。

「ごめん、ごめん、イゾルテ!」

「い、いや、ちょっと、苦しい……」

ニルファルの感情の高まりに比例して、戦士として鍛えられた彼女の腕力は遺憾なく発揮されつつあった。

「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん!」

「あだだだだだだだぁ!」

イゾルテは激痛に苦しんだ。せめて背もたれがなければ、ニルファルの胸の弾力が痛みを中和してくれたであろうに。

「イゾルテぇ~、ごめぇ~ん!」

「誰か~、助けて~!」

ニルファルによるイゾルテ暗殺は、うっかり成功しかけてしまった。



 ぐったりしたイゾルテが12通目の要請書を書き上げた時、ニルファルたちは既に11枚の国旗を縫い上げていた。染めている時間も刺繍をしている時間もないので、ありあわせの布を切り貼りして作っていたのだ。

「ファルー、書いたよー」

イゾルテが(したた)めたばかりの要請書を持って長老の(パオ)を訪れると、ニルファルが拷問を受けていた。

「痛っ! うー、また針が……」

「あとは姫様だけなんですよ!」

「なんで結婚する前に花嫁修行をしておかないんですか!」

「ああ情けない。赤子が出来る前にたくさん産着を縫わなければならないんですよ!」

「うー、わはってるよ!」

イゾルテにはニルファルと彼女を囲むおばさんたちが何を言っているのか半分くらいしか分からなかったが、指を咥えてふてくされるニルファルはちょっと可愛くてほっこりしてしまった。

「あっ、イゾルテ! 助けてくれぇー」

ニルファルはイゾルテに気付いて助けを求めたが、先ほど暗殺されかけたばかりの彼女はツンとして取り合わなかった。

「ふんっ、いい気味だ!」

「うぅぅぅ、やっぱりまだ怒っているんだな。イゾルテぇ~、ごめぇ~ん!」

泣きながら襲いかかるニルファルを咄嗟に躱すと、イゾルテはどきどきしながらも余裕ありげに勝ち誇った。

「ふっ、当たら、なければ、どうという、ことは、ない!」

腕力では相手にならなくても、身の軽さだけはイゾルテの方が一枚上手だったのだ。だがニルファル語の会話がカタコトにしか聞き取れないおばさんたちは、イゾルテが何を言っているのか良く分からなかったので、当然縫い物の腕を勝ち誇っているのだと思った。そして彼女を捕まえると、さっきまでニルファルが居た席に座らせた。

「えっ、えっ、何?」

「姫様、ダメ、代わりに、縫え」

その言葉にイゾルテは……ニヤリと不敵に笑ってみせた。

「……ふっふっふ、私は、縫うの、得意だ」

自分で言うようにイゾルテは意外と針仕事が苦手ではなかった。細かいことを始めると没頭する(たち)なので、実は刺繍とかは超得意である。テオドーラやミランダに刺繍入りのハンカチを贈ったこともある。もっとも、面倒臭いから自分用にはやらないのだけど。だからローダス島の講和会談にも軍服に穴が開いたままで臨んだんだけど。

「さて、何を、縫う?」

自信満々に言い放った彼女の前に差し出されたのは、分厚いフェルト生地の白い布と赤い端切れだった。

「え゛っ、こんなに、厚いの?」

イゾルテは愕然として冷や汗をかいた。それは布というより敷物じゃないのかという分厚さで、しかもがっちり締まっていてむちゃくちゃ重かった。丈夫なことだけは確実だったが、彼女の経験してきた縫い物の10倍は力が必要そうなのだ。それに、そもそも彼女の縫い物とは基本的には刺繍なのだが、今回はその分厚い布を二枚も重ねて一緒に縫わなければいけないのだ。

――常軌を逸する話だ……力が20倍必要じゃないか!

「ファルっ、助けてぇ~!」

「フンっ、友達、見捨てた、罰だ」

今度はニルファルが勝ち誇ったが、おばさんたちは彼女も捕まえてイゾルテの隣に座らせた。

「えっ、あれ? なんでだ?」

「姫様は裏側ですよ」

「……どういうことだ?」

「表と裏、二枚縫い合わせないとダメでしょう?」

「ああっ……!」

染めている訳ではないのだから、当然のことである。こうしてイゾルテはニルファルとともに手ひどい歓迎を受けた。というか手に酷い歓迎を受けたのだ。翌日からイゾルテはジンジンする指先を守るためドレス用の白手袋をはめた。書き物が先に終わっていたのが、せめてもの救いであった。

注1 ドルク語とハサール語は同じ言葉から派生した方言みたいなものです。標準語と沖縄方言(うちなーぐち)みたいなものでしょうか。普通に喋っても全然通じませんが、互いに気を遣って話せば簡単な意思の疎通くらいは出来るでしょう。

だからニルファル語は、言わば旅行帰りのなんちゃって島人(しまんちゅ)が知ったかぶりして話す似非(えせ)沖縄方言(うちなーぐち)のようなものでしょう。基本は標準語なんだけど、沖縄方言テイストをちょこっと加えた感じ――島唄の標準語バージョンみたいな感じでしょうか。

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姫様が急に恋愛脳になって、これから先を読むのが不安…
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