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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第5章 同盟
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蜂起

 ハサール・カン国は約50万のハサール人と300万を越えるスラム人によって構成されていた。かつてこの地にあったスラム人の3つの国を東方から流れてきたハサール人が征服したのである。


 スラム人はかつてはゲルム人と同じ狩猟採取民族であったが、ゲルム人が西に移動した後のアムゾン海周辺に移住し、タイトンの影響を受けて農耕を始めた。彼等はタイトン人と直接混血したり同化した訳ではなかったが、ゲルム人のタイトン化にともなってなんとなーくタイトン化していた。だって農耕とか都市建設とか、身近な見本がゲルム人(を含むタイトン人)だったから。とはいえ言葉は独自のスラム語だし、タイトン人にはなんだか良く分からない怪しげな風習も残っていた。

 そんな彼等が怪しくもほのぼのと暮らしていたアムゾン海東岸にハサール人がやってきたのはおよそ90年ほど前であった。狩猟遊牧民族であったハサール人は、その男性の全てが優秀な軽騎兵であり、タイトン人やゲルム人ほどには戦いに鍛えられていなかったスラム人は、彼等に良いように蹂躙されてしまった。

 ただ、そんなハサール騎兵も都市の攻略は大いに手を焼いた。彼等の最大の武器はその機動力であり、逆に有効な城攻めの方法を持たなかったので、攻城戦は兵糧攻めか力攻めの二択しか無かった。包囲したまま何年も陥落しないなぁ……と思ってたら抜け道があって補給を受け続けてたり、盾も持たずに城壁に迫って屍山血河を作ったりと、野戦の巧妙さに比べてあまりにお粗末な攻城戦を展開したのである。だから30年あまりをかけて、ようやくスラム人全てを征服した時には、ハサール人は10万以下まで減っていたという。(が、そもそも最初にどれくらいいたのかは本人たちにもよく分からない)


 ただ戦場では剽悍で残虐でもあるハサール人たちも、支配者としてはある意味寛大であった。スラム人の生活に干渉しなかったのである。民族の結束が緩むことを畏れた彼等は、決してスラム人と混血しようとせず、遊牧生活も決して捨てようとしなかったのである。だからスラム人を奴隷にすることもなく(だって移動に付いて来れないから)、女に狼藉を働くことも少なかった(だって混血しちゃうから)。だが当然ながら税は取ったし、反抗すれば見せしめに殺した。その上都市や村の周りに城壁や柵を作ることも許さず、街道や橋の整備にすら制限をかけた。草原全てが道だと考える彼等には大して重要ではないし、スラム人の移動を阻害して連携を防ぐためでもあった。

 だからスラム人達にはハサール人に対する反感と独立を望む気持ちがあった。しかし、武器を蓄えて幾度か武力反乱を起こしたものの、それは尽くハサール騎兵の前に為す術もなく鎮圧され、見せしめも兼ねて虐殺された。だから彼等の中には反感以上に恐れがあった。そこに降って湧いたのがプレセンティナからの申し入れだったのだ。

 プレセンティナからの働きかけはスラム人商人を通してハサール全土の各都市に並行して行なわれたものの、最初に具体的な行動を起こすのはあくまでクレミア半島であった。アムゾン海北岸と極々細い一本の地峡で繋がるこの巨大な半島には、かつて最後までハサールの侵攻に抵抗したスラム人の国があり、この地峡にも人工の要害が築かれていたが、ハサールによる征服以後はその要害も徹底的に破壊され、今は完全な更地になっていた。

 イゾルテの計画では、ハサール騎兵が出払った隙をついてここに再び防御陣地を築き、外部からの援軍を遮断してから半島の支配権を固める予定である。そのためにはハサール騎兵が出払ったタイミングを正確に知ることと、騎兵を防げるだけの要害を短い日数で構築する必要があった。


 そこでイゾルテは大陸のスラム人から情報を募るとともに、海岸近くに浮かべた()()状の(){ガス気球}を使ってハサール・ドルク同盟軍の動きを監視していた。ちなみに()()状の(){ガス気球}は実験の成功後、ガレー船を改造して専用の船にしていた。()()状の(){ガス気球}を膨らませたまま格納できる巨大な正方形の箱(といっても上面は帆布を張っただけ)を甲板上に載っけたのである。畳んで水素を充填し直すとトンデモなく時間と費用がかかるので……。これも一つのトンデモ兵器であった。主にコストが。

 そして、3月下旬に両軍が旧アルテムス領内に入ったことをその2つの情報源から確認したイゾルテは、それから一ヶ月かけて独立派ハサール人組織の面々を地峡近くの都市へと集結させ、5月上旬には彼女本人が直接地峡に上陸した。彼女は率いてきたキメイラ第一大隊100両と新設された第二大隊から2個中隊50両の合計150両を温存しつつも、歩兵1000名、海兵3000名にスラム人達が集まって来るまでの間に網を張るように命じた。例によって例のごとく、監視網ではなく文字通りの網である。等間隔に木の杭を打ち込み、地表から20cmほどの所にガレー船対策用の網を固定したのだ。そしてそれを地峡を横断するように6ミルムに渡ってそれを繋げようというのだ。

「殿下、こんなので大丈夫なんですか?」

今回初めて戦場に付いてきたアントニオは不安を漏らした。ローダス島の海戦の時は戦闘中は船室に閉じ込められていたし、海上では常に味方に囲まれていたのに、だだっ広い平原に兵が広く散って作業している状況がなんだか心細かったのだ。もっともイゾルテは本当に敵が来る時には彼を船に残すつもりなのだが、きっとゴネるので今は黙っていた。

「大丈夫、実験済みだ。5頭の馬が美味しい焼き肉になったぞ? クィントゥスが生きていたら激怒しただろうなぁ」

彼女の言葉にアントニオは驚いた。彼女はいつの間にかスプラッタな惨劇(動物を解体する体験)を経験してしまったのだ……!

「私の知らないところで勝手に捌いて食べちゃったらしいけどな」

アントニオはほっと安堵の溜息を吐いた。彼女はまだ清らかな乙女のままだった。

「じゃあ、工事はこれだけですか? せっかくスラム人の皆さんが集まるのに」

「海と違って刀で切り裂いてしまえば割りと簡単に排除できるから、これだけじゃあ駄目だ。だから予定通り濠と土塁を作るぞ。負け癖がついてるスラム人には心理的に安心できるものが必要だしな。それがなきゃ、ハサール騎兵を見ただけで逃げ出しかねない」

「そういうものですか?」

「お前だって、私なら勝てるとか言ってたくせに不安がってるじゃないか」

「うっ……そうですね」


 網はその日の内に張り終わり、翌日には近くの町に集まっていた独立派スラム人およそ10000人が次々に到着した。イゾルテは彼等の前にキメイラで乗り付けると屋根の上に立って白いラッパ{拡声器}で怒鳴った。

「私がプレセンティナのイゾルテだ。ちゃんと挨拶したいところだが、今は時間がない。君たちには今すぐ作業に取り掛かってもらいたい」

彼女の声を聞いてプレセンティナの水兵達が作業手順と区割りが描かれたビラを配り始めた。彼等のどれくらいが文字を読めるのかは分からないし、そもそもイゾルテにも読めなかった。わざわざ新しく作ったスラム語の文字セットで印刷された物なのだ。各グループのリーダーを務めるような者達なら、自国語くらい読み書きできるだろう。……たぶん。

――まあ、本人がダメでも部下に一人くらい読める者が居るだろう。読めなければ……隣のグループに聞いてくれ。

「既に足止め用の網は仕掛けてあるが、これでは我々の身を守れない。そこで君たちには、濠を掘り、土塁を築いてもらう。敵が襲ってきたら、その上に盾を並べて身を守りながら、敵の手の届かない所から一方的に射すくめるんだ。それで敵は手も足も出ない」

不安げなスラム人たちの顔を見て、イゾルテは笑いかけた。

「安心しろ、我々はプレセンティナ人だ。防衛戦と海戦では信じて損はないぞ! もっとも、商売相手としては最後まで気を許してはいけないけどな!」

スラム人達はどっと笑った。彼等とプレセンティナの繋がりは、基本的にはアムゾン海を跨いだ交易によるものだ。当然彼等の知るプレセンティナ人とは、海千山千の交易商人たちだった。


「敵は素早いハサール騎兵だが、奇襲を受けることだけはない。我々は常にあそこから周囲20ミルムを警戒している」

そう言って彼女は、沖に浮かぶ暁の姉妹号を指差した。それはスラム人達が初めて目にする巨船であり、船が2つくっついた怪船だった。だから何だか良く分からないが、凄そうだというのは良くわかった。……が、本当は更に更に沖に浮かんでいる()()状の(){ガス気球}からより広範囲を索敵していた。

「だから少なくとも四半時間前に敵の接近を知ることができる。それは安心して欲しい」

その言葉で、スラム人たちの緊張も幾らか解けた。ハサール人は滅多にスラム人に関わらないが、ふと気づけば村の周りがハサール人(と家畜)で埋まっていた……なんてことも往々にしてあるのだ。そういう、いつの間にか詰め寄られている、という可能性が彼等を常に緊張させていたのだ。

「だが逆に言えば、敵の接近を知ってから移動できる距離はたかが知れている。自分の持ち場から何ミルムも離れていると戦闘に間に合わなくなるぞ。薪や真水は我々が馬車で届けるから、君たちは持ち場から離れないで作業に集中して欲しい」

 プレセンティナ兵たちは、作業場所に沿って等間隔に天幕の設置したり資材を置いたりし始めていた。いずれ恒久的な兵舎が必要になるだろうが、何はともあれ今は土塁の方が優先である。

「土塁は高いほど良いのは言うまでもないが、敵がいつ来るか分からない。警報があれば10分で戦闘体制が取れるように留意して欲しい! では解散!」

彼女がそう言うと、スラム人達はわいわいがやがやと割り振られた作業場所に散っていった。


「殿下、今襲われる可能性はないんですか?」

()()状の(){ガス気球}から監視しているから、実際には1時間以上の余裕がある。いざとなればキメイラで蹴散らせるさ。だが問題は半島側のハサール人だな」

地峡が封鎖されたことは、恐らく半島内のハサール人達の隅々にまで既に知れ渡っていることだろう。彼等はお互いに移動しているのになぜか伝令が機能するのだ。イゾルテには彼らがいったいどうやってるのか全然想像が付かず、自分たちだけそんな超技術を使って連絡を取り合うのは卑怯だと叫びたかった。それでも口に出さないのは、絶対にアントニオにツッコまれるのが分かっているからである。

「半島から攻めてきてもキメイラで蹴散らせば良いんじゃないですか? 情報が半島の外に漏洩しないのですから、そっちの方が遠慮無く使えますよ?」

見ればアントニオは不思議そうに小首を傾げていた。

「遠慮無く? ……そうか、お前はそう思うのか。私にはそこまで思い切れないな」

「えっ?」

きょとんとしたアントニオに、彼女は教えてやった。

「50万のドルク兵に釣り合うようにと、ハサールは目一杯の男たちを旧アルテムス領に向けて送り出したはずだ。ならばここに残ったのは誰だ?」

「……女子供、ですね?」

「そうだ。もちろんハサール人だから、女子供でも私よりも上手に馬を乗るだろうがな」

――殿下もまさしく女子供なんだけどなぁ……

アントニオが口に出してツッコまなかったのは、馬に乗ったことがない彼のほうが絶対に下手だからであった。

「彼らがここを襲うとしたら、ここを通って大陸に逃げ出すためだ。女子供どころかよぼよの老人や赤子までいるんだぞ? 躊躇せざるを得ないだろう」

「……じゃあ、ここを塞いじゃったら、彼等はどうなるんです?」

「我々次第だ。我々はハサールだけでなく、スラム人にも力を見せつける必要がある。そうしなければ……恐らく虐殺が起きる」

「……!」

「仲裁できるのは我々だけだ。ハサール人を投降させ、スラム人には決して手出しをさせない……!」

「殿下……!」

例え敵であっても女子供の身は守る、お題目ではなく本気でそれを実践しようとするのは、自分自身か弱い女の身であるイゾルテくらいであろう。アントニオは感動に打ち震えていた。

「安心して人質にできるのはそれからだな!」

「殿下……!」

アントニオは一転して行き場のない怒りに震えていた。

「冗談だよ、冗談。ここは無条件に解放するよ。捕虜を抱える余裕なんてないしな」

彼女はそう言ったが、本当はそれは理由の一つでしかなかった。



 ハサールのチート的情報伝達網は、何もクレミア半島内部に限ったことではなかった。自国領でもない旧アルテムス王国領内を、しかも1日に100ミルム近く移動することもあるのブラヌ可汗の元にも、どうやってかクレミア半島封鎖の報告が届いたのだ。封鎖後わずか15日後の事である。直線距離でも1000ミルム以上あるのに、もはや渡り鳥か伝書鳩みたいな特殊技能であった。

「何だと! 叛乱ではなく、封鎖だというのか!? ……スラム人どもめ、我らの留守を狙って計画しておったのか!」

報告を聞いてブラヌが激昂すると、列臣の中から一人の男が飛び出して跪いた。

「可汗! 我らの帰国をお許し下さい! 半島には我が部族がおります。残っているのは女子供と老人ばかり。それでも普段ならスラム人などにおめおめと捕まるとは思いませんが、封鎖となれば話は別です。いつまでも逃げ切ることは出来ません。そして野蛮なスラム人どもに捕まれば、どんな目に合わされるか……!」

 スラム人が聞いたら「どっちが野蛮だ!」と怒りそうなセリフだったが、性的暴行については彼の言うとおりだった。厳しい掟によって混血が禁じられている彼等は(追放を覚悟した場合を除いて)スラム人娘を犯したりしないし、逆にスラム人に犯されたハサールの女は孕んでいなくても追放される。遊牧生活しか知らないハサール女にとっては事実上の死刑に近く、自裁することも多い。もっともハサール女を捕まえるのは至難の業なので、そもそも事件そのものがめったに起こらないのだが。

 だがスラム人はそんなことなど知ったことではないし、スラム人同士の間ではそういう事件もそれなりに起きていた。タイトンに比べても多少多いかもしれない。(民族的・文化的な違いというより、警察のような武装組織が認められていないからだろう。最悪の連続婦女暴行犯を至高の神として頂くタイトン人の方が、文化的にはよほど性犯罪に寛容であるはずだった)そんな彼等が長年恨みの募ったハサール人の娘たちを捕まえたらいったいどうなることか、想像するのは実に容易だった。そしてそこには、彼の妻と娘たちも居るのだ。

だが可汗は首を振った。

「ならん」

可汗(かがん)!」

「お前の部族はワシの部族、お前の家族はワシの家族だ。お前の妻がワシの姪だということを忘れたのか? だからワシが自ら赴いて蹴散らしてくれる! バイラム、お前はその供をせよ!」

「か、かがぁん~!」

彼は感動のあまりその場で泣き崩れた。人前で涙を見せるのは恥であったが、今は誰もそれを非難しなかった。それどころかゴツイ男たちが全員が目をうるうると潤ませていた。

「強行軍になるぞ。替え馬を増やす必要があるから全軍は連れて行けぬ。8万だ、ただし替え馬は倍持たせろ。ワシの留守の間は進軍を遅らせて構わん。婿殿が都市を攻略して回るのに合わせていればそれで良い」

こうして彼等はイゾルテの待ち構えるクレミア半島、その唯一の通り道であるペレコーポ地峡へと向かった。そこで何が待っているのかも知らずに。



 僅か5日ばかりの工事で随分と形になった濠と土塁も、さらに10日かけて濠の広さは20mを超え、土塁の高さは5mを超えるほどになった。もう十分だという進言を受けたイゾルテは、工事を中断して濠に海水を入れた。水を湛えた濠はなかなかに壮観で、おいそれと騎馬で越えることは不可能に思えた。網でコケて濠で溺れ、土塁からは矢を射ち下ろされる。コントにしたいほど見事な三連コンボである。

 こうして内心ビクビクしながら働いていたスラム人達も、作業の成果を目にしてほっと一息つくことが出来た。ほんと、一息だけ。すぐに戦闘訓練が始まったのだ。


「ほら、キビキビせんか! そこ、遅い! 弓を引いたらさっさと放て!」

「&’#_()##*+! #+―#*! #(’&¥)#>>#*+!」

プレセンティナの士官が怒鳴り散らしている横で、通訳がスラム語に翻訳していた。

「どうせ狙ったところで当たりはせん! だが数が増えれば流れ矢だって当たる! 方向なんて大体でいいんだ、大体で!」

「#>##*+<*+)#>*・(+! #>*・+>?*”)*}+{%&+! +#)_}$”*~()”、*`#!」


 その身も蓋もない指導内容に満足すると、イゾルテはキメイラと兵たちを連れて船上に戻り、そしてそのまま沖に去って行った。残されたのはスラム人達を訓練している少数の士官を含めた500人程と空っぽの移動指揮車だけであった。スラム人達は良いように使われているのではないかと不安を覚え始めたが、自分たちで作り上げた濠と土塁の威容と、地面に突き刺さった数十万本の矢を見て、自信も持ち始めていた。

「ようし、2時間休憩だ! その間に矢を回収してこいよ!」

「*+)、$()#(=。 *+$#(+`$<#>$(!」



 イゾルテが上陸してからおよそ一月、『彷徨えるドルク人フライング・ドルキッシュ』ことムスタファが、とんでも無いものを発見した。彼は慌てて小型の遠くと話す箱{トランシーバー}でイゾルテに報告を入れた。


『殿下! 見つけました! ものすごい数の騎兵が東に向かっています! 敵が七分に地面が三分です!』

「落ち着けムスタファ。替え馬を連れてるんだ。人間が乗ってるのは何分の1かだ」

『えっ!? そうなんですか……よくご存知でしたね』

「当たり前だ、私を誰だと思っている?」

ふふん、と自慢げなイゾルテを見てアントニオは呆れていた。

――旧アルテムス王国領の村人から聞いてただけなのになぁ……

「で、今はどのあたりだ?」

『地形を地図と照らし合わせると……地峡の入り口から50ミルムってところですね』

「うーむ、微妙だな。やつらは()いてはいるだろうが、このまま走り続けても地峡に入るのは日没後だ」

イゾルテが腕を組んで悩んでいるとデキムスが進言した。

「しかし、殿下。ハサール騎兵は夜襲も夜間行軍も得意だと聞いております」

「確かににそうだが、陣地の構築が終わっていると知っていて夜襲を仕掛けるだろうか? しかも地峡だから側背には回り込めないんだぞ?」

「総掛かりはともかく、威力偵察くらいは十分にありえるかと思います」

「なるほど、確かにそれはあり得るな。さすがは騎兵上がりだ」

「いえ」

そうやって二人が相談していると、小型の遠くと話す箱{トランシーバー}から情けない声が聞こえてきた。

『殿下ぁ、俺、もう下りていいですか?』

「いや、敵の動きが気になる。マストから見えるようになるまではお前だけが頼りなんだ。お前ほど忠誠心に篤く、豪胆で、しかも船乗りの目を持った者は他にはいない! もう少し頑張ってくれ、ムスタファ!」

『わ、分かりました! お腹へったけど、まだまだ頑張ります!』

イゾルテが上手いことムスタファを乗せるのを聞いていて、アントニオがポツリと漏らした。

「もう12時間くらいずっと空の上ですよ。お弁当ぐらい渡してあげれば良かったんじゃないですか?」

「アントニオ、お前は空腹を我慢するのと、トイレを我慢するのとどっちが良い?」

「…………空腹です」

「安心しろ、戻ってきたらどうせすぐに焼き肉食べ放題だ。……馬肉だけど」

イゾルテは大きい方の遠くと話す箱{無線機}を手に取ると、地峡の防衛線に残った士官たちにハサール軍発見の報を伝えた。



 ブラヌは地峡の5ミルムほど手前で大休止を取りつつ、先行させた斥候の報告を聞いていた。

「スラム人どもは地峡の出口に濠と土塁を築いていました。煌々と篝火を焚き、こちらに備えている模様です」

「夜襲はできんな。仕方ない、明日の払暁に攻め入る! 今晩はこのままだ、鋭気を養え!」

ハサール軍はそのまま天幕も張らずに仮眠を取ると、夜明け前に再び動き出した。戦闘を期しているので、替え馬をその場に置いたままの出立である。とはいえとても大戦(おおいくさ)になるとは思っていなかった。スラム人の叛乱など良くあることではあるが、叛乱が起こってもすぐにハサール軍が押し寄せるのでまともな戦いになったことがないのだ。敵に一ヶ月もの時間を与えた事は初めてだが、だからといってスラム人の経験不足は補いようがない。反乱軍など鎧袖一触、あっさり崩れ去るはずであった。

 だが彼等は地峡の半ばで足を止めた。見通しの良いまっ平らの平原の中で、彼らは前方に聳える川と堤に目を疑った。そしてその堤の上にはズラリと盾が並び、それがただの自然物でも治水施設でもない事を明らかにしていた。

「濠と土塁……まさかこれほどの規模とは! だがここで止まる訳にはいかん! 攻め立てよ!」

ハサール軍による猛攻撃が始まった。



 地峡居残り部隊がイゾルテからの連絡を受けた時、彼等はスラム人の代表者達にハサール軍が近づいていることを知らせた。スラム人達は大慌てで受け持ち箇所に戻ろうとしたが、慌ててそれを引き止めた。

「近づいているといっても、まだ50ミルムある。まず2時間はかかるし、夜営する可能性も高い。奴らは我々がここで待ち構えていることを知っているだろうから、戦いの前に一休みする可能性が高いんだ」

 スラム人達は50ミルム先の敵をどうやって見つけたのかと訝しんだが、狼煙の類だとしてもその符丁を教えてくれるとは思えなかった。それに教えてもらってもあまり意味が無いだろう。だが、ハサールについては彼らの方が詳しかった。

「夜襲は奴らの十八番(おはこ)ですよ?」

「ああ、それを警戒して欲しいんだ。今のうちに濠の向こうに篝火を設置してくれ。近づいてきた敵の姿が見えるように」

「なるほど」

「それに夜襲は明け方が一番多い。すぐに飛び起きれるようにしながらも、兵士たちは十分に休ませてやれ。篝火を設置した後は歩哨を普段の倍にするだけでいい」

「「「了解!」」」


 だが彼らの警戒は無駄になった。ハサール軍は朝ぼらけの中、蹄の音を轟かせながら彼らの前に現れたのだ。地峡を埋め尽くす黒い影として……。その大軍勢を見たスラム人達は弓を手に取る前からガクガクと震え出していた。

「今まで見てきた馬を全部足しても、きっと今見えてる数には及ばないぜ……」

誰かがポツリと呟いたセリフに、スラム人の半分は深く同意した。だが残りの半分は内心で首を振った。同じスラム人でも完全にスラム人だけの世界を築いている都市の市民とハサールと隣合わせに暮らさざるをえない農村の農民たちでは、ハサールに対する恐怖の度合いは大きく異なっていた。農民たちにとっては、彼らは常に手の届くところに付き纏う脅威だったのだ。それ故にその威容を前にして、彼らに弓引くことが恐ろしくてたまらなかったのだ。

「いいか、敵が網まで来たら矢を放て! 敵を狙う必要はないから、とにかく矢を放て! 網に向けて射て! 濠に向けて射て! それだけで勝てるんだぞ、こんな簡単な(いくさ)はないぞ!」

戦力外の手伝いとして付いて来ていた少年が、ガクガクと震えながらも突然弓を取って隊列に割り込んだ。

「相手が網なら人間じゃないんだ、僕だって……!」

「やめろアムート、君にはまだ……」

「やります!」

少年の叫びに、周りの大人達も触発された。子供に戦わせて大人の自分達が逃げ出すことなど出来はしないのだ。

「そうだ、俺達だってそれくらい出来る!」

「積年の恨みを晴らしてやる! もうクレミアは俺達の物だ!」


 ハサール騎兵の先陣が本隊から離れて轟音とともに駆けて来ると、スラム人達は盾の陰で弓を引いた。既にハサール騎兵の射た矢が盾に当たるカッカッカッという甲高い音が鳴り響いていたが、震えだしそうな緊張の中でもかれらは我慢した。敵が網に到達するまで我慢しろと、明確な指示が出されていたからだ。

「まだだ、まだだぞ!」

盾の隙間から敵の様子を覗いているリーダーが、焦れる仲間たちを抑えていた。

「あと50m……40……30……20……10……射てェェエェ!」

その斉射は訓練されたものとは思えないほどお粗末なものであった。だが当然である。彼らは一度も斉射の訓練など受けていないのだ。「射て」と言われたら「止めろ」と言われるまで延々と射ち続けるだけだ。盾の隙間に鏃を押し込んで、適当に放つ。角度によって、網、濠、斜面と射ち分けることはできるが、命中率なんて考えもしない。なぜなら彼らは訓練通り敵を見てすらいなかったのだ。

 だからそれを目にしたのは、号令を下すために盾の隙間から様子を伺っていたリーダー格の者達だけだった。自ら仲間を募って叛乱に参加した彼らは、流石に肝が座っている――ように必死で見せていた。ここで怖気づいた素振りを見せたら、折角築いてきた威厳も何もあったものではない。彼らは必死で自らを落ち着かせようとしていたが、それを目にした瞬間に脆くも崩れてしまった。地面に張られた網に気付かないまま突撃してきたハサール騎兵が、一斉にコケたのだ。悲鳴と土埃が上がる中、慌てて急停止した後続が面白いように密集してくれた。

「あはははは! コケやがった! コケやがったぞ! 射て射て、どんどん射て! 網に向かって射ちまくれ! まだまだ濠まで来る奴は1人も居ねえぞ!」

無邪気にはしゃぐその姿に威厳は欠片もなかったが、戦意の高揚にはなった。その笑みは瞬く間にスラム人たちの間に広がっていった。



『「上顎」隊、「上顎」隊、こちら「下顎」。殿下、獲物を捉えました。可汗の馬印もあります。ソウゾ』

「こちら『上顎』、これより(あぎと)を閉じる。そちらは保ちそうか? ドウゾ」

『はい、スラム人たちはよくやってます。まだ我々は手を出していません。ドウゾ』

「よろしい。こちらが炎を上げたら、お前たちも手を出して構わんぞ。通信終わり、ドウゾ」

『了解、通信終わり』

「よーし、行動開始だ! 全隊、上陸を開始せよ!」

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