勝どき
前回に引き続き、というか更に輪をかけて、ドルク側とプレセンティナ側にコロコロと視点が代わります。
ベルケルが逃げ出すのを見て初めて、フルウィウスは後を振り向き、味方が遅れていることに気付いた。すぐ後ろに数騎従っているが、歩兵は100m程も遅れている。
だがそもそも歩兵たちより馬に乗っているベルケルたちの方が足が速いのだ、歩兵を待てばベルケルに逃げられてしまう。迷うフルウィウスの脳裏を親友の言葉がかすめた。
『どんな形でも必ず戻ってこい。必ずお前の身が立つようにしてやる』
――ここは引き返すべきか?
だが彼がイゾルテを望めば、否応なくコルネリオと比べられるだろう。逆に言えば、彼がベルケルを討ち取ればヒシャームを討ち取ったコルネリオと比較して貰えるのだ。そうなれば彼がイゾルテを娶るのも自然な流れになる。だがダングヴァルトは必ずしもベルケルを殺す必要はないとも言っていた。
『お前はベルケルを追い詰めたが、わざと逃したことにするんだよ』
――ならばせめて一太刀だけでも……!
彼は更に鞭を入れた。
「殿下、敵が迫っております!」
丘の頂上付近まで来たところで護衛の声にベルケル(偽)が振り返ると、筋書きにない事態が起こっていた。数騎の騎兵がすぐそこまで接近している一方で、敵主力の歩兵は既に300m近く引き離していた。このまま逃げ続ければ歩兵が諦めて帰ってしまうかもしれないが、足を緩めれば確実に騎兵に追いつかれてしまうだろう。だがこちらは護衛が10騎いるのに対して、敵は4騎しかいない。順当に考えれば一旦止まって騎兵を始末しながら歩兵の接近を待ち、それから再び逃げるのが一番良いのだろう。だが敵騎兵は明らかに決死の覚悟をしているし、その狙いはベルケル(偽)だ。
――止まったら殺られる……!
我が身可愛さだけでなく、ベルケル(偽)が殺されれば敵は満足して引き返すかもしれないのだ。それは作戦の失敗を意味する。……のだけど、やっぱり彼は作戦よりも自分の命が惜しかった。敵に背を向けた時から、彼は半分くらい小心者のユイアトに戻っていたのだ。だが護衛たちはそうは思わない。ベルケル(偽)が殺される僅かな可能性より、敵が引き返す可能性を恐れた。
「迎え撃つぞ!」
護衛達は敵騎兵を迎え撃とうと一斉に馬の向きを変えた。ベルケル(偽)は護衛が離れたのを見て、慌てて彼らの元に戻った。作戦というより、護衛がいないと不安なのだ。
10騎の護衛が一斉に立ち止まると、フルウィウスは足を止めた。さすがに突破できそうにない、というかまともに戦っては生きて帰れそうにない。ベルケルが逃げる時間を稼ぐために数騎ずつ立ち塞がると思っていたのだが、とんだ誤算だった。彼は内心で冷や汗を垂らしたが、ベルケル皇子も足を止めるのを見て彼は思い直した。
――もう少しだけ時間を稼げば歩兵たちが追い付いてくる。そうすればベルケルは逃げ出すだろう。そしたら俺がわざと逃したことにできる!
それは物凄くせこかったが、同時に物凄く名案にも思えた。彼は怯えた素振りを隠し、堂々とベルケルに声をかけた。
「ベルケル皇子とお見受けする! 私はフルウィウス将軍、ガルータ地区の防衛を託されている」
片や呼びかけられたベルケル(偽)も似たようなことを考えていた。
――もう少し時間を稼げば、歩兵たちが追い付いてくる。そうすれば、殿下のもとまで誘導できる!
話すだけでフルウィウスが満足するなどとは、彼には思いもよらない事だった。というか、フルウィウスとダングヴァルト以外には想像できるはずもない。だから彼も時間稼ぎに付き合うことにしてしまった。
「待て!」
彼が刀を抜いた護衛達を制止すると、彼らは左右に開いて二人の視線を空けた。
「その通り、俺がドルク帝国の第一皇子、ベルケル・オルスマンだ。見ればまだ若いのに、我軍を打ち破った手腕は中々の物だ。フルウィウスと言ったな、褒めてやろう」
ベルケル(本物)は絶対にこんな事を言わないが、どうせフルウィウスは知らないはずだ。ベルケル(偽)としては、とにかく時間を稼ぐために話し続ける必要があった。
――怒り狂ってた割に、意外な事を言う。武断的で政治に疎いというからもっと狂犬のような男かと思っていたが、武人の礼は知っているようだな。
フルウィウスは、できればおだやかに彼を見逃したかった。そうしないとフルウィウス自身まで死んでしまう。
「名にし負うベルケル皇子にお褒めの言葉を頂くとは、望外の極みだ。この礼に、今日のところは見逃して差し上げようか?」
――この男本気か? ここまで猛然と追いかけてきたのに何でこんな事を言うんだ!?
ベルケル(偽)としては見逃されては困るのだ。
「片腹痛いわ! 俺にとっては5万など寡兵に過ぎぬ。国に帰ればすぐに10倍にして戻って来るぞ? いいのか?」
――この状況でも口の減らない男だな。負けを認めさせないと大人しく帰らないのか?
フルウィウスはドルク軍が本気で潰走したとしたと思っていたし、目の前の金ピカ男がベルケル皇子本人だと信じていた。
「ほう、ではなぜ寡兵で挑まれた? エフメト皇子とヒシャーム卿は4倍の兵で挑みながら惨敗なされたぞ?」
――うだうだと能書きの多いやつだな。エフメト皇子やヒシャーム様を倒したのはお前じゃないだろうが! 怒らせないとダメなのか?
「お前たちの皇女のせいだ。いきなり婚儀が早まったから取る物も取り敢あえずに急いできたのだよ」
話を繋ぐためにベルケル(偽)が適当に言った言葉は、フルウィウスに劇的な効果をもたらした。
――二人の結婚の陰にイゾルテ殿下がいると、何故分かったのだ!?
自分だけが知っていると内心自慢に思っていた彼は、だからこそかすっただけのそのセリフを曲解してしまった。
「……なぜ皇女殿下のせいだと?」
ベルケル(偽)は、フルウィウスの声の調子が変わったことに気付かなかった。さっきまでのように半分弱気なユイアトだったら気付いたかもしれないが、フルウィウスと話している間に完全に強気なベルケル(偽)に戻っていた。それに相手を怒らせようとしていたので、ベルケルのあんまり相手の気持を考えていない傲慢な感じがよく再現されていた。
「大方孕みでもしたのだろう、んん? 美しいと聞いてはいたが、尻も軽いようだな。全く、妹が妹なら、姉も姉だ。まぁ、ペルセポリスを落とした後で慰み者にするには、ちょうど良いかもしれんがなぁ」
その言葉はフルウィウスの想像が的はずれであったことを明らかにしたが、それ以上の問題をはらんでいた。テオドーラが妊娠したことは公然の秘密となっていたから仕方ないが(というか別に婚約者の子供なんだから良いんじゃないのかと思ったが)、ベルケル(偽)はイゾルテまでも尻軽女扱いしたのだ。そして彼女にあんなことやこんなことまでしようというのだ! (どう考えてもペルセポリスは落ちないんだけど)
フルウィウスは蒼白な顔をして何かをつぶやいた。
「xxxxxx」
「はあ?」
「今、何と言った」
「何?」
「何と、言ったと、聞いているんだ! ベルケルぅぅ!!」
一気に紅潮して怒りを露わにしたフルウィウスに対し、護衛達も再び立ちふさがって一触即発の緊張が立ち込めた。10対4と数にまさるベルケル(偽)陣営に対して、フルウィウスは一歩も退かぬ気概を見せていた。そして彼のすぐ後ろには、歩兵たちが目と鼻の先まで迫っていた。だがベルケル(偽)の背後にも、あと少しということろで焦らされているベルケル(本物)が、イェニチェリ軍団を率いて密かににじり寄っていた。
しかし、その全ての緊張を一瞬にして打ち砕いたのは、更に遅れてやって来たたった一人の騎兵だった。
「伝令でーす! すぐに戻ってくださーい! その金ピカは偽物でーす!」
「…………」
「…………」
睨み合ったまま言葉と緊張を失ったベルケル(偽)とフルウィウスは、数秒の間ぽかんと相手の顔を見つめた。だがフルウィウスはいち早く立ち直り、ビシリとベルケル(偽)に指を突きつけた。
「あー、とにかく、今日は皇女殿下と皇太子殿下の晴れの日だ、命だけは助けてやろう! いずれまた会おうぞ、ベルケル皇子!」
彼はあくまでベルケル皇子だということにして、ついでに見逃したことにしたのだ。そう、遂に戦術目標を達成したのである! 彼は即座に馬を返して遁走を開始すると、近づきつつあった歩兵達に叫んだ。
「戻れ! もう十分だ! 戻れぇぇえ!」
丘を駆け上って息が上がりかけていた追撃隊の歩兵たちは、突然の命令変更に混乱しながらもその場に停止し、後ろを向いて再び走り始めた。このまま逃げ切れば、彼の勝ち――と言って良いのかどうかは分からないが、ダングヴァルトの仕事次第でイゾルテは彼の妻になるはずだった。
筋書きを大きく離れたこの事態に、護衛もベルケル(偽)も困惑していた。ここまできて偽物だとバレる事態は全く想定されていなかったのだ。もうベルケル(偽)は餌にはならないので、何をやっても再びこちらを追いかけてはくれないだろう。
「あー、えっと、どうすれば?」
思わず地のユイアトに戻って護衛達に目を向けたが、だれもが困惑顔を見せるだけで何も答えられなかった。
「いいから行くぞ! ユイアト! ここで逃したら後がない!」
その答えは背後からもたらされた。馬を降り、地に這いつくばってじわじわと近づいていたベルケル(本物)とイェニチェリ軍団が、立ち上がって走って来たのだ。護衛の1人が馬を降りてその脇に四つ這いになると、ベルケル(本物)は駆け寄りざまにその背を蹴って馬に飛び乗った。
「大義! 借りるぞ!」
彼はそう言い捨てると一路敵を追い始めた。慌ててベルケル(偽)が後を追うと、護衛達もその後に続いた。だが馬の力差で、ユイアトだけはすぐにベルケルに追いつくことが出来た。
「ユイアト! 危険です!」
「それはもういい! バレてるだろう!?」
「殿下! 危険です!」
「いちいち言い直すな! 分かっている! だがあれを逃せば、皇太子も出て来ないのだ!」
押し黙ったユイアトは、突然兜を脱いだ。
「……お返しします」
彼がそう言って兜をベルケルに押し付けると、慌てて落としかけたベルケルが怒鳴った。
「何のつもりだ!」
だがユイアトはそれには耳を貸さず、金糸を織り込んだマントを外し、金ピカの胸甲も、金ピカの篭手も、金ピカの脚甲も次々と地に投げ落として身を軽くし、宝剣を抜き放って金ピカの鞘まで捨ててしまった。
「死出の旅路の供として、この剣だけは頂きます。妹達を頼みます」
それは普段の気の弱いユイアトでも、気の強いベルケル(偽)でもない、ベルケル(本物)の見たことのないユイアトの姿だった。
「ユイアト? お前、何を……?」
戸惑うベルケル(本物)を尻目に、ユイアトは刀を振り上げるとその峰を馬の尻に打ち付けた。みるみるうちにベルケル(本物)を引き離したユイアトは、フルウィウスへと迫った。
フルウィウスは歩兵達の後ろで彼らを急き立てていた。ユイアトが迫ってくるのを見たフルウィウスは先程までの攻守を逆にした構図に、悲壮なまでの皮肉を感じた。丘を駆け下るうちはまだ良かったが、平地に入ってからは追撃隊の足はみるみるうちに鈍くなっていた。彼らは走り詰めで既に疲れきっており、その上城門まではまだ1ミルムはあった。何処からか湧いて出た万を超える敵の歩兵は100mと離れていない。
――逃げ切れないか……やむを得ない。
無防備なまま敵に追いつかれてしまえば一瞬で全滅するだろう。ならば防御を固めてじわじわと城門までもどるしかない。幸い新手には弓兵も騎兵もいないようだった。
「方陣を組め! 陣形を保ちながら後退するぞ!」
彼が号令を下した時、すぐ後ろから叫び声を聞いた。
「フルウィウスゥゥ!」
彼が振り向く前に背後から何かが覆いかぶさり、彼は衝撃と僅かな浮遊感を感じた後、意識を失った。
フルウィウスを追ったユイアトの前には、4騎ばかりの騎兵達が立ち塞がった。だがユイアトはその大柄の体を無理やり低く抑えこむと、敵兵に構わず馬を狙った。馬さえ奪えば後続のイェニチェリがどうとでもしてくれる。敵の槍が頬をざっくり切り裂き、左肩を穿ち、右の太ももにも突き立ったが、その代わりに3騎を落馬させることができた。並走する最後の騎兵は肩を傷めた左側に陣取り、対してユイアトは右腕に握った宝剣一本で対処せざるを得なかった。窮した彼は、かつてこの地で死んだヒシャームの最期を思い出した。
「うぉおおおおぉ!」
傷ついた足を踏ん張って馬の腹を強く挟みこむと、彼は身を捩って宝剣を投げつけた。宝剣は馬の腹に当たった上に更には後ろ足に絡まり、馬は悲鳴を上げてどうっと横倒しになった。ユイアトは痛みに朦朧とする頭で再び馬に鞭を入れようとして、既に刀を失ったことを思い出した。それでも幾度も馬の腹を蹴りつけ、フルウィウスに追い付くと、その背後から彼に飛びかかった。フルウィウスの腕を掴んだ感触を最後に、彼の意識は途切れた。
「将軍! 将軍! 起きてください! 将軍!」
フルウィウスが目を覚ました時、彼は見ず知らずの兵士に背負われていた。
「どう……なった」
「将軍!? 参謀どの! フルウィウス将軍が目を覚まされました!」
その声に見知った部下が駆け寄ってくるのを見て、そこが円陣の中だと気づいた。追撃のために盾を置いてきた彼等には、方陣を組んでも敵に対抗することが難しかった。どうしても角の兵の負担が大きく敵を防ぎきれないのだ。だからそのまま円陣に形を変えたのである。
「ご無事ですか!?」
「ああ、だッ!……大、丈夫、ダ」
激痛が走った左腕を見ると、二の腕の中ほどに1つ関節が増えていた。だが足を折るよりははるかにマシだと思うことにして、彼は脂汗を流しながらも部下に状況を尋ねた。
「状況を教えてくれ」
「円陣を敷いて敵を防ぎつつ、城門へと向かっています。現在地は城門まで800mあまりの位置です。敵の練度が異常に高く、また盾がないので多大な被害を受けています。敵は恐らく――」
参謀は余人に聞かれないように彼の耳に口を寄せると、小さく囁いた。
「恐らくはイェニチェリです」
現実感のないその単語に、フルウィウスは参謀の顔を眺めた。「こいつ、大丈夫か?」とでも言いたそうな顔に、参謀は焦りを露わにして囁いた。
「本当です! 全員がタイトン人なんです!」(注1)
今度こそフルウィウスは目を剥いた。ドルクの精鋭中の精鋭であるイェニチェリ軍団は、ドルク国内の(ムスリカ教に改宗していない)タイトン人の子弟から優秀な少年を選抜し、改宗させた上で英才教育を施して組織した軍団なのだ。高い俸給と特別な身分が与えられ、その練度と帝国への忠誠心は他と一線を画す――と言われていたが、最期にドルク皇帝が親征してタイトン(というかプレセンティナ帝国)と戦ったのは100年以上前の話であり、タイトンではほとんど伝説上の存在だった。フルウィウスはここに至って初めて、イェニチェリ軍団こそが主力であり、最初に対峙した敵は本気で遁走することまでを見込した囮に過ぎなかったのだと悟った。
――だが4万を敗走させ、そのうち5千くらいは死んだはずだ。1,000人ほどの追撃隊が全滅しても悪い勘定ではないはずだ。
そうやって自分を慰め、自己憐憫とも自己陶酔ともしれない満足感を感じた時、彼の脳裏にイゾルテの言葉が蘇った。
『もしも罠にハマれば部隊が全滅するだけでは済まない。味方の目の前で嬲り殺しになるだろう。そしたら城壁に残った兵士や市民まで一気に意気消沈するぞ』
ガルータの城壁からは残した兵たちと彼の親友が、敵中に孤立した追撃隊を絶望的な面持ちで見つめていることだろう。
――俺が死ぬのは自業自得だ、構わない。だが、陛下から預かった兵をこれ以上無駄に死なせることも、味方の士気を下げることも許されない。そして何より、俺のせいであいつが軍を抜けることになっては、国家に対して申し訳ない。俺の力はこれが限界かも知れないが、あいつの力はまだまだこんな物じゃないんだ!
フルウィウスは兵士の背中から降りると、少しふらつきながらも自分の足で立った。
「もう少しだ! あと少し城壁に近づけば援護がある! 投石機は既に発射準備を整えているぞ!」
「「「ウゥー!」」」
円陣や方陣は防御力に優れた陣形ではあるのだが、それも盾があってのことだ。追撃のつもりで城門を出た彼等は、重い盾を置いてきていた。だからひたすらに槍を突き出して敵を近寄らせないことしか防御策がないのだ。相手もそれが分かっているからこそ、びっしりと盾を重ねてこちらが疲れるのを待っていた。だがこちらが疲れて槍を休めると、突然盾の間から槍が突き出されて兵士たちの命を奪っていくのだ。慌てて再び槍をしごけば、ますます兵士たちの疲労が蓄積していく。次第に小さくなっていく円陣の中で、フルウィウスはただ兵士たちを励ますことしか出来なかった。
「あと少し、ほんの100mで援護射撃があるぞ! そしたら安全に城門まで逃げ込める!」
「「ウゥー!」」
兵士に背負われていた時には見えた城門が、今の彼には見えなかった。頭ひとつ高かったから見えたのか、敵が目前に迫るほど円陣が小さくなったから見えないのか。何れにせよ城壁までの正確な距離など知りようがなかったが、兵士たちも気休めと知りつつ応えてくれた。
――健気なものだ。彼らの仇はドルクではなく、野心に駆られた俺だというのに……
プレセンティナ陸軍の兵士たちが他国の兵士と大きく違うことは、徴兵制でないことと、決して略奪をしないことだった。いつも守ってばかりの戦いなのだから略奪しないのは当たり前ではあるのだが、ドルク兵がどんなに無謀な戦いに駆り出されてもそれなりの戦意を見せるのは、褒美として略奪が許されているからだ。彼等は強制的に狩り集められ、欲望を糧にして戦っているのだ。だがそれはドルクに限ったことではなく、タイトンでも北アフルークでも、プレセンティナを除くほとんどの国ではそうやって兵の士気を繋ぎ止めていた。だがプレセンティナ兵は本来、城壁の内側で矢を射て、攻撃の合間に城壁を補修するのが仕事である。何をどう頑張った所で個人が表彰されるような殊勲をあげることなどあり得ない。だから彼等の頑張りは報酬を期待してのものではない。ただ国を、街を、人々を守るために自ら進んで戦っているのだ。
だからどんな絶望的な状況でも最後まで黙々と指揮に従い、戦い、働く。それこそがプレセンティナ兵の本質であった。そしてそれが、他のことは仲間に任せて1つのことに専念する分業の合理性と、その仕事を割り振る指揮官への絶対的な信頼に裏付けられた従順さに繋がっていた。無数の籠城戦を経て形作られたその2つは、プレセンティナ陸軍の信条であり、長所であった。だがそれは本質的に野戦向きではない。野戦では各人を取り巻く状況が驚くべき早さで変わって行き、必ずしも十分な指示が得られるとは限らない。兵士たちはあらゆる作業を自分で行わねばならず、指示されていない事にも気を配らなくてはならない。今は円陣という防御主体の陣形を組むことでかろうじて兵士たちを1つの作業に集中させることができているが、そもそも野戦に打って出て円陣や方陣を組むくらいなら城壁に籠っていた方が100倍はマシである。真の野戦で10倍以上の敵と戦うというのなら、その指揮官には恐ろしいほどの先見の明と指揮能力が必要になるだろう。
だがそれはとても、彼の力の及ぶところではなかった。彼は親友の忠告にも関わらずに敵を深追いし、あろうことか部隊を置き去りにしたのだ。だがダングヴァルトは(指揮の方はからきしだが)先見の明だけはタイトン一なのだ。彼に匹敵する者など1人も――
――そうか、俺がイゾルテ殿下に惹かれたのは、あの方の中にダングヴァルトに近いものを見たからかもしれない。あいつに匹敵する頭脳を持ちながら、そして周囲から変わり者だと思われながらも、だれもがあの方を認め、愛してやまない。器用なようで不器用なダングヴァルトも、あの方の元でなら思う通り生きられるかもしれない……。
また1人目の前で兵士が倒れると、フルウィウスは彼の槍を掴んでその穴を埋めた。
「将軍!」
参謀が止めたが、彼は片手で槍を突き出した。
「指揮はお前が執れ! 盾がないなら片腕でも足りる! それにどうせあと少しだ!」
彼の威勢のいい言葉に残り少ない兵士たちが歓声を上げた。既に円陣は1重になり、生き残りはわずかに100名あまりにまで減っていた。誰もが後のない空元気だったが、彼等は不思議な一体感に包まれ、自然と笑みがこぼれた。そしてその時、彼の正面――つまりは城門の方向で火柱が上がった。
――ついに射程に入ったか!
「投石機の射程はすぐそこだ! もう少しでドルク軍は引き上げるぞ!」
彼の言葉は兵士たちに希望をもたらした。今度ばかりは気休めでない実感があったのだ。
だがフルウィウスはすぐに眉をひそめた。一歩一歩じわじわと進む彼らの歩みより、次々に上がる火柱が近づいて来る速度の方が遥かに速いのだ。それに一斉射撃ではなく少しずつ――つまりは1台ずつ撃ってくるのは何故だろう? 敵の城壁への接近を防ぐ場合には有効な場合もあるが、一気に敵を突き崩すなら斉射した方が良いに決まっている。ダングヴァルトがそれを知らないはずがない。
だがその疑問は、目前のドルク兵が悲鳴を上げて左右に割れると氷解した。
「キ、キメイラ……!」
彼らの目の前には雁行陣を組んだ5両のキメイラが迫っていた。黒光りする正面装甲は全ての攻撃を拒絶する鉄の城壁を思わせ、突き出した2本の管の先からからちろちろと見える炎は蛇の舌を思わせた。そして上部の2つの半球からは並みの小型投石機の5倍は速いだろう速度で次々にイゾルテ・カクテルが投擲されていた。たった10基の投石機が彼らの左右を無数のドルク兵から守っていたのだ。味方だとは知りつつも、正面から迫り来るキメイラを見てフルウィウスは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
5両のキメイラが停車すると、その間を抜けて微妙に形の違う1両のキメイラが円陣のすぐ前まで進み出た。そしてその投石機を覆う盾の隙間から初老の男が顔を出した。
「生きてウロパの大地を踏みたい者は、あっちのキメイラの脇に付け! 前と後ろには近づくなよ!」
「クィントゥス将軍……」
「早くしろ! 時間がない!」
円陣を組んでいた兵士たちは慌てて走り出したが、フルウィウスは彼に歩み寄った。
「こちらのキメイラは……どこに向かうのですか?」
フルウィウスの言葉にクィントゥスは顔を顰めた。
「恐らくは……ペルセパネのみもとだ」
「では、私はこちらの脇に付きます」
クィントゥスは睨みつけたが、彼は既に覚悟を決めた顔をしていた。
「……足が無事なら中に乗れ、人手が足りん」
フルウィウスは参謀を捕まえると、その耳元に二言三言囁いてから背中を押した。
「さらばだ、今までありがとう」
参謀が振り返った時には、彼は既にキメイラへと足を向けていた。
ダングヴァルトが祈るように見つめる先で、キメイラ小隊はドルク軍の包囲を牛酪を溶かすようにあっさりと蹴散らした。
「良し! 良し! さすがは殿下の秘密兵器だ!」
とはいえそれは、今まで見たことのない兵器を前に手を控えているだけと見えて、ドルク軍の損害自体は大したことがないようだった。キメイラは停止してもイゾルテ・カクテルを放ち続け、ドルク兵が近づくのを妨げていたが、ドルク軍はキメイラを遠巻きに囲みこもうと動き出していた。最初の混乱からは既に脱しているのだ。
――キメイラを見ても崩れない。その上有効な攻撃手段を探っているのか? さっきの奴らとは練度が違うぞ!
追撃隊の生き残りがキメイラ小隊の側面につくと、彼等はそのままじりじりと後退を開始した。ドルク軍としても、イゾルテ・カクテルを浴びながら歩兵横列と戦うことが躊躇われ、彼らを囲んだまま近づくことが出来なかった。それに彼らには他に標的があった。クィントゥスが乗っていた他と少し違うキメイラだけが、ドルク軍の中心に取り残されたままピクリとも動いていなかったのだ。1基の投石機とは思えないほどイゾルテ・カクテルを連射していたが、やはり所詮は1基に過ぎず、キメイラ小隊の10基の投石機に比べれば遥かに攻撃密度が低かった。しかもそのキメイラには歩兵が一人も付いていない。ドルク軍が一斉に近づけばあっという間に取り囲まれてしまうだろう。絶体絶命であった。
「おい、どういうことだよ! なんで爺さんだけ戻って来ない!」
ダングヴァルトがクィントゥスが置いていった幕僚たちに怒鳴ると、彼らは怒りを隠そうともせずに睨み返した。気圧されたダングヴァルトに幕僚の一人が低い声で答えた。
「あのキメイラは試作壱号機です。それを改良して新たに作られたのが小隊の5台です。小隊のキメイラは後進することができますが、壱号機は出来ません」
「指揮官用の専用車両だと思ってた……」
「壱号機は廃棄されるはずの所を将軍がここに運び込んだのです。乗員も正規の者ではありません。子供が手を離れ、妻の居ない者だけを選んでいます」
「決死隊か? まさか爺さん、最初から残るつもりだったの!?」
「敵の海に飛び込むのがプレセンティナの騎兵の仕事、常に決死の覚悟が求められます。ですがキメイラ小隊はまだ雛にすぎません。中隊、大隊となって初めて完全な戦力となります。彼らにはここで死んで貰っては困ります」
「だけど、何もわざわざ囮にならなくても!」
「囮がなくては小隊が囲まれます」
「だからと言って、むざむざ爺さんを殺させるのかよ!?」
「フルウィウス将軍を見捨てれば、それで済んだんですよ!」
ダングヴァルトは押し黙った。フルウィウスを助けてくれと頼み込んだのは彼なのだ。最初こそ苛立たしげにダングヴァルトを睨んだクィントゥスだったが、それでもダングヴァルトが一歩も退かないと分かると、彼は意外にすんなり承諾した。
「小僧、イゾルテ殿下にお伝えしろ。ご期待に添えず申し訳ありません。せっかく生まれ変わる機会を頂いたというのに、ワシはどこまでも騎兵であったようです、とな」
彼は遺言じみた言葉をダングヴァルトに伝えたが、あれは本当に遺言のつもりだったのだ。
「それと、小僧。殿下は野戦論を否定しておられる訳ではないぞ。殿下のお考えの片鱗だけでも見せてやる。ワシらの戦いを、よーく見ておけ!」
「言われなくても、こんな面白い物を見逃すはずがないよ!」
口が減らないダングヴァルトにクィントゥスは呆れたが、それ以上は何も言わなかった。だからそれが、ダングヴァルトの聞いたクィントゥスの最後の言葉だった。
クィントゥスの乗ったキメイラはゆっくりと走りだしたが、投石機の射撃は止んでいた。代わりに正面からは猛然と炎が吹き出し、近くにいたドルク兵を包み込んだ。ダングヴァルトは驚愕に目を見張ったが、その武器には心当たりがあった。
「ケルベレス!?」
新型ガレー船に搭載されている、炎の息吹を吐く大型兵器である。
「あの武器そのものは火炎放射器と言います。あれがあるからこそ、キメイラと名付けられたのでしょう」
クィントゥスの幕僚の言葉を聞いて、ダングヴァルトは妙なところに感心していた。
――なるほど、前面は装甲と火炎放射器で敵を寄せ付けないライオンの頭、投石機が毒蛇の尾ということか。だが、山羊の胴体ならぬ軍馬は弱点だ。
「あのまま敵を突破することは出来ないの?」
「中隊があれば出来たかもしれません。ですが1台では側面ががら空きです」
「小隊でも無理なのか?」
「少なくとも何台かは犠牲になるでしょう。それくらいなら、お払い箱の初号機を犠牲にしようとおっしゃっておられました」
「じゃあ、なぜ投石器を使わないんだ?」
「人手が足りないのです。我々も志願しましたが、将軍に断られました」
「クソっ! 分かっていれば俺が乗ったのに!」
ダングヴァルトの言葉に、クィントゥスの幕僚たちは意外の念を覚えずにはいられなかった。いつも場をわきまえないで軽口を叩くダングヴァルトは、真面目な軍人達には気に食わない存在だった。まして昔気質なクィントゥスの幕僚たちにとっては言わずもがなである。しかもクィントゥスを死地に赴かせたのは、血気に逸ったフルウィウスと、立場も弁えずに救援を頼んだダングヴァルトなのだ。彼らがダングヴァルトを腹立たしく思わない訳がなかった。だがそんな彼だからこそ、思ったことを正直に口にしているのだとも思えた。一人安全な場所に残り、それでも口の減らない彼だったが、だからこそ忸怩たる思いを抱えているのだと気付いた。なぜなら彼ら自身もそれを抱えていたからだ。
だがダングヴァルトは同時に戦場全体も冷静に見ていた。彼はその舌の乾かぬうちに軽い口調で別のことを言い出した。
「そろそろだね」
そう言って彼が振り向いて手に持った旗を振り、それに応えて城壁の中から旗が振り返されると、大型投石機が次々にイゾルテ・カクテルを放った。それらはキメイラ小隊の随分と手前に落ちて次々と火柱を上げたが、それを見たドルク軍は回りこむのを断念したようだった。これでキメイラ小隊の退路は確保された。
「伝令! もう一度射つことになるかもしれない。大型投石機を巻き上げておいてくれ」
伝令が走り去ると幕僚たちは訝しげな顔を見せたが、ダングヴァルトはそれにも気づかずただ1台残されたキメイラを見つめた。
「頼むぞ、なんとか射程まで戻ってこい……!」
彼は無駄と知りつつも、クイントゥスのキメイラが敵中を突破することを心から祈っていた。
だが彼の願いも虚しく、キメイラはあっさりと停止してしまった。彼は望遠鏡を構えてクィントゥスのキメイラに向けると、馬の一頭が首に槍を突き立てられて死んでいた。その死体が返ってキメイラの前進の邪魔になっているのだ。彼の見守る中、乗員の一人が後部扉を閉じようとしていた。その刹那、彼は我が目を疑った。そこに見慣れた顔を見た……気がしたのだ。彼は喉の渇きを感じ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
――そんなはずはない。クィントゥスの爺さんが死ぬ気だとしたら、誰も乗せるはずがない。気のせいだ……!
望遠鏡の中のキメイラは、今度は投石器を2つとも稼働させてイゾルテ・カクテルをばら撒いていたが、前進を止めた今となっては隙だらけだった。ドルク軍が射撃の間隙を縫って足元まで近づいてしまうと、投石機は無力だった。クィントゥスらしき人影がキメイラの上からイゾルテ・カクテルを投げ落としたが、キメイラの高さはせいぜい3.5m、ドルク兵の頭上までは2mもない。それは割れることもなく簡単に受け止められてしまった。
ドルク軍は残りの馬を解き放つと装甲のない後部扉を打ち破り始めた。槌こそないものの、甲冑を着た兵士たちが体当たりをする度に扉はたわみ、十を数える前に扉が開いた。だがその瞬間、後部扉から火炎放射器を凌ぐ業火が吹き出し、そこにいたドルク兵をまとめて包みこんだ。
「すげぇ! まだあんな武器を積んでたのか!?」
ダングヴァルトは弾んだ声を出したが、それに応えた言葉は沈んでいた。
「あれは、おそらく火炎放射器の暴発です」
「暴発?」
「キメイラの秘密を守るためです。クィントゥス将軍が命じられていました。敵に奪われそうになったら全てを灰に帰せよ、と」
「つまりは……自決か?」
呆然として望遠鏡から目を離したダングヴァルトの肉眼にも、キメイラが窓という窓から激しく炎を拭きあげているのが分かった。時折思い出したように火柱が上がるのは、おそらくイゾルテ・カクテルの蓋が燃え落ちたか、中身が沸騰して壺を割ったかしたのだろう。あれほどの炎に包まれれば、木材は一片たりとも残らないだろう。残るのは装甲と甲冑と多少の金属部品だけで、恐らくは骨も残らない。
「あれは、殿下の命令なのか?」
その声に僅かに非難の匂いを嗅ぎ取った参謀は、自らの応えにも非難の色を濃厚に混ぜた。
「殿下はそもそも、まだ実戦に使うのは早いと考えておられました。そんな命令を出す訳がないでしょう」
否定されて、ダングヴァルトは自分が八つ当りしていることに気付いた。仮に自決を命じたのがイゾルテであったとしても、その事態を招いたのはフルウィウスとダングヴァルトの責任なのだから、彼が責めるのはお門違いであろう。
「ともかくキメイラ小隊を迎えないと。勝どきで迎えるよ。爺さんは目的を達したんだ。だからあれは、爺さんの勝利なんだ!」
彼が悔しげに見つめる先で、ドルク軍はキメイラを囲んで勝鬨を上げていた。その場所はガルータ地区の城壁から離れているから、恐らくはペルセポリスからもよく見えてしまうことだろう。鏡式望遠鏡{ニュートン式反射望遠鏡}を持つ者はプレセンティナの軍関係者しかいないが、普通の望遠鏡なら船乗りはもちろん、外国の使節の中にも持ち込んだ者も多いだろう。皇太子夫妻のパレードを見るつもりで望遠鏡を持って高台に陣取った者達は、今は煙の上がったこちら側を覗いているかもしれない。だからこそ、フルウィウスの噂を立ててしまえば彼らが証人となって噂を盛り上げてくれるはずだったのだ。だが今となっては逆効果だ。燃え盛るキメイラを囲んで勝鬨をあげるドルク軍を見れば、全体としての損害はともあれ、ドルク軍が勝者に見えてしまう。ペルセポリスの人々に、プレセンティナ軍が勝鬨を上げる姿を見せなければ、軍事だけでなく外交面でも致命的な失点を重ねることになる。
――それに、事実上の敗北で士気が下がりきっている。空元気でも何でも、とにかく士気を繋ぎ止めないと……。
海峡を渡って来たイゾルテを迎えたのは、このどこか空虚な勝どきだった。
注1 イェニチェリのモデルは、オスマン・トルコのイェニチェリです。キリスト教徒の子弟から選抜された者で構成されていました。潜在的な反乱分子を思想教育と金銭で精鋭に育て上げるという、中々に上手い手法です。結婚禁止で子孫が残らないというのも素晴らしい。名前を微妙に変えたかったのですが、上手く思いつかなかったのでそのまんま使いました。
やっちゃダメ、としつこく言われるとやりたくなるのが人の性(?)ですが、今回は章の初めから「野戦をするな」としつこく言い聞かせておいて、野戦をやらせてみました。そのまんまガチでやってボコボコにされて「アホや」で済ませても良かったんですが、それではあまりにもフルウィウスが浮かばれないので、彼にも勝ち目(?)があるようにしてみました。
実際、彼が逃げ切ることができていれば(イゾルテは怒り散らすでしょうが)意外とルキウスはあっさり承諾したかもしれません。もともと外国にやる気はありませんし、テオドーラとの関係がますます怪しくなっていますので。そしてルキウスがそうしろと言えば、断れないのがイゾルテです。二人は結婚し、初夜を目前にしてフルウィウスは毒殺されてしまいます。そして第5章は名探偵編。イゾルテは灰色の頭脳を駆使して夫を殺した犯人を探しあてます。「犯人はアナタだ!」って、テオドーラに決まってますね。フルウィウスはやっぱり報われないです。あ、でも処女の未亡人というのはありだったかも……。




