のりしお
章初めは気楽なネタで
ルキウスとリーヴィアの結婚式が終わって落ち着いたはずのウェディングブームも、6月に入って息を吹き返していた。もともと6月は結婚式の多い月だが、テオドーラやリーヴィアの結婚式が6月にあると聞いてうっかりヘーレ神殿に予約を入れちゃったカップルたちが、見事に思惑を外されてちょっとヤケになりながら結婚式を挙げているのだ。へーレ神殿は大小数多あるので、一日中あちこちで鐘が鳴っていて関係ない人にはちょっとウザい。独身で恋人もいないイゾルテはちょっとムカついていた。だが幸せいっぱいなはずの当人たちもいきなり結婚を早めた4人にちょっとムカついているはずで、4人の身内としてイゾルテもちょっと責任を感じないでもなかった。
そんなある朝、いつもの様に枕元に贈り物が届いていた。カラフルな袋{ポテチ、のりしお味}に何やら色々と描いてあるのだが、その中にやたらと写実的な人物画があった。
「実に見事だ。だが、何でモデルが爺さんなんだ?」
農地と思われる場所を背景に、どう見ても偉そうに思えない老人が、土に汚れた服を着てやたらとにこやかに微笑んでいた。
――手に持っている土にまみれた何かは根菜類だろうか?
この時代、タイトンに芋という食品は存在しない(注1)。だからイゾルテは、じゃがいもどころか「芋」という分類の農作物自体を知らなかったのだ。
「ん? ということは、反対側に描かれているこの不気味なキャラクターも、ひょっとして根菜なのか? カブ? ゴボウ? セイヨウダイコン?」
しかし袋はやたらと軽く、振ってもカサカサと音がするばかりでカブやゴボウが入っているようには思えなかった。
「袋を眺めていても仕方がないな。開けてみるか」
彼女はハサミを持ってくると、袋の端をジョキジョキと切り落とした。すると、油っぽくもなんとも香ばしい匂いが漂ってきた。
「やはり食べ物か。ということは、これはカブなのか?」
袋の中身を半分ほど紙の上に取り出すと、彼女は慎重に観察を始めた。それはかさかさパリパリした歪んだ紙のような、良く分からない何かだった。黄色というか緑色というか、実に不味そうな色である。それに薄い上にひどく脆く、触るだけでぽろぽろと崩れそうだ。その表面には細かい緑色の何か{海苔}と白い結晶{塩}がまぶされていた。
彼女はマジマジと見つめたが、食べ物なら見ていても仕方がないと気づいた。
「食べてみるか。だが、万一私が今倒れたら、この国は――」
イゾルテは考えを巡らせた。そして更に考えた。そして更に更に考えた。
「――何も困らないなぁ」
どうやら食べられない理由が見つからなかったようだ。
「しかし、私のようなか弱い少女には荷が重い。やはりここは簡単には死ない奴に食べてもらおう」
彼女の知り合いでもっとも死ななそうな人間、それは――イゾルテだった。ひょっとしたら猛毒を呷っても死なない可能性があるのだ。試す気は無いけど。
「いやいや、ここは好奇心に溢れる男たちに期待しようではないか!」
彼女は研究棟に持って行くことにした。あそこには「新しい遺物だぞ」と言えば喜んで群がってくる男たちが大勢いるのだ。彼等なら自ら進んでこの太古の遺物を――
「遺物って紹介してるのに、食べる訳ないよなぁ……。やはりここは、一番騙しやすいアントニオに食べてもらおう」
彼女はメイドを呼び出し、アントニオを呼んで来るように命じた。
「アントニオ様なら今日から1週間お休みですよ。親戚やら知り合いやらの結婚式が立て込んでるって、仰ってましたよね?」
どんどん外堀が埋まっていくような感覚に、彼女はがっくりと項垂れた。
――このさい、このメイド……何だっけ、えろ、えろ、えろい……えろいず、だっけ? こいつを騙して食べさせるか?
だが、それで死んじゃったらあまりにも後味が悪かった。彼女は何も悪いことなどしていないのだ。何か罰を与える口実がある者はいないだろうか……?
――そうだ、ダングヴァルトに食わせよう! あいつには個人的にも罰を与えないと気が済まないからな!
ダングヴァルトはガルータの一件で詰め腹を切らされ、将軍職を罷免された上に陸軍からも追い出されて、今は実家(大商人)に身を寄せているはずだった。つまりはニートである。親友を失った上にふんだり蹴ったりである。イゾルテはそれなりに彼の能力を評価していたが、彼を一切弁護しなかった。尋問の結果、彼が巡らせていた策謀が明らかになったからだ。デマとアジでイゾルテをフルウィウスとの結婚に追い込もうとは、彼女でも考えつかない程の悪どさである。ルキウスならうっかり乗せられちゃいそうなのがますます怖い。一歩間違えばウエディングブームに乗っかって、彼女は今月中にも結婚するはめになっていたかもしれないのだ!
「ダングヴァルト将軍に……って、もう将軍じゃないんだっけ。ただのダングヴァルトにこれを届けて欲しい。それと食べた感想を必ず聞いてきてくれ」
彼女が指し示したのは見るからに怪しげな物だった。だが、かろうじて香ばしい匂いが食べ物だと主張していた。その匂いでメイドは思い出した。
――そういえば、昨日はエール(麦酒)を煮込んで何かやってらしたわね。あれはきっとこの料理を作っていらしたのね!
だが本当は、イゾルテは高濃度酒精{アルコール}の材料をワインからエールに切り替えるための実験をしていただけで料理でも何でもなかった。含有不純物とかアルコール度数の違いがあるので、蒸留に最適な温度が違ってくるのだ。ついでに言うと、エールを煮詰めた物は変な臭がする変な物でしかなく、全く再利用の方法が思いつかなかった。同じ値段ならジャムが出来る分ワインの方がマシである。
「まぁ、姫様。殿方にお料理を届けるのですか? お年頃なんですね!」
「落とし頃? ふむ、確かにそろそろかもしれないな」
彼女は、ダングヴァルトがどん底に落ちたところを拾い上げて恩を売ろうと考えていた。エロイズ(仮)の言うように、そろそろ拾い上げてもいい頃かもしれなかった。どん底に落ちた今の彼なら、ちょっとやさしい言葉をかけただけでコロリと「落ちる」ことだろう。そうして彼を忠実な工作員として危険な任務に就かせるのだ。彼にはその悪どさを存分に活用して貰わなければならない。ただし、主に外国で。国内だといろいろ迷惑だから。
――勿論、これを食べて死ななければの話だけどな。
イゾルテは暗い笑みを浮かべた。
イゾルテに命じられたエロイズ(仮)――こと本名エロイーザは、他の誰かに頼む訳でもなく自ら馬車に乗り込んでダングヴァルトの元に向かった。イゾルテの恋の相手を直に見たかったのだ。彼女もイゾルテと同じ16歳で仕えてまだ一年ほどだったが、主の美しさは彼女自身の自慢でもあった。しかしその一方で、その美しい主人には色っぽい話が全然無いことが不満だった。その美貌にふさわしく、数々の男を袖にして、あるいは浮名を流して欲しかった。そして今日突然、恋しい男のもとに使いを出すと言い出したのだ。何せイゾルテが自ら料理をして、それを男に届けて来いというのだから尋常の事ではない。感想を聞いて来いと念を押すのも明らかに恋心故だろう。
――でも、美味しくなかったらどうしましょう?
「マズい」なんて感想を持って帰ったらイゾルテが可哀想だ。だが彼女に嘘を付いて「美味しかった」と伝えても、彼女が喜ぶだけで恋が実ることはない。ならば今のうちに美味しい物に差し替えちゃった方が良いのではないだろうか?
――いえいえ、器用な姫様ですもの、ひょっとしたら美味しかもしれないわ。まずは味見をしてみましょう。
彼女は器のフタを開けると、その実に不味そうな何かを一枚取り出した。
――あんなに綺麗な方なのにほんとに見た目を気にしないのよね。服も軍服かトーガしか着ないし、お風呂好きのくせに3日くらい部屋に閉じこもったりするし。この料理ももうちょっと見た目を良く出来なかったのかしら?
彼女は記憶の中で最もマズい料理を思い出し、それを食べるつもりでその何かを口の中に放り込んだ。
「しょっぱーい! ……けど、サクサクしてて美味しい。何これ。美味しいわ、ホントに!」
彼女はもう一枚取り出すと、再び口に放り込んだ。パリパリさくさくした感触が堪らない。しょっぱすぎる気もするけど、きっと本来は飲み物と一緒に食べるものなのだろう。冷えたエールとかを一緒に飲んだら美味しそうだった。
「さすが姫様、舌が肥えてるわぁ。こんなに美味しいもの初めて食べたかも」
そう言いながら、彼女はもう一枚取り出して食べていた。
「このサクサク感は明らかに油で揚げたのよね。でも何のフライなのかしら? 味は濃いけど素材自体は淡白なのよね。穀物? 麦の粉を練った物……ならもうちょっと甘いような気がするわ」
あーでもない、こーでもない、とパリパリぶつぶつやっている間に、馬車はダングヴァルトの実家に着いていた。
「イゾルテ殿下からの贈り物です」
「えっ、殿下から!?」
訪ねて来たメイドが差し出した容器には、何だか良く分からない細かい物が少しばかり入っていた。ダングヴァルトは首をひねった。
「これは……? 薬か何か?」
メイドは何故か青い顔をして、慌てたように否定した。
「これは、その……大変貴重な食材を使った料理なんです! 殿下が方方探しまわってやっとそれだけを取り寄せて、手ずから調理なされたんですよ!」
その言葉を聞いてダングヴァルトは目を剥いて驚いた。
「殿下が、わざわざ俺のために!? てっきり見捨てられたのかと諦めていたのに……!」
彼は震える手でその一欠片を摘み上げると、ゆっくりと舌の上に置いた。そして涙を流した。
「しょっぱいよ。まるであの日の涙のようだね。でも美味しい」
それは涙の味を覚えておけということだろうか。それとも、涙をも糧として先に進めということだろうか。何れにせよ、彼女はまだ彼に対して心を残しているということなのだろう。例えそれが一欠片ほどだとしても。
「殿下のお心が染みるようだよ。殿下に伝えて欲しい、ダングヴァルトが礼を言っていたと。お役に立てることがあれば何なりとお命じ下さい、とも」
「まあ、良かった。姫様もきっとお喜びになりますわ!」
そう言って微笑んだ彼女の歯には、細かい緑色の何かがたくさんくっ付いていた。
「姫様、ダングヴァルト様は大層お喜びでしたわ」
離宮に帰るなりエロイーザが上機嫌に報告すると、イゾルテは意外そうに片眉を上げた。
「へぇ、美味しいって言ってたのか?」
「ええ。涙を流して喜んでましたよ! 殿下の気持ちが嬉しいって!」
「涙? 私の気持ち? ……本当に喜んでいたのか?」
イゾルテの悪意を察して泣いたのなら、彼が喜んでいるはずがなかった。彼がマゾヒストでなければ。だが彼女が訝しむのを見てエロイーザはくすくすと笑った。
――期待以上の反応を聞いて、逆に不安になってしまったのね。恋する乙女にはよくあることだわ。元気づけてあげないと!
「勿論です! 『お役に立てることがあれば何なりとお命じ下さい』って、騎士みたいなことを言ってましたよ!」
「ほう、さすがはダングヴァルトだ。そこまで読み取り、覚悟を決めたか。私が見込んだだけはあるな!」
エロイーザには彼女の言っている意味は分からなかったが、たった一欠片のフライでそこまで深いやりとりができる二人に感心した。よほど深く相手を理解しているのだろう、と。二人のこれからを思うとそれを取り持った身としてもとても嬉しく、彼女はにっこりと微笑んだ。
「……ところで、その歯に付いているのは何だ?」
「は?」
「は、じゃなくて歯だ。なんか細かいものがいっぱい付いているぞ」
エロイーザは笑顔のまま口を閉じ、そのままもごもごと何か言った。
「いや、何を言ってるのか分からんぞ。はっきり言え、はっきり」
エロイーザは青くなり、笑顔のまま汗をだらだらと垂らし出した。イゾルテはハッとして彼女に詰め寄った。
「おい、まさかアレを食べたのか!? それでそんなに顔色が悪いのか!?」
――ああ、勝手に食べたから怒っておられるのね。二人の恋を邪魔しちゃったんだから当然よね……。
エロイーザは泣きそうな顔でコクリと頷いた。それを見て今度はイゾルテが泣きそうになった。
「何てことを! 馬鹿者が! お前に食べさせる気なんてなかったのに!」
イゾルテの剣幕に、エロイーザは手打ちになることを覚悟した。彼女はえぐえぐと泣きべそをかきながら、自らの罪を告白した。
「えーん、でんかー、すみませーん。美味しくてぇー、手が止まらなくてぇー、ほとんど私が食べちゃいましたぁー! ダングヴァルト様はぁー、ほんのちょっとしか食べていましぇーん!」
だがイゾルテは聞き耳を持たなかった。
「そんなことはどうでも良い! お前は大丈夫なのか? お腹がいたいのか? 体が痺れるのか? それとも寒気がするのか!?」
彼女はエロイーザにますます詰め寄り、遂にはベットの上に押し倒すと、伸し掛かって胸元を開いた。
――ええぇっ!? ま、まさか、殿下、私のことを!? 確かにテオドーラ様やミランダ様とはちょっと怪しいけど……。ああ、私は罰として体を弄ばれてしまうのね♪
イゾルテはエロイーザの目を覗き込み、額と首に手を当てた。
「少し熱があるな。瞳孔は開いていないが、脈がむちゃくちゃ早いぞ。こうしてはいられない、医者を呼んでくる!」
イゾルテは部屋から飛び出して行き、エロイーザは一人ぽつねんと残された。
「あれ?」
イゾルテは、診察を終えて部屋から出てきた医者に詰め寄った。
「それで、エロイズの様態はどうなんだ!?」
「……誰ですって?」
「エロイズだ、エロイズ。今診察したばかりだろうが、エロイズを」
「えーと、エロイーザの事なら異常はありませんよ?」
「……そうか、エロイーザは無事か。エロイーザが無事でよかった。うん、良かったなエロイーザ。愛称をエロイズって言うんだよ、エロイーザは、うん」
イソルテは何だか不自然なほどエロイーザの無事を喜んだ。だが一応安静にするように命じ、念の為に3日待った。
「エロイーザ、体調に問題はないか?」
「はい、寝すぎて腰が痛いくらいなのを除けば」
「何!? やはりアレを食べたせいで……」
「いえいえ、普通ですから。3日も寝てればそうなりますから」
「そうか、良かった。実に良かった!」
我が事のように喜ぶイゾルテに、メイドはほろりと涙した。我侭で変人なイゾルテだけど、彼女は彼女なりに使用人たちを愛しているのだ。それに初めて名前を呼んでくれた。
「体調に気をつけて、おいおい仕事に戻ってくれ。じゃあ」
そう言って彼女はいそいそと寝室に戻った。そして戸棚に隠してあった贈り物を取り出すとニヤリと笑った。
「いやー実に良かった、これで安心して食べれるぞ! 美味しすぎて手が止まらないというその味、この私が直々に吟味してくれよう!」
イゾルテはそれを一枚取り出すとパクリと咥えた。そしてゆっくりゆっくり、もしゃもしゃと咀嚼し……うげぇと吐き出した。
「し、湿気ってる……」
彼女はがっくりと項垂れた。
こうして一枚も食べられなかったその根菜類の揚げ物{ぽてち、のり塩味}贈り物だが、まったく得る物が無かったのかというとそうでもない。そう、袋{アルミ蒸着フィルム}である。贈り物はたいてい剥き出しで届くので、袋に入っているのは大変珍しかった。中身でガッカリさせられた分、袋から何かを得たいと思い、イゾルテはその袋をじっくりと観察した。
「この袋……内側は金属なのか! まさか銀箔?」
だがその軽さは紙袋にも匹敵するほどで、銀がふんだんに使われているとは思えなかった。もちろん本当に銀箔なら紙袋に匹敵するほど軽いだろうが、それではこれほどの強度が出ない。その袋の強度は紙をはるかに上回り、引張強度では革袋にも匹敵するほどだと思われた。
「なんという贅沢だ。ちょっと食べ物を入れておくための袋が何でこんなに丈夫なんだ? しかも袋自体に銀箔を使うことで、毒(砒素系)が入っていないということを、自ら証明しようとは!」
神々は不死のくせに毒を恐れているのだろうか? 人間に下賜するための袋なのだろうか?
「うーん、確かにさらっと人間を騙して殺したりするからなぁ。贈り物を貰ったからって人間のほうが疑う可能性は高いかも。しかもちょっと疑っただけで怒って殺したりしそうだ」
だから殺すつもりがない時は、前もって疑われないように細工しておくという事だ。すごいと思いつつも、なんだか間違った親切な気がしてきた。
「それくらいなら最初から疑われないように、普段から公明正大にしていればいいのに」
彼女はいつもの様に自分を棚に上げていた。しかも二重の意味で。
イゾルテは袋を持って研究棟の博物学者チームの部屋を訪れた。素材が分からない時はとりあえずここに持ち込むことにしているのだ。
「入るぞー」
「ああ、これは殿下。何か御用ですか」
「またこんな遺物が届いたんだ」
彼女は贈り物の袋{ぽてちの袋}を渡した。
「ほう、なにやら不思議な感触ですな。それにいい匂いがします」
くんくんと臭いをかぐと、学者は袋の内側を覗き込んだ。
「何と! 金属の袋でしたか! うーむ、曲げても引っ張っても破れないし、感触も金属っぽくないですよねぇ。それにこの白と黒のつぶつぶは何でしょう?」
学者は袋の内側に付着していた白{塩}と黒{海苔}の何かを指先に付けると、その指をパクリと咥えた。
「ふむ、しょっぱいですね。白いのは塩のようだ。黒いのは何か分かりませんけど」
イゾルテは震えていた。
「お、おまえ、今、食べたか? 食べたよな? 遺物だぞ!?」
「ああ、そういえばそうでしたね。でも、しょっぱいだけですよ。海水に浸かってたんですか? あ、この黒いのも海藻かもしれないなぁ」
全然危機感のない学者の言動に、イゾルテは衝撃を受けていた。
――最初からこいつらに食わせれば良かった!
次回からは素直に言って学者たちに食わせようと決意しながら、イゾルテは気持ちを切り替えた。
「ナイフを借りるぞ、ちょっと表面を傷つけて見る」
「ええ、どうぞ」
彼女がナイフの先端で表面を削ってみると、引っかき傷が出来てそこから銀色が覗いた。
「ふーむ、銀箔の表面に何かの膜{フィルム}が付いているのか。そこに絵が描かれているんだな」
「銀箔? 銀なんですか?」
「ん? いや確証はないのだが、中身が毒物じゃないと証明したいんじゃないかと思ってな」
「……確かに海水に浸かりながら錆びていない所を見ると、銀なのかもしれませんね」
本当は海水に浸かっていた訳ではないのだが、確かに水分はあっただろうし間違いなく塩気もあったのだ。鉄や銅ならサビサビになっていたことだろう。
――まぁ、銀だったとしても海水に浸かってれば黒くなりそうな気がするけどなぁ……
「その膜は剥がせないのか? ちょっと貸してくれ」
イゾルテは先ほど入れた線に爪を立ててカリカリと引っ掻いた。すると膜{フィルム}が少し剥がれたので、ゆっくりゆっくりと引剥がした。
「おお、なんか柔らかくてふにゃふにゃした物が剥がれてきたな」
どうやらこの袋は、銀箔とふにゃふにゃの膜がぴったりくっついていたようだ。――と彼女は思ったが、正確には彼女が銀箔と思っている物は、さらにまた別の膜{フィルム}だった。その表面に銀箔よりもさらに薄い金属の層があるのだ。しかも非金属の膜に直接くっついていて、とても剥がせるようなものではない。
「何だろう。べつにくっつく訳でもないのだが、なんだかネチャネチャしている感じだなぁ。何となく腸詰めの膜みたいな感じだけど、でも、あんなにピンと張った感じはしない」
腸をピンとして貼り付けているのだとしたら、袋はかってにくしゃくしゃに丸まってしまうだろう。そもそも腸をシワもなしに銀箔に貼り付けるなんて可能なのだろうか?
「膠で貼ってあるのかなぁ。っていうか、この膜が膠そのもの?」
「うーん、膠とは思えませんが、液体を乾かしたものである可能性はありますね。ツーカ帝国(ドルクの東のヒンドゥラ王国よりも更に東の大国)では、黒い樹液{漆}を色んな物に塗るそうです。それに膠といえば面白いものがありますよ。えーと、確か主任がこの辺に……」
学者が戸棚を漁り始めた。主任と言えば行方不明――というか失踪中の車輪男のことだ。
――懐かしいな。改めて冥福を祈ろう。
「あった、これです」
学者が彼女に見せたのは、小さな黒くて四角い板{練革、撓め革}だった。(注2)
「何だコレ。この黒い板が膠となんの関係があるんだ?」
「これは膠に浸けた牛の皮です」
「は? 牛の皮? これが!?」
それはカチカチに固く、亀の甲羅の間違いじゃないかとまで思えた。
「武具の一部だそうですよ。主任がどこやらの収集家からパチって来たそうです」
イゾルテは後半は聞かなかったことにした。
「なめし革はもちろん、煮固めた革よりも固い気がするな」
「まあ、煮固めるっていうのはもともと皮に含まれている膠を使って固まってるんでしょうし、そこに他から取ってきた膠を足した方が効果が高そうですよね」
「なるほどな。しかし膠に漬けるだけでこんなに厚くなるものなのか」
「いえ、それは多分重ねたんだと思いますよ。横から見ると層になってますから」
「本当だ! ……まさにこの密着具合だよ。この袋も2つの違う素材が密着して強度を増している。膠でここまで強固にくっつけられるのなら、いろいろ応用範囲が広いと思わないか?」
「そうなんですが、どうやって重ねて、どうやって形を整えたのかが分からなかったんです」
「なんだ、やってみたのか」
「はい。ですが、やはり素人には難しくて」
「だったら職人に頼めばいいだろう」
「でも革職人なんて離宮に居ないですよ?」
「……これまで出番がなかったからなぁ。またツテを辿ってスカウトしてくるか。でも、別に遺物関係じゃないんだから、外の職人に頼めば良かったんじゃないのか?」
学者は肩をすくめた。
「外の職人は仕事の仕方を変えませんからね、ギルドの決まりとかもありますし。ここはある意味天国ですよ、職人の意識も全然違いますし」
学者はそう言ったが、イゾルテは先日の結婚式の時、外国の使節にギルドの締め付けが弱いと文句を言われたばかりだった。そりゃあ国外から色んなモノが流れ込んで来るんだから、国内の産業だけ規格統一しようったって無理である。たぶんこの学者は体よくあしらわれただけだろう。面倒くさくって。
「ともかく革細工の職人は私が連れてくるとして、皮以外も強く出来ないか試してくれないか?」
「具体的にはどんな物をお望みなんです?」
「紙だな」
「紙?」
「ああ、とことん丈夫な紙を作って欲しい。ついでに銀箔も使おう。そいつで超巨大紙袋{天灯}を作りたいんだ」
「超巨大、ですか? 具体的にはどれくたいの大きさですか?」
「えーと、どうなんだろう? まあ、だいたい高さ25mくらいかな?」
「殿下……ひょっとして、人間を乗せる気ですか?」
「もちろんだ。人類の夢だからな!」
「止めた方がいいですよ」
「何故だ? 十分に頑丈な素材が手に入れば人が空を飛べるかもしれんのだぞ! それが可能と分かっていながら挑戦しない者に、知を求める資格など無い!」
「だって殿下、膠って……溶けますよ?」
「あ……」
イゾルテは愕然とし、崩れ落ちた。
「その通りだ、私が浅はかだった! 知を求めるのなら、その知を使うことも考えねばならぬ。知っているだけで満足するなら知を求める資格など無い! 膠が溶けるものだと知っていたのに、私は何て浅はかなんだ!」
学者は少し考え込んだ。
「でも膠を染みこませたら、空気を通さなくなりそうですよね。そこに軽気を入れれば常温のまま浮くんじゃないでしょうか……」
イゾルテは黙ったまますっくと立ち上がった。
「虎穴に入らずんば虎子を得ずという。何で虎子なんか欲しいのかよく分からんが、空を飛びたければ危険を犯せということだ! 知を求むる者にもその覚悟が必要だ!」
そしてビシッと学者に指を突きつけた。
「その軽気式巨大紙袋{ガス気球?}を作れ。もちろん有人のだ。このプロジェクトを最優先ランクに指定してやろう」
「おお、本当ですか!? やった! 飛行装置には興味があったんです!」
「ふふふ、我らの名はこの一事で以って歴史に残ることだろう。……ちゃんと成功したらだけどな」
注1 現実のヨーロッパでも、南米からじゃがいもが持ち込まれるまで芋は無かったそうです。つーか、あったのに食わなかっただけかもしれませんけど。
注2 日本の鎧に使ってた技術です。(他の国でも使ってたかもしれないけど)刀の鍔に使ってたくらいですから、その丈夫さは折り紙つきです。十分に硬くなければ、鍔迫り合いで刀が滑って……後は想像したくないですね。かなり形を自由に形成できるので、江戸時代には兜なんかも作ってたそうです。
ポテチといえば、やっぱりぱりぱりのり塩ですね。




