皇子と皇女
9月半ば、臨月を迎えるとテオドーラは東の宮殿から後宮へと移っていた。リーヴィアも臨月だからである。医者や産婆があっちこっち移動するのも面倒だし、妊婦同士話をし易いようにという配慮であった。
二人が同時期に出産するということは、父娘揃って、姉弟揃って、同時期に子作りしていたということだが、イゾルテはその辺はあまり考えないことにした。法律と子供は作るところを考えてはいけないのだ、その成果だけを有り難く享受しようではないか、と。
やがてコルネリオもテオドーラと共に寝泊まりするようになり、10月の初めに訪問先から帰ってきたイゾルテも後宮の自室に泊まりこむようになった。何か手伝おうと思ってのことだったが、人手は腐るほどあったので彼女は結局ミランダと遊んでばかりいた。戦争の準備も委員会の仕事もいくらでもやることはあったのだが、後宮全体が浮足立ったような奇妙な熱気に包まれていて、蚊帳の外のイゾルテも仕事が手につかなかったのだ。だがそれは戦いを前にするような暗く沈んだものではなく、祭りの日の前のような落ち着かないなりに決して気分の悪いものではなかった。
ある朝イゾルテが目を覚ますとベッドの脇に大きなかごが置いてあった。彼女が洗面所に向かおうとしてその籠の脇を通り抜けようとした時、その惨劇が巻き起こった。
ガシャンッ
「ぬ゛っぐっ……!」
首と鳩尾に次ぐ急所である(と彼女が勝手に思っている)左足の小指を籠の下にあった何かにぶつけると、彼女はあまりの激痛に悲鳴すら上げられず床をごろごろと転げまわった。そして床にごんごんと額をぶつけて足の痛みを紛らわせると、サンダルを脱いで左足の小指を揉みほぐしながらしゃがみこんだ。
「誰だ、こんなところに物を置いた奴は!」
そう言って彼女が憎々しげに睨んだ先には大きな籠があった。というか、大きな籠の載った4輪の台車{乳母車}があった。その車輪はオリジナルの二輪荷車{自転車}の様に黒くて柔らかい車輪{ゴムタイヤ}であり、それはつまり、それが贈り物であり、それを置いたのは神様だと言うことであった。彼女は膝立ちになって胸元で指を組んで祈りを捧げた。
「ゴホンっ。失礼しました、神様。いつもありがとうございます。でも、出来ればもうちょっと安全な所に置いて下さい!」
最後はちょっと八つ当たり気味だった。
彼女は立ち上がると籠付き台車{乳母車}を観察した。黒くて柔らかい車輪は、二輪荷車{自転車}に比べると直径が半分以下だったが、台車の物としては大きかった。籠は蔦で編まれているらしく軽かった。これは再現可能なようだ。台車は奇妙に軽い金属で出来ていて、人が掴むと思しき取っ手も付いていた。そして籠の端には、一枚の赤い紙を折り曲げて作ったぞんざいな風車が突き刺さっていた。
「籠付きの台車は色々と使い道がありそうだけど、この風車には何の意味があるんだろう? やはり風に関係があるのかな?」
ふと籠の中を覗き込むと、丸い何かに棒が突き刺さったような形の物{でんでん太鼓}が転がっていた。イゾルテがそれを拾おうとすると、トンッテンッと乾いた音が響いた。よく見ると紐でつながった2つの小さな丸い木の玉が中央の丸い太鼓に当たって音が出ているようだった。くるくると回転させると紐の長さの関係でちょうど太鼓の中央にに当たるようなっていたのだ。
「ほう、変わった太鼓だなぁ。……太鼓? なるほど、そういうことか!」
籠付きの台車、風車、そして太鼓、この3つから導き出されるものは1つしかなかった。イゾルテは自信満々に断言した。
「これは乗り物だ。人間に押させて進む乗り物なのだ。籠に乗った人物はガレー船のように太鼓を叩いて速度を指示し、風車を見て現在の速度を割り出すんだ! 敢えて太鼓を使って指示するのは、恐らくは言葉の通じない外国人の奴隷に押させるための工夫だろう!」
「そうなんですか?」
「ああ、きっとそうだ!」
奇妙な沈黙が二人を包んだ。
イゾルテがきりきりと首を回して後ろを見ると、部屋着を着たミランダが立っていた。
「……ミランダ、いつからそこに居たんだ?」
「ルテ姉様がごろごろ転がってた時からです」
「……!」
イゾルテは声なき悲鳴を上げた。
――ほとんど全部見られちゃったってこと!?
彼女は全てを誤魔化すために烈火のごとく怒ってみせた。
「ミランダももう父上の娘なんだから、人の部屋に入る時にはノックぐらいしなくちゃダメだぞ、めっ」
これほど激しくミランダを叱ったのは初めてのことで、イゾルテは胸が傷んだ。だがミランダは動揺も反省もせずに生意気にも反抗してきた。
「でも、ルテ姉様もいつもノックなしで私の部屋に入ってきますよ?」
思わぬ反撃にイゾルテは動揺してしまった。
「そそそ、それは、ほら、姉妹の間に隠し事なんて不要だからだよ!」
「じゃあ、ルテ姉様の部屋にはノックなしでも良いんですよね?」
「…………」
どんどん墓穴を掘り進むイゾルテは、ついに頭を下げた。
「すみません、ごめんなさい。今度から私もノックするから、ミランダもノックしてね。特に朝は、いや、朝だけでも!」
「うーん、分かりました。今度からはノックします」
「そうか、そうしてくれると助かるよ。やっぱりミランダは良い子だなぁ!」
そう言ってイゾルテはにっこり笑ってミランダの頭を撫でた。
「ところでルテ姉様、それはどんな乗り物なんですか? 神様にお祈りしてましたけど」
イゾルテは頬を引き攣らせた。結局誤魔化せなかったようだ。
「これは……遺物なんだヨ。秘密の遺跡で発掘された、太古のタイトン人が神を祀った神殿の遺跡から発掘された物ナンダ。特にコレは大変危険な場所にあったらしいので、ちょっと文句を言ってたんだヨ、うん。そして、分析してくれって昨日の夜遅く届いたんだけど、眠かったから寝ちゃったンダ。だから起き抜けに調査していたんダヨ」
イゾルテの説明を聞いて、ミランダは目を輝かせた。
「わぁぁ~、ルテ姉様凄いです! そんな凄い物の調査を頼まれるなんて!」
「そ、そうかナ?」
「それで、その遺跡はどこにあるんですか?」
「それは……秘密ダ」
イゾルテの硬い声を聞くと、ミランダは不満げに頬をふくらませた。
「姉妹なのにぃ……」
「う゛っ」
「ルテ姉様はきっと私のことを妹だと思っていないんですね……」
「そんな事はないぞ! ミランダは大切な妹だ!」
イゾルテが叫ぶとミランダは顔を綻ばせた。
「嬉しいです、ルテ姉様! それで、その遺跡はどこにあるんですか?」
「う゛っ」
イゾルテは必死に言葉を選んだ。
「……どこから送られて来るのかは、私も知らないんだよ」
「本当ですかぁ……?」
「これは本当だって!」
「『これ』は?」
ミランダが小首を傾げると、イゾルテは急いで話を逸らせた。
「そんな事より、この乗り物の事だったよね! ミランダ、乗ってみる?」
「はい、乗ってみたいです!」
「よし、じゃあベッドを踏み台にして乗り込むんだ」
「はい!」
ミランダがサンダルを脱いで籠{乳母車}に乗り込むと、イゾルテは台車の取っ手を掴んだ。
「よーし、出発進行!」
「あっ、ルテ姉樣!」
「ん? どうした?」
「寝間着のままですよ?」
イゾルテはネグリジェのままだった。
イゾルテは手早くトーガに着替えると、ミランダを乗せた籠付き台車を押して廊下に出た。
「ついでだから、太鼓{でんでん太鼓}で速度を指示してくれる? この棒を持ってをくるくる回すんだ」
「こうですか?」
トンッ、テンッ、トンッ、テンッ
その音に合わせてイゾルテはゆっくりと押し始めた。
「ゆっくりだと難しいです」
ミランダはそう言ってテンポを上げた。
トンッテンッ、トンッテンッ
「あ、あれ? ちょっと早くないかな、ミランダ」
「まだまだです♪ 風車が回ってませんよ」
トンテンットンテンットンテンットンテンッ
「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ」
「わー、速い速い♪」
疾走する二人を見て廊下にいた侍女達が目を丸くしたが、誰も止めようとはしなかった。離宮なら確実に止められて説教を喰らうところだろう。
だが今日のイゾルテは叱られてもいいから誰かに止めて欲しかった。
意外と容赦の無いミランダにイゾルテは疲れ果てるまで扱き使われた。
ようやく息も整って人心地ついたころ、二人の前に侍女が飛び込んできた。
「姫さま方、皇妃様が産気づかれました!」
その言葉を聞いてイゾルテはミランダと目を合わせた。どちらからともなく頷き合うと、手に手を取ってリーヴィアの寝室に向って走り出した。ミランダが生まれた時イゾルテは3歳だったので、その時の記憶は全くなかった。初めて見る新しい生命の誕生に、彼女達は静かに興奮していた。……寝室に到着するまでは。
「痛゛ぁぁぁぁぁぁ! 死ぬ、死ぬから、ホント死ぬから。んぬ゛っんんんんんー。あ゛っあ゛っ? ぬ゛ぬ゛ぬ゛ぬ゛ぅぅぅ。あれ、まだ生きてる? でも生まれてないの? じゃあやっぱり死ぬわ。あん゛っ、っつつつつつつっ゛!」
イゾルテはドン引きし、ミランダも彼女の背に隠れてぷるぷると震えていた。やっぱり子供を作る所は見てはいけなかったのだ。種を蒔く所だけでなく、収穫する所も含めて。
イゾルテが不安げに周りを見回すと、リーヴィア付きの年老いた侍女と目があった。「大丈夫なのか?」と目で訴えかけると、彼女は苦笑しながら近付いてきた。
「大丈夫ですよ。ミランダ様の時もこうでした」
ミランダが自分の名前を聞いてビクっとするのが背中から伝わってきた。
「それだけ大きくお育ちになっているのですわ。良いことですよ」
老侍女はにっこりと微笑んだが、イゾルテは不審に思った。ミランダは幼い頃から体が弱かったのだ。
「ミランダも最初は大きかったのか?」
「あー、えーと、あんまり……」
老侍女はバツが悪そうに言葉を濁した。まあ、要するに胎児の大きさとは関係なしにこういうものだということだろう。
「まあ、口から先に生まれて来たおば――」
ふっとリーヴィアの声が途切れた。
「――義母上だからな」
リーヴィアは再び喚きだした。
「ひぃぃぃいいい。まだ? まだなの? そんなにお腹の中が居心地いいの? さっさと出でぎでぇぇぇぇ! お姉さまたちがまっで、るう゛う゛う゛う゛っ?」
また唐突にリーヴィアの声が途切れると、数秒の間を置いて再びけたたましい喚き声が上がった。
おぎゃぁぁぁ おぎゃぁぁぁ おぎゃぁぁぁ~~
その騒音の源は、産婆の腕の中にあった。
――こ、これは……
それはねちょねちょべたべたした濡れネズミのような、明らかに人外の生き物だった。愕然とするイゾルテを置き去りにして産婆が喜びの声を上げた。
「おめでとうございます! 元気な姫君です!」
わあっ、と侍女たちが歓声を上げ、廊下では(男なので部屋に入れてもらえなかった)ルキウスとコルネリオが何事か騒いでいるようだった。だが、イゾルテは硬直したまま動くことが出来なかった。
――え? あれ? あれが普通なの? 喜んじゃっていいの? 本当に?
先ほどの老侍女がうっすら涙を浮かべながらイゾルテ達に囁いた。
「さあさあ、妹君にご挨拶下さい。姫さま方にそっくりな可愛らしい姫君ですよ」
思わずイゾルテはミランダと目を合わせたが、彼女の瞳も「思ってたのと違う!」と全力で主張していた。
「ミランダ、良く分からない時はとりあえず周りに合わせるんだ。それが楽に生きるコツだぞ」
「でもルテ姉様、可愛くありません」
「あれだってほら、乾けばまた印象が変わるかもしれないし。馬の赤ん坊も一晩で随分印象が変わるんだぞ」
その言葉がどこまでも空虚なのは、それが聞きかじりの知識だったからだろうか、それとも自分でも信じていなかったからであろうか。それでもイゾルテはミランダの手を引いて一歩、また一歩と歩を進めると、赤ん坊に対してぎこちなく笑いかけた。
「や、やは。私がオネえサン、ダヨ?」
うぎゃああぁああぁぁ
「ひぃいぃぃ!」
イゾルテは悲鳴を上げてミランダの背中に逃げ込んだ。盾にされて硬直したミランダは、それでもゆっくりと手を差し伸べると、その指先で初めての妹と握手した。
「はじめまちて、ミラ姉でちゅよ、です」
きゃは、きゃっきゃきゃ
「まあ、生まれたばかりの赤ん坊が笑い声を……!」
わあっ、と侍女たちが再び歓声を上げ、ミランダも弾んだ声を上げた。
「ルテ姉様、やっぱりかわいいかもしれません。ほらほら」
「そ、そうか?」
イゾルテはミランダの肩の上から覗き込んだ。
う゛っ、うぎゃああぁああぁぁ
「ひぃいぃぃ!」
ミランダの背中に隠れながらイゾルテは思った。
――やはり母性とは胸の大きさに比例するものなのだろうか……って、まだミランダには負けてないぞ! まだ!
彼女はとりあえず妹達から離れ、勤めを終えたリーヴィアの元に近づいた。
「義母上、おめでとうございます。そしてご苦労様でした」
だが彼女は焦点の合わない目でイゾルテを見ると、息も絶え絶えといった様子で必死に声を絞り出した。
「イゾルテ、私はもうだめ。この子の事はあなたに、う゛っ……」
「義母上? 義母上っ!」
老侍女がぐったりとしたリーヴィアの脈を取ると、目を瞑って静かに首を振った。
「ま、まさか……」
「完全に寝てます」
イゾルテはしばらく二の句を継げなかった。
「……ええっと、昏睡ってこと?」
「まさか。陣痛であまり寝ていないと仰っておられましたから、気が抜けたんでしょう。恐らく水をぶっかけたら起きられると思いますが、心配なら試しますか?」
「いやいやいや、いいです、はい」
イゾルテは慌てて首を振った。物凄くリーヴィアにツッコミを入れたかったが、そんなんで叩き起こしたら久しぶりに力の限り説教されることだろう。
リーヴィアに何事か頼まれかけたイゾルテだったが、彼女はもはや完全に蚊帳の外だった。リーヴィアの娘たちがきゃっきゃと笑い合っているのを、彼女は指を咥えて見ているしか無かった。何度近寄っても泣かれるのだから仕方がなかったのだ。
その時、喜びに満ちたその部屋の中に、新たな侍女が駆け込んできた。
「今度は皇太子妃殿下が産気づかれました!」
イゾルテは慌てて廊下に飛び出すと、廊下でルキウスが何か話しかけてきたのを完全に無視して、すぐ向かいの部屋に飛び込んだ。
「姉上、大丈……び?」
おぎゃぁぁぁ おぎゃぁぁぁ
「おめでとうございます! 元気な若君です!」
わあっ、と侍女たちが歓声を上げる中、イゾルテは唖然として立ち竦んだ。
――え? あれ? 早くない? 義母上はあんなに苦しんでたのに?
また泣かれないようにと、彼女は赤ん坊を避けてぐるりと遠回りすると、テオドーラの枕元に擦り寄った。
「姉上、おめでとうございます。そしてご苦労様でした」
「ありがとう、イゾルテ。あなたのおかげよ」
「……全然心当たりはありませんが、お役に立てて幸いです」
「さあ、産湯につからせなくっちゃ」
イゾルテが「ええっ?」っと声を上げる間もなく、テオドーラは身を起こすと侍女に持ってこさせた銀のたらいの中に我が子を入れて体を洗い始めた。疲労困憊して寝ちゃったリーヴィアとはえらい違いである。
長いこと後宮に出入りしているイゾルテが初めて見たその無駄に磨き上げられたたらいは、ひょっとすると新生児の産湯に使うためだけの専用のたらいかも知れなかった。だとすれば無駄に歴史と謂れがあるものかもしれない。テオドーラやルキウスもそのたらいで産湯に浸かったのかも知れなかった。
――ということは、母上も私をこうやって産湯に浸からせたのだろうか……?
イゾルテはこっそり脇から覗き込んだ。
う゛っ、うぎゃああぁああぁぁ
「ひぃいぃぃ!」
結局彼女は遠くから指を加えて一部始終を見守った。
産湯から上がった皇子は、胎脂(注1)が落ちたことで随分と印象が変わっていた。その上テオドーラの手で優しく拭きあげられると、もはや「濡れネズミ」という印象は完全に消えてなくなっていた。
――なるほど、確かに随分と印象が変わるなぁ。うん、猿になった!
この後それぞれの父親によって、リーヴィアの産んだ女児はヘレネー、テオドーラの産んだ男児はマヌエルと名付けられた。だがイゾルテが彼らを確かに人間であると認めたのは、目が開いているのを初めてみたおよそ2週間後の事であった。
注1 胎脂は新生児にべっとりついてる脂で、皮膚の保護のためにあるんだそうです。時代劇なんかでは生まれてすぐに産湯につけて落としてますけど、最近は自然乾燥させてから洗い落とすお医者さんも多いみたいです。




