一文字版画
ある朝イゾルテの枕元に楽器{英文タイプライター}が届いていた。といっても、誰が見ても一目で楽器と分かるようなわかりやすい物ではない。それが楽器だと分かったのは、随分前に届いた鍵盤楽器{大正琴}とかなり似ていたからだ。前に届いた楽器{大正琴}は鍵盤楽器のくせにチェンバロのように弦を叩いて音を出す{打弦楽器}のではなく、ハープのように弦を弾く{撥弦楽器}という中々面白い楽器だった。だがそれは機械として面白いのであって、音楽を奏でる道具としては彼女はさっぱり興味を持てなかった。なぜなら彼女は壊滅的な音痴(耳はいいけど音感がないタイプ)だったからだ。それは限られた人のみが知る極秘事項だった。もっとも、秘密にしたがっているのは本人だけだったが。
新しい鍵盤楽器{英文タイプライター}は、旧い鍵盤楽器{大正琴}より鍵が多く、なぜか弦が見当たらなかった。ひとまず彼女は適当に鍵を押してみた。
カタッ
それは彼女にも分かるほど随分と色気のない音だった。彼女は続いて隣の鍵を押してみた。
カタッ
その微妙な違いは、彼女には全く聞き分けられなかった。彼女は耳を澄ませて、更に隣の、そしてさらにさらに隣の鍵も押してみた。
カタカタッ
――ぜ、全然、違いが分からない……!
彼女は自分の音感のなさに絶望した。
彼女は着替えを済ませて朝食を取ったが、その間楽器のことが頭から離れずに始終ぼーっとしていた。音痴だという自覚はあったのだが、ここまで音感が無いという事実を思い知らされて衝撃を受けていたのだ。やがてアントニオが出仕して来ると、何やら思いつめた顔で彼を寝室に引き込み、ドアに鍵をかけた。彼女は後ろ手にドアを抑えながら、顔を真赤にして話しかけた。
「ア、アントニオ、お前に、こ、告白することがある」
「こ、告白、ですか」
柄にもなく恥ずかしがる彼女の姿に、アントニオの心臓は早鐘のように鳴り始めた。しかもそこは寝室である。(朝っぱらだけど)
「わ、わたしは……わたしは……」
「……(ゴクリ)」
緊張する彼の前で、彼女は遂に告白した。
「私は音痴なのだ!」
きゃーはずかしーとばかりに、彼女は両手のひらで顔を覆った。姿だけ見れば(柄にもなく)とても可愛らしかったが、アントニオは緊張した反動で完全に脱力していた。
「はぁ、そうですか」
「だ、誰にも言うなよ! 言ったら絶交だからな!」
彼女のテンションはあくまで高く、言動が微妙に幼児退行していた。だが彼女の言った"絶交"とは何がしかの理由をつけて遠国へ島流しにすることだ。全然可愛くないが、知らぬが仏である。
「頼まれなくても、そんな事わざわざ言いふらしたりしませんよ」
「そ、そうか、ありがとう、アントニオ!」
彼女は感極まって彼を抱きしめた。
「っ!」
彼は分厚い軍服の生地を通しても隠し切れない彼女の体温を感じ、あたふたと手を振り回した。ちなみに、胸の柔らかさは残念ながら隠しきれちゃっていた。
「で、殿下、こんなところを見られたら、あらぬ誤解が……」
「誤解? 何が?」
「そそそ、それは、その、男と、女が……」
しどろもどろになった彼を、イゾルテは笑い飛ばした。
「あははは、アントニオも遂に思春期か。分かった分かった、もうしない」
彼女は体を離すと、彼の頭をぽんぽんと叩いた。全然男として見ていないその態度に、彼の心はずたずたに傷付けられた。だが更に彼女は、声を1オクターブ下げて追い打ちをかけた。
「だが、ミランダに手を出したら絶交だからな」
「え?」
今度の絶交は更に酷かった。
「具体的には、皇帝の悪口を書き連ねた書簡を、ドルクに届けに行ってもらう」
彼は頬を引き攣らせた。そんな事をさせられるくらいなら、普通に死刑にして欲しかった。
「わ、分かりました」
アントニオの快諾(?)を受けて、イゾルテは気を取り直した。
「さて、本題に戻そう。お前にこの楽器を奏でてもらいたいのだ」
彼女が示したのは、彼が見たこともない楽器{英文タイプライター}だった。鍵らしき物が沢山付いているので、チェンバロの一種だろう。鍵を押せば音が鳴るのだと思われた。
「でも、僕はチェンバロなんか弾いたことありませんよ。皇宮の音楽家を連れてきたらどうです?」
「チェンバロ? 全然違う……と思うけど、自信はないなぁ。だがどちらにせよ、おいそれと外部の人間に見せる訳にもいかんのだ。特に音楽家という連中は、国境を超えてふらふらと行ったり来たりするからな」
プレセンティナ帝国という国家に自ら進んで縛られている彼女には、彼らのような根無し草を信頼することなど出来ないのだ。音痴だから音楽家にコンプレックスを持っているという訳ではない。きっと、たぶん、おそらくは。その証拠に彼女は、画家に対しても……いや、彫刻家に対しても……まあとにかく、音楽家は信用出来ないのだ。
「分かりました。やるだけやってみます」
彼は適当に鍵を押してみた。
カタッ
随分と無骨な音に彼は首をひねった。次は隣の鍵を押してみた。
カタッ
その違いは微妙だった。微妙過ぎた。正直、違う音だという自信がなかったが、イゾルテに期待されている以上、分からないとは言い辛かった。
「なるほど、なるほど」
彼は知ったかぶりをしながら耳を澄ませて、更に隣の、そしてさらにさらに隣の鍵も押してみた。
カタカタッ
――ぜ、全然、違いが分からない……!
彼はイゾルテと同じことを思ったが、彼女と違って音痴ではない自信があった。だから、楽器の方を疑って順番に鍵を押していった。
カタカタッ、カタッ、カタカタカタカタカタッ、チーン
「おお、今のは私にも分かった。違う音だ」
彼女ははしゃいだが、彼は首を振った。彼は逆の方向に確信を持ったのだ。
「これは楽器じゃありませんね」
「ええぇ? そうなのか?」
「どの鍵を押しても同じ高さの音がしたのに、さっきだけ全然違う音がしました。音の高低どころか、全然違う種類の音です。楽器なら1つの種類の音しか出ませんよ」
あんまり楽器に詳しくない彼女は、「そういうものか」と彼の見解をあっさり受け入れた。
「楽器でないとすると、一体何だろう?」
「さあ? でも、押す度に飛び出す棒が気になりますね」
「ふむ、これか……」
イゾルテはてっきり、押した鍵に応じて違う棒が飛び出すことで音階を調整しているのだと思っていた。だが少なくとも「チーン」というのは違うだろう。
「さっきの『チーン』という音は、この鍵を押した時だったな」
彼女は、その鍵をもう一度押してみた。
カタッ
「あれ? 『チーン』って鳴らないぞ?」
カタッ、カタッ、カタッ、カタッ ―
「動かなくなった……壊れたかな?」
彼女があちこち触って調べていると、鍵を押す毎に左にズレていた部分{キャリッジ(注1)}がジーと言って右に動いた。
「おっと、これかな?」
一番右まで動かすと、再び鍵が押せるようになった。
カタカタッ、カタッ、カタカタカタカタカタッ、チーン
「『チーン』というのは、そろそろ『右にもどせ』という意味のようだな」
「しかし、どういう意味があるんでしょう」
それは彼女にも疑問だった。楽器でないのなら、一体何なのだろうか?
「うーん、何だろう? 左右に行ったり来たりといえば、機織りとか、楽譜とか、文章とか――」
彼女は言葉の途中で押し黙ると、じっと鍵を見つめた。
「殿下?」
「神様語だ……!」
「はい?」
「ここに書いてあるのは記号ではない、神様語の文字だ! 全然足りないけど、神様語の文字のうち、すご~くシンプルな文字だけが抜き出してある!」
彼女達は、漢字も平仮名もカタカナもアルファベットもアラビア数字も、全部同じ言語体系の一部だと勘違いしていた。まぁ、そこまでならある意味正しいのだけど、たま~に入ってるキリル文字やハングル、アラビア文字なんかもそうだと思っていたのだ。つまりユニコード対応表に載ってるすべての文字が、彼女たちにとっては神様文字という1つの文字体系なのである。
彼女の言葉を聞いて「おおっ」と関心したアントニオも、すぐに首をひねった。
「でも、一部の文字だけっていうのは妙ですね」
「ひょっとしたら、数字なのかもしれないな」
彼はぽんと手を打った。
「ああ、なるほど。数字だけを使うことはあり得ますね。でも……ひのふのみの……42種類も数字があるなんて、神様の数字は複雑ですね」(注2)
「さすがにコレ{.}とかコレ{,}とかコレ{:}は記号だと思うぞ。でも、えーと……34個{A-Zと2-9}は数字っぽいな。それでも十分複雑だが」
そこに「O」はあっても「0」が無く、「I」があっても「1」が無かったことが、アラビア数字とアルファベットを別の文字体系だと気づかせる機会を失わせていた。
「ちょっとこの棒を触ってみますね」
彼は飛び出る棒が並んでいる部分に指を差し入れた。
「先端はなんか凸凹してますよ」
「押してみようか?」
彼女がそう言って鍵の上に指を置くと、彼はあわてて手を引いた。
「じょ、冗談はやめて下さい! 指が串刺しになるかも知れないじゃないですか!」
彼は激しく抗議したが、彼女の目は彼の指に釘付けだった。
「それは、インクではないか?」
「えっ?」
彼が自分の手を見ると、人差し指の背が真っ黒になっていた。そして指の腹には――
「数字です! ほら!」
彼女に見せたその指には『K』という神様語の数字が書かれていた。
――鍵に記されていた文字と、飛び出す棒の先が対応しているのか!
彼女は雄叫びを上げた。
「エウレカぁ~~!(ひらめいたぁ~~!)これは、数字限定で一文字ずつ版画を刷る機械{英文タイプライター}だったのだ!」
だがその余りにも微妙な機能に、アントニオは疑いを露わにした。
「ええぇぇえ? 手で書いた方が早くないですか?」
だが彼女は首を振りつつ、確信を持って答えた。
「いやいや、世の中には字が汚くて周囲に大変な迷惑をかける輩がいるのだよ」
彼女は昨日のお皿騒動を思い出していた。幾何学者の書いた『.』が『0』に見えて、サイズを10倍に間違われてしまったのだ。もっとも彼女としては、被害を受けた家具職人の『美しい曲線』発言の方が気に入らなかったのだが。
「とはいえ、確かにここまで複雑な仕組みを使って、数字しか書けないというのでは再現する価値がないな」
「そもそも、こんなに複雑なものを再現出来るんでしょうか?」
「家具職人……いや、貴金属の錺職人の技術に期待しよう。ダメでもともとだ」
「大変そうですね」
確かに一文字ずつ版画を刷る機械{英文タイプライター}の再現はとても大変そうだったが、彼女の中ではそれよりももっと簡単で、更に一歩進んだ物にまで考えが及んでいた。
「本命はこれの再現ではない」
「まぁ、神様文字が書けても仕方ないですしね」
「それもある。だがコレ{英文タイプライター}は筆記には向くかもしれんが、版画の最大のメリットである大量印刷は全然できない(注3)」
「1枚づつ、全部の文字を打ち込まないといけないですからね」
「だが、"1文字ずつの版画"というアイデアは素晴らしい。1文字ずつの版画を1ページ分並べたら、普通の版画になるじゃないか!」
それは活版印刷の発明であった。タイプライターから10歩くらい退化している気もするが、彼女は確かにタイプライターから天啓を得て、活版印刷を思いついたのだ。
「……普通に版画を彫るのと変わらないのでは?」
「いやいや、文字の順番を入れ替えれば、いろんな文章に対応できるぞ!」
「ああ、そういうことですか! あらかじめ充分な数の1文字版画を用意しておけば、並べるだけですぐに印刷ができますね」
「スピードもそうだが、コストも劇的に下がるはずだ。いちいち彫らなくてもいいからな。これからは本が安くなるぞ!」
イゾルテのこの発明は、「1文字版画」の名で知られるようになり、タイトンに留まらず世界中に文化的な革命をもたらすことになる。そしてそれは、彼女の新たなる(しょーもない)戦いの幕開けでもあった。
注1 タイプライタの紙を置いておく所(一文字打つ度にズレていく所)をキャリッジと言います。改行コードのCR+LFのCRはキャリッジリターンと言いますが、まさにこのキャリッジを右に戻すことのことです。ちなみにLFはラインフィードで、1行進めることを言います。が、初期の英文タイプライターに自動ラインフィード機能まで付いてたかどうかは分かりません。もっとも、イゾルテ達は紙を入れて使ってないので関係無いですが。ちなみにCRやLFが文字コードとして取り入れられたのは、テレックス(電話越しのタイプライターみたいなもの)で使ってたからみたいです。
注2 すご~く旧い英文タイプライターは、キーが42しかなかったそうです。そのためキーを節約するために、数字の「0」はアルファベットの「O」で、「1」は「I」で代用したそうです。
注3 タイプライターはカーボン紙を使うことで何枚か複製を作ることが出来ます。同様の理由で、ドットインパクトプリンターは未だに使ってるところがあります。超絶うるさいので個人で使う人は皆無だと思いますけど。
実際にタイプライターに触ったことはありません。チーンと鳴った後に何文字打てるとか、キャリッジを戻すまで文字が打てなくなるとか、ウソかもしれませんので悪しからず。ちなみに、ルロイ・アンダーソンのタイプライターという曲があります。タイプライターを楽器として使ったなかなか面白い曲ですのでYouTubeで検索してみてください。(ただし狙ったタイミングでベルを鳴らせないので、ベルだけはタイプライターを使っていません)イゾルテの勘違いも、あながち外れてはいなかった――と言えるかもしれません。




