救援
本題じゃない前半が無駄に長くなってしまいました……
プレイアダス七都市連合の一番西の都市メロピーを攻略したエフメトは、そこに10万の軍を置いて東に戻った。アムゾン海沿岸の都市エライノーを攻略するためである。メロピーに10万もの兵を置いてきたのは、プレセンティナと呼応している可能性のあるディオニソス王国に備えるためである。これまでに攻略した5都市に残した兵力は合計で19万に及ぶが、その大半は軍政が落ち着いたらエフメトの後を追うことになっていた。
エライノーは既にターウグテーとアスタロペーを攻略した別働隊が包囲して攻撃準備を始めていた。エフメトは彼らと合流すると改めて南のアルクヨネーに5万を分派し、残りの17万を以ってエライノーを攻撃することとした。どちらもエフメトの指図がなくても簡単に落城させられるだろうが、どのみちその先に向かうにはまとまって行動する必要があった。プレセンティナがホールイ3国と協調行動を取っているとわかった今、エウノメアー王国との国境の山脈には魔女の指揮のもとで防衛線が築かれているはずだからだ。それにエフメトは安心して包囲していられるエライノ―で試しておきたい事があったのだ。
彼はセオリー通り各種攻城兵器を作らせる傍ら、包囲網の一角から全ての象と馬を遠ざけた。騎兵は勿論、輜重のための馬車や荷駄も含めてだ。その上彼自身がそこを視察する際にも、わざわざ馬を降りててくてくと1ミルム以上も歩いた。ニルファルはそれを不思議に思いながらも、文句も言わずに彼に付いていった。ブラヌが罠に嵌められる5日ほど前のことである。
「ドルクでの試射には立ち会ったが、果たして実戦でも役に立つかな?」
「エフメト、何のことだ?」
「わざわざ山を越え谷を越えてドルクから運んで来た新兵器だ。都市攻略の切り札になる……かもしれない」
「新兵器?」
「ほら、アレだ」
エフメトが指差さした先、50mほどの所には巨大な青緑色の筒があった。その周りにはドルク兵がわらわらと集って忙しそうに働いていた。
「あれって武器だったのか? 城を作る時の土台にでもするのかと思っていたぞ」
「あれは青銅だ。土台なんかにしたら潰れてしまうぞ」
「じゃあどうやって使うんだ?」
「まあ見ていろ。ハシムぅー! 始めさせろぉー!」
エフメトが両手を振って大声で怒鳴ると、兵を指揮していたハシムが手を振り返した。そして彼等は何故か耳を押さえてその場にしゃがみこんだ。不思議に思ったニルファルがエフメトに向き直ると、彼も両手で耳を押さえて口を大きく開き、しゃがみこんでいた。その間抜けな格好に彼女は思わず笑い出した。
「わははは、エフメト、何だその格好は? 何で耳を――」
ずどおおおおおおおおおぉぉぉん!
「――××××××!」
その凄まじい音にニルファルは悲鳴を上げたが、それは誰の耳にも入らなかった。というか、彼女自身ですら自分が何と叫んだのか分からなかった程の轟音だったのだ。
「×××××、××××?」
ふと気付けば、耳鳴りの向こうから小さくエフメトの声が聞こえて来て、手を差し伸べられた。彼女はうつ伏せに地面に倒れていたのだ。
「××××、××××××××××!」
彼女は差し伸べられた彼の手をはたいて何とか身を起こしたが、腰が抜けていて立ち上がることも出来ず、当然いつものように「エフメトの、バカぁぁぁぁ!」と叫んで逃げることも出来なかった。
「悪かったな、ニルファル! 俺も最初は驚かされたんだ!」
彼女の耳元でそう怒鳴ったエフメトは、彼女が逃げられないのを良いことに、ついでにその耳たぶを甘噛みした。
「……!」
「迎えを呼んでやるから、しばらくの間大人しくしていろよ!」
怒りと恥ずかしさでプルプルと震えるニルファルを置き去りにして、エフメトは高笑いしながらハシムたちの許に歩いて行った。
轟音を上げた青銅製の筒は、ウルバヌスというタイトン人が作った火薬を用いる兵器――通称ウルバヌス砲(注1)だった。500kgの巨石を3ミルム先まで飛ばすという、常識を打ち破るトンデモ兵器だ。トンデモ兵器のトンデモ兵器たる所以は、トンデモな点がトンデモなくあることである。500kgという弾丸の大きさも、3ミルムという飛距離も、どこに飛んで行くか分からない事も、次弾を準備するのに6時間かかることも、むちゃくちゃ重くて台車ですら耐えられずにコロで運ぶしか無かった事も、全てがあまりにもトンデモだった。
しかもやっと出来上がった時には海峡突破も儘ならなくなってしまい、使い所がなくなってしまったのもトンデモだった。海峡の船を狙ったところで当たるはずもなく、しかもそんな足の遅い兵器を海岸沿いに置いておいたらあっさり奪われるのがオチだった。だがだからといってガルータ地区に向かって撃っても、城壁の中身が空き地では限りなく命中率が低い。100発も撃てれば2~3発くらい当たるかもしれないが、1日にせいぜい3発しか撃てないので当たるまで何日かかるのか分かったものではないのだ。しかもプレセンティナなら再装填中に城壁を修復してしまうだろうし、その間に攻めようにも穴が一箇所しかなければ魔女の壺の集中攻撃で防がれてしまうだろう。
そんな訳で、遥々アムゾン海を迂回した今回の作戦がなければ、危うく歴史の片隅で忘れ去られてしまうところだったのだ。
「ハシム、着弾はどこだ?」
エフメトがハシムに声をかけると、彼は恐縮して頭を下げた。
「城壁の中です。すいません、手前に落とすくらいなら街の中に落とせと指示したものですから……」
エフメトは肩を竦めた。
「まあいいさ、再装填は不要だ。さっさと攻め落として着弾地点を調べに行こう」
「はい、では……あ」
「ん? どうした?」
「白旗です」
ハシムが指さした先を見ると、城門の上で白旗が振られていた。実にあっさりしたものである。だがそのあっさりさが、逆にエフメトの心に引っかかった。
「……なるほどな、こういうことか」
ポツリと呟いたエフメトを訝しむように、ハシムは眉根を寄せた。
「何がですか?」
「魔女だよ、魔女。海峡での戦いの時、確かに我らを襲った怪船は凄まじかったが、ガルータを囲んでいた兵には関係無かったはずだ。だが、総崩れになってヒシャームまで討たれてしまった。ベルケル兄もそうだ、なんだか訳の分からない攻撃とやらで全軍が潰走したらしいではないか」
「そりゃあ、なんだか訳の分からないなら怖いですからね」
「だからさ。ウルバヌス砲もなんだか訳が分からなくて、過剰に恐れているんだ。だからあっさりと降伏した」
「……つまり、魔女もハッタリだと?」
「さあな。だがコレはほとんどハッタリだろう? 奴らはコレが連射できないとは知らないし、狙った所に飛ばないことも知らない。だからきっと、降伏しなければ一日に百発も二百発も砲撃を受けると思って降伏したんだと思うぞ」
気負ったところのないエフメトの言葉に、ハシムはしぶしぶ同意した。
「そうかもしれませんね……」
「ところで今回の先鋒はどの隊だ」
「第7軍団です」
「降伏勧告はしてあるんだよな?」
「もちろんです。包囲前に渡してあります」
彼らが言っているのは早期降伏を促す矢文のことだ。内容も他の都市に送りつけた物と同じである。
『包囲する前に降伏すれば、市民の生命と自由を保証する。矢を放つ前に降伏すれば、市民の生命を保証する。兵が城壁を越える前に降伏すれば、略奪に期限を設けると保証する。その後に降伏すれば、お前たちが全てを失うことを保証する』
矢文に従えば、ウルバヌス砲を放ち兵が城壁を越えていないこのタイミングで降伏してきた以上、略奪に期限を設ける必要があった。
「じゃあ、交渉して来い。略奪の期間は、武装解除が昼前に終われば正午から日没まで、正午を過ぎれば日没から夜明けまでだ。渋ったら『もう一発打ち込みましょうか?』とでも言ってやれ」
ハシムは呆れたように肩を竦めた。
「分かりました、行って参ります」
彼は馬を探して周りを見回し、今度はがっかりして再び肩をすくめると、とぼとぼと城門に向って歩いて行った。
同じ略奪でも、時間制限が有るか無いかで随分と様相が異なる。市民の側は妻子と金目の物を天井裏や地下室に隠し、兵士の側は暴行や虐殺より隠された財産の捜索を優先する。市民はその間を逃げ切れば奴隷にされることもなく、隠し通した財産は手元に戻るのだ。仮に妻子を奪われても財産が残っていればそれを使って買い戻す機会も与えられることになっているので、兵士の側もしばらくの間は捕らえた女に手をつけることは許されない(ただし、制限時間内にそこら辺で押し倒す分には自由である)。だから街としては制限時間が短ければ短いほど有利だった。
結局交渉はすぐにまとまり、街は慌てて武器を城外に放り出した。正午を目前にして武装解除が完了した事が通知されると、3つの城門の前に集まっていた第7軍団5万の将兵はまるで戦いに負けたかのように大いに嘆き悲しんだ。だが正午の鐘がゴーン、ゴローンと鳴らされると、彼らは目の色を変えて街に飛び込んでいった。時間が短くなった分、より頑張って宝探しをしなければならないのだ。
本来は略奪中の城内には入らない主義のエフメトだったが、今回はウルバヌス砲の威力を確認するために街の中に入った。本来こういう場では逃げまわる市民の悲鳴や、破れかぶれの抵抗とそれに対する暴力の応酬による怒号と剣戟の音が聞こえてくるものだが、悲鳴も闘争の気配も未だ鳴りを潜めていた。捕まってもまだその場でどうにかされる訳ではないし、後で助かる可能性があるから市民も決死の抵抗をしなかったし。兵士の方も無駄に戦ったりすれば怪我をするだけでなく、怪我の治療によって略奪を中断されてしまうのだ。だから兵士たちの破壊も暴力もどこか統制された雰囲気が漂っていた。特に火事なんか起こしたら宝探し中の他の兵士に大迷惑なので、返って兵士の方が火の元には注意していたほどであった。だが火事や殺人はともかく、女の方はエフメトの想像を超えて暴行が始まっていた。1年以上の禁欲の結果、金銭欲より性欲を優先させる者が彼の想像よりも多かったのだ。
それらを横目でチラリと眺めながらも、エフメトは咎めることもなく通り過ぎた。それは兵士たちの正当な権利なのだから。ただ彼は一言だけ、ポツリと感想を漏らした。
「まったく、性欲も抑えることができんとはだらしのない事だな」
横に居たハシムは唖然としたが、何も言わなかった。この状況でエフメトが女漁りに狂奔しないのは、行軍中でも毎晩欠かさずにニルファルと同衾しているおかげである。ただ一人だけ性生活が充実しているエフメトが上から目線で呆れているのはムカつくが、狂奔されても困るので文句は言えないのだ。
「交渉中に着弾場所は聞き出しました。港の方です」
「港ぉ? 飛ばしすぎだろう。ホントに命中しないな」
「まあまあ、飛距離があるのは良いことですよ。ペルセポリス相手なら飛び過ぎて困ることもないでしょう」
二人は護衛を連れて港へと向かった。
ウルバヌス砲の弾丸は自然岩を削って粗い球状にしたものである。高速で飛来する500kgの巨岩が建物に当たればどうなるか――
「まあ、当然こうなるわな」
港湾地区には倉庫らしき建物が軒を連ねていたが、その内の一軒が半壊していた。砲弾は瓦礫で埋まっていてどうなっているのかも分からないし、残りがいつ崩れて来るか分からないので立ち入る事も出来なかった。
「城壁にどの程度のダメージを与えられるかは、地面にどれだけめり込んでるのかを調べさせないと分からないな」
「瓦礫をどけるにしても、今は兵を動かせませんよ?」
エフメトが周りを見回すと、兵士たちが財宝探しに躍起になっていた。倉庫には麦やら豆やらはズタ袋でごろごろ転がっていたが、彼らが欲しいのはもっと小さくて軽くて高価な物である。だがそれを小麦や薪や石ころの中に隠している可能性もあるから、様々な所を探しまわっていた。中には港に飛び込んで水中を調べている者までいた。
「いきいきしてるなぁ。プレセンティナと戦ってる時とはエラい違いだ」
「それは、まあ、一般の兵士にはこれくらいしか役得がありませんからねぇ」
手が空いてしまったエフメトは呑気に周囲を見回していたが、ある一点で視線を止めた。
「ところで、交渉後の出港は禁じたんだよな?」
「当然です。でも、交渉の前に全て出港させたんだと思いますよ。略奪を受けると分かっていて港に停泊させておく理由が無いですから」
「じゃあ、あれは降伏前に出港した船団か?」
「えっ?」
エフメトは水平線上に見える船団を指さした。その5隻ほどの船団は舳先をこちらに向けていたが、彼らの見守る中でゆっくりと変針しようとしていた。
「あれはガレー船ですよ!? こんな街が5隻も持ってるとは思えません。あれだけでも1000人くらいの水兵が要るはずです」
「アムゾン海で白い旗と言えば?」
「……プレセンティナですね」
一瞬、二人の間に沈黙が流れた。
「プレセンティナ軍か……赤い獅子すら懐かしいぞ。そこまで見えないが」
「危なかったですね。降伏前に奴らが到着していたら長引きましたよ」
「確かにな。ところで、奴らは再奪取を試みると思うか?」
「どうでしょう。ガレー船が主体ということは、陸兵を多く乗せているとも思えません。彼等がこの都市の兵と住民を指揮した場合は厄介だったでしょうが、水兵だけで不案内な都市に攻めてくる可能性は低いと思います」
「そうだな、少なくともあれだけで攻めてくることはないだろう。攻めてくるなら何らかの策を持ってのことだ。例の鉄馬車とか」
「それこそありませんよ。敵の目の前で悠長に接岸して鉄馬車を下ろすなんてあり得ませんって」
「それもそうだな」
とりあえず喫緊の危険はないと見越して、ふたりははっはっは、と笑いあった。
「しかし、例の怪船がいないな」
「本国に残してあるのでしょう。このあたりで海戦があるとも思えませんし」
「だが、それならなぜガレー船が来ているのだ? 陸兵を運ぶのなら帆船の方が良いだろうに」
「スピードを優先したんじゃないですか? 現にあと一歩で我らより先に到着するところでした。危なかったですよ」
「うーむ、それならいいんだが」
二人が悠長に会話を交わしている間に、プレセンティナ艦隊は変針を終えて東に向けて去っていった。
「ところで、なんで東に去っていくのだと思う? 南に帰っていくのなら分かるし、このまま北に向かって我らの後背を脅かそうとするのも、まぁ分からんでもないのだが」
「そうですか? ハサール相手にそれをするのは自殺行為だと思いますけど……」
「しかしハサール国内はほとんど空だからな。それにその素振りを我々に見せるだけでも大きいぞ、後方に兵力を回したり、輜重の護衛を増やしたりせざるを得なくなる」
「なるほど」
「で、何で東に行くのだと思う?」
「……沖に出て姿をくらます為では?」
「なるほど。で、姿をくらませてどこに行く? 本当に後背を扼すのか? だとしたらどこだと思う?」
「……クレミア、ですか? しかし、それこそ可汗が向かっています。今更行っても命取りですよ」
クレミア半島で叛乱が起こり可汗が鎮圧に向ったことは、当然ながらエフメトにも知らされていた。8万のハサール騎兵を相手に、千程の水兵が地上戦を挑むのは明らかに無謀であった。もともと地上戦が苦手だという意識もあるはずだから、プレセンティナ海軍がそんな作戦を取るはずがなかった。
「そうだな……」
そう言って同意しつつも、エフメトは腕を組んで考え込んだ。
――可汗が向ったことを知らなければあり得るのか? いや、そもそも碌な情報もなしにハサール本国に堂々と乗り込む方がどうかしている。だとすれば、逆にハサール国内の情報を掴んでいる可能性はないか? 叛乱を起こすくらいなのだから、スラム人が内通している可能性は高いのではないか? ……いや、そもそも、この時期に叛乱を起こしたのはスラム人の考えなのか!?
その恐ろしい思いつきに戦慄しながら、彼は低い声を出した。
「ハシム、もう一つ聞こう。魔女はどこに居ると思う? ハサール軍からの連絡で、魔女らしき軍に接敵したという情報はあったか?」
「いえ、ディオニソス方面もホールイ方面も、山脈に沿った普通の抵抗線はあるらしいですが……」
「そうだな。そこに居ないとも限らない。だがその他にハサールが索敵できていない敵が1つだけいる」
「今の艦隊ですね」
すかさず応じたハシムの言葉に、エフメトは一瞬言葉に詰まった。
「……だが、ハサールが索敵できていない敵が2つだけいる」
ハシムは肩を竦めて呆れていた。
「はいはい、今の艦隊とどこですか?」
「クレミアだよ。唯一の陸路を遮断され、現地の兵力では突破できないでいる。だからクレミア半島内部の情報は完全に遮断されている」
「水上を脱出した者はいないのでしょうか?」
「ハサール人は全て遊牧生活を送っているんだぞ? 水上交通はスラム人によって運営されているのだろう」
「では、クレミアに魔女が乗り込んでいると?」
「おとなしくペルセポリスにおさまっているような女ではないだろう。その点、クレミアを突くというのは実に魔女らしいではないか」
「では、あの艦隊は魔女の援軍に向かったとお考えで?」
「ああ、可能性は高い。それにガレー船は帆船よりも浜辺への揚陸に向くと聞いたことがある。だから上陸地点は選びやすいのだろう」
「でも、この街にもクレミアの港町にも岸壁や桟橋がありますよ? 帆船でも困らないのでは?」
「……だよな。ということは、港ではない所に行くつもりなのか? しかしどこへ……あ」
「……?」
ハシムが突然黙り込んだ主君を訝しく思っていると、エフメトは今度こそ真っ青になった。彼が気付いた可能性は恐ろしい物だった。そしてそれは焦土作戦とも、プレイアダス七都市連合が抵抗した事とも、突然のスラム人の叛乱とも完全に合致していた。
「まずい、まずいぞ。おい、なんてこった。ニルファルを呼べ、大至急だ!」
伝令が慌てて走り去って行くと、ハシムが囁いた。
「良いんですか? 略奪騒ぎを見せたくなかったんでしょう? 女を襲っている者だっているんですよ」
先程より時間が経った分、女を見つけた者も増えただろうし、金品には十分に満足して今度は性欲を満足させることにした者もいるかもしれない。家の中に隠れていた女をわざわざ街路に引き出して犯す変態は少ないだろうが、目も耳も良いニルファルなら確実に悟るだろう。
「見せたくはないさ! だが、今は一刻を争う。舅殿の身が危ないんだ」
「……どういうことです?」
思いもかけないエフメトの深刻な様子に、ハシムも思わず声を潜めた。
「クレミアの占領が魔女の手によるのなら、当然その後のことも考えているだろう。取って返したハサール軍を料理する手段もな」
「しかしハサール騎兵は、不利と見れば雲を霞と逃げちゃいますよ? プレセンティナに追いつけるとは思えません」
「だからだ、だからこそハサール騎兵を始末するには包囲する必要がある。地峡に押し寄せるこのタイミング、あまりにも好機ではないか? 俺なら地峡の半島側に防壁を築かせる。そしてこにハサール騎兵が押し寄せた時、地峡の反対側も閉じる」
「……!」
ハシムは思わず目を剥いていた。確かにそれならハサール軍を簡単に包囲できるし、これまでの流れを魔女が作り出しているのだとしたら、ハサール軍が地峡を通ることはほぼ確実に予測されているだろう。
「そこまで見越していたんだ! スラム人が叛乱を起こしたのは当然プレセンティナの扇動によるものだろうが、使い捨ての陽動なんかじゃない。ドルクとハサールの分断も狙っていたんだ。クレミアはハサールの国内問題だし、歩兵を連れて戻るには遠すぎる。そうやってハサール騎兵だけをおびき寄せて罠にかけたんだ。ハサール騎兵だけなら簡単な障害で足止めできるから、一旦地峡に閉じ込められれば助かる術はないぞ!」
エフメトの言葉を聞いたハシムも真っ青になっていた。
「もしここで可汗が倒れればハサールは跡目を巡って分裂しかねません! せめて占領地の分割が終わっていれば幾つかの王国が並立したかもしれませんが、現状ではそれも無理です。我らは局外に置かれ、本国への道も断たれます!」
「あるいは我らを取り込もうとする者もいるかもしれんが、何れにせよ局外中立と見なされるには関係がありすぎ、無害と看做されるには兵力が大きすぎる。いっそ単独で進軍した方がマシかもしれんが、糧道をハサールに依存している現状ではそれも無理だ」
エフメトの表情も苦り切っていた。
「しかし、ニルファル様にどうお伝えするのですか? 可汗の危機を知ったら飛び出して行きかねませんよ?」
「飛び出して行ってもらうしかない。ハサール軍を糾合して増援を送り込むためには、ニルファルが行かねば話にならん。それに跡目に関係ないニルファルだからこそ、駆け引きに時間を費やされることもないはずだ」
「なるほど、確かに。可汗を救えば跡目争いに大きくリードできますから、諸侯の兵を糾合する上で駆け引きがありそうですね。でも、姫が危険ですよ……?」
「分かっている! ……地峡が危険だと分かっているのだ、間に合わねば引けと言っておけば良い」
ニルファルが目前で父が殺されるのを黙って見ていられるだろうか? ハシムはそれを疑問に思ったが、苦り切ったエフメトの顔を見れば彼がその答えを知らないはずがなかった。それでもニルファルを送り出さねばならない現状に、二人は気まずく押し黙った。
「エフメト、何の用なんだ?」
いつになく不機嫌なニルファルの声が聞こえて二人が振り返ると、やはりいつになく不機嫌そうな顔をしたニルファルが馬に乗っていた。ここまでの道のりで、女としておよそ許しがたいものを見たのだろう。それでもその狂態にエフメトが参加していない事で怒りを抑えているのだ。エフメトもハシムも、エライノーが抵抗した以上は兵士たちが略奪するのは当然だと思っていたが、さすがにその姿を身内の女性に見られて気まずい気持ちはあった。だが今はそれどころではない。
「舅殿の危機だ。一刻を争う」
「なに?」
「クレミアに向かった舅殿は、当然ペレコーポ地峡を押し通ろうとするだろう。だが、恐らく間に合わない」
エフメトの顔はニルファルが見たこともないほどに深刻で、彼女も声を落とした。
「確証があるのか?」
「ない。だが確信はある。そしてそれが罠だという確信もだ」
「罠?」
「可汗が地峡に入った後、海から上陸して大陸側の出口を塞ぐつもりだ」
「……まさか! 仮にそんなことをしても、返す刀で蹴散らすだけだ!」
「そこをどうにかするのが魔女だ」
「魔女?」
「ああ、プレセンティナの皇女だ。魔女はかつて網を使って我らのガレー船を封じ、海峡を渡る筏を海ごと燃やしてみせた。海峡よりは地峡の方が断然燃やし易いだろうな」
彼の語る魔女の逸話は海戦に疎い彼女にはいまいちピンとこなかったが、なんだかスゴいと言う事だけは分かった。彼女は焦土作戦の裏にも魔女が居ることを知らなかった。
「……それが全て魔女の罠だと? エフメトはなぜ分かったんだ?」
「魔女がいないからだ。手ぐすね引いて焦土戦に持ち込んでおきながら、ハサール騎兵の半分が退いたこの時期に何の攻勢もかけて来ない。
だが索敵が及んでいない前線が一箇所だけあった、それがクレミアだ。そして魔女なら二の手三の手を用意しているに違いない。それがこれだ。今可汗を失えばハサールは分裂しかねないが、それだけはどうしても避けたい。だからお前に伝えたのだ」
「……その魔女というのがどんな奴かは知らないが、買いかぶってはいないか? エフメトの言葉でも、少しばかり信じがたいぞ」
「昨年、俺の長兄が魔女に敗れ、殺された」
「何!?」
正確には殺したのはエフメトだったし、半殺しにしたのもコルネリオだったが、ベルケルが魔女に敗れたのは事実だから、あながち嘘でもなかった。
「その前には俺も敗れている。海を燃やしたというのは、まさに俺がこの目で見たことだ。本来この場にいるはずのヒシャームという男も、その時に魔女に殺されている」
正確にはヒシャームを殺したのもコルネリオであったが、後で糸を引いていたのはイゾルテだったので、これもだいたい嘘ではない。彼はそこまで知らないが、イゾルテの作った混乱こそが全ての根源であると信じてこう言ったのだった。
「だが勘違いするな。お前は舅殿にこの事を伝え、間に合わねば諸将の兵を糾合してこれを救うのだ。決して単独で戦おうとするなよ。手ぐすね引いて待ち構える魔女と戦うには、お前の兵は余りにも少なすぎる」
「しかし、父上が……!」
反駁しようとしたニルファルの腕を取ると、エフメトは懇願した。
「約束しろ、ニルファル! そうでなければこの街から一歩も出さん。お前を失うよりは、お前に恨まれる方が百倍マシだ……!」
「エフメト……」
「ファル……!」
見つめ合う二人を見てハシムはがっくりと脱力した。ここはちょっと感動すべきところではないかとも思ったが、二人が盛り上がってハシムが脱力するのはもはや条件反射であり、彼自身にも止められなかったのだ。
「あー、皇子が女に手を出さないようちゃんと監視しておきますので、安心して下さい。その代わりニルファル様が早く戻ってこないと、私では抑えられなくなるかもしれませんよ? 皇子って本当に女好きですから」
エフメトは感動のシーンに水を差したハシムにジト目を向けたが、ニルファルは柔らかく微笑みかけた。
「そうか、ではエフメトが浮気しないようにすぐに戻ってこないとな! それまでしばらく頼むぞ、ハシム殿」
その静かな微笑みを見て、彼は初めて「あ、あれ? ニルファル姫って、ちょっと可愛いかも……」と思ってしまった。
「畏まりました、奥方様」
彼はそう言って頭を下げながら、「いやいや、やっぱテュレイ姉の方が女らしいって。気の迷いだからね、テュレイ姉ェ~」と懺悔していた。彼は恐妻家なのだ。
ニルファルは直卒の騎兵を率いてクレミア半島めがけて逆進を開始した。各地の友軍に数人ずつ伝令として走らせると、彼女の手元に残ったのは400騎あまりに過ぎなかった。だがニルファルはその半数から替え馬だけを借り上げ、残りの200騎に替え馬1500頭余りを連れてひたすらに東に駆けた。飲食も睡眠も馬上でとり、一日に150ミルム以上を駆けること5日、ようやくクレミア半島の付け根、ペレコーポ地峡に辿り着いた。そう、彼女は父の軍勢に追い付くことなく、地峡にたどり着いてしまったのだ。彼女が到着した時、すでに地峡からはもくもくと煙が上がっていた。
「くっ、遅かったか!」
ニルファルの言う罠の存在に半信半疑だった彼女の部下たちは、プレセンティナの皇女だという魔女と、その策を見破ったエフメトの神算鬼謀に舌を巻いた。だが最初からエフメトを信じて疑わなかったニルファルにはそんな感動など一つもなかった。ただ間に合わなかったという絶望感が彼女を叩きのめしていた。
「姫様、未だ火の手が上がっております! ということは、まだあの炎の向こうで味方が抵抗しておるということですぞ!」
その言葉に彼女の瞳は揺れた。
――エフメトは味方を集めろと言っていた。確かに今の我らには戦いなど荷が重いが……。
ニルファルの手勢は200騎を遥かに割り込み、120騎あまりにまで減っていた。脱落者は驚くほど少なかったが、疲れ果てた馬を置き去りにする際に人も置いて来る必要があったのだ。50ミルムほど手前で最後の替え馬に乗り換え、残ったのが僅かに120騎あまりである。8万を数える可汗の軍を包囲する敵を、わずかこれだけで突破しようというのはあまりにも無謀だった。だが、今まさに煙を上げる炎の向こうに父が囚われているのである。そして父の死はハサールの分裂を意味し、彼女の愛するエフメトは最大の庇護者を失って故国から3000ミルムも離れた地で孤立することになるのだ。片や父と夫、片や自分、どちらの命がより大切かは考えるまでもなかった。
――すまん、エフメト! これもお前のためだ!
彼女は声を張り上げた。
「その通りだ、まだ間に合う! 敵は我々に背を向けているのだ! このまま突撃して包囲網に穴を開けるぞ! 道さえ作ればハサール騎兵の足に敵うものはいない!」
「「「フラー!」」」
彼女の部下たちは疲労困憊し息も絶え絶えな状態であったが、その瞳は戦意に満ち満ちていた。ここまで苦労したのにそれが無駄になるのが許せなかったのかもしれない。あるいはニルファルの悲壮な決意に心を打たれたからかもしれない。そしてあるいは、ニルファルが命を賭して愛する父を守ろうとしているように、彼等も命を賭して愛するニルファルを守ろうと決意したのかもしれなかった。彼女達は一丸となって再び走りだした。
地峡に近づくと、大陸側の根本は広く炎が燃え上がり、加えて馬防柵まで設けられているのが見て取れた。幅は僅か4ミルム程とはいえ、ハサール軍を通した上で塞いでみせたというのなら、よほど手早くやってのけたのだろう。エフメトの言う通り周到に準備された罠だったのだ。
その封鎖線を辿って地峡の西の端に目を向けると、馬車が炎の中に消えていくのが見えた。よくよく見ればそこは封鎖線が二重になっていて、その間を通って地峡の内外を出入りできるようだった。炎が目眩ましになっているので、そうと知らなければ二重になっていることに気付けそうもなかった。
――そうか、奴らとて補給も退路も必要だろうが、障害物はともかく炎はいちいち消す訳にもいかん。ああやって二重にしておけば遠目にはつながっているように見えるという訳か……。父上にあの抜け道の存在さえ教えられれば、あとは何とでもしてくれるはずだ!
だが、それを教えるためには地峡に入らねばならず、そのためにはその抜け道を突破するしか無かった。そしてそれだけなら彼女の僅かな手勢でも成し得る可能性があった。
「地峡の西の端に炎の切れ目がある! 敵も補給のためにあそこだけは道を残しているのだ! 我らはそこを突破して友軍に抜け道の存在を教える! 私について来い!」
「「「フラァァァ!」」」
ニルファルは疲れきった乗馬と自分自身に鞭を入れた。その速度は騎兵としては決して速いものではなかったが、彼女たちの襲撃は完全にプレセンティナ軍の意表を突いていた。エフメトが言うほどに魔女が用意周到であるとすれば、彼女達はとうに発見されていたのかもしれない。だが、たかだか100騎あまりの小部隊がまさか突撃してこようとは思わなかったのだろう。これほどの騒ぎになっているのだから、彼女らの到着以前にも近隣を縄張りとするハサールの部族も様子を見に来たはずである。だが兵力の大半を西に向けている今、この封鎖線を破るだけの戦力など彼らにあるはずがなく、すごすごと去っていくしかなかったのだ。
彼女達が抜け道を目指していることをようやく察すると、敵は慌てて矢を射掛けてきた。だが抜け道周辺にいた者達は彼女たち以上に数が少なかった。彼女たちは応射しつつ馬を走らせ、抜け道に入った時にはまだ100騎以上が生き残っていた。そして直角に折れ曲がると左右を炎に囲まれた回廊へと入った。そこは一見何の障害も無いように思われたが、気を抜いた直後、その左右の炎の向こう側から一斉に矢が射掛けられた!
「うぐっ!」
ニルファルの左右を固めていた男たちが矢を受けて呻き声を上げた。
「大丈夫か!?」
彼女の左隣にいた男が肩に矢を生やしながらもニカッと笑ってみせたが、次の瞬間には胸を射抜かれて落馬していった。即座に別の男が穴を埋めたが、彼も馬が矢傷を負って脱落していった。次々に兵を失っていく中で彼女は悟った。
――この抜け道すら罠の一つなのだ! 同士討ちの心配もなしに左右から射掛けてくるのは、予めこのことを想定して射撃の角度が決められているに違いない!
「矢は左右45度の角度からしか飛んでこないぞ! その方向にのみ注意しろ!」
敵は恐らく大きな盾に身を隠しているのだろう。反対側から飛んでくる流れ矢は全てそれで防いでいるのだ。そして本来は前方斜め45度ではなく、避ける事も反撃する事も不可能な後方斜め45度から射掛けるように準備されていたのだ。ただ本来はニルファルたちのように"侵入"しようとする者ではなく、"脱出"しようとする者達への備えだから、彼女たちは幾ばくかは対処のしやすい前方から攻撃を受けているのである。
――とはいえ、あまりにもこちらの数が少ない……!
わずか200mあまりの回廊を抜けた時には、彼女の部下は20騎あまりに激減しており、しかもその半数は矢傷を負っていた。彼女たちはそのまま封鎖線に背を向けて友軍の許へと向かったが、背後から追ってくる矢によってさらに8名が脱落した。数え直して見れば、もはや彼女を含めて僅かに11騎にまで減っていた。
――だが、ここまで来れば!
彼女は鏑矢(注2)を取り出すと、まだ数ミルムも離れている友軍に向けて放った。
ピィィィィィィー!
「お前たちも鏑矢を放て! 我々の存在を友軍に知らせるのだ!」
満足に矢を放てるのは彼女を含めて7名だった。7本の矢が幾度か空を騒がせるとようやくこちらの存在に気がつく者が表れたが、残念ながらそれは味方ではなかった。彼女たちの遙か前方を陣形を組んで友軍と交戦していた巨大な馬車のような物が、5台ほど道を逸れて彼女達の前に回り込もうとしていたのだ。
――何だあれは、馬が後にいるぞ? 牽くのではなく押しているのか?
馬車は金属で覆われていて、おいそれと倒すことは出来そうになかった。だが彼女には、馬車の方にも碌な攻撃手段は無いように見えた。
――窓から槍を突き出すなり、矢を射かけるなりするのだろうか? だが、同時に放てるのはせいぜい5人といったところか。揺れる馬車から少数の騎兵に向かって放ったところで当たるものか!
彼女の目算では、その馬車は彼女たちの進路を妨害するのはとても間に合わず、彼女たちはその70~80m前方を走り去ることが出来そうだった。わざわざ進路を変えて大回りするほどの脅威ではない。
「馬車は気にせずこのまま駆け抜けるぞ! 鏑矢も放ち続けろ!」
そう言って鏑矢を斉射すること2回、更に次の鏑矢を取り出そうとした時、馬車が矢を放った。その時偶然馬車の方に目を走らせていた彼女は、飛び出した矢の多さに呆気にとられた。一台あたり5本どころか軽く100本は超えていそうな数だ。抜け道での攻撃が馬鹿馬鹿しくなるほどの密度である。
――エフメト、すまない……!
彼女は覚悟を決めて目を瞑った。
「姫様!」
誰かの声を聞き、強い衝撃を受けて馬から放り出された後、彼女は強かに頭を打って意識を失ってしまった。
注1 ウルバヌスさんの元ネタはウルバンさんです。彼の作ったウルバン砲はコンスタンティノープルを攻め落とした時にオスマン軍が使いました。ネットでは無駄に有名な大砲ですが、一般的にはメフメトが船を山越えさせた事の方が超有名ですし、そっちの方が効果が大きかったと思います。
ウルバン砲は連射ができない上に足も遅い欠陥兵器なので、野戦も辞さない相手に対して使うなら、まずは防御陣地を作ってから使うことをオススメします。あと、夜に使うのも止めましょう。松明の灯りが暴発の危険性を高めますし、騒音がご近所に迷惑なので。
注2 鏑矢とは、先端に笛のような働きをする「鏑」を付けた矢のことです。笛付きのロケット花火みたいなものだと思ってください。全然違うけど。
鏑矢というと那須与一が思い浮かんじゃう人もいるかもしれませんが、実は大昔から騎馬民族が使ってたみたいです。秦の始皇帝のころに匈奴(モンゴルあたりの遊牧民族)の冒頓単于が父親を暗殺するのに使ったという記録があります。正確には「俺が鏑矢で射たらお前らもその標的を射ろ!」と部下を訓練しまくってから父親に向かって射ったそうです。だから本人の矢が外れても、誰かの矢は当たるという寸法ですね。せこっ!




