彷徨えるドルク人
マヌエルとヘレネーの誕生の知らせを聞いて、ペルセポリスの人々は大いに喜んでいた。ダブル結婚に続いてのダブル出産、しかも片方は30年以上絶えていた男子の誕生なのだから当然とも言えるだろう。だが彼等を熱狂させた一因は、この2月ほどの間に起きた様々な大きな動きに言い知れぬ不安を感じていたからでもあった。
まず、政府が主導して海外(主に北アフルーク)の穀物市場で一斉買い付けを行っていた。これにより海外市場は一斉に高騰したが、国内では備蓄を放出してまで価格を安定させた。そして内外価格差を狙った食料の流出を警戒し、もともと輸出していた一部の例外品目(ジャムと飲用高濃度酒精{アルコール})を除いて全面的な食料輸出の規制までも開始した。穀物相場が上りそうになる度に備蓄が放出されたので市民生活には目に見えるほど混乱は無かったのだが、政府の思い切った行動に何やら不穏なものを感じる市民も多かった。
そしてこれまでペルセポリスから日帰りできる範囲でしか耕作を行っていなかった農業公社が、突然農地拡大と開拓村の開設という方針転換を発表した事も、裏に何か大きな思惑があることを予感させていた。政府は食料の増産を求めつつも、籠城戦をするつもりはないということなのだ。この一世紀あまりに一度としてしたことのない想定である。
そんな所に降って湧いたようなホールイ3国との同盟の締結である。ルキウスは官僚や元老院議員を中心に少しずつ情報をリークさせていたのだが、ハサール問題で同盟締結を前倒しにせざるを得なくなり、結果として大半の国民には寝耳に水の同盟締結となった。その内容はプレセンティナにとって不利なものではないのでもちろん市民は歓迎したが、同盟の締結を急いだことそのものが不安を煽っていた。その裏に新たな戦いの兆しを感じたのである。
政府はドルクの大掛かりな攻勢に備えているのではないか? そのために食料を大量に買い付け、ホールイ3国と同盟を結んだのではないか? それらの疑問は夏頃から囁かれていた1つの噂を連想させた。もちろん、ドルクとハサールが手を組んだという噂である。
ハサール問題そのものについては、政府は未だに公式な発表をしていなかった。焦土作戦をとって敵を旧アルテムス王国領深くまで誘引することが作戦の根幹である以上、国民に作戦の全てを説明することは出来ないのだ。普通の国であれば不安から市民が暴発しかねないところであったが、籠城戦の心得を叩きこまれているペルセポリス市民には不安だけで暴発しないだけの自制心があった。それに全貌は分からなくとも、政府が問題を認識して着々と手を打っていることだけは明らかだったのだ。ならば政府を信じて任せるべきだと彼等は思った。コルネリオとイゾルテがルキウスを支える現体制を、彼等は強く信頼していたのだ。
そんな風に不安を押し殺していた所に皇子と皇女の誕生という手放しで喜べるニュースが舞い込んだのだ。しかもパレオロゴス家とスキピア家の血を引く彼等の誕生は、今の強い帝室が次世代にも受け継がれていくことを期待させてくれたのだ。彼等は帝室への信頼を一層強くしつつ、近い将来への不安の反動で飲めや歌えの大騒ぎを繰り広げたのだ。
だが市民たちが浮かれ騒ぐ中、ペルセポリスの片隅で怪しげな陰謀を企む者達がいた。
『全ての準備は整いました。後は天に生贄を捧げるのを待つばかりです。ドウゾ』
「くっくっく、良かろう。我らの、いや人類の夢を叶えるためなら私は鬼にもなろう。明日、生きのいい生贄を連れて行く。通信終わり、ドウゾ」
『ふっふっふ、明日は歴史に残る日となるでしょうな。通信終わり』
その翌日、ムスタファはイゾルテに呼び出された。アドラー抜きで一人だけである。精一杯お洒落をして離宮を訪れてみれば、イゾルテの方もアントニオを連れずに一人で表れた。しかも肩と背中を丸出しの胸甲入りドレス姿である。応接室で二人きりになると、彼女はもじもじしながら彼に声をかけた。
「ムスタファ、以前言ってくれた……よね?」
「え、何でしたっけ?」
「私のためならどこへでも行くって」
そう言って上目遣いに彼を見上げる姿は、年頃の女の子のようで可憐だった。いや、本当に年頃の女の子なんだけど。ムスタファは鼻の下を伸ばしながら調子の良いことを言った。
「ええ、殿下のためなら、海の底だろうと雲の上だろうとも!」
イゾルテはムスタファの手を握ってにっこり微笑んだ。
「良かった! そう言ってくれると思って用意したんだ」
「……何を、ですか?」
「ふふふっ、それはまだ秘密だ!」
二人は連絡用快速船(小型のガレー船みたいなの)に乗り込むとアムゾン海に向かった。ちゃっかりイゾルテは軍服に着替えちゃってるし、乗客は二人だけとはいえ漕手が30人くらいいるので、ムスタファが期待した雰囲気は欠片もなくなっていた。やがて海峡を抜け20ミルムほど進むと、帆をたたんだゲルトルート号が錨を下ろしていた。ずっと不安を押し殺していたムスタファは、それを目にして流石に聞かずにはいられなかった。
「あれは……何ですか?」
だが聞かれたイゾルテも言葉を濁した。
「何だろうな……何で金ピカなのか、私も聞きたい」
ゲルトルート号の船尾には、巨大な金ピカの玉{ガス気球}が載っかっていたのだ。
ゲルトルート号に乗り込んだイゾルテは、出迎えた博物学者を怒鳴りつけた。
「どういうことだ? 紙じゃなかったのか!?」
博物学者は抜け抜けと答えた。
「紙では強度が足りませんでした」
「だからって何で金ピカなんだ!?」
「金箔を使いました」
「金……箔!? むちゃくちゃ弱いじゃないか!」
「いえいえ、金箔は空気を通さないためです。それを絹に貼り付けたんですよ」
「絹ぅ~!?」(注1)
「おかげで十分な強度を持ちながら空気を通さない巨大な袋が出来ました。直径およそ10m、補強及び吊り下げ用器具も含めて総重量はおよそ372kg、浮力はおよそ215kgです!」(注2)
自慢げに胸を張る博物学者の傍らで、イゾルテがぷるぷると震えた。
「……凄い、確かに凄いさ! だがな、いったい幾らかかったんだ!?」
「さあ?」
「知っとけ!」
イゾルテは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
――くそぅ、こいつら本当に経済感覚ないなぁ! 他人の金だと思ってバカスカ使いおって! 最優先ランクなんか指定するんじゃなかった!
他人というか結局は国庫から出て行くのだが、離宮の予算獲得はそれなりに大変なのだ。最近は独自財源である非軍需物資(二輪荷車{自転車}とジャムなど)の生産に関わるロイヤリティがバカにならないのだが、恐らくは今回の件で吹っ飛んだだろう。
――それでも、これは革命的な物だ。我らが野戦において優位を確立するためには、この巨大紙袋……じゃなかった、布袋って感じでもないし……そう、この金の玉状の袋{ガス気球}が必要なんだ! 多少の散財には目を瞑ろう!
彼女は決然と立ち上がった。
「ちなみに軽気を作るのに鉄屑2トンと硫酸4トンを……」
「それ以上言うなぁー!」
イゾルテは悲鳴を上げて再びしゃがみ込んだ。
だがイゾルテははっと気付いた。もっと悲鳴を上げたいはずの人物がすぐ隣にいたのである。彼女はいつまでも悲鳴を上げていることも許されなかった。
「ムスタファ、お前にはこの金の玉状の袋{ガス気球}で空を飛んでもらう」
彼は両手を頬に当てると口を縦に大きく開き、身体をくねくねと揺らした。彼の声なき悲鳴が居並ぶ全ての人の耳に届いた。……イゾルテを除いて。
「大丈夫だよ、たぶん」
「いやいやいや、意味が分かりません! こんなのでいったいどうやって飛ぶというんですか!?」
イゾルテは肩を竦めた。
「どうやっても何も、ただ座っていればいいんだ」
「へ?」
「コイツがかってに空に浮くから、吊り下げたブランコ――ゴホンッ、椅子に座っていれば良いんだよ。ただそれだけ、誰にでもできるぞ」
「へぇー。じゃあ、何でわざわざ俺を?」
イゾルテは彼から目をそらして南の水平線を見つめた。
「お前の言葉が本気なのか試したかったんだ。私の為ならどこへでも行くという、あの言葉を。そこへ偶然この実験の話が持ち上がったんだ。希望者が殺到したのだが、私はお前を選んだ」
もちろん嘘である。
「本当は体重の軽い私がやるべきだと主張したのだが、危急存亡のこの時期に万が一事故でも遭ったらどうするのかと止められて、泣く泣くお前に譲ったんだ」
もちろん嘘である。だがそうとは知らないムスタファは感動を覚えていた。イゾルテは彼の言葉を覚えていただけでなく、本当は自分が飛びたいのにその代わりにと彼を選んでくれたと言うのだ。
「殿下が、俺を……?」
「ああ。初めて会った時、お前は甲板に刀を突き立ててドカリと座り込んだ。敵に命を握られながらなかなかに太太しい態度だったぞ。その時の胆力をまた見せてくれ」
――その上、初めてお会いした時の事まで覚えていてくださったとは……!
ムスタファはドンっと胸を叩いた。
「分かりました。俺は一度は死んだ身です、何でもやってみせようじゃありませんか!」
こうして彼は、この常軌を逸したとてつもなく危険な実験に自ら進んで志願したのである。
ムスタファは、寒くないようにとほかほかでぼわぼわの綿入れみたいな服に着替えさせられた。しかもなぜかパンツまで脱がされて、気の毒そうな顔をした士官が「専用の下着だ」と言って渡したオムツっぽい形の下着(というか本当はオムツそのもの)も履かされていた。そしてその格好でのそのそと金の玉状の袋{ガス気球}に近づくと、その下にぶら下げられた椅子(というかただの長方形の板)に座った。脇の下に命綱を巻きつけて準備万端整うと、彼はイゾルテに向き直り右手の掌をビシっと額にあてた。
「何だそれ?」
「あれ、知りませんか? 海軍で流行ってる挨拶です。おかしいな、殿下がやりだした挨拶だと言われてるんですけど(注3)」
「ええっ? 全然知らないぞ、初めて見た。どういう意味があるんだ?」
「意味? うーん、お辞儀みたいなものですね。シチュエーションでいろいろ変わってきますが、とりあえず肯定的な意味が多いです」
「ふむ、じゃあ今回は『行ってきます』『行ってらっしゃい』ってところだな」
そう言ってイゾルテもビシっと右手を額にあてた。その姿を見てムスタファの脳裏を幻が過った。
『じゃあ行ってくるよ、マイハニー!』
『いってらっしゃい、ア・ナ・タ!』
ムスタファは鼻の下を伸ばしながら大空へと舞い上がった。彼は何か喚いていたようだが、100kg以上の浮力はすぐに彼を高空へと押し上げてしまい、風に負けてイゾルテには聞こえなくなってしまった。
「殿下、何で遠くと話す箱{無線機}を持たせなかったんですか?」
「だって、『ぎゃあぁぁぁぁ、下ろしてぇぇぇえ!』って叫ばれたら、黙殺し辛いだろ?」
「……なるほど」
金の玉状の袋{ガス気球}が上昇を止めたのは、ぶっ太いロープを300mほど繰り出した時だった。
「しかし太いロープを使っているなぁ。ロープの重さが半分なら倍の高さまで行けるじゃないのか?」
実際には大気圧の関係があるのでそうも行かないが、それに近い効果はあるだろう。
「うーん、でも、強い風が吹いたらブチッと切れちゃいますよ」
「……そしたらどうなる?」
「風の赴くままにどこまでも、って感じで彷徨うんでしょうね。ははは、なかなかロマンがあるなぁ」
「彷徨えるドルク人……ロマンがあるのか?」
風にゆられてふらふらと揺れるロープの先で、金の玉がキラキラと光っていた。
不思議なもので、風に声が流されると真下に居るイゾルテではなく遠く離れた別の船に声が届くことがあるようだ。ムスタファが怖くて下を向くことが出来なかったのが原因かもしれない。
「誰かぁ~、降ろぉしてぇ~くれぇ~」
そんなドルク語の叫びが何処からともなく聞こえてきて、見れば遠くの空に怪しげな黄金の玉が漂っていた――そんな怪異を目撃した船乗りたちがペルセポリスの酒場で噂をまき散らした。ドルク人の悲鳴、黄金の玉、そしてそれが空を飛ぶ……いつの間にかその噂はこんな怪談に変わっていた。
『黄金の魔女に拐われたドルク人が、永遠の業火に焼かれて悲鳴を上げ続けながら空を漂っている』
それは密かにこう呼ばれた、「彷徨えるドルク人」(注4)と……。ちなみに内部的にはもっとかっこ悪い名前で呼ばれたことは言うまでもなかった。
注1 絹はすごく高価です。でもこの時代にはタイトンでも生産されていますので、「金と同額」というほどの値段ではありません。東方のツーカ帝国から蚕の繭を隠し持って帰ってきた生臭神官のおかげだそうですが、きっとヘルムス(旅とか盗みも管轄してる)の神官だったのでしょう。
とは言っても、金自体も採掘量が少なくて現代の感覚よりも遥かに高価です。そしてそれを両方とも300平方メートル……頭が痛い事でしょう。
注2 気球のサイズは一応計算しました。
直径10m
体積 523.6m^3
表面積 314.2m^2
水素
密度 0.08988 g/L=0089.88 g/m^3
空気
密度 1.29290 g/L=1292.90 g/m^3
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浮力 1203.02 g/m^3
総浮力 1203.02×523.6=629901.272
よって、1気圧0℃では 629.9 kg の浮力が生じます。とはいえ、気温が上がれば空気の密度が減少するので浮力は減ります。シャルルの法則を適用すると、気温が20℃での総浮力は 629.9kg×(273/293)=586.9kg となります。
もっとも素材の重量(372kg)と強度はムチャクチャ適当ですけど。
注3 イゾルテがヘルメットのシールドを押し上げた時の姿が原型です。こちらの世界の敬礼も、騎士が面覆いを開ける姿が元になったという説があります。
注4 彷徨えるオランダ人という有名な幽霊船伝説が名前の元ネタです。"flying"でなんで"彷徨う"なんだとか、そもそも船なのになんで"flying"なんだよーというツッコミを入れたかったのです。ちなみに狂えるアラビア人とは何の関係もありません。
金玉袋(通称)は水素気球ですので、もちろん引火すると爆発します。ですので懐中電灯でも持ってこない限り夜間の発着は事実上不可能です。必然的に夜間の見張りは12時間勤務になりそうです。高度300mの暗闇の中でたった一人、もう発狂しそうです……。




