魔女
その夜ドルクの本営では、沈痛な面持ちのベルケルが物言わぬユイアトとの対面を果たしていた。
「よくやってくれた、ユイアト。敵将を討ち取れたのは偏にお前のおかげだ。これで皇太子が出てくる可能性が高まった。お前の最後の願い通り、お前の妹達は必ず俺の――」
言いながらベルケルは、ユイアトの妹達を思い出した。
「――責任でいい男を見繕ってやる!」
ベルケルの背後で、側近たちがビクリと震えた。
「だから安らかに眠ってくれ……」
横たわるユイアトの上に彼が死出の旅路の供にくれと言った宝剣を置くと、感極まったのかベルケルは顔をしかめて目を逸らした。彼を慰めるように、傍らから医者が歩み寄った。
「殿下、ユイアト様は……薬で寝てるだけですよ?」
「分かっている。痛そうで見てられんだけだ」
顔しかめる彼の前には、左肩と右足を槍で穿たれ、右腕と肋骨3本を折ったうえに左足首を捻挫したユイアトが、包帯でぐるぐる巻きになっていた。頬もざっくり切れていて額にたんこぶもできていたので、頭までグルグル巻きである。これでどうやって食事をするのか疑問に思ったが、どのみち頬が切れていては噛むことも出来ないだろう。包帯の隙間からドロドログチョグチョな不味い流動食を流し込まれる姿を想像し、ベルケルはますます顔をしかめた。
「とりあえずどこかの町まで後送して、ゆっくりと養生させてやってくれ。こいつならビルジが狙うこともないだろう」
医者は頷くとユイアトを載せた担架を先導して天幕を出て行った。ベルケルの言葉は医者に向けた物であったが、最後の一言に側近達は顔を引き締めていた。プレセンティナの皇太子を討ち取ったとしても、ベルケルがビルジの手にかかってしまえば全ては水泡に帰すのだ。戦ばかりでなく、暗殺者も警戒しなくてはいけない。本来は暗殺者対策にこそユイアトを使いたいところだが、ああも満身創痍では身代わりどころか盾にもならなかった。
「さて今日の戦いだが、敵将を討ち取ったとはいえ完勝には程遠かった。追撃部隊を全滅させることは出来ず、あの妙な馬車も1台しか倒せなかった。明日以降も厳しい戦いが続くだろうが、お前たちなら必ず皇太子を討ち取ることが出来ると信じているぞ」
「皇太子は本当に出てくるのでしょうか」
「明日からはガルータではなく、海峡の向こうを挑発しよう。そのためにあの馬車の残骸や死体も利用する。些か気は乗らんが、とにかく何でも利用して皇太子の面子を潰し、挑発するのだ」
「分かりました」
「今夜は見張り以外はゆっくりと休め」
「はっ」
その時、解散しようとした彼らの前に伝令が駆け込んできた。
「伝令です! 放棄した武具を回収に行った者達が敵に襲われた模様です」
「何? 敵の規模は分かるか!?」
「いえ、もともと戦いに赴いた訳ではありませんから、こちらの部隊を統制できていません。バラバラに報告を送ってくるので、もう、何が何やら。ただ、あの馬車もいるようです」
「…………」
考え込んだベルケルに、参謀の一人が進言した。
「敵の目的は2つ考えられます。1つは武器回収の妨害、1つは我が陣への夜襲です。ですが馬車を出してきたということは、恐らくは夜襲を目的としていたのでしょう。我々に気づかれた以上敵は去るかもしれませんが、逆に勢いに乗って押しかけてくる可能性もあります。防備を固めた上で斥候を放ちましょう」
「ふむ、そうだな。警戒するに如くはない。斥候を出せ。それと哨戒線代わりに今日敗走した部隊を幾つか前に出せ。懲罰にもなる」
ベルケルは命令を出して警戒を強化させたが、その後1時間、彼らの前にはプレセンティナ陸軍はおろか、斥候すら戻ってこなかった。
『斥候一騎が接近中、現在位置中央基準点より方位60、距離200、方位270に向かっています、ドウゾ』
「現在位置、中央より方位60、距離200、進行方向270、了解。義兄上、対応可能ですか? ドウゾ」
『こちら、スキピア隊。対応可能です。おそらく……このあたりが進路上のはずだ。アテヌイの目、確認できるか? ドウゾ』
「はい、斥候が向かっています。距離50……40……30……20……あ、落馬確認。通信終了、ドウゾ」
『斥候の絶命を確認しました。殿下、馬はどうします? ドウゾ』
「ドルク陣営に向かって追い立てて下さい。自力で戻ってくれる(注1)でしょう。あと、義兄上も殿下です。ドウゾ」
『すみません、次から気をつけます。あと、良く分かりませんが、馬の方も今後は東に放ちます。ドウゾ』
「では、通信終了、ドウゾ」
『通信終了』
イゾルテ達は3つの篝火を等間隔に並べると、それを基準にしてアテヌイの目からの指示を受けていた。武器の回収部隊の大部分を血祭りに上げると、敵の斥候を排除しつつ前進し、じわじわと敵に迫っていた。だがそれも月明かりがあるうちの話だ。午後10時を前にして三日月がペルセポリスの向こうに沈むとそこには星明かりだけが残され、もはやアテヌイの目にも単騎の騎馬など見つけられなくなってしまった。だが、闇こそが彼女たちの味方であった。
「ムルクス、ダングヴァルト、義兄上、こちらイゾルテ。月が沈みました。準備は良いですか? ドウゾ」
『こちらムルクス、既に配置に付いております。ドウゾ』
『こちらダングヴァルト、準備は整っています。ドウゾ』
『こちらスキピア隊、これより殿下に合流します。所要時間は5分程度です。ドウゾ』
コルネリオは結局彼女のことを「殿下」と言っちゃっていたが、ツッコむのは自制した。通信でツッコむとやりとりが面倒くさいのだ。
「……こちらイゾルテ。これよりイカルス作戦を開始します。通信終了、異議なき場合は応答不要。ドウゾ」
10秒待って誰も通信を返さない事を確認すると、キメイラの屋上にいたイゾルテは車内に首を突っ込んだ。
「西の空を見てみろ、見ものだぞ」
ぞろぞろと車外に降りた兵士たちが西の空を見上げると、ガルータ地区の城壁に無数の明かりが灯った。何事かと見守る彼らの視線の先で、信じ難いことが起きた。
「えっ、城壁が……高くなってる!?」
兵士たちの驚き様に彼女は声を殺して笑い転げた。一斉に灯りが浮かび上がったので、城壁が上に伸びているかのように思えたのだろう。だが次の炎が灯り、それも後を追うように浮かび上がるのを見て、それが空を飛んでいるのだと彼等も気付いた。ふと気づけば城壁の向こうの海峡からも、更に多数の明かりが浮かび上がっていた。ムルクスが配置した船の上からも巨大紙袋{天灯}を上げているのだ。それはプレセンティナには生息していない、ホタルの群れのようであった。
「しかし、これだけ多いとホタルというより夜光虫みたいだな」
イゾルテは知ったかぶってそう評したが、本当はホタルなんて虫かごに入っているものしか見たことがないだけだった。(夜光虫の方はゲルトルート号の試験航海中に見たことがあった)今頃ペルセポリスの人々も驚いていることだろうが、その空を飛ぶ炎が危険なものでなく、イゾルテからの結婚祝いだと衛士(警官)たちが大声で触れ回っているはずである。なにせ、もともとはそういうつもりで準備していた物なのだから。
「殿下、お待たせしました」
コルネリオらしい人影がキメイラの傍らからイゾルテに声をかけた。
「ではこちらも始めます。スリングを用意してキメイラの側面についてください。それと、これからするのは全部演技です。ドン引きしないように兵士たちに言い含めておいて下さい」
「演技?」
「……姉上には内緒にして下さいよ?」
そのころドルク陣営では、ベルケルが一向に帰ってこない斥候にやきもきとしていた。
「何故だ! 何故一騎も帰ってこない!? 敵に遭遇しないなら、それはそれで帰って来てもいい頃だろう? まさか、全て討たれたというのか!?」
彼は不安のあまり喚き散らしたが、部下たちにも答えなど分からなかった。今は僅かな星明かりしかないので斥候が迷子になる可能性は高かったが、ドルク軍はずっと篝火を焚いているのだから、帰ってくる分には不都合はないはずであった。月明かりがあった時でも単騎の斥候を見つけるのは難しいはずだし、ましてそれを逃すこともなく全て始末するというのは不可能だろう。いや、あるとしたら、びっしりと横列を組んで斥候を待ち構えている可能性だろうか? だが、それをするためには数千の歩兵を薄く広く配置する必要があり、それでは夜襲が出来そうにない。そしてこちらがまとまった兵力を威力偵察に出せば、彼等はあっさりと各個撃破されてしまう。僅かな斥候を倒すためだけに、そこまでの危険を犯し、多くの兵士を夜中に働かせる意味があるのだろうか? だがそれ以外の可能性など1つとして――
「まさか」
参謀の一人が不意につぶやくと、ベルケルを含めた全員の視線が集まった。
「何だ、何を言いかけたんだ!?」
それは単なる思いつきに過ぎなかったのだが、勢い込むベルケルに気圧されて、彼は迷いながらも口を割った。
「ヒンドゥラには猛獣使いがいると聞いたことがあります。タイトンにも居るという話は聞いたことがありませんが、この闇夜で斥候を全滅させることは人の手に余ると思います」
その考えはベルケルを深く納得させた。確かにヒンドゥラ方面には象や虎、さらには蛇や毒虫を操る者がいる。ドルクに恭順する属国の中にも象使いが居るので、高い報酬を払って雇い入れてもいる。同じようにプレセンティナが、北アフルークの更に南の砂漠を越えた暗黒大陸あたりから、未知の猛獣使いを呼び込んだ可能性も無いとは言えないではないか。アフルーク大陸の西海岸沿いの航路などドルクにとっては地の果てで、ろくな情報など入ってこないのだ。
ベルケルは天幕の入り口を見た。入り口に垂れ下がる布のすぐ向こうに、得体の知れぬ猛獣が潜んでいるのではないかと不安になったのだ。
――いや、ありえん。例え猛獣使いがいたとしても、そんなに自由に操れるはずがない。獣を放ったのだとしたら、敵味方の区別だって出来ないだろう。……だが、騎兵だけを狙うように訓練することくらいは出来るか……?
ベルケルが黙考していると入り口の布が跳ね上げられた。彼は一瞬どきりとしたが、入ってきたのは伝令の印をつけた兵士だった。
「伝令です! 斥候が……斥候の馬だけが戻って来ました」
「何、馬だけ? 馬は無事なのか?」
「はい、馬に傷はありません。ですが鞍に血の跡がありました」
ベルケルは頬をヒクヒクと痙攣させた。それは不愉快な事実だった。
――明日から怖くて馬に乗れんではないか!
「クソっ! やはり獣か。しかも馬を傷つけず人だけを殺すとなると、よほど高くまで飛び跳ねるヤツだぞ!」
ベルケルは喚いたが、それでもそれが戦況全体に影響を及ぼすとまでは心配していなかった。所詮数頭、あるいは数十頭の獣など、取り囲むか弓を射掛ければそれで済むのだ。単騎で行動していた斥候だからこそ被害にあったのだ。
「やむを得ん、威力偵察を出せ」
彼がそう命じた時、再び兵士が飛び込んできた。
「殿下、大変です!」
伝令かと思われたその兵士は、本営を固めるの衛兵の一人だった。
「敵襲か!?」
部下の一人が当然の懸念を質したが、衛兵はそれに答えられずに口をパクパクとさせた。
「何だ? はっきり言え!」
それでも衛兵は口ごもり、結局自分で説明することは諦めた。
「……分かりません! 外を御覧下さい!」
ベルケルが訝しげに外に出ると、そこにはただ満天の星空が――
「――何だコレは……?」
空を飛ぶ脅威は数多い。ロック鳥(巨大な白い鳥)、シームルグ(不死鳥)、ジズ(巨大な鳥)、アンズー(ライオンの頭を持つワシ)、パズズ(悪霊)。だがそれらは全て伝説上の怪物だ。
そんな物と戦える者など誰もいない。
そんな物と戦える武器など何処にもない。
そんな物と戦う術など誰も知らない……!
だが今、彼の目の前には無数の、千を越え万に届かんとするほどの炎が、空中を飛んでいた。
「空飛ぶ敵なぞ、どう戦えというのだっ!?」
虚しく木霊したベルケルの叫びは、空を飛ぶ無数の炎が敵であると兵士たちに知らしめた。まさかと思いつつももしやと恐れていた兵士たちは、顔を強ばらせながらも続く命令を――というか具体的な指示を待った。ただ戦えと言われても困るのだ。何だか良くわからない物を相手にするのだから、具体的にどうすればいいのか誰かに教えて貰わねば、戦うことすら出来ないではないか。……だが、いくら待っても誰も彼らに指示を与えてくれなかった。指示がなければただ武器を振るうしかない。自分が敵に対抗しうると思えばこそ、敵の前に立っていられるのだ。だから最初に逃げ出したのは武器を持たない者達だった。彼らは昼間の戦いで武器を捨てて逃げ出した者達なのだから、こんな状況で踏みとどまる訳がない。彼らが逃げ出すのを見た槍を持つ歩兵たちも、武器を投げ捨てて逃げ出した。昼間は身を守るために槍を捨てなかった彼らも、相手が空を飛ぶ化け物となれば、槍が役に立つとはとても思えなかった。そして大部分を占める彼等が逃げ出せば、残り僅かな騎兵や弓兵も留まってなどいられなかった。
だがそれはあくまで一般の兵士の話だ。イエニチェリ軍団の兵士たちも恐怖に身を竦ませていたものの、それでも彼らは本陣をぐるりと固めたまま踏みとどまっていた。そして誰もが空から目を離せないでいる中、突然丘の中腹から炎と悲鳴が上がった。その炎に照らされて躍り出てきたのは昼間の馬車だったが、その印象は一変していた。吹き出す炎が自身を赤く染め上げ、より一層禍々しく、凶暴な印象を与えていたのだ。めらめらと燃え上がる炎が、その直線的なフォルムに複雑な陰影を彩り、まるで生きているかのような生々しさを与えていた。
「あはははははははははっ!」
そして何よりその先頭車両の屋根には、炎色に染まるドレスを着た女が身を乗り出し、狂女のようにけたたましい笑い声をあげていた。
――魔女だ!
ベルケルだけでなく、その女の姿を見た全ての者が一目でそれを悟った。
「焼き払え!」
魔女が命じると無数の魔女の壺が空を舞い、一帯を炎の海に変えた。そしてその炎が、彼女の幽鬼じみた美貌を照らし出した。
――黄金の魔女、プレセンティナの皇女、イゾルテだ!
あまりにも現実離れした光景の中、狂気と美しさを体現したその小柄な女だけが、喜び、愉しみ、勝ち誇っていた。
「薙ぎ払え!」
再び魔女の壺が乱れ飛びイエニチェリの兵たちが悲鳴を上げる中、彼女の背後からは炎が次々に宙に飛び立っていた。
――やはりあの空飛ぶ炎は魔女の下僕か! クソっ、こうなれば皇太子でなくてもいい、魔女だけでも倒せれば十分な戦果だ!
ベルケルは怖気づきそうになる自分を必死に鼓舞すると、衛兵の持っていた弓を奪い取った。
「キメイラよ! 我が下僕たちよ! 私の与えたその命を、最後の一滴まで燃やし尽くせェェ!」
両手を広げて絶叫するその女に、ベルケルは狙い定めた矢を放った。魔女との距離は既に100mを切っており、手に馴染んだ愛弓ではないにも関わらず、その矢は鋭く炎を切り裂いて、魔女の左胸に突き立った……!
その決定的な瞬間は、矢を放ったベルケルだけでなく、彼女に目を奪われていたドルク兵たち、生身を晒す彼女を心配していたプレセンティナの歩兵たち、そしてなによりコルネリオの見守る中で起こった。彼等の見つめる中、彼女は胸を押さえ、そのままゆっくりと、力なく項垂れた。
「ウォォォォォォォォォォォオォォ!!!」
コルネリオは近くの弓兵が抱えていた火炎壺を奪い取ると、イゾルテを射た男に向かって一目散に走りだした。彼の視界は怒りのあまり真っ赤に染まり、ただその男だけを写していた。彼の意識にはもはや、炎も、ドルク兵も、自分自身すら無く、ただその男への殺意だけが彼を突き動かしていたのだ。ドルク兵たちが呆然として佇む中、炎を突っ切り、邪魔な者を弾き飛ばしながら憎むべき男の前に走り寄ると、渾身の力で火炎壺を投げつけた。その軌道を見つめた彼は、その時になって初めて視線の先にいるその男が、そして他の全てのドルク兵たちが、彼の背後にある何かに目を奪われていることに気付いた。そして彼の聞き慣れた声が闇に響いた。
「去れ! ドルクの者ども!」
――まさか!
炎に包まれるその男を捨て置いて彼はその場で振り返り、そして彼も目を奪われた。そこには左胸に矢を突き立てたまま、両手を大きく広げて満面の笑みを湛えるイゾルテがいた。
「ベルケルは既に倒れたぞ!」
そう言って彼女が指を差したのは、まさに今、コルネリオが火炎壺を投げつけた男だった。周囲の者達が慌てて火を消そうとしていたが、それは誰の目にも手遅れに思えた。
「それとも、ベルケルと共に永遠の業火に焼かれたいか!?」
そう言って彼女は天を――天に浮かぶ無数の炎を――指さした。彼女の言葉は遂に、イエニチェリ軍団の士気を打ち崩した。
一斉に逃げはじめたイエニチェリ軍団――のド真ん中に一人突立っていたコルネリオは、慌ててイゾルテの元に駆け戻った。兵士たちは彼女を心配していたが、彼女は誰も近づけず、ただコルネリオが駆け戻って来るのを静かに待っていた。今の彼女には彼が必要だったのだ。
彼は必死にキメイラによじ登ると、涙を流しながら彼女に問いかけた。
「殿下ぁ! ご、ご無事なのですか!?」
言ってから彼は無事な訳がないと思い直し、悲痛な表情で胸の矢を見た。そして異常に気付いた。燃え上がる炎に照らされているため分かりにくかったが、彼女の胸からは血が流れていなかった。
「ええ、大丈夫です。でも、矢を抜いてもらえませんか? 私の力では抜けなくて困っていたんです」
彼女の返事に彼は困惑した。口から血を吐く訳でもなく、平然としている彼女の様子にも勿論戸惑ったが、何より彼女の胸から矢を抜くためには――
――む、胸に触れなくてはならないではないか……!
「わわわわかりました。い、いき、いきますよ……!」
彼は右手をワキワキさせながら、彼女のふくよかな胸にむんずと手をかけた。彼は状況も弁えずにその幸運な役回りにちょっと感謝しつつ、テオドーラから聞いていた、その小ぶりだが柔らかい感触に――
――大きくて固いぞ……?
左手で矢を掴んでも彼女は悲鳴どころか痛そうな表情も見せず、彼はドサクサに紛れて胸を強く揉んでみた。だが期待した感触は全く得られなかった。
――なんだ、そういうことか……
彼はその仕掛けの存在を確認してがっかりしながらも、それなら遠慮も無用だと力を込めれば、矢は意外とあっさり抜けた。だが、彼女は素早く矢を奪い取ると、彼の耳元で鋭く囁いた。
「義兄上といえども、言ってはならないことがあるのはご存じですよね? 言えば不幸になりますよ?」
それが先ほど確認した仕掛けの事だということは、鈍感な彼にもすぐに分かった。彼やテオドーラはありのままのイゾルテで十分に魅力的だと思っているのだが、彼女自身はコンプレックスを感じているようなのだ。
「……言わないと、殿下が魔女だと言われますよ?」
「ローダスでも似たようなことがありました。きっと姉上もどこかでその話を聞いたからこのドレスをくれたのでしょう。まさか本当に戦場で着ることになるとは思わなかったでしょうけど。でも、せっかくだから魔女の名は利用させてもらいますよ、いつか足を掬われる日までは」
彼女の懲りない様子に、彼は安堵と諦めの溜息を漏らした。
「でも、もうこんな危険な真似はお止め下さい」
その言葉を聞くなり彼女は頬を引き攣らせた。そして思いっきり白い目で睨みつけると、彼に向かって怒鳴り散らした。
「今日ばかりは、義兄上に言われたくないですね。さっそく姉上が未亡人になるところでしたよ!」
胸に強い痛みを感じた時、彼女は死んだ。――と思った。死ねたのだと思った。彼女が敵に生身を晒したのは、ただ宙に浮かぶだけの巨大紙袋{天灯}をあたかも怪物であるかのように見せるために、"魔女"を敵の目に晒す必要があったからだ。だが、心の奥に澱み続ける疑惑と迷いに決着を付けたいと望む気持ちも、全くなかったとは言い切れなかった。自分が死んだと思った時、彼女は確かに言い知れぬ満足感に満たされていたのだ。それは彼女がルキウスの娘であったという証拠であり、密かに迷い続けていたタイトンの再統一という無謀な夢が、故国を巻き込む前に露と消えたということだった。だから彼女はその満足と引き換えに意識を手放そうとした。後のことはコルネリオが何とかしてくれる、そう思って。
だが薄れゆく視野の隅で、そのコルネリオが独り敵中に飛び出して行くのが見えた。
――ちょっと待って! 義兄上が死んでしまっては意味がないでしょう……!
ここでコルネリオが死んでしまえば、プレセンティナの威光は失墜するだろう。そしてこの場の兵士たちも、キメイラを含めて全滅するだろう。何よりそんなことになれば、テオドーラが嘆き悲しむではないか! 彼女は必死に意識を繋ぎ止めると体を起こし、ドルク軍を睨みつけた。するとどうだろう、ドタバタと走るコルネリオではなく、誰もが呆然として彼女を見つめているではないか。
――よし、イケる! とにかく怖がらせて注目を集めるんだ!
彼女は口元をニヤリと歪めた。そして右手、左手と順に大きく広げると、まるで不死の肉体を誇るように満面の笑みを浮かべた。そのまま深呼吸を繰り返してして息を整えると、大声で叫んだ。
「去れ! ドルクの者ども!」
ちょうどコルネリオが馬鹿力で火炎壺を20mくらい投げ飛ばしたのを見て、炎に包まれた男を指さした。
「ベルケルは既に倒れたぞ!」
彼女に確信はなかったが、金ピカの鎧を着ていたので適当に決めつけた。影武者を用いる者は、自らも影武者の影へと堕ちる。もはやベルケルは、自ら先陣に立とうと本物かどうかを味方に疑われる立場なのだ。だから違ったら違ったで構わない。魔女が自信満々に「あれがベルケルだ」と指をさせば、誰も「違う」とは言い切れないのだ。そして明確な否定がなければ、それは一時真実となる。少なくとも、兵が逃げ出す言い訳にはなる。
「それとも、ベルケルと共に永遠の業火に焼かれたいか!?」
そう言って彼女は意味ありげに天を指さした。そこに浮かぶ無数の巨大紙袋{天灯}が、まるで彼女の合図一つで一斉に襲い掛かって来るかのような演出に、誰もが後ずさり、振り向き、走り出していた。
「あはははははははははっ!」
満足気にそれを見届け、追い打ちにけたたましい笑い声を上げながら、彼女ははたと気付いた。
――あれ、私は何で生きているんだ……?
小姑の初仕事として、自分がどんな無謀なことをしたのか自覚のないコルネリオをガミガミと叱りつけながら、彼女は自分が生きていることに戸惑いを感じていた。
――あの時、意識を手放していたら死んでいたのだろうか?
死を意識した時、胸を押さえた彼女の手には、確かにぬめりとした感覚があった。当然だろう、こんな胸甲で矢を防ぎきれるとは思えない。だが、今胸を触ってみても血は付いていなかった。
――あれは幻覚だったのか? それとも……
そのうそ寒い感覚に怯えながらも、大きな体を縮こまらせるコルネリオと、二人の姿に笑い声を上げる兵士たちの温かい心を感じて、彼女は込み上げてくる喜びを堪えることが出来なかった。
恐縮するコルネリオに彼女はビシリと指を突きつけた。
「いいですか!? もし、このことを姉上に黙っていて欲しいのなら! ……私のことも黙っていて下さい、お願いします。ほんと、お願いします!」
彼女がキメイラの屋根に額を擦りつけると、兵士たちがどっかんと大爆笑した。彼女はすぐに頭を上げると、両手を振り上げて兵士たちに怒ってみせた。
「こらーっ! 箝口令を敷くからなぁ! お前たちもペラペラ喋ったりしたら、ローダスに島送りにして、港の造営の強制労働だぞぉ!」
そう怒鳴る彼女の笑顔を見て、兵士たちはますます楽しげな笑い声を上げた。
『死すべき時が来れば神に死を願い、人として死ぬだろう』
それは元老院総会の後、失意のムルクスに言った言葉だった。それは彼女が人間であるという宣言であり、誓いだった。
――だが私は、生きたいと願ってしまった。もし、今こそが死すべき時であったのなら、この後の私はもはや人間ではないということだ。
それが正しいことだとは彼女には思えなかった。だが、もう一度同じことがあれば、彼女はまた同じようにするだろう。コルネリオを死なせ、兵士たちを全滅させることは、やはり彼女には耐えられなかった。
――いや、そもそもただの勘違いだった可能性もあるんだ。単に手のひらから脂汗が出ただけなのかも。
手のひらに残る血の感触がただの幻覚だったのかどうか、今は結論が出せなかった。
――何れにせよ、やれるだけのことはやってやろう。私が生き残り、ドルクが去った今、タイトン統一への道が開かれるだろう。ならばきっと、私はそれを為すべきなんだ。
イゾルテは兵士たちの笑い声に笑顔で応えながらも、海峡に浮かぶ炎を、そしてその向こうに広がるウロパ大陸を、決意を込めて静かに見つめた。
「殿下、お気を確かに!」
ベルケルは生きていた。コルネリオがイゾルテのところに駆け戻っている間に、無事だった側近たちが火を消し、左右から肩を貸して連れ出したのだ。コルネリオの投げた火炎壺がスリングで投擲するために油を抜いた物だったので、服さえ脱がせば炎はすぐに消すことが出来たのだ。とはいえベルケルは、全身に火傷を負い、服も甲冑も脱がされていて、今は誰のものとも知れぬ毛布を纏っているだけだった。顔も火傷と煤で汚れ、一見してベルケルト分かるような有り様ではなかった。
「魔女といえども、ドルク国内の奥深くまでは追ってこれません。夜さえしのげばなんとかなります」
何の根拠もない側近の言葉は、ベルケルを励ますというより、自分自身に対する気休めだった。もう一人の側近がその気休めに乗ろうと声を上げかけた時、鋭い光が闇を切り裂き、彼を転倒させた。
「うっ! うぅぅぅ」
「殿下、大丈夫ですか!? おい、気をつけろ!」
無事だった側近が巻き添えを喰ったベルケルを再び起き上がらせようとして、同輩の手に力がないことに気付いた。その様子を確かめてみると、彼の首は正面から射抜かれていた。
――先回りされていたのか!?
彼は身を低くして周辺を見回したが、僅かな星明かりだけでは何も見つけられなかった。
ガチャ
「誰だっ!」
その音に反応して反射的に誰何してしまったのは、常にベルケルの近くに侍る側近の職業病と言えるかもしれない。彼は言ってから激しく後悔した。だが、
「良かった、友軍でしたか」
ドルク語でそう言いながら、ガチャガチャと甲冑を鳴らして近づいて来たのは、イエニチェリの下士官らしき男だった。
「そこにプレセンティナの弓兵がいたので警戒していたんです」
彼の手にある抜身の曲刀は、明るい部分と暗い部分があるのが見えた。恐らくはその弓兵の血が付いているのであろう。側近はホッとすると同時に、渡りに船とばかりに彼に命じた。
「手を貸せ、殿下を安全な場所にお移しする」
「殿下!? ひょっとしてその方がベルケル殿下なんですか?」
「ああ、ひどい火傷を負われている。治療のためにも早く安全な……」
側近がその続きを言うのは、下士官の曲刀が許さなかった。首を切られた側近がどうっと倒れると、下士官は芝居がかった様子で頭を下げた。
「ベルケル殿下を探していたんですよ。でもこの有り様じゃあ確信が持てなくってね。教えて下さってありがとうございます」
ただ一人生き残ったベルケルが亡者の如き声を上げた。
「ぉおおの、へえ、ぶぅ、じ、くぁあ」
「え? ええ、麗しき兄弟愛ですな。すぐに楽にして差し上げますよ」
彼は矢筒からプレセンティナ軍の矢を取り出すと、碌に身動きの取れないベルケルを押さえつけ、肋骨の間に突き立てた。さらに全体重をかけて一気に心臓まで押し込むと噴水のように血が吹き出し、ベルケルは2、3度全身を痙攣させると二度と動かなくなった。下士官は彼の脈を確認すると、音もなく何処かへと去って行った。彼の軍服の背中には、まるで致命傷を受けたかのような大きな切れ目があり、誰かの血がべったりと付いていた。
翌日プレセンティナ陸軍は、高級将校2人と全身に火傷を負った裸の男の遺体を見つけた。捕虜たちに面通しさせた結果、その裸の男はベルケルだという証言を得たが、イゾルテは確信を持てなかった。何故ならその男と高級将校の1人の致命傷は矢傷だったからだ。前夜の戦いでは、本営の天幕を抑えた段階で前進を止めて守りを固めた。だから彼らに矢が当たるはずがないのである。ひょっとすると、流れ矢が偶然逃走中の将校の喉笛を正面から撃ちぬいた上、別の流れ矢がベルケルの心臓を正面から打ち抜き、最後に残った将校が二人を担いで1ミルムほど逃走した後で、絶望のあまり自分で首を切った上で刀から血糊をぬぐい取って鞘に収めてから死んだ可能性も――
――ないないない、絶対ない。
となると、この男の死体はベルケル(本物)が逃げる時間を稼ぐための偽装である可能性が高かった。そうやって疑い始めると、捕虜が口を揃えて「ベルケルだ」というのが逆に怪しく感じられてしまう。それに彼女は前日の影武者の話を聞いていたので、それくらいのことをやっても不思議ではないと思ってしまうのだ。ひょっとすると、コルネリオが火炎壺を投げた段階で既に偽物だった可能性すらある。
――敵を悩ますという点においては、やはり影武者の効果は馬鹿にできんなぁ。
彼女は身を持ってその効果を実感していた。
――私も用意しようかな?
結局プレセンティナ軍は、コルネリオがベルケル率いるイエニチェリ軍団を破ったという事だけを発表した。ただし、ベルケルが死んだらしい、生きてるけど全身火傷で虫の息だ、という噂をわざわざ防ごうとはしなかった。そして先んじて姿を消していたイゾルテがその決戦に関わっているということも、もはや公然の秘密であった。
ちなみにベルケル(偽?)のほど近くで、背中を切られたタイトン人の死体も発見された。下着以外何もかも剥ぎ取られていたが、その傍らにはドルク軍の物と思われる弓だけが残されていた。
注1 注意書するほどでもありませんけど、馬って夜目が利くそうです。まあ、そうでなくては夜行性の肉食動物の餌食になって、絶滅しちゃっていたでしょうけど。
「焼き払え!」「薙ぎ払え!」は2回目でも良いセリフです。いつか3回目も言わせてみたいと思います。
お気づきかと思いますが、今回が第4章の最終回……ではありません。だって章タイトルが『婚姻』なので。蛇足感たっぷりですが、別のカップルの結婚式があるので、あと1話だけ続きます。




