招かれざる客
4月の末になるとタイトン諸国や北アフルーク諸王国の使節がペルセポリスに到着しだした。お祭りムードに陸海の交易路も活気に溢れ、様々な人や品物が流れ込んで来た。だが結婚式1週間前の5月3日になって、ドルクから歓迎できない情報を抱えた者まで飛び込んできた。
「ドルク軍5万がペルセポリスに向かって来ている!」
離宮に居たイゾルテはその情報を聞いて頭を抱えた。前回の攻撃からわずかに半年、わざわざこの時期を選んだのは明らかにこちらを挑発するためだ。ペルセポリス攻略には少なすぎるこの数も、野戦に誘き出すことを意識した数であろう。例え海峡を越えられたとしてもペルセポリスが落ちることは万に一つもあり得ないが、冬小麦の収穫を控えたこの時期に海峡突破を許せば、敵に奪われるのを防ぐために農地に火を放たなくてはならない。それは経済的に大きな打撃があるだけでなく、その光景を諸外国の使節に見せれば折角高まりつつあるプレセンティナの声望にも大きな傷を付けることになるだろう。
それに城壁の外とガルータ地区はさっさと放棄するのが当然だというプレセンティナ流の考えは、他の国には通用しないらしいのだ。二度の籠城戦を経験しているアドラーですら、「もったいない」と言って未だに納得出来ないという。しかもコルネリオの功績によってガルータ地区を守り切ったのは僅か半年前のことだ。ガルータ地区を放棄することは既定の方針だという言い訳は、説得力が無くなってしまった。だから諸外国の使節には「ガルータの放棄」=「負け」と認識されてしまうかもしれない。そして今まさに、そのコルネリオの婚儀が行われようとしているのに、折角彼が守りぬいたガルータ地区をやすやすと奪われたとなれば、その威名にまで傷がつきかねなかった。だが逆に敵がたかだか5万しかいないのであれば、ガルータ地区を無視して海峡を越える可能性は限りなく低い。もちろんアムゾン海とメダストラ海の警備も怠れないが、ガルータ地区さえ堅守すれば海峡はほぼ安全だろう。
だが悪いことに、陸軍には野戦主義が蔓延していた。コルネリオが指揮出来ない以上は他の将軍に任せるしかないのだが、勝手に出撃しないかという不安があった。クイントゥス将軍なら野戦主義に否定的なので安心出来るのだが、彼は騎兵なので城壁の守備は畑違いだ。
「クソっ、私が詰めるしかないか……」
彼女には陸軍の指揮など出来ないのだが、誰を守将にするにしても彼女が監視していれば暴走を防ぐことはできるはずだ。だがそうするためには、まず指揮権が必要であった。夕刻に行われるという御前会議の前に直接ルキウスにねじ込んでおこうと彼女が席を立った時、皇宮の尖塔にある大望遠鏡観測所(アテヌイの目)からの伝令がやって来た。
「まさか、ドルクがもう来たのか!?」
彼女は思わず叫んだが、答えは否だった。
「いいえ、別件です。ムスタファと名乗る男から通信がありました」
ムスタファはアドラーとともに新型ガレー船の2番艦『イザベラ』号の試験航海に出ているはずであったが、遠くと話す箱{無線機}で通信できるところまで帰ってきたということだ。
「今何ミルムにいると言っていた?」
「100ミルムだそうです。10ミルム毎に連絡するとのことです」
本当は凹面鏡による通信距離の伸延効果をテストしたかったのだが、それはまた今度でもいい。イザベラ号を呼び戻せば、海峡の防衛線は万全となるだろう。
「次に連絡してきたら、試験を中止して即刻帰港するように伝えてくれ。最優先命令だ」
彼女はそう命じると皇宮へ向かった。
前回はルキウスの話術(というか詐術)によって、なし崩し的に彼女が指揮することを将軍や提督達に認めさせたのだが、今回は実績があるので反対する者はいないと彼女は考えていた。だが皇帝執務室には思わぬ伏兵がいた。ガルーダ地区を守り通すという大方針には彼の同意を取り付けたものの、彼女が指揮権を預けて欲しいと言うと、それは速攻で拒否されたのだ。
「ダメよ!」
そう言ったのはもちろんルキウスではなく、結婚式の相談に来ていたテオドーラであった。
「私の付き添いをしてくれると言ったでしょう!? あなたは海軍なんだから、陸の戦いはコルネリオに任せておけば良いじゃない!」
「いやいや、義兄上こそ結婚式に出ないと。結婚式を一人でやる気ですか」
興奮するテオドーラをなだめながら、イゾルテは困り果てていた。
「殿下、守るだけならあなたが居なくても大丈夫ですよ」
打って出るなと言われたら決して打って出ない生真面目なコルネリオは、陸軍に蔓延している野戦主義を甘く見ていた。野戦論に火を付けた彼だけが、包囲軍に逆撃を加えることの難しさを分かっていた。前回成功したのはドルク兵が弱いからでも、プレセンティナ兵が強かったからでもない。あれはイゾルテが仕組んだからこそ出来たことであって、彼女の協力なくしては到底不可能だという奇妙な自信があったのだ。だからこそ彼は、断りもなしに勝手に打って出るような者がいるとは思っていなかった。
「お前には二人の結婚を見届ける義務があるだろう」
ルキウスはルキウスで、別の理由からイゾルテが指揮をとることに反対だった。家族の絆を大事に思っている彼女が、テオドーラの結婚式に出たくないはずがないのだ。ついでにテオドーラがコルネリオとキスするところを見て、怪しい恋心(?)に終止符を打って欲しいとも思っていた。
イゾルテとしても「義務」と言われてしまえば素気なく拒否することはできなかった。ほとんど接点のない二人を無理やり結婚に合意させたのは彼女であり、彼女の勝手な事情のためなのだ。それに純軍事的にはガルータを防衛することは容易なはずだった。前回のコルネリオのやり方を踏襲すれば、大抵の司令官なら守りきれるだろう。前回と違って守備兵たちに守り切るだけの自信があるから、難易度はずっと低いはずだ。ルキウスやコルネリオにとっては、城門を打って出るという行為は突飛なものであり、そうそうそんな機会があるとは思えなかった。そこには実際にそれを行った彼らだからこその確信があり、説得力があった。
一方で一昨年からの戦いで常に中心にいたイゾルテには、動乱の時代が始まりつつあるという予感があった。それは憎しみの時代であるとともに、野心の時代でもある。ドルクが頻繁に攻撃を仕掛けてくるのも、冷静に考えれば不合理なはずの野戦論が持て囃されるのも、時代に突き動かされるように彼等の野心が煽られているからだ。彼女にはその自覚はなかったが、今や戦いも憎しみも、野心ですら彼女を中心として渦巻いていた。だがそれは所詮は直感に類するものであり、不安に過ぎなかった。彼女は合理的な反論もできず、不安を押し殺して彼らの意見に従うことにした。
「分かりました、結婚式が終わるまで戦のことはお任せします。ですが、3つだけ条件を出させてください」
「なんだ?」
「一つは決して打って出ないことです。城門を決して開かないように守将に言い聞かせてください」
「分かった。次は?」
「商人たちの避難が終わったら、空き地に大型投石機をあるだけ並べてください」
「最初からか?」
「最初からです。前回は敵に投石器を作らせることで時間を稼ぎましたが、今回はドルク軍が投石器を持ち出すことはないでしょう。撃ち合いで勝てないことは前回で思い知ったはずです。それなら出し惜しみする必要はありませんから、最初からばんばん投げて、敵が辟易するまでばんばん焼かせてください」
「なるほど。で、最後は?」
「イザという時のために、キメイラ試験部隊をガルータ地区に篭もらせてください」
ルキウスは彼女の意外な言葉を訝しんだ。打って出るなと言いながら、野戦用の兵器であるキメイラを持ち込むのは矛盾している。
「……打って出る事には反対ではなかったのか?」
「ええ、そうです。試験部隊のクイントゥス将軍もそうです。だから角が立たないように彼をガルータ地区に送り込んでおきたいのです。守将が誰でも、打って出ようと思えば必ずキメイラ部隊に声を掛けるでしょう。でもクイントゥス将軍は反対するでしょうから、抑えになります」
「野戦戦力であるキメイラの将が、野戦を主張する守将を抑えるというのか? 何とも奇妙な構図だな」
「そういう男だからこそ、キメイラを預けたのです」
「なるほどな。分かった、誰が守将になるにせよ、お前の言った3つの条件は守らせよう」
ルキウスが快諾したことでイゾルテはひとまず矛を収めた。とはいえ、やはり不安は完全には晴れなかった。
「ところで守将の候補はいるのですか?」
「ふむ、コルネリオ、誰か推薦する者はいるか?」
「そうですね、メッシウス将軍やプリースクス将軍はどうでしょう。多少頭の固いところはありますが、殿下の要望にも沿う人物だと思います」
「ああ、ダメだ。メッシウスはヘーパイスツス王国の大使の縁者だから、案内役を命じている」
「プリースクス将軍は?」
コルネリオが尋ねると、ルキウスは言いにくそうな顔をして目を逸らした。
「……足の骨を折ったそうだ。二輪荷車{自転車}で転んだらしい」
「…………」
コルネリオはイゾルテを見たが、彼女も目をそらした。
「となると御前会議にも来ないでしょう。代理はフルウィウスあたりでしょうか」
「フルウィウス?」
聞き覚えのある名前に、イゾルテは思わず聞き返した。
「私と同期で、何事にも卆のない男です。部下にも人望がありますし、目上の者からも目をかけられています。ですが、熱心な野戦論者です」
彼女は年始めの宴会のことを思い出したが、コルネリオが言うように野戦論に熱心だとは思えなかった。
「一緒に飲んだことがありますが、熱心というほどではありませんでしたよ」
「ええっ!?」
彼女の言葉を聞いてコルネリオは動揺した。イケメンのフルウィウスと知り合いで、しかも一緒に酒を飲んだと聞いては平常心ではいられなかった。
「フルウィウスと飲んだんですか!?」
「え? ええ、委員会の新年会の会場に偶然居合わせたんですよ」
「なんだ、委員たちと一緒に飲んだんですね」
あからさまにほっとしたコルネリオを見て彼女は訝しんだ。
「なんだかまるで、二人で飲んだらまずいみたいですね」
彼は「イケメンとは飲んじゃ駄目」とも言えず、堅苦しい一般論を述べた。
「……彼に限らず、身内以外の男と二人で飲むのはいけません」
だが彼女は再び首をかしげた。
「でも、義兄上と二人で飲んだこともありますよね?」
テオドーラの手がすっとコルネリオの耳に伸び、ぎゅっと引っ張った。
「イタタタッ、あ、あれはミランダの見舞いに行った時の事でしょう? あれは身内の集まりと考えて良いのでわっ!?」
彼の言葉に納得したのか、テオドーラは手を引っ込めた。「浮気はダメ!」と言っているように見えてイゾルテには微笑ましく思えたが、テオドーラの真意は「抜け駆けしちゃダメ!」であり、それはコルネリオにも正確に伝わっていた。
「と、とにかく、フルウィウスは野戦論の急先鋒です。盟友のダングヴァルトと研究会を主催しています」
「研究会? それに、ダングヴァルトも?」
ダングヴァルトとはほとんど話していないものの、彼女にはかなりの曲者に思えた。ただ彼女は、彼には好意的な印象も抱いていた。
――ダングヴァルトがフルウィウスを煽ったのか? なら積極的なのはダングヴァルトの方かもしれないな。いや、何れにしても俄野戦主義者にガルーダを守らせるのは不安だ。
彼女の深刻な顔を見て、コルネリオは彼女を安心させようと言葉をつないだ。
「とはいえフルウィウスも無茶をする男ではありません。打って出るなと条件を付けておけば十分ですよ」
だがそれでも彼女の不安は晴れなかった。
「父上、やはり私が……」
彼女は言いかけたが、ルキウスはその言葉を遮った。
「いや、このところ軍に介入しすぎている。今回は守り切るだけの手段が十分にあるのだから、軍に任せろ」
「しかし、国を守るのは皇族の勤めです」
食い下がるイゾルテにルキウスは溜息をついた。責任感が強いのは彼女の美点だが、なんでも自分でやろうとしすぎるきらいがあった。それでいて自分を軽く見すぎている。結婚式の主役は勿論テオドーラとコルネリオだが、諸国の使節が値踏みに来たのはイゾルテとコルネリオなのだ。元老院総会での出来事は、諸外国にも知れ渡っている。彼女は皇太子であるコルネリオに匹敵する、次世代のキーパーソンであると見做されているのだ。結婚式にイゾルテが出席しないとなれば、諸外国は二人の不仲を疑い、延いてはプレセンティナの政治的な安定をも疑うかもしれなかった。
「皇族の勤めは軍事だけではない、政治も外交も我々の仕事だ。お前も諸国からの使節に顔を見せなさい。昔のようにテオドーラと仲が悪いと思われていいのか?」
痛いところを突かれて彼女が黙ると、後ろからテオドーラが抱きついて耳元で囁いた。
「ねえ、イゾルテ。ずっと私のそばにいて」
彼女の息が耳にかかると、イゾルテはゾクゾクして小さく体を震わせた。そして、なんだかルキウス達の言うとおり自分の心配は杞憂であるような気がしてきて、やっぱりテオドーラの花嫁姿を見たくなってきた。
「分かりました、お姉さま」
頬を上気させてそう答えた彼女の姿を見て、コルネリオも顔を赤らめ、ルキウスは返って妙な噂が諸外国に広まりはしないかと心配になった。
「これから衣装合わせがあるの。あなたのドレスもあるから、一緒に行きましょう」
「あ、あの、私はトーガの方が……」
「ダ~メ、あなたに似合うようにわざわざ作らせたのよ」
テオドーラは腕を絡ませて、イゾルテを何処かへと引きずって行ってしまった。
「陛下、会議はどうします?」
「仕方ない、我々だけで行こう」
御前会議は皇宮のどこかでテオドーラがイゾルテを裸に剥いている間に行われた。ルキウスは、侍女やお針子達が一緒にいるから大丈夫だ、と自分に言い聞かせながら会議に臨んでいた。陸軍と海軍の将官は10人ずつだったが何人かメンバーが入れ替わっており、大臣や官僚などの文官メンバーは櫛の歯が欠けたように欠席者が目についた。結婚式の準備や外交使節の饗応で手を離せない者が多いのだ。さらに玉座の脇には、皇女たちに代わって皇太子のコルネリオが控えていた。そして陸軍の代表の中には、コルネリオの予想通りフルウィウスの姿もあった。
「聞いての通りドルク軍5万がペルセポリスに向かっている。どうやらベルケル皇子も結婚式に参列したいようだ」
ルキウスの語り口に、会議の参加者から笑い声が漏れた。昨年末に20万(と彼らは思っていた)の敵を海峡で門前払いにしたばかりなだけに、5万という数にはあまり脅威を感じていないのだ。御前会議には初参加のはずのフルウィウスも、物怖じせずに軽口を叩いた。
「美女の結婚式には、異議を唱える者が押し掛けて来るものです」
再び笑い声が上がる一方で、コルネリオはわずかに顔をしかめた。彼は同期のフルウィウスとはそれなりの親交があったので、異議を唱えたいのはフルウィウス自身だと知っていたのだ。もっともコルネリオが知らないだけで、フルウィウスはテオドーラのことはとっくに吹っ切れていた。
「諸国の使節が見ている前でガルーダ地区を奪われるのは避けたい。だが婚儀が終わるまでは、私もコルネリオも動けない」
「イゾルテ殿下はどうされたのですか?」
十人委員会のアエミリウス議員が質問すると、ルキウスは肩をすくめた。
「花嫁に捕まって引き回されている。婚儀が終わるまでは離さんだろう」
ルキウスが肩をすくめると、フルウィウスが勢い込んで申し出た。
「では、ガルーダ地区の防衛は是非私にお任せください!」
コルネリオは今になって、イゾルテがしていた心配を感じ始めていた。フルウィウスはもともと物怖じしない性格ではあったが、もっと人当たりのいい男であって、前置きもなしで俺が俺がと自己主張するタイプではなかったのだ。
「フルウィウス将軍か。他に希望する者、他薦する者はいるか?」
ルキウスの言葉に、誰か別の人物を推薦しようとコルネリオは声を上げかけた。だがフルウィウスの思惑に不安を感じているコルネリオにしても、彼の能力に不足があるとは思っていなかった。それなのに別人を推薦しても説得力がないし、返って彼を煽ることになりかねないと考え直した。フルウィウスが同期の自分に対抗心を抱いていることは鈍感な彼にもなんとなく分かっていたし、憧れていたテオドーラと自分の結婚式を直前に控えた今、彼の心のなかには激情が渦巻いているのかもしれない。だからコルネリオは直接彼を刺激することは避け、イゾルテの言葉を引き合いに出して牽制することにした。
「陛下、その前にイゾルテ殿下と話されたことを説明した方が良いのではないですか?」
「うむ、そうだな。実は先ほどイゾルテが訪ねて来て、防衛の指揮を執りたいと言ってきたのだ。だがあれにも大使を饗応し、婚儀に列席してもらう必要があるから諦めさせたのだが、その代わり3つの条件を出してきた。1つ目は決して城門から出ないこと。2つ目は最初から城壁内に大型投石機を可能なだけ設置すること。最後はイゾルテが開発中の新兵器と運用部隊をガルーダに配備することだ。守将にはこれを守って貰わねばならん」
フルウィウスは訝しげに問いかけた。
「ですが、そういった事は本来ここで話し合われるべき事ではありませんか?」
それは正論であったが、コルネリオとしてはそれを認める訳にはいかなかった。
「陛下と私は既に納得している。それに殿下本人が出席されていれば、御自分で主張されただろう。なんなら私の意見だと考えてくれても構わない。反論があるならこの場で議論しよう」
フルウィウスは少し考える素振りを見せたが、首は横に降った。
「いえ、ご意見の内容そのものに異論はありません。ただ開発中の兵器については、どんなものか分からないので何とも言えません」
その意見はもっともだったので、コルネリオはキメイラについて簡単に説明した。
「開発中の新兵器はキメイラという名の装甲馬車だ。イゾルテ殿下のお言葉を借りれば、新型ガレー船を小さくして陸に上げた物だ」
コルネリオの言葉に一同はざわめいた。ここにいる者で新型ガレー船の能力を侮るものは一人も居ない。そしてそれに類するものが地上で使えると聞けば、驚くとともに期待せずにはいられなかった。案の定、野戦論者のフルウィウスが顔を綻ばせたのを見て、コルネリオは釘を差した。
「だがこれはまだ試験運用中のもので、あくまでイザという時のために配置するだけだ。命令系統もイゾルテ殿下の直属だから、ガルーダ地区の防衛責任者にも彼らに対する命令権はないと思ってくれ」
その発言は彼のアドリブだったが、彼女の意図を汲めば明らかなことだった。
「……それは、独立部隊だということですか?」
「そうだ。将軍はこの3つの条件を飲めるか?」
フルウィウスは再び考える素振りを見せたが、すぐに頷いた。
「分かりました。殿下のお言葉に従います」
フルウィウスの合意を受けて、ルキウスはまとめにかかった。彼はイゾルテやコルネリオほど事態を深刻に考えていなかった。既に釘を差したのにこの上疑う必要などないと思っていたのだ。権限と制約を与えたら後は部下に自由にやらせるのが彼の政治手法でもある。
「よし、ではフルウィウス将軍に任せる。兵は前回と同じく2000でいいな?」
「はい、ありがとうございます」
「後は、予備役を5000ばかり招集しよう。海峡を越える可能性は低いが、万一のために即応部隊を用意して各城門を固めさせる。異論はあるか?」
ルキウスは聞いたが、一同に異議はなかった。
「よし、次は海軍だ」
海軍の方は冬の作戦を踏襲することですんなりと話がついた。新型ガレー船が二隻ある分、冬の時より随分と余裕が有るはずだったし、そもそも5万ではペルセポリスを包囲するのも覚束ないので、渡河を試みる可能性自体が低かった。
こうして作戦は決定した。コルネリオの胸中には一抹の不安が残り、フルウィウスは制約が付けられたことに苛立ちを感じていたが、御前会議は表面上穏やかに幕を閉じた。
ガルータ地区の商人達は5月6日までに対岸の本市へと避難し、その翌日には並行して組み立てられていた30台の大型投石機がその跡地を埋めた。さらに同日の夕方には大型の艀に乗って6台のキメイラが運ばれてきた。小隊の5台に加えて、お払い箱になっていた試作1号機を指揮車両として担ぎだしてきたのだ。到着した時には守備兵達の注目と歓声を浴びたものの、上陸して海岸近くに駐車してしまうと彼らは一切動かなかった。寝床も食事も、便所ですら他の守備兵とは別に用意して一切交流しようとしなかったので、その頑なな態度に守備兵たちも次第に興味を失ってしまった。ドルク軍が姿を表したのは更に翌日の8日の午後のことであった。
その間イゾルテは、海峡を渡る前にクイントゥス将軍と話をした以外はまったく陸軍に関われなかった。テオドーラに引っ張り回されたかと思えば、今度はルキウスに連れられて外交使節を饗応し、その合間にアントニオを伝令にしてムルクスから海峡警備の報告を聞いていた。肝心のガルータ地区に関してはフルウィウスと個人的なパイプがないので、指揮権がない以上彼女から報告を求めたり口を出したりは出来なかった。クィントゥスに遠くと話す箱{無線機}を持たせることも考えたのだが、本人が聞いているのにフルウィウスを警戒するような話など出来る訳もない。かといって小型の遠くと話す箱{トランシーバー}では、距離的に尖塔に登って凹面鏡を構えていなくては通信ができない。そんな時間があるくらいなら彼女自身がガルータへ向かいたかった。
ドルク軍が到着したという報告を受けた時、彼女は西の大国アプルン王国の使節を饗応していたところだった。碌に指揮が出来ないのはいつものことだが、準備すら出来ないまま戦いを迎えるのは、考えてみれば初めてのことである。海峡を挟んでいるとはいえ直線距離で5km程しか離れていないというのに、彼女は神に祈ることしか出来なかった。彼女はどうしても不安を拭えなかったが、それは新たな疑問に繋がった。
――ひょっとして、自分が関わっていないから不安なだけなのか? 私は秘密を抱えているせいで、他人を信じれなくなっているのではないのか?
彼女は傍らに座る父を見た。ルキウスは彼女が無条件で信じられる唯一の人物だった。テオドーラやミランダは、信じるというより心を許せる相手である。ムルクスやアドラーは信頼こそしているものの、たまに悪さもするので手放しとはいかない。だがルキウスだけは決して――
――看病に来た叔母上をベットに引っ張り込んだんだっけ。その前はイザベラ様がいたのに母上と浮気したんだよなぁ。
やはり彼女は誰も信じられないようだった。
――それでも、人に任せられることは任せていかないと。
さらっとそれが出来てしまうところが、ルキウスの偉大なところなのかもしれない。それとも年を取り経験を重ねれば、人は自然とそうなるのだろうか? だが彼女としても陸軍を任せられると思ってコルネリオを見込んだのに、今回は彼が動けない時を選ばれてしまったのだ。もっと信頼できる人間を増やしていかなくては、危急の時に対応できないだろう。
――だが、とにかく今は見守るしかない。フルウィウスか……どんなやつだっけ?
一度しか会ってない上に酒も入っていたので、彼女はフルウィウスのことをあまり覚えていなかった。
翌日、つまり結婚式前日には、ドルク軍は不気味な沈黙を守ってガルータの城壁に近づこうとしなかった。2ミルム離れた丘の上に本陣を構えたまま、軍の半分を丘の向こうに隠し、恐らくは攻城兵器を組み立てているのだと思われた。ドルク軍の沈黙は、返って結婚式当日に攻めてくるという彼女の予想を裏付けていた。イゾルテは胃をキリキリと痛めながら皇宮で忙しく立ちまわりつつ、最悪の事態に備えて軍服と兜{ヘルメット}と小舟を軍港に用意させていた。
テオドーラは自分自身の結婚式を翌日に控えながらも、言葉少ななイゾルテの様子を心配していた。コルネリオもガルータ地区のことを心配しているようだったが、ルキウスは泰然としていたし、他の者達も対岸のガルータ地区を心配している者は少なかった。だがイゾルテだけはコルネリオに輪をかけて深刻そうで、ずっと何かを考え込んでいるようだった。
「ごめんなさい、イゾルテ。戦場から引き離したことで、返ってあなたを苦しめてしまったようね」
「とんでもありません! 私こそ暗い顔をお見せして申し訳ありません。明日はお姉さまにとって大切な日なのに」
「でも、よく考えるとそうでもないわ」
「え?」
「コルネリオは既にあなたの義兄だし、お父様の養子なのよ? 結婚してもしなくても、この子の父親がコルネリオであることも変わらないわ」
そう言ってテオドーラはお腹を撫でた。
イゾルテは、彼女が気を使ってこんなことを言い出したのだと気付いた。だが、だからといって今更ガルータ地区に向かう訳にもいかなかった。そもそもイゾルテには指揮権がないのだ。
「気を使わせて申し訳ありません。杞憂だとは思うのですが、どうしても気になってしまうんです」
そう言って彼女は苦笑した。
「こういう時に頼りになるからと義兄上を見込んだのに、結婚式を狙われては義兄上のお手を煩わせる訳にはいきません。我ながら間の抜けた話です。
どうも私は、いつも何か抜けているんです。半年前も、真夜中まで渡河はしないと思い込んでいたら、宵の口にいきなりドルクが海峡を渡り始めて大慌てしたんですよ。半分くらい渡られてしまうのではないかと冷や冷やしました」
「それでもあなたは勝ってきたわ。あの時のコルネリオの功績も、本当はあなたの物なんでしょう?」
驚きのあまりイゾルテは目を剥き、その顔を見てテオドーラはくすくすと笑った。
「お父様に報告した時に『仕組んだ』って言ったじゃない。覚えていないの?」
イゾルテは覚えていなかった。だがそれは海峡でドルク兵を虐殺した翌朝のことであり、ルキウスが死んだと思って愕然とした直後であり、そして実はそれほど重態ではないと知って気が抜けた時のことだ。テオドーラには分かるまいと思って、そう言ってしまった可能性があった。
「覚えていませんが……言ったかもしれませんね」
「元老院総会の後、コルネリオに聞いたらあっさり教えてくれたわ。あなたが敵を混乱させて、あなたがコルネリオに出撃するように指示したのでしょう? 戦勝報告で聞いた話とは随分違ったわ」
テオドーラを玉座に座らせるために強行した戦勝報告の式典では、イゾルテはコルネリオを擁立するためにいろいろ嘘を織り交ぜて褒めまくったのだ。テオドーラにしてみれば、英雄だと思っていた結婚相手が実は作られた英雄だったということである。結婚式前日にそれを暴露されれば、それを作ったイゾルテは冷や汗をかかずにはいられなかった。
「あー、その、嘘をついてすみません! でもでも、義兄上は大した男なんですよ? 一見絶望的にしか見えない戦場に、兵を連れ出すことが出来たのは兄上だからこそなんです! 私には絶対出来ないことなんです!」
必死にコルネリオをフォローするイゾルテに、テオドーラは再びくすくすと笑った。
「いいのよ、騙されたとは思っていないわ。だってコルネリオはあなたが見込んだ人なのだし、彼は全て正直に話してくれたんだもの」
「…………」
「私にとってあなたが特別なように、彼にとってもあなたは特別なのよ。だから私達は仲良くなれたの」
「そうですか……」
コルネリオがテオドーラにバラしていたというのは初耳だったが、考えてみれば彼のような律儀な男が、相手の女性に秘密を抱えたまま結婚することなどできるはずがなかった。彼とイゾルテはある意味共犯関係だったのだからバラす前に相談くらいして欲しかったところだが、そのおかげで彼とテオドーラが仲良くなれたというのなら、イゾルテには彼を責めることができなかった。
「だから、あなたならきっとまた勝てるわ」
それはまったく理屈になっていなかったが、テオドーラが無条件で信じてくれることはイゾルテにはとても嬉しかった。
「でも、私はフルウィウス将軍をよく知らないのです。半年前に会った時とは考え方も変わってしまったようですし」
その邂逅が彼を変えたのだとは、さすがの彼女も想像できなかった。
「それでもきっと、あなたは勝つわ。私には分かるの」
自信あり気なテオドーラの態度に、イゾルテは少し戸惑った。
「えーと、ひょっとして、今からでも何か手を打てと仰ってるんですか?」
テオドーラは静かに笑いながら首を横に振った。
「そんなことは分からないわ。私に分かるのは、ただあなたが勝つということだけよ」
つまりは何の根拠も無ければ、どうしろと言っている訳でもなく、ただ彼女を元気づけようとしているだけなのだろう。しかしイゾルテは思った。
――だけど確かに、何か手を打って置けば少しは不安が和らぐかもしれないな。
とはいえ、今更準備をして間に合うことなど何も思いつかなかった。
――だが、既に準備してあるものなら流用できるな。
「姉上、ありがとうございます。勝てるかどうか分かりませんが、やるだけやってみますね」
彼女はアントニオを呼びつけると、軍港にいるムルクスの元へと走らせた。




