顎
タイトルは「あぎと」と読んでください。「あご」でも同じことですが、なんかかっこ悪いので。
「よーし、行動開始だ! 全隊、上陸を開始せよ!」
防御陣地に残した士官からの連絡を受けてそう命じたイゾルテは、その時既に準備万端整えてキメイラに乗り込んでいた。そしてそのキメイラは奇妙な形の船に載っていた。蓋のない箱のような、平底の四角い船である。
その不格好な船はプレセンティナの最新鋭艦である――と言っても嘘ではないが、他所の国はどこもそれを欲しがることはないだろう。それはただキメイラを揚陸するためだけに作られた船であり、自前の推進力すら持たない中途半端な船である。それにどちらかというと船と言うより艀に近かった。今も小舟に乗って水兵が先に上陸し、ロープでもって引っ張り上げているのだ。
ごんっ、ごごごごごっ!
船乗りなら誰もが聞きたくない音を分厚い船底から響かせながらその船が岸辺に座礁すると、水兵が箱の前方の板がぱたんと外に向けて倒し、キメイラはその扉の上を通って次々と上陸していった。
アムゾン海を通って後方を突くという作戦において、重要なのは索敵能力と機動力だった。予備役を総動員しても10万がせいぜいなプレセンティナ陸軍がハサール国内に攻撃を仕掛けようというのだから、がっぷり四つに組んで正面から戦うことなど有り得ない。敵のいない隙を突き、敵が駆けつけてくる前に逃げ去らなくてはいけないのだ。だが相手がチート的情報伝達能力を持つ神出鬼没のハサール騎兵なのだから、その難易度は並大抵ではない。
とはいえ高度300mまで上昇させた金の球状の袋{ガス気球}は60ミルム以上の見通し距離を誇るので、索敵の点では(コスト面以外では)問題はなかった。残る問題は実際に繰り出す戦力だ。歩兵では相手に逃げられるし、騎兵を連れて行っても敵の補給隊の護衛だってハサール騎兵だろうから、練度の点で大いに劣る。500人ぽっちのプレセンティナ騎兵ではどうにも不安であった。ここはやはりキメイラを投入しなければならないが、それならそれで大きな問題があったのだ。どうやって海上輸送するのかという問題である。
イゾルテは最初、だぶつき気味の(旧型)ガレー船に目をつけた。ドルク海軍が引っ込んで航路が安全になった上に、商船自体が投網を装備しだしたお陰で海賊被害もめっきり減り、しかも(まだ数が少ないとはいえ)新型ガレー船が幅を利かせるようになった今、ドルクから鹵獲した船を中心にガレー船が余ってしまっていたのだ。だが旧型ガレー船にも一つだけ良いことがあった。わざと座礁して海岸に直接乗り付けるという荒業が使えるのだ。
しかし、大型のガレー船は(新型ガレー船に比べれば大したことはないとはいえ)それなりに乾舷(水面から船べりの高さ)が高く、キメイラを積み下ろしするには巨大な起重機{クレーン}が必要だった。だが平底ではないガレー船が乗り上げた位置はまだ水の上のはずだ。ガレー船自体に起重機{クレーン}を装備したとしても、キメイラを下ろす先は海である。キメイラが水没してしまってはどうにもならない。
――ではキメイラ自体を浮くようにするか?
それは素晴らしいアイデアに思えた。キメイラ自体が水陸両用であれば、(馬が使えないので全部人力になるけど)ゲリラ的に上陸戦闘を繰り広げ、目的を達した後に海に逃げてしまえばいいのだ。それにもともと木で出来ているのだから多少の工夫で浮くはずである。だが水密性を確保することによる製造と保守整備のコストを考えると頭が痛かった。しかも、海水に浸かれば金属部品が錆びちゃうかもしれないのだ。
煮詰まったイゾルテは神の叡智に頼った。新型ガレー船のヒントを得た、神様語で『船の歴史』と書かれた本を読み返したのである。とはいえ、最初の方に乗っている小舟はイゾルテが知るものと大して変わらないし、後半は独創的な船が多いものの、どれも大型船で海岸に直接乗り上げられそうになかった。
「しかし、特徴的な形をしているのは主に後半だから、やはりこのあたりを見てた方が……んん?」
彼女の目に留まったのは、『LCVP上陸用舟艇』(注1)と書かれた小さな絵{写真}だった。その絵には丸兜をかぶった兵士たちと凸凹した奇妙な車輪をした馬車{ジープ}が四角くて平ぺったい船の舳先から海岸に上陸している姿が描かれていた。まさしく彼女が求めていた船であった……機能的には。非常に不可解なのは、板状のタラップ(船の乗り降りのために仮設される構造物)が船体にくっついていることと、あるべきはずの船首がないことだった。もしこのまま海に出たら船首から浸水することは間違いなく、そうならないためには何かで塞ぐ必要があった。そしてその何かは恐らく――
「このタラップが船首でもあるということか? 船体自体がパカっと割れてタラップになるのか!?」
その斬新すぎる設計にイゾルテは目眩がした。確かにこれで船として問題なく働くというのなら、これは素晴らしい船である。だが、どうみても喫水より下から船首がパカッと開いていて、隙間から水が漏れてくることは防ぎようがなさそうだった。
イゾルテは、ローダス島沖での決戦を思い出した。衝角を突き入れられて浸水したゲルトルート号は、隔壁構造のお陰で沈没こそ免れたが、ペルセポリスに帰港するまで24時間昼夜兼行で辛い排水作業を継続しなくてはいけなかったのだ。ほんのちょぴり手伝ってすぐにダウンしたイゾルテは、その時の事を思い出してげっそりとした。
「駄目だ、戦闘行動を前にして兵士が疲れ果ててしまう……」
結局イゾルテは一番基本の筏にまで立ち返った。ベルケルが攻めてきた時にキメイラを筏に載せて海峡を渡したことがあったからだ。その時には6台しかなかったし海峡を渡るだけだったので、大きな筏に1両づつ載せて運んだのだが、100両以上のキメイラを載せてアムゾン海を縦断するのだからそれでは困る。というか高波に攫われちゃいそうだ。彼女はアドラーを呼びつけて、キメイラ用の筏について相談を持ちかけた。
「アドラー、キメイラを運ぶための筏を作って欲しいんだ。海岸に直接乗り付けて、スムーズにキメイラを揚げ降ろし出来る筏だ」
「そう言われても、筏に工夫もクソも無いですよ。大型の筏に1両ずつ積むしか無いでしょう」
アドラーはがっかりして「やっと樽酒{ブランデー}用の樽作りから開放されると思ったのに……」としょぼくれていた。
「それじゃあ困るから相談しているんだよ。重くてかさばる大型筏を100艘以上も連ねてアムゾン海を縦断するとか、考えるだけでも頭が痛いぞ」
「アムゾン海を縦断!? 幾ら穏やかなアムゾン海でも沖に出るのは無茶ですよ。少なくとも、波に攫われないように四方に波を防ぐ壁が欲しいですね」
「四方に……壁を?」
イゾルテはその姿を考えてみたが、それは本に載っていた方舟とほとんど同じ形だった。彼女はアドラーに例の本を差し出し、方舟{LCVP上陸用舟艇}の絵を見せた。
「アドラー、これを見てくれ。浸水を防げないと思って真似るのは諦めていたんだが、筏に壁を付けるという方向なら十分に現実的だと思うんだ」
「ほほう、前の壁をタラップにも使うわけですか、なるほど、なるほど。しかし小さい筏ですなぁ。よく馬車を積んで浮いていられるもんです」
感心するアドラーに、彼女はボソっと呟いた。
「……たぶん、筏じゃないぞ。そのタラップ部分も含めて船になるんだと思う」
「ええっ!? ……浸水しませんか?」
「我々には無理だけど、神の技術なら出来るんだろうなぁ」
予想通りの反応に、彼女は肩を竦めた。しかしアドラーは腕を組んで考え込んだ。
「筏の浮力を上げれば似たような感じに出来るかもしれませんなぁ」
今度は予想外の言葉に、彼女は驚いて目を見開いた。
「なにっ? 筏の浮力を上げる方法なんてあるのか……?」
筏というのは丸太をそのまま繋いだだけの代物であり、表面を平らにするために上に板を敷いたりはするものの、浮力を上げる工夫の余地などありそうになかった。
「最近樽酒{ブランデー}用の酒樽を作ってるんですけど、空樽を並べて縛ったらスゴい浮力が得られると思いますよ」
「……それって筏なのか? そもそもそんなんじゃ、岸辺に乗り上げる時に壊れちゃうだろ!」
「じゃ、じゃあ、その外側に丈夫な板を貼り付ければどうでしょう……?」
イゾルテはその姿を想像してみた。横に寝かせた樽を並べ、六面に板を貼り付けた姿は……箱だった。
「そうか、逆だよアドラー! 箱の中に樽を敷き詰めるんだ。究極の隔壁構造になるから、多少の浸水なんか関係ないし、浸水箇所によってバランスを崩すこともないだろう」
「なるほど……。それなら小さくしても十分な浮力と強度が得られそうですが、逆に浮力があり過ぎて返って転覆の危険性がありませんか?」
「そうだな。小さくするのではなく、二個小隊10両をまとめて載せれるようにしよう。それなら安定するだろう」
こうして出来上がった筏とも方舟ともつかない怪しげな船こそが、キメイラ上陸艇{戦車揚陸艦}なのである。航海中はガレー船がロープで牽引し、いざ上陸直前になったら、先に上陸した人間が岸辺に引っ張り上げるのだ。
アドラーはこうして樽酒{ブランデー}用の樽作りから開放され、キメイラ上陸艇{戦車揚陸艦}用の樽作りに専念することになった。船大工の本領発揮である。……たぶん。僅かな救いは、製材所のお陰で統一規格の板材が大量に手に入ったことだろう。そしてアドラーの頑張りのお陰で十分な数のキメイラ上陸艇{戦車揚陸艦}が完成し、今こうしてキメイラとイゾルテを載せて敵前上陸を果たしたのである。
「止まるなよー! 止まると砂に車輪を取られるぞ! ゆっくりでいいから常に前進を続けろ! 砂浜を出たところで一旦停止して馬をつなげ!」
別の船で運んだ馬も下ろしてキメイラに繋げる傍ら、彼等を引っ張り上げた水兵たちも、あらかじめ草むらに隠しておいた資材の回収を始めていた。
作業が完了すると、イゾルテは白いラッパ{拡声器}を使って彼等に怒鳴った。
「よし、キメイラで護衛しつつ封鎖線の構築を開始する! 聞いて驚け、罠にかかったのは可汗だ! ハサールの王の馬印が確認されている! ヘメタルの興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ!」
「「「おおぉ~!」」」
号令一下、彼らは予め定められた役割分担に従って行動を開始した。すでに2度現地リハーサルも行っているので全く迷いもなかった。要所要所には目立たぬように目印も付けられ、基準となる数百本の杭も予め打ち込まれていた。だから最初の網が地峡に蓋をしたのは僅か20分後の事だった。さらに10分後には掘り起こされた柵が全て繋がり、完全に地峡を塞いでいた。
目前の敵とその向こうに孤立しているはずの味方ばかり気にしていたハサール軍が後方の異常に気づいた時には、大陸側の封鎖線は既に赤々と炎を上げていた。柵の前に並べらた丸太に油をかけて火を付けたのだ。かつてクィントゥスの嵌った罠をより大規模にして再現したものだ。真っ赤な炎の壁が黒い煙をもくもくと吐き出し、そこは決して越えられぬ要害となった。少なくとも炎が消えぬことには、馬に越えさせることは出来ないだろう。
前方の防衛線に対しては既に網を切り裂き濠の半ばまで渡りつつあったハサール軍は、後方の異常に動揺した。前方の攻勢は着実に進展しつつあったが、狭い地峡に押し込められたことは間違いないのだ。そして僅かな時間で地峡全域を封鎖した手腕は明らかにスラム人の物ではなかった。もし彼等にそんな事が出来るのなら、これまでの叛乱でももっと手を焼いたはずである。……だが彼等は知らないことだが、クレミア半島の主要都市は既に網と馬防柵による防衛線に囲まれていた。その網はもちろんイゾルテ――ならぬ商人の娘イロルテの提供した物である。
その時、ハサール軍前衛の許に小さな樽が降ってきた。
ぼんっ、ぼんぼんっぼんっ!
気の抜けるような軽い音とともに、突然巨大な火柱が次々と上がった。戦いに興奮していたはずの馬たちがそれを見て怯え、騎手の命令を無視して半狂乱になり、ハサール軍前衛は突如として総崩れになっていた。
その圧倒的な迫力に震えているのは敵ばかりではなかった。身を隠すことも忘れて盾から身を乗り出したスラム人の少年は、次々と上がるその炎に魅入られたように呆然と呟いた。
「こ、これが、た、戦い……」
だが彼に「いやいや、普通はこんなんじゃないから」と教えてやれるほどの余裕がある者は、周りに誰も居なかった。スラム人達は皆呆然とし、彼らの後ろではようやく動き出したプレセンティナの兵士たちがひぃひぃ言いながら必死に『クィントゥスの樽』に空気を詰めていたのだ。
馬上にあって指揮をとっていたブラヌは、突然後方を遮断した炎の壁に目を見張った。
「何だあれは!?」
だがそれに答えられる者など誰もいなかった。炎の壁であることは明らかではあるが、可汗が聞いているのはそんなことではない。そして彼らが答えあぐねる間に次の異変が起こった。
「あれは何だ!?」
今度は前方で上がった巨大な火柱にブラヌは愕然としていた。明らかにスラム人の武器ではない。こんな武器があったらこれまでの叛乱でも使っているはずだ。つまり前も後ろも、相手は得体のしれない連中だったのだ。スラム人と思って油断したのがいけなかった。
「可汗、あそこに旗が!」
「何?」
指差された方向を見れば、前方の土塁に2旒の旗が上がっていた。見覚えのない水色の旗と、同じく見覚えのない白い旗だ。地平線上の馬影で部族や(場合によっては)特定個人を識別する必要があるので、概してハサール人は目がいい。だから半ミルムほど離れたその位置から水色の旗には白で菱型のごちゃごちゃした紋章が描かれていることも、白い旗の上では赤い獅子が踊っていることも彼らには見て取れた。
「誰かあの旗を知っている者はおるか!?」
可汗の言葉にバイラムが進み出た。
「あの水色の旗はかつてこの半島にあったスラム人の国の物です。時折奴らの叛乱で見かけることがございます」
「なるほど……。で、白い方は?」
「プレセンティナの物です。商船があの旗を掲げているのを見たことがあります」
「プレセンティナ、だと……?」
ブラヌはその意外な国の名前に眉をしかめた。彼はプレセンティナを敵だと意識したことはなかった。碌に国土も持たない遠くの都市国家など、彼らには興味が無かったのだ。旧アルテムス領とホールイ3国までは攻め込む意味があったが、彼らのその次の標的はディオニソス王国だった。エフメトがペルセポリスを最終目標に据えている事は知ってはいたが、攻城戦が苦手な彼らは当然ながらその攻略戦に関わる気はなかった。だから彼ら自身がプレセンティナと戦うことがあるとは考えてもいなかったのだ。
――そういえば婿殿が言っていたな。炎を使う魔女がいると。
その時「魔法などある訳がない」とブラヌが笑うと、エフメトも苦笑しながら肩を竦めた。
「私もそう思います。アレが使うのは魔法ではないでしょう。でも、魔法と同じ結果を生み出せるのなら、やはりアレは魔女なのです。敵である我々にとっては」
――なるほど、魔女か。確かに見事に騙された! スラム人を装って我らを罠にはめたのか……!
「前衛を下げろ! どうせ奴らは動けないのだ、一旦距離を取って態勢を整える!」
ブラヌがそう号令を発すると同時に、後方からの伝令が走ってきた。
「後方より黒い馬車が向かってきています!」
「黒い馬車?」
「150台ほどの奇妙な馬車で、馬が馬車の後ろにいます!」
「馬を隠して守っているつもりか……火矢を打ち込んで燃やしてやれ!」
「はっ」
可汗の命に従い、1000あまりの騎兵の一団が火矢に炎を纏わせて突進を開始した。そして雁行陣を取る馬車に車列に合わせて左右に分かれると、一斉にその火矢を――放つ直前、一斉に落馬した。そしてそれどころか馬までが主を追って地に倒れ伏してしまった。
「何だ!? 何が起こった!」
「矢です、可汗! 生き残っている馬にも矢が突き刺さっています!」
「くっ、弓の精鋭を選んで馬車に載せていたのか! だがあの大きさだ、そう何人も乗ってはおらんはずだ! 数を出せ! 押し包んで数で圧倒するのだ!」
今度は10000あまりの騎兵が一斉に動いた。
「「「フラー!」」」
蹄を轟かせ雄叫びを上げる騎兵達が無数の矢を放ち、それが黒い馬車に降り注いだ。そのすさまじい集中攻撃は遠目にも黒い羽虫にたかられているように見えたが、よくよく見ればそのほとんどが突き刺さることもなく弾かれていた。だが、彼らが更に接近しその中に火矢が混じるようになると、ぽつぽつと側面や屋根に突き刺ささる物もあった。
「よし、これで奴らは時間の問題だ!」
ブラヌや騎兵達がそう思った瞬間、先ほどの衝撃が規模を数倍にして再び襲った。これまでに射掛けた矢が全て逆流するかのように馬車から無数の矢が一斉に放たれ、次の瞬間にはハサール騎兵が人馬ともに地に伏していたのだ。その数は5000近いだろう。全軍の6%を、それどころかハサール人の全人口の1%近くを一瞬にして失ったのだ!
慌てて逃げる騎兵たちにも追撃の矢が降り注ぎ、さらに2000あまりの兵士が地に伏した。
「ば、かな……それほどの人数が乗っているというのか!?」
しかも全員が百発百中で、しかも同じ標的を狙わないように振り分けねばならない。しかも100台に分乗しているのだ、どうやったって指示することなど出来ないはずだった。見れば突き刺さった火矢も全く燃え広がっていないではないか!
戸惑うブラヌ達の前に一人の武将が駆け込んできた。
「可汗、あの馬車の屋根の上から断続的に無数の矢が放たれています。矢傷を負った者の殆どは、複数の矢を受けいるようです」
そう言って差し出した四角く細い木の棒には、先端に鏃のような物がついていた。
「何だこれは?」
「敵の矢です」
「何!? この、四角いただの棒きれが!? 矢羽もないぞ!」
「ですが、それと同じ矢が何万本も地面に突き刺さっているのです!」
「……!」
それはつまり、敵は弓の名手でも何でもないということだった。敵の腕も、狙いも、矢さえも適当で、どうやってかは分からないが、ただ凄まじい数の矢を放っているだけなのだ! こんなバカらしい戦いがあるだろうか?
「やむを得ん、散開しろ! 密集すれば敵の思う壺だ、馬車の射程に入らぬように距離をとれ!」
「はっ!」
命令を伝えるために伝令が散っていくと、可汗は苦虫を噛み潰した。彼らは苦手な攻城戦をしているのではない、得意の野戦を平原で行っているのだ。それなのに今や彼等は柵に囚われ、狼に追われる兎のようにひたすら追い回される立場である。
――ここに来たのが我らハサール騎兵ではなく、ドルク歩兵であったならここまで苦労はすまい。あのようにぞんざいな矢など盾さえあれば何とでも防げるのだし、大勢で近くまで詰め寄ることが出来れば馬車をひっくり返すことも出来るかもしれない。だが盾を持たない我らは良い的だし、我らの弓では有効な打撃を与えられない!
敵は明らかにハサール騎兵だけを想定して罠を張っていたのだ! 遠く西の果てまで出払った時を狙って蜂起したのも、我らが移動する間に防御線を構築する時間を稼ぐだけでなく、我々と足の遅いドルク軍を分断する目的もあったのか……!
どこまでも巧妙な罠にブラヌは低い唸り声を漏らした。
「何とかせねば……このままでは全滅すらありうるぞ!」
彼が口にするまでもなく、ハサール騎兵達は自分たちが追い詰められていることを自覚しつつあった。
だが、そこに一筋の光明が差した。
「可汗! あそこに友軍がいます!」
そう叫んだ男が指差した先には、わずか10騎ばかりのハサール騎兵が大陸側から黒い馬車を追ってこちらに向かって駆けて来る姿があった。
「何者かは分からぬが、あの炎の壁の向こうから来たというのか……? ということは、あのどこかに抜け道があるということか!」
「可汗、どのみちこのままではジリ貧です。周到に準備された半島側よりは、大陸側の防御線の方が即席で隙もあるはずです!」
――確かにそうだ。それに敵は炎を使う魔女だったのだ、あの派手な炎の演出も目くらましである可能性が高い!
「よし! 大陸側に移動して封鎖線の突破を図るぞ!」
「「「はっ!」」」
可汗の命令でハサール軍が大陸側に移動し始める直前、彼等に退路の存在を教えた騎兵達は黒い馬車の射撃によってその全てが地に倒れてしまった。
「誰かは分からぬが感謝するぞ! だがそれもこれも、まずは我らが生き残ってからだ!」
こうしてハサール軍は黒い馬車の車列を左右に迂回すると、大陸側に向って撤退を開始した。だが彼等の地獄はこの時から始まったとも言えるだろう。彼等の退路にはまだ幾重にも罠が張られていたのだから……。
注1 通称ヒギンズ・ボート。ノルマンディー上陸作戦とか、硫黄島の上陸とかに使われた四角い船です。舳先の部分がパタンと前に倒れて足場になるので、人間だけでなく車両も砂浜に上陸させたり逆に船積みしたりできます。……が、小石でも挟んじゃったら水漏れで大変なことにならないんですかねぇ? ちなみに、驚くべきことに木製だそうです。戦車を積める大型の物(機動揚陸艇)は金属製だそうですが。




