喞筒
喞筒は「そくとう」と読むそうです
季節は移り夏となったが、心配されたドルクの攻撃は未だにその徴候すらなかった。イゾルテは『暁の姉妹』号の建造を督励したり、新神殿建立委員会に出席したり、陸軍を視察して(テオドーラの夫に)いい男を物色したりする一方で、小姓になったアントニオに秘密の遊びを教えていた。
「ふふふ、アントニオ。お姉さんが教えてあげよう」
「な、何をですか……?」
「それは……コレだ!」
それはオリジナルの二輪荷車(自転車)だった。
量産された二輪荷車は、イゾルテが予想していたほどには普及していなかった。町中ではほとんど見かけない。どちらかというと、軍内や港湾地区、それに郊外で業務用として普及しつつある。いちいち馬なんか用意できないけど、だだっ広い場所を素早く移動したい、という需要を満たしたのだ。その一方で、交通ルールなんてあって無きが如き町中では思うように進めず、結局歩くのと大して変わらなかったのである。それに何より、量産型二輪荷車は異常に悪目立ちする。ヘルメット姿で平然と町を歩けるイゾルテには、理解の及ばぬことではあったが。
それはともかく、二輪荷車仲間が一向に増えないことに業を煮やしたイゾルテは、アントニオに二輪荷車の乗り方を教えることにした。しかしいきなり量産型は敷居が高いので、オリジナルの出番である。アントニオをオリジナル二輪荷車に乗せると、イゾルテは荷台を掴んで後ろから押した。
「で、殿下、怖いです! 初めては優しくして下さい!」
「怖いのは最初だけだ。すぐに気持ちよくなるから、地面の石でも数えていろ!」
「あ~れ~」
だがイゾルテが調子に乗って押していると、二輪荷車が大きな石にガツンと乗り上げた。
「あうっ」
アントニオは二輪荷車からよろよろと降りると、内股になってしゃがみこんだ。イゾルテの前なので、股間に手をやることだけは必死に耐えていた。
「あー、すまん。前をよく見ていなかった」
イゾルテは照れ隠しに頭をポリポリしながらペコリと頭を下げた。
しばらくしてアントニオは自己回復したが、二輪荷車は前輪が残念な感じにぐにゃりとしたままだった。アントニオは貴重な乗り物を壊したことに青くなったが、イゾルテは寛大な態度で優しく言った。
「これは私のせいだ。決してお前のせいではない」
本当にその通りだった。
イゾルテは、壊れた二輪荷車を引いて離宮の一角にある研究棟に向かった。柔らかい車輪(タイヤ)を研究している博物学者チームに修理させるためだ。アントニオは遠くと話せる箱(無線機)は見たことがあるものの、それがどういった機能を持っていて、どういった素性の物なのかは聞かされていなかった。もちろん、研究棟に入るのもこれが初めてである。
「ここは古代遺跡から発掘された遺物を研究しているところだ」
「何で離宮で研究してるんですか?」
「私が責任者だからだ」
「えっ、そうなんですか?」
研究棟は豪華で瀟洒で優雅な外観だったのに、内側はカオスだった。何だか良くわからないものがゴロゴロしている上に、何だかよく分からない人達もゴロゴロしていた。禄に洗濯されていない服を着た、禄に風呂に入っていない人々が、廊下の長椅子でいびきをかいていたりしたのだ。掃除も全く行き届いていない。
清潔好きで知られたイゾルテがいつ爆発するかとアントニオはハラハラしたが、彼女は気にする素振りもなく奥の一室まで歩いて行った。
「ここは博物学者たちの部屋だ。この黒くて柔らかい車輪(タイヤ)を研究している」
そこは、妙な刺激臭の漂う一室だった。イゾルテがドアをノックすると、中からひょろっとした男が現れた。
「これは殿下、どうされました? あ、ひょっとして、ついに我々にその身を委ねるご決意をされたのですか!? ご英断です! いますぐ裸に剥いて隅々まで余すところなく観察いたしましょう!」
そう言って飛びかかってきた男は、「この身が、この身が」とつぶやきながら、愛おしそうに黒い車輪に頬ずりをした。
「まて、まずは修理を試みろ。直せるものなら直してほしい」
「修理? たしかに後輪に比べて前輪はふにゃふにゃですね」
「先ほど大きな石に乗り上げたらこうなったのだ」
男は前輪を持ち上げるとクルクルと回して観察した。
「車輪も車軸も歪んではいないようですね」
「分かるのか?」
「この半年間、寝ても覚めても車輪漬けですので……」
「そうか……」
「おや、ふにゃふにゃになったおかげで、革が剥けそうですね」
「革?」
「この表面の黒い革は、どうやら釘で固定されている訳ではないようです」
馬車に使われている車輪は、木の車輪の上に革を釘止めして(申し訳程度の)緩衝材にしている。量産型二輪荷車も、木と革の間にフェルトを入れた以外は基本的に同じ構造である。だがオリジナルの車輪は、金属の車輪に革が引っかけられているだけだったようだ。
「殿下、引剥がしても良いんですよね?」
二度と元に戻せない可能性もあったが、中身を見ないことには修理も出来そうになかった。
「やむを得ん。慎重にな」
「やったー! ありがとうございます!」
男は大喜びで工具箱から金属のヘラやらやっとこやらを持ちだし、試行錯誤して車輪(ホイール)から黒い革(タイヤ)を引き剥がした。中にあったのは、ヘニャヘニャの黒い管(チューブ)だった。
「これは……動物の腸でしょうか……?」
「腸ってこんなに黒いのか?」
「普通は違います。革と同じ素材ですかねぇ……」
二人が黙ったのを見計らって、アントニオがその学者に質問した。
「中には何が入ってるんですか?」
「振っても音がしないし、重みも感じない。空気じゃないかなぁ」
「でも、空気なんか入れてどうするんです?」
どう説明しようか学者が迷った様子だったので、イゾルテが答えた。
「アントニオ、むくれてみろ。こんなふうに」
そう言ってイゾルテは頬を膨らませた。アントニオもそれを真似た。
「おうえうあ」(こうですか)
イゾルテは、人差し指でアントニオの頬をつんつんとつっついた。
「密閉された袋に空気がたまっていると、弾力が出るんだ。そして……」
そして、もう一方の手の人差し指で反対側から押して、頬をぷしゅーっと潰した。
「穴が開くと空気が漏れて弾力がなくなる」
「なうほろ」(なるほど)
「このどこかに穴が空いているんでしょうね」
そういって学者は、黒い管(チューブ)の表面を舐めるように見つめた。
「水に漬ければ分かるんじゃないか? ほら、風呂に入っている時に……言わすな」
「ああ、おならですね」
アントニオは頬を赤らめた。
――殿下って見た目ほど上品ではないのかも……?
「小さな穴を塞ぐだけならなんとかなるかもしれません。でも、抜けた空気はどうやって入れるんでしょう?」
「やはり、この金具(ムシ)から空気を入れるんだろうな。だがこんな狭いところから入れるとなると、息を入れるのも大変だな。何か道具が必要なのだろうか……?」
イゾルテは、何か使えそうな物はなかったか考えた。
――ひょっとして、アレか!?
「思い当たる物がある。アントニオ、付いて来い!」
イゾルテは、機能の不明な贈り物が保管されている部屋へやって来ると、自分の片腕くらいの長さを示してアントニオに言った。
「これくらいの長さの筒に、取っ手のついた棒が刺さっている物を探してくれ。棒を押したり引いたりすると、シュコシュコ言うヤツだ」
「シュコシュコですね。分かりました」
2人は棚や引き出しの中を調べ始めた。アントニオは初めて見るガラクタの山に興味津々であったが、その中から一際カラフルな物を見つけた。それには取っ手の付いた棒が突き刺さっていて、その棒を押したり引いたりするとシュコシュコと言った。だが、明らかに筒状ではなかった。
――これ……ではないのかなぁ?
そうこうしているうちにイゾルテが目的のものを見つけ出した。
「おっ、これだ! シュコシュコ(仮名。ハンドポンプ)!」
イゾルテはその棒を出し入れしてシュコシュコして見せた。
「殿下、これは違うものなんですか?」
そう言ってアントニオもシュコシュコしてみせた。
「おお、確かにそんなのもあったな。ソレも一緒に持って行こう。よく見つけてくれたな」
そう言ってイゾルテが頭を撫でると、アントニオは役に立てた喜びで満面の笑みを浮かべた。
イゾルテが研究室に戻り、黒い管(チューブ)に付いている金具(ムシ)にシュコシュコ(仮名。ハンドポンプ)から延びる管の先を合わせてみると、案の定ピタリと挿さった。そしてシュコシュコ(仮名。ハンドポンプ)をシュコシュコした。
しゅこしゅこしゅこしゅこ
「あ、黒い管(チューブ)が膨れてきました。これは黒い管に空気を送り込む道具のようですね」
「やはりな。これは2輪の荷車(自転車)と同時期に貰った物だったからな」
学者はイゾルテの言葉に引っ掛かりを感じた。
「同時期に貰った? どういうことです?」
失言に気付いたイゾルテはとっさに誤魔化した。
「あぁ、つまり、発掘隊から送って、貰ったのが、同時期だったのだヨ。だからきっと、近い場所から発掘したのではないか、と思ってナ」
「なるほど」
「これは空気入れ器(ハンドポンプ)と名付けよう」
こうしてシュコシュコ(仮名)は空気入れ器(ハンドポンプ)と呼ばれる事となった。
「分かりました。ではこちらで黒い管(チューブ)の穴を塞いだ上で、空気入れ器(ハンドポンプ)で元に戻しておきます」
「よろしく頼む」
イゾルテの見ている前で、学者は水の入った桶に黒い管(チューブ)を漬けて、穴を探し始めた。それを見て、イゾルテはふと思った。
――空気ではなく水を管の先に送ることができたら、排水作業が楽になるんじゃないか?
イゾルテはゲルトルート号の排水作業を思い出していた。船倉の水を桶に汲んで第4甲板まで階段を登り、投石機用の窓から船外に捨てるのだ。(更に深刻な時は、バケツリレーで対応する)イゾルテもほんのちょっとだけ手伝い、2往復でバテてしまった。
「この筒の構造は分かるか?」
「要するにふいごだと思います」
「ふいご? 鍛冶師が使うやつか? 大きな革袋みたいな」
イゾルテの知るふいごは、大穴と小穴があいた革袋(皮ふいご)である。その大穴を閉じて袋を押しつぶすことで、小穴から空気が送り出されるのだ。
「まあ、機能としてはあれと同じです。皮ふいごでは空気の逆流を人間の手で防ぎますが、この空気入れ器(ハンドポンプ)には自動的に逆流を防ぐ機能も付いているようですが。遥か東方では木の筒でふいごを作る(竹ふいご)そうですから、それと同じ構造かもしれません。どこかに資料があったはずです」
イゾルテは皮ふいごを水の中で使えるか想像してみたが、大穴を完全には塞げないので水の逆流を防げそうになかった。
「木の筒で作ったふいごは水に使えると思うか?」
「水? 水ですか……素材さえ選べば可能だと思いますが……。何に使うんですか?」
「船底に溜まった水を船外に捨てるのに使いたいんだ」
「なるほど。では、水を送り出すというよりは水を吸い上げる訳ですね」
学者の言葉に、イゾルテは意表を突かれた。
「……そうか、吸い込むのと送り出すのは表裏一体だ。水に浸かりながらシュコシュコ押し出すより、乾いた窓辺でシュコシュコ吸い上げる方が良いに決っている。その方向で作ってみてくれないか?」
「分かりました」
こうして空気入れ器(ハンドポンプ)から、水吸い上げ器(排水ポンプ)が生まれることになった。
後ろで2人のやりとりを聞いていたアントニオは、自分の持ってきた遺物(贈り物)が役に立たなくてしょんぼりしていた。
「これは役に立ちませんでしたね……」
「今回はな。だが空気入れ器(ハンドポンプ)との類似性から、カラフルシュコシュコ(仮名)の機能を明らかに出来るかもしれない」
「?」
「恐らく、このカラフルシュコシュコ(仮名)をシュコシュコすると、どこかに空気が送り込まれているんだ」
「でも、空気入れ器(ハンドポンプ)のように管が付いていませんよ?」
「だよなぁ。空気が出てくる音もしないし」
「出て来ないってことは、中に溜まってるんでしょうか?」
イゾルテはパチンと指を鳴らした。
「なるほど。じゃあ、シュコシュコ以外に何か別の機能があるのかもしれない」
二人はカラフルシュコシュコ(仮名)を観察した。
「ここだけ色が違いますね」
そう言ってアントニオは、半月状の小さな黄色い部品に触った。
プシュッ
「うわッ」
「おお、ここを押すと空気が出るようだな」
イゾルテはその部品を何度も押した。
プシュッ プシュッ プシュッ プシュッ プシュ プシュ プシュ プシ プシ プ ―
そして、部品を押しても何とも言わなくなった。
「シュコシュコして溜めた空気が無くなったようだ。最初に溜めて、小出しにするようだな。なるほど、なるほど」
何度も頷くイゾルテに、アントニオは期待を込めて彼女を見つめた。
「これは、どういう風に使うんですか?」
イゾルテはアントニオから目をそらして、重々しい声を出した。
「アントニオ、大切なことを教えておこう」
「はい」
「機能が分かっても、用途が分からんこともある」
喞筒とはポンプのことです。
足漕ぎ動力に接続するために回転型のポンプを登場させたいところですが、ピストンポンプからは原理が飛躍しまくるので諦めました。
カム構造を使って、回転運動→往復運動に変換する方が自然ですね。
でもそれだと間欠泉みたいになるので、カラフルシュコシュコ(仮名)を登場させました。
排水するだけなら間欠泉で良いんですが、他にも使いたいので。
次回、カラフルシュコシュコ(仮名)の正体が明らかに。




