馬車
イゾルテが出資して作らせた一文字版画{活版印刷}専門の印刷屋が開店すると、様々な仕事が持ち込まれて来た。お店や演劇の宣伝用のビラや政府の布告文、そして本の印刷なんかである。彼女は印刷したものを一部ずつ届けさせていたが、その中に捨て置けないものがあった。それはただの小説であった。さらに言えば、恋に恋する少女小説であった。だがそんな事は二の次で、気になったのはタイトルだ。
『トリスちゃんとイゾルテウス』(注1)
内容は白皙の貴公子イゾルテウスと彼に想いを寄せる少女トリスちゃんの物語である。イゾルテウスが色白だったり、金髪だったり、丸兜{ヘルメット}をかぶっていたりと、なんだか誰かを彷彿とさせるキャラ設定であった。そしてなぜかトリスちゃんの恋敵はイゾルテウスと戦う男ばかりなのだ。確かに面白かった。いろいろ参考にもなった。そして最後には意外な展開が控えていた。
――まさか、イゾルテウスが男装女子だったとは!
イゾルテは「発禁」と書いた糊の付いた紙{付箋紙}を見本に貼り付けると、ついでに床に叩きつけた。
イゾルテは今は亡き車輪男(死んでない)の遺志を継ぎ、コルク製柔軟車輪(砕いたコルクを袋詰めしたタイヤもどき)の普及に努めていた。まず最初のターゲットは量産型二輪荷車{自転車}である。昨年までは町中で二輪荷車{自転車}に乗るのはイゾルテとアントニオのただ二人だけであったが、昨今急速に町の人々に認知されつつあった。昨年末の暁の姉妹号の活躍が話題になり、煽てられて酔っ払った乗組員(水兵)から内部のギミックの一部がリークすると、動力機関と似たような形をしている量産型二輪荷車{自転車}にも注目が集まったのだ。さらに暁の姉妹級の2番艦、3番艦の建造が開始されると、水兵たちの間で二輪荷車{自転車}がブームになった。二輪荷車{自転車}を乗りこなせれば、新造艦の乗組員選抜に有利に働くというデマが広まったのだ。彼らはこれまで軍港内でのみ乗っていた二輪荷車{自転車}で町中まで乗り出すようになり、一気に二輪荷車{自転車}人口は(元がたったの2人なので)500倍以上になった。そしてどんなに奇っ怪な物でも、皆がある程度見慣れてしまえば悪目立ちもしなくなる。アントニオは量産型二輪荷車{自転車}で通勤するようになり、何度も往復するうちにそれなりに順調に走行できるルートと時間帯も分かってきた。
ペルセポリスの街路は主要幹線道路こそヘメタル時代に作られた石畳だが、その他の通りはレンガ敷きで、名も無い裏道の中には未舗装の道もある。人通りを避けるルートを選ぶと、どうしてもレンガ道や未舗装道路を通ることになるので、アントニオはコルク製柔軟車輪のモニターも兼ねていた。
「アントニオ、コルク製柔軟車輪はどんな感じだ?」
「なかなか良いですよ。衝撃や振動も弱くなりましたし、なんというか、路面にぴったり吸い付くような感じです。止まり易くもなりましたよ」
「ほう、悪いところはないのか?」
「最初はこう、ぐにゃっとした感じが気持ち悪かったんですけど、すぐに慣れましたね。後はちょっと重くなった気はします」
「まぁ、実際にコルクの分車輪が重くなっているからな」
「それもすぐ慣れました。今後は全ての量産型二輪荷車{自転車}にコルク製柔軟車輪を採用すべきです」
「ふむ、馬車職人達に伝えて来よう」
イゾルテはアントニオを連れて研究棟内の馬車職人たちの工作室を訪れた。だがそこには親方たちではなく見覚えのない若い職人が一人で寝ていただけだった。
「すいません、起きて下さい。殿下がお越しですよ」
「うーん、でんか? いぞるてでんかはおれのよめ」
むにゃむにゃと寝言を言いながらもなかなか起きないその男の顔を、イゾルテはじっと見つめた。
「俺を読めと言う割に、何も書いてないではないか」
「いや、そうじゃないと思いますよ」
「じゃあ、心を読めということか? ふむ、状況から察するにこの男は留守番だな。親方たちは二輪荷車{自転車}ブームで忙しくて、自分の工房に戻っていると見た。この男もこき使われて疲れているのだろう」
それは見事な推理だったが、アントニオは容赦なくツッコんだ。
「確かに読んでますけど、それ、心じゃないですよね? 状況から察するって自分で言いましたよね?」
彼の厳しいツッコミと若い職人は無視して、彼女は馬車で親方の一人の工房に向かった。
工房では親方が忙しく働きつつも弟子たちを怒鳴り散らしていたが、イゾルテが現れると声を和らげた。
「あれ、殿下? こんな所までどうしたんです?」
「研究棟に行ったら留守番しか居なかったので、直接来てみた。例のコルク製柔軟車輪をアントニオに試させていたんだが、なかなかいい感じらしいんだ。今後の生産分にはコルク製柔軟車輪を採用してほしいと思ってな」
「そんな事なら、弟子に言って頂ければ良かったのに」
「留守番の男か? なかなか個性的な弟子だな」
「そうですか?」
「寝言のふりをして『俺を読め』と謎かけを挑んできたぞ」
「……正確には何と言ったんですか?」
「たしか、『イゾルテ殿下は俺を読め』だったかな。だからお前たちが工房に篭っていると読んで、ここにやって来たのだ」
「…………」
彼女は自慢気に胸を逸らしたが、親方は黙り込んだ。彼が何を思っていたのか彼女には分からなかったが、その後留守番をしていた男を研究棟で見かけることは二度となかった。(といっても、もともと親方以外はめったに見かけないんだけど)
親方がアントニオと話し込んでいる間、彼女は弟子たちの作業を見て回った。量産型二輪荷車{自転車}は全てが外から丸見えなので、製造過程を見ても目新しいことは何もなかったのだが、馬車というのは見慣れているようで知らないことが多かった。
「そういえば、馬車の車輪はなんで前輪の方が小さいんだ?」
近くに居た職人に声をかけると、彼は緊張しながら答えた。
「は、はい、その、確かなことは分かりませんが、たぶん、舵取りのためだと思います」
「舵取り?」
「前輪の車軸は左右に動くようになっていますから、あんまり車輪が大きいと車体とぶつかってしまうんです」
「えっ? そんな構造になってたのか!?」
彼女はいつも乗る側なので、前輪がどんな風に動いているのかなんて気にしたことがなかったのだ。
「つまりは、二輪荷車の前輪みたいになっているのだな」
「えーと、まぁ、そんな感じです。でも、御者が動かしてるんじゃなくて、馬に引っ張られて自然に進行方向に向くんですが」
「しかし、そうなると馬車にバネを付けるのは難しいな」
「バネ……ですか?」
「ああ、車輪から伝わる振動を吸収するためにな」
「バネなら、車台と屋形(箱の部分)の間に付けてはどうでしょう? それなら簡単に付けられると思います」
彼女はちょっと想像してみたが、確かにその方が簡単そうだ。乗客の乗り心地という点ではそれで充分な気もした。だが彼女がバネに期待しているのは、本当は乗り心地だけではなかった。
「普通の馬車ならそれでも良いかもな」
「普通の?」
「……気にするな」
帰り道、イゾルテは馬車の窓から身を乗り出して前輪を見つめていた。
「殿下、危ないですよ」
「うん? そうだな」
そう応えながらも、彼女の目は前輪に釘付けだった。
攻城櫓や攻城槌は分厚い車輪が固定された4輪車であるが、人力で進み方向転換も人力でする。彼女は馬車も同じように前後輪とも車軸が固定されていると思い込んでいたので、そんな構造でも馬に引っ張られれば軽やかに曲がれるのだと思っていた。だから、オリジナルの二輪荷車{自転車}の後輪のように1輪ずつ独立させてつるまきバネを付けようと思っていたのだ。そうすれば不整地でも常に4輪を接地させることが出来るし、衝撃を吸収できる。その上車軸が無くなるので重心を低くしすることも出来るはずだった。だが彼女の見つめる先で、馬車の前輪は進行方向に向かって向きを変えていた。それは4輪を固定してしまえば、馬車ほどにはスムーズに方向転換出来ないということを逆説的に証明していた。旋回性を優先すれば前輪には車軸が必要になり、構造は複雑になっていまうだろう。
彼女が何故そんなことを考えているのかというと、実は密かに軍用車両(というか戦闘車両)を開発しようと考えていたのだ。それは戦車(二輪の馬車)以上の乗員と装甲と兵装を持ち、攻城櫓や攻城槌よりも素早く動き回れる車両であった。城壁→巨船→戦闘車両という、ハードウェアに頼って数の差を埋めようという基本原則の延長である。プレセンティナの少ない陸上戦力、特に十分な訓練を施すことができる常備兵を最大限に有効活用するためには、武装によって優位性を確保する必要があると考えたのだ。
だが彼女が委員会の将軍たちを通して陸軍の様子を探ってみると、どうやら野戦主義思想が蔓延しているらしい。その中には諸派あって、鷹派に至っては10倍以上の敵とガチで戦って勝とうなどとアホなことを考えているらしい。穏健なはずの鳩派ですら、城壁前から敵が下がる時を見計らって追撃しようと、城壁からの攻撃との連携を研究してるのだという。
――まぁ、確かにそれで決着が付いた例もあるし、あながち的外れではないんだけど、何でわざわざ外で戦いたがるかなぁ。
もちろん全てはイゾルテのせいである。コルネリオが冷や飯を喰わされていれば誰も同じ轍を踏もうとしなかっただろうが、彼はテオドーラの婚約者になり、皇太子になり、噂では既にテオドーラを妊娠させているというではないか! 軍人たちが羨ましく思うのは当然のことだった。だが何れにせよ、新型戦闘車両の構想があることが知られては、野戦主義の火に油を注ぐことになりかねないので、彼女はまだ誰にも話していなかった。
彼女の考えではまず第一に、戦闘車両は武人の蛮用に耐えるためにシンプルな構造でなければならない。だが4輪を固定してしまえば旋回性が犠牲になり、車体に無理な力が加わり、エネルギーが無駄になる。しかも彼女の考えの中では、戦闘車両は牽かれるだけではなくて押されて進む必要もあるのだ。だから舵取りについては一から考え直す必要があった。
考えに煮詰まったイゾルテは、何気なくアントニオに話を振ってみた。
「アントニオ、馬車の前輪が左右に動くことを知っていたか?」
「え? えぇ、人が乗るような馬車は大抵そうなっていますね」
さらっと返ってきた答えに強烈な疑問を感じ、彼女はツッコミを入れたくなった。なるほど、アントニオがツッコミを入れたがる気持ちが良くわかった。
「待て、まるで人が乗らない馬車があるみたいだな?」
「あー、もちろん御者は乗りますよ。でも、農作物を運ぶための馬車なんかは前輪が動かないのが多いですね。前輪と後輪が同じ大きさの馬車は大抵そうです(注2)」
期待していなかっただけに、彼女は彼の博識ぶりに驚いた。
「なんでそんなに詳しいんだ? ひょっとして車輪男の霊でも憑いているのか?」
「そんな大げさな。普通に町を歩いていれば馬車はしょっちゅう見かけますから自然と分かります。それに車輪学者さんは死んでないですよ、たぶん」
アントニオは謙遜したが、彼の中では車輪学なる新たな学問分野まで拓かれているようであった。
「それで、前輪の軸が動かないタイプの馬車は、どうやって方向を変えているんだ?」
「さあ? たぶん、馬が無理やり引きずっているんだと思いますよ」
彼の言葉を聞いてイゾルテは考え込んだ。前輪の軸が固定されていてもなんとか旋回できるのなら、戦闘車両としてはその方がシンプルで良いかもしれない。どのみち横列陣か雁行陣を組んで敵を殲滅するのが目的なのだから、戦闘機動の基本は直進なのだ。戦車{二輪馬車}ほどの機動性はなくても良いはずである。だが戦闘中はそれで良くても、数十ミルム、数百ミルムと行軍する間に壊れたり、馬が疲れちゃったりしたら戦闘どころではなくなってしまう。ペルセポリスの北から南まで移動するだけでも10ミルム以上あるのだ。
「うーん、前輪の軸が動く馬車と動かない馬車の、両方のいいとこ取りはできないだろうか……?」
無意識に漏れた彼女のつぶやきに、アントニオは呆れながら応えた。
「また訳の分からないことをおっしゃいますね。軸が動かない馬車にどんな良いところがあるのか分かりませんけど、いっそのこと両方付けたらどうですか?」
彼女は機械のようにキリキリと首を動かすと彼を見つめた。
「天才だ、お前は天才だよ、アントニオ! 時代の先を駆けるものとして、前輪男と呼んでやろう!」
彼は嫌そうな顔をしながらも、彼女が何を思いついたのかが気になった。
「どういう事です?」
彼女は自信満々に答えた。
「お前の言うとおり、前輪を4つ付けて6輪にするんだ。きっと凄いものが出来るぞ!」
彼は納得した。確かに凄いものになりそうであった。
「……確かに凄そうですね」
6輪の馬車は、凄く曲がりにくそうだった。
注1 もともとイゾルテの名前は『トリスタンとイゾルデ』から取りました。ただし、イゾルテはイゾルデと違って不倫をする予定はありません。名前だけです。
注2 ローマ人が前輪を固定した馬車を使っていた頃からも、ガリア人(ケルト人)はピボット式の前輪車軸を持っていたそうです。ということは逆に、ローマ人は前輪の軸が固定されている馬車でズリズリと無理やり旋回してた訳です。ローマの街道がひたすら真っ直ぐに作られているのは、旋回するが大変だったからかもしれません。




