巨大紙袋
月が改まって2月になると、新神殿の建立が始まった。昨年の内に貯めこまれていた資材を使って城壁の建設が始まる一方で、抜け穴の掘削も始まった。この抜け穴には並行して新たな試みもなされていた。鉄軌道{レール}の敷設である。
それは以前貰った馬車の模型{鉄道模型}をヒントにしたもので、実物大(?)試作の実験の結果、普通の馬車よりもより遥かに小さな力で重いものを運べると言うことが分かっていた。1ミルムにも満たないとはいえ、狭いトンネルで大量の物資を輸送する必要が有るため、効率を求めて鉄軌道{レール}の敷設も行うことにしたのだ。トンネルの伸延に合わせて逐次鉄軌道{レール}も延長する予定で、早速掘り出した土砂の運び出しにも役立てられていた。
城壁の方は、高さは15mとまずまずの高さで、直径500m弱、全長約1.5ミルムの完全な円形になる予定だった。縄張りが済んで着工してしまうと、委員たちの仕事は交代で見まわるだけで、ほとんどの作業は業者が勝手にやってくれた。イゾルテに至ってはたま~に現場を訪れて作業員たちを督励し、定期的に報告書に目を通すぐらいしか仕事はなかった。
城壁の内側の構造物は後回しになっていて、今まさにムルス騎士団のメンバーを中心にして設計に入ったところで、着工は城壁が完成した後の予定だった。建物のデザインなど、正直言ってプレセンティナ側にはどうでもいいので、彼女は予算の範囲内で自由に作ってくれとベルトランに丸投げしていた。後に彼女を激昂させることになるソレも、この時にはまだ影も形もなかった。
着工して数日後、イゾルテの元に奇妙な贈り物が届いた。それは小さなふにゃふにゃの袋と、やたらと軽い金属の樽だった。ふにゃふにゃの袋{ゴム風船}は、妙にカラフルで口が狭いという事以外はそれほど特殊ではなさそうだった。金属の樽{ヘリウム缶}は、一番上にバルブが付いていた。イゾルテがそれをひねってみると、バルブのそばの管から「プシュー」と空気{ヘリウム}が吹き出す音がした。
「この小さな袋の中に入れろということか?」
イゾルテはそのふにゃふにゃの袋{ゴム風船}を管にあてがおうとして、その時初めて感触がおかしい事に気付いた。ぐいっと引っ張ると伸びるし、無理やりに管に被せるとぴたりと貼り付くような感触があった。彼女にはその感触に覚えがあった。
「これは……黒くて柔らかい車輪{タイヤ}の中にあった黒い管{チューブ}と同じ素材か!?」
あの黒い管{チューブ}も空気を入れるものだった。ならばこの金属の樽{ヘリウム缶}に入っているのも空気なのだろう。それなら空気入れ器{ハンドポンプ}でしゅこしゅこすればいいのに、わざわざ金属の樽{ヘリウム缶}を送ってきたのは何故だろうか?
「まぁ、しゅこしゅこしなくて済むのは楽だけど」
そう呟きながら彼女がバルブを捻ると、驚くべきことが起きた。なんとふにゃふにゃの袋{ゴム風船}が何倍にも、何十倍にも膨らみ始めたのだ!
「すっ……凄いぞこれは! なんという伸び方だ! しかもどれだけ伸びても空気を通さぬとは! それに向こうが見えるほどに――」
バンッッッッッッツ!!!!
驚きのあまり彼女の意識は一瞬とんでいた。ふと気づけば、キーンという耳鳴りの彼方で誰かがドアを叩いているようだった。
「xxxx! xxxxxx!?」
それをぼーっと聞いていた彼女は、しばらくしてようやく前後の記憶がつながってきた。
――薄くなったら、さすがに破れるんだぁ……
彼女はドアから顔を出すと、メイドたちに声をかけた。
「大事ない、騒がせて済まなかったな。えーと、ほら、あれだ。おな……じゃなくて、そう、くしゃみ。ちょっと鼻がムズムズしたんだ」
何か言いたそうに不審げな顔をするメイドたちを問答無用で下がらせると、イゾルテは再び別のふにゃふにゃの袋{ゴム風船}を管にあてがった。限界は分かったのだ。もうちょっと小さいうちに空気を入れるのを止めればいいだけだ。早鐘のように鳴り響く鼓動に手を震わせながら、彼女は慎重にバルブをひねった。そしてゆっくり、ゆっくりと袋{ゴム風船}を大きくし、頭ほどの大きさになったところでバルブを閉めた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
荒い息が漏れだしてはじめて、彼女は自分が息を止めていたことに気付いた。
「と、とにかく管から外そう」
安堵から力が抜けた手で、もはや全然ふにゃふにゃしていない袋{ゴム風船}を取り外そうとして、彼女は手を滑らした。正確には取り外すだけ取り外して、袋{ゴム風船}から手を離してしまったのだ。
「あっ」
プシューーーーーーーーー!
袋{ゴム風船}は部屋中を飛び回り、やがて力尽きて音もなく彼女の頭の上に着地した。それは最初よりも、もっともっとふにゃふにゃした、大変残念な袋に成り下がっていた。
「…………」
極度の驚きと絶望を味わった彼女は、ストア派(注1)の哲学者のように無感動に再び別の袋{ゴム風船}を管にあてがうと、順調に袋{ゴム風船}を膨らませ、管から取り外し、少し迷ってから口の部分を縛った。それをまじまじと見つめた後、彼女はつぶやいた。
「これに……何の意味があるんだ?」
また一つ、用途の分からない贈り物が増えてしまったのだ。彼女は四つ這いになってがっくりとうなだれた。
――ひょっとして音で驚かすための物なのか? いや、膨らませた自分が一番ビックリだ。それとも空に飛ばして狼煙代わりに? どこに飛んでいくのか分からないのに、そんな訳ないよなぁ……。
彼女は溜息を付くと、全てを研究棟に放り込むことにした。破裂した袋{ゴム風船}の欠片を集め、残念になった袋{ゴム風船}を拾い、まだ使っていないふにゃふにゃの袋{ゴム風船}と金属の樽{ヘリウム缶}を担ぐと、肘でノブを押し下げてドアを蹴り開けた。
「きゃあ」
「おっと、すまない」
廊下を歩いていたメイドとぶつかりそうになった。イゾルテはデジャ・ヴを感じた
「で、殿下!」
「すまなかった。手がふさがっていたのだ」
イゾルテは言葉では謝りながらも、体はすでに研究棟に向かって歩き出していた。
「違います! お召し物が!」
「えっ?」
イゾルテはやっぱりネグリジェのままだった。叱られながら着替えを済ませ、もう一度贈り物を研究棟に持って行こうとした時、メイドに聞かれた。
「ところで、天井のアレは何ですか?」
「えっ?」
見上げた先には、先ほど空気を入れて口を縛った袋{ゴム風船}があった。
「な、なぜ……」
――なぜ宙に浮いているんだ……!?
イゾルテはふにゃふにゃの袋{ゴム風船}と金属の樽{ヘリウム缶}を、研究棟の博物学者チームの部屋に持ち込んだ。いつもの部屋にはいつもと違う学者が居た。
「おや、車輪男は居ないのか? 珍しいな」
「主任は旅に出ました」
「旅?」
「師匠に会って来ると言って船に乗りました。行き先は知りません」
「……そうか」
どこまで行く気か分からないが、彼女は陰ながら応援することにした。具体的には何もしないが。
「まあいいや、これを見てくれないか?」
イゾルテは空気――だったのかどうか今となってはちょっと怪しいが――の入った袋{ゴム風船}を見せた。
「ほう、これはまた綺麗な色の袋ですね」
そういって学者が手に取ろうとする寸前、イゾルテは手を離した。すると袋{ゴム風船}はす~っと宙に上がって天井にぶつかった。
「こ、これはっ!? ……軽気ですか?」
「軽気?」
「空気より軽い気体です。危ないですから、近づかないで下さい」
「危ない?」
「ええ、爆発します」
「ばっ、ばくはつぅ!?」
もちろんヘリウムは爆発なんかしないが、軽気といえば普通は水素だ。適当な酸に適当な金属を突っ込んで、出てきたガスが空気より軽かったら大抵は水素だからだ。ヘリウムなんてまだ発見もされていない。それに発見するとしたら、博物学者じゃなくて錬金術師だろう。その学者は当然、その軽気は水素だと決めてかかっていた。
「まぁ、あれくらいの量なら大したことありませんけど、この部屋に充満するくらいあれば屋根まで吹き飛ぶことでしょう」
「!」
学者の言葉に驚いたイゾルテは、思わず金属の樽{ヘリウム缶}を取り落としてしまった。
「ああぁっ!」
落ちていく金属の樽{ヘリウム缶}を見つめながら、イゾルテは死を意識した。
――父上、先に逝くことをお許し下さい。間抜けな死に方ですが、ドルクも追い払ったし、皇太子も決まったし、今ならもう死んでもいいですよね……?
イゾルテは目をつむり、一筋の涙を流した。
「…………」
永遠に思える数秒の後、彼女は再び目を開いた。彼女の目の前にはおっさんがいた。
「あなたが神か?」
「は? 殿下、どうしたんです? 足でもぶつけましたか?」
どうやら爆発しなかったようだ。
「あー、いや、なんでもない。ところでこの金属の樽{ヘリウム缶}に軽気が入っていたんだが、爆発しないぞ?」
「爆発するのは火がついた時ですよ」
「なんだ、そうなのか。驚かすな」
イゾルテはほっとして笑顔を見せた。
「まぁ、金属同士がぶつかって火花が出ただけでも爆発しますけどね」
彼女の笑顔は凍りついた。
――そんな物、なんでわざわざ金属の樽に入れるんだ……!?
ミランダと遊ぼうと思っていたのに、こんな危険な物を彼女の所に持って行くなんてとんでもない。彼女は冷や汗を垂らしながら、穴でも掘って埋めようと考えていた。
「空を飛ぶのは面白いんだが、軽気がそんなに危険ならとても使えないなぁ」
「あとは、熱気も軽いですよ」
「……一時的に盛り上がるのは軽薄だという意味か?」
「いえいえ、暖かい空気のことですよ。炎は上に燃え上がるでしょう? あれは暖められた空気が軽くなって上昇するからです」
「そういえば、焚き火に紙を放り込もうとして、舞い上がってしまうことがあるな。革袋に熱い空気を入れたら飛ぶだろうか?」
「いえ、軽いと言ってもほんの少しですからね。袋が重くてはどうにもなりません」
「そうか、袋の重さがネックなのか。確かに皮袋なんかでは重すぎるな。かといって薄い布とか紙とかでは燃えてしま……」
突然黙ったイゾルテに、学者は眉を寄せて訝しんだ。
「……殿下? どうしました?」
「思い当たる物がある。ちょっと探してくる」
彼女の脳裏に浮かんだ贈り物は2つあった。その1つは蛇腹の紙で作られた燭台{提灯}だった。ロウソクが付いていたので燭台だと分かったのだが、ガラスではなく紙でフードを作るというのは、なかなかに斬新な設計である。暗がりの中で灯りがこれ一つだったら、とってもハラハラドキドキするだろう。気になるあの娘と使えば二人の仲は吊り橋効果で急接近、紙と一緒に二人の心にも火が着いて、二つの影はやがて一つに重なりあい、やがて闇に溶けていく……とかいう用途を彼女は想像したのだが、実際に使ってみると意外とちゃんと使えてしまった。炎からの距離がちゃんと考えてあれば、紙でも意外と燃えないらしいのだ。
そして頭に浮かんだもう1つの贈り物は、大樽サイズの紙袋{天灯/スカイランタン}だ。軽い木{竹}で口が円形に整えられていて、針金でその中央にこぶし大の綿が固定されていた。大きすぎるそのサイズのために今までは紙製燭台{提灯}が連想できなかったが、今なら彼女にも使い方が分かった。
――あの綿を燃やして、熱気を紙袋の中に送り込むのだ! ……たぶん。
彼女は、機能/用途不明な贈り物の置き場から巨大な紙袋{天灯/スカイランタン}を探し出すと、再び博物学者の元に戻った。
「恐らくこれは、熱気で空を飛ぶ道具だと思うのだ」
「これは……紙ですか? 綿を燃やすとしても、袋まで燃えちゃいそうですよ?」
「いや、意外と大丈夫なんだ」
「じゃあ、試してみますか」
「待て、大事なものを忘れているぞ」
「はて、何でしょう?」
「桶に水を汲んで来ないと」
「……やっぱり、あんまり大丈夫じゃないんですね」
学者に水を汲んで来させると、二人で巨大紙袋{天灯/スカイランタン}を持って綿に火を付けた。綿は一気に燃え上がり、その熱気が袋の中に充満――する前に燃え尽きた。
「あれ?」
「燃料が足りないんですよ。綿に油を染み込ませるんじゃないですか?」
「なるほど。いっそ医療用高濃度酒精{アルコール}でも染み込ませてみるか?」(注2)
「……このサイズの綿に染み込ませたら、すごいことになりますよ。海峡に小舟を浮かべて実験して下さい」
「……油にしておこう」
油を染み込ませた綿を再びセットすると、再び二人で巨大紙袋{天灯/スカイランタン}を持って綿に火を付けた。綿は一気に燃え上がり、その熱気が袋の中に充満して膨らませた。
「おお、なんか軽くなってきたぞ!」
やがて巨大紙袋{天灯/スカイランタン}はふわりと浮き上がった。
「やった! 浮いたぞ!」
そして巨大紙袋{天灯/スカイランタン}は天まで届けとばかりに上昇を続け――る余地がなくて、すぐに天井に届いた。
「……ここでやっても、ありがたみが無かったな。さっさと消してくれ」
「分かりました。この後、外でもう一度浮かべますか?」
「いや、今日はもう止めておこう。どこに落ちるか分からんから、今度郊外に持ち出して実験をして来るよ」
そう言いながら彼女は、巨大紙袋{天灯/スカイランタン}の利用法を考えていた。
注1 エピキュロス派の快楽主義に対して、ストア派は禁欲主義と言われます。が、要するに仏教の解脱だと思います。釈迦に説法させたらゼノンさんと意気投合したことでしょう。贈り物に一喜一憂するイゾルテにも、時には感情が麻痺して無我の境地に達することがあるのです。
注2 油の種類にもよりますが、一般的にエタノールより油のほうが単位重量あたりの発熱量は大きいようです。ある資料によると、エタノールは27MJ/kg、食用油は39.8MJ/kgだそうです。(廃油が云々という資料だったので、菜種油とかオリーブ油とかの平均値か何かと思われます)もっとも気化温度はエタノールの方が圧倒的に低いので、炎はエタノールの方が大きい……と思いますが、実験はしてません。悪しからず。
天灯は紙で出来た熱気球です。その昔諸葛孔明が考案したとか言う怪しさ抜群のシロモノですが、アジアでは割とメジャーなようです。孔明灯とかスカイランタンとかコムローイとかチャイニーズランタンとも言われます。日本では違法じゃない(?)みたいですが、火事でも起こしたら刑事・民事で責任を追求されるでしょうから、そこのところを覚悟してからチャレンジしてください。




