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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
299/354

サナポリ2

すみません、すっかり遅くなってしまいました。

忘れているかもしれませんが、前回はスエーズ軍とセルカンがサナポリに逃げ込んだところまでです。

 ダングヴァルトが予告したとおり、ティムル率いるアムリル部の軍勢がサナポリ郊外に到着したのは、スエーズ軍の2日後であった。

「一足遅かったか……」

この時既にスエーズ軍は故国へと戻る船上にあったが、ティムルには知る(よし)もない。ただスエーズ軍を監視していた斥候から一足遅れたことだけを知り残念そうにため息を吐いたのだが、実のところ彼は悔しがっている訳でもなかった。敵がスエーズに帰り着くまでに追いつけるとは思っていたものの、だからこそ敵が途中の都市に籠城することも十分に想定していたのだ。というか逆に、ここまでに幾つも大都市があったのに全てスルーしてきたことの方が想定外だ。まあ、そのことごとくが無人のゴーストタウンになっていたことの方が想定外だったんだけど。バブルンも閑散としていたし、ビルジ達の内戦はどれほど不毛なものだったのだろうか? そんな備蓄も何もない都市で籠城してもジリ貧だから、スエーズ軍がここまで逃げて来たのも一周回って理解できた。

「とはいえ、港町では補給を断ったところで無意味だな」

陸上ではどんな軍勢にも(いざとなれば逃げるから)負けない自信があっても、海上の船をどうこうすることは彼らには出来なかった。プラグの大軍勢が来てもその点では同じだ。

「族長、攻撃しましょう! 我らには焙烙(ほうろく)玉があります」

「左様、あの程度の城壁や城門など、バブルンに比べればどうということもありません!」

強行軍の後だというのに兵たちの士気は高かった。バブルンを攻略し、広大で肥沃な大平原を征服したことに自信を深めているのだろう。確かに苦もなく広大な中央平原を手にしたことは快挙だ。100年前なら世界帝国を樹立しかねないレベルだろう。だが実際にはプラグの気持ち一つで部族ごと滅びかねない危険な立場にいることを、ティムルだけが痛いほど理解していた。

「その意気や良し! だが、ここまで急いで参ったのは必ずしも戦うためではないのだ」

「……いったいどう言うことですか?」

「ビルジの妻となったサビーナが、敵とともにこの街の中にいるらしいのだ」

サビーナの件は斥候たちにも箝口令を敷いてきたため、側近たちにも寝耳に水だった。

「……火事で亡くなったのではないのですか?」

「あれはビルジの嘘だ。奴が言うには、サビーナは男と駆け落ちしたらしい」

「「「…………!」」」

側近たちは蒼白になった。なんと危険な醜聞であろうか! 政略結婚で他国に嫁いだ娘が同盟関係にある夫を裏切って出奔したのだ。プラグの面子は丸潰れだし、同盟関係も危うくなる。その八つ当たりの矛先が、彼女の母親やその出身部族――つまりは彼らアムリル部――に向かうのは想像に(かた)くなかった。

「そ、それが本当なら、とんでもないことです!」

「しかし、世間知らずのサビーナ様にそんなこと出来るのか?」

「世間知らずだからこそ、恋に恋して駆け落ちなんかするんだろうが!」

「そうではない! 市中を逃げまわるだけならともかく、敵に身を投じるなんてことが世間知らずの姫君に出来るのかと言っているのだ!」

側近たちが騒然とするのを見ながら、ティムルは重々しく頷いた。彼とてその疑問を持たなかった訳ではない。

「確かにサビーナには不可能だろう。それにビルジ自身がプラグ汗に嘘の報告をしている訳だから、奴の言葉を素直に受け取ることも出来ない。駆け落ちしたのか火事で死んだのか、少なくともどちらかが嘘である以上、どちらも嘘である可能性もある」

「……つまり?」

「敵に攫われた可能性もあるということだ」

「なるほど……」

確かにそういうことなら、ビルジが慌てて「サビーナは火事で死んだ」ということにしたのも理解できなくもない。……それが賢い考えかどうかはともかく。

「しかし、ビルジも浅はかですな。嘘がバレればタダでは済みませんぞ」

「うむ。仮に敵に拐かされたのだとしても、プラグ様は強くは怒れないところだ」

「ああ、特にシロタク様が身近におられる今はな」

 妻を拐われたことは確かに不名誉なことではあったのだが、モンゴーラには特殊な事情があった。そもそも略奪婚は草原の民の習いだったから、古来からその手のトラブルは絶えなかった。だがその一方で、宿敵同士だった2つの氏族の次の代の長が同腹の兄弟になったりもするのだ。息子たちが争うのを母親が喜ぶはずもなく、なんだか有耶無耶の内に仲直りしちゃったりするという効果もあるのだ。そんな歴史をどこの氏族も少なからず抱えているので、あんまりこの件を非難できないのである。

 そしてそれはプラグも例外ではない。太祖キルギス大汗(カァン)も若いころ妻を拐われているのだ。その妻というのはプラグの実の祖母であり、シロタクの曾祖母でもある。その上その長男であったジョシは妻を取り戻した直後に生まれたので、「実はキルギス大汗(カァン)の血を引いてないのでは?」という疑惑があって、それが大汗カァン位の相続争いから脱落した一因ともなっていた。ジョシの息子であったパトゥも本来なら三代目の大汗の有力な候補であったのだが、その疑惑を意識して自ら身を退き、その代わりにモンキの即位を後押ししたのだ。モンキの弟であるプラグがシロタクたちジョシ・ウルスに借りを感じているのはそのためである。だからシロタクの耳に入るところで「敵に妻を奪われたこと」を叱責することはプラグには出来ないのだ。

 だが駆け落ちということになれば男女の問題にすぎない。プラグは「娘の教育に失敗した父親」という不名誉を負うことになるが、それ以上の笑いものになるのは「妻に逃げられた夫」である。むしろ本当に駆け落ちだったとしても、ビルジとしては「敵に拐かされた!」と嘘を吐いた方がマシだったろう。少なくとも、死んだと嘘をつくよりは遥かにマシだ。だがモンゴーラに帰順して日の浅いシロタクは、そのあたりの事情を知らなかったのだろう。まあ、モンゴーラだってあんまり宣伝して回りたいような話ではないし。


「それで、いったいどうなさるおつもりなのですか? 敵にサビーナ様の引き渡しを求めるのですか?」

「要求したからと言って、簡単に引き渡すものか! 逆にサビーナ様に人質としての価値があると宣伝するようなものではないか」

「だが、人質としての価値があるからこそ拐ったのだろう? それに、敵が『拐った』と言ってくれれば御の字ではないか!」

「「…………」」

もしも拐われたのなら、サビーナは純粋な被害者だ。同情されることこそあれ、(とが)を受ける()われはない。もちろん彼女の母や出身部族であるアムリル部も同様である。なんとも非情な話だが、そうやって人質にされた方が部族としては安泰なのである。

「だが、もし本当にただの駆け落ちだったとしたらどうする? ただの駆け落ちカップルだと思ってた娘が実は敵の要人だと分かって急遽人質にする、という展開もありえるぞ?」

「「…………」」

敵だって婦女子を拐うことを名誉とは思っていないだろうから、その場合は敵も「拐った」とは言ってくれないだろう。それどころかモンゴーラ側では「死んだはずのサビーナが何でそんなところに居るんだ?」という話になるから、敵は正直に「駆け落ちして亡命してきたから」とぶっちゃけちゃうかもしれない。わざわざ公式声明で! アムリル部としては大変まずい展開である。

「攻め落として身柄を確保した上で、口封じに皆殺しにするしかないか……?」

「港湾都市だぞ? 船があるのに口封じは不可能だ! サビーナ様の身柄を確保することすら覚束ないだろう」

敵がサビーナの身分を知っていれば、住民より優先して船に乗せるだろう。それを追うことは彼らには不可能なことだった。

「せめてサビーナ様が本物かどうか分からないものだろうか……」

「敵に意図を悟られずにサビーナ様の意志を確認する必要もある……」

難題であった。そもそも戦の話ならともかく、スキャンダル隠しに頭を悩ませるなど情けない限りである。

「しかもドルク語を話せる人間がいませんよ? ドルク人はついて来れずに置き去りにしてきましたから」

「あの様子では、あと10日は追いついて来ないでしょうねぇ」

 彼らの言うドルク人というのは、ビルジに押し付けられた連絡将校のことである。別にビルジはサビーナのことに勘付いた訳ではないだろうが、敵との通訳をするためにもと押し付けられたのである。ティムルにとってはありがた迷惑だったが、反論する理由が無くて仕方なく受け入れたのである。

「馬鹿者、なぜ我らがこれほど急いで来たのか分からないのか?」

「は? 敵に追いつくためではないのですか?」

「違う。あのドルク人が居ればやつを介して交渉せざるを得ないが、それではビルジに筒抜けだ。だからこそ奴を置き去りにしてきたのだ」

「「…………」」

ティムルの告白は側近たちの虚を突いたが、言われてみれば納得だった。とはいえ敵に追いつくためだとばかり思っていた彼らは、半分は感心しつつも残り半分は呆れ気味だった。何もかも面倒なことである。

 だが首脳陣が頭を悩ましている一方で、そんなややこしい事情など一切知らない兵たちは、明日にも始まらんとする戦いに向けて英気を養っていた。酒を酌み交わし、声を揃えて陽気な歌声を上げていたのだ。


  見よ、悍馬が千里を駆ける

  悍馬よ悍馬、なぜ疾く駆ける

  さては獣に追われしか

  否、ただ懐かしき友に会わんがために


 それは放牧の合間によく歌われる歌だった。内容的には「馬っていうのはどーしょーもない寂しがりやなんだぞ。だから可愛がってやりな」というだけの歌なんだけど。その脳天気な歌声に側近たちは「俺たちの悩みも知らないで!」という苦々しい顔を見せたが、ティムルはカッと目を見開いて膝を叩いた。ちゃんと残ってる右足の。

「そうだ、兵たちに歌を歌わせよ! 今の歌を、夜が明けるまで、ずーっとだ!」



 その夜遅く、総督府の奥の奥にひっそりと閉じ込められているサビーナ姫の元を、やっぱり密かに訪れる男の姿があった。サナポリ総督の息子にして防衛司令官のダングヴァルトである。

「俺だ、中に入れてくれ」

「「…………」」

護衛兼監視として不寝番をしていた2人の衛兵たちの非難がましい視線に晒されながら、ダングヴァルトは必死にニヤけた表情を浮かべた。

――ちくしょー! 何で男を訪ねるのに嬉しそうな顔をしなくちゃいけないんだ!

だがここはつい先日までドルクだった街だ。住民のほとんどもドルク人だし、イゾルテの宥和政策に従ってこの総督府でも多くのドルク人を雇用している。特に可愛い女の子を優先してメイドに採用しているのもイゾルテの意向なのだ。……たぶん。だがその中には当然、ビルジの息の掛かった者もいるに違いない。きっとダングヴァルトの一挙手一投足は全て監視されていることだろう。

 そしてこんな真夜中に私室を訪ねる以上、ダングヴァルトがサビーナと密通しているのだと思われるに違いない。そしてそう思わせておくのが無難でもあったのだ。セルカンが「可愛い女の子」のふりをしているのと同様に、ダングヴァルトも「節操のない女好き」のフリ(◆◆)をしているのだから。そう、あくまでもフリなのである!

「閣下、女遊びもほどほどにしてくださいよ」

「敵がすぐそこまで来てるんでしょう?」

「馬鹿もの! 戦いを控えているからこそ、激しく燃えるんじゃないか! 現に今夜のちーちゃんはとっても激しかった!」

「「…………」」

 命の危険を前にして性欲が増すのは人間の本能である。だが普段から全開で女遊びしまくっているダングヴァルトが言ったところで、衛兵たちには開き直りにしか聞こえなかった。彼は女好きのフリに全力を傾けていた。傾けすぎていた。全然苦じゃないけど! 二対の冷たい視線に晒されながらも、彼はニヤけた顔でサビーナの部屋に入っていった。

「くそう、何であんな男がチェチーリアさんの夫なんだ! せめて娼館を開いてた頃に会いたかった……」

イゾルテの影響か、昨今のプレセンティナでは金髪女性に歪んだ憧れを抱いている者が多かった。まあ、ダングヴァルト自身がその最たるものなんだけど。

「待てよ……そのチェチーリアさんが夫の浮気現場を見つけたらどうなる?」

「そりゃあ大げんかになって……離婚するかも?」

「そしたらまた客をとるように……なるかも?」

チェチーリアとまっとうに交際できるとは、彼らも考えてはいなかった。だからこそ歪んでいるのである。

「おおっ、こうしてはいられない! いますぐ貯金を全額下ろしてくるぞ!」

職場放棄して飛び出して行きかけた同僚を、もう一人の衛兵が慌てて止めた。そもそもこんな夜中に引き出せるなんて、どこに預けてるのか不思議なものだが。

「いやいや、そうじゃなくてっ! その前にチェチーリアさんを呼んでくるんだっ!」

「そ、そうだな! 急いで行ってくる!」

「急げよ!」

 だが衛兵の一人が飛び出して行った直後、残った衛兵の後ろでドアが開いた。ダングヴァルトが出てきたのである。

「あれ? なんか減ってないか?」

「はっ、早っ!」

衛兵は内心で毒づいた。

――くそっ、もう終わったのか? この早漏めっ!

「何が早いんだ?」

「あ、あはは、いや、ちょっとトイレに行ってるんですよ。だから早く戻ってこーい、と。すぐに戻ってきますから、閣下は安心してゆっくりしっぽり御休憩……いえ、休んで行ってくださいよ!」

兵に人望が無いことを(女性からの人気の 1/10くらい)気にしていたダングヴァルトは、その優しい言葉にちょっと嬉しくなった。

「そうか、ありがとう。でも今日は外で用事があるから、お前たちこそゆっくりしてていいぞ!」

「へ?」

「じゃーなー」

ダングヴァルトは片手をパタパタと振りながらも、もう片方の手で真っ赤に頬を染めたサビーナの手を引いてどこかへと歩み去って行った。

「ま、まさか、まさか……今日は露出プレイの日なのかっ!? だったら俺に見せてくれれば良いじゃないか!」

寝ぼけ眼のチェチーリアを連れて戻った衛兵が発見したのは、しゃがみこんで床を殴り続けている同僚の姿だけだった。



「いったい何なんだよ!」

馬車に押し込まれたセルカンは不機嫌だった。チェチーリアのようにいきなり叩き起こされたからだろうか。

「おかげでゆっくり化粧が出来なかったじゃないか! どうだ? 俺は可愛いか? ちょっと頬紅を()しすぎてない?」

……プロとしてのこだわり故だったようだ。たぶん。

「ああ、かーいーよ、かーいー」

「そうか、さすがは俺だな。ふふん、惚れるなよ?」

割りといい加減なこだわりである。

「で、いったい何の用なんだ?」

「なんか知らんが敵が歌を歌っているらしいんだ」

「はぁ? そんなのよくあることだろ?」

 戦いにおける雄叫びのように、声を揃えて歌を歌うことは「こんなに味方がいるんだ」ということを兵士に知らしめる効果がある。するとなんだか敵が怖くなくなってぐっすり眠れるのである。特に戦い前夜というのは兵士が逃亡しやすいタイミングだから、景気付けに合唱することは大いに効果があるのだ。……音痴でなければ。


「だが同じ歌を延々と繰り返しているんだ。しかもなんだか物悲しい(◆◆◆◆)声でな」

「それは……何か裏がありそうだな」

「だがドルク語でもモンゴーラ語でもないようで、内容が分からないんだ。だからお前を呼びに来た」

「…………」

 話を聞いたセルカンは神妙な顔で押し黙った。モンゴーラ語でないということはシロタクの軍勢ではないということだろう。そして騎兵である以上ビルジの軍勢でもない。つまりはアムリル部の軍勢だということだ。

 サビーナのフリをしてきたのはビルジを誘導するためであったのだが、彼女の叔父であるティムルも同様にサビーナの身柄を欲しているはずだ。女海賊セルピナとして会った時も、彼は死んだ(と当時は思い込んでた)姪のことを悲しんでいた。サビーナにとっては血と心の通った数少ない本当の身内なのだ。

――まずいな……バブルンの戦いの様子を見る限り、アムリル部の士気は異様なまでに高い。このままでは激しい戦いになりそうだ……

エフメト派の密偵として、そしてハシムの兄としては、このサナポリが陥落することはあってはならないことだ。だがサビーナの気持ちを考えれば、アムリル部が多大な被害を受けることも避けたいところだった。

――ここはバブルンとは何もかもが違う。真正面から戦えば、アムリル部に勝ち目は無いぞ。

なにしろ難民が200万もいるのだ。1割徴兵するだけで20万人の大軍勢である。敵が異民族の遊牧民となれば、ドルク人でもタイトン人に協力せざるを得ない。

 だがセルカンが真に愕然としたのは、物々しく警備された城門に到着した時だった。そこには城門だけでなく城壁に沿って広く兵士たちが展開していた。

「ようやく最後の城門か?」

「ああ、この外にあるのが一番外の城壁だ」

「は……?」

噛み合っているようで噛み合っていない会話に、セルカンは絶句した。そしてその間に馬車は城門を越えてしまった。ダングヴァルトの言う通り、その城壁が一番外のものではないという何よりもの証明だった。

「……後方にあれだけの戦力を展開させる余裕があるのか? だとしても、まだ城壁沿いに展開させるのは早くないか?」

「ここが主戦場になるからな。一番外の城壁はすぐに捨てるつもりだし」

「え?」

「どの城壁で守っても大して変わらないだろ? だが敵の足を止めるだけなら役には立つ。

 近年の戦訓から学んだことだ。騎馬民族と戦うなら、まず逃げ足を封じることから考えないとな」

「…………!」

――こいつ、敵を城内に引き込んで一網打尽にするつもりか!

攻めてきた敵をわざと引き込み、逆に城壁の中に閉じこめようと言うのだ。恐るべき計略である。セルカンは目の前にいるスケベ男が、ただのスケベ男でないことをようやく悟った。なにしろあのイゾルテが選んだ男なのだ。彼女はこの男ならモンゴーラの大軍からこの町を守りきれると信頼しているのだろう。

――てっきり「うざいから死んじゃえ」って選ばれたのかとも思ってたが……

まあ、その可能性はまだ捨てきれなかったけど。

――だが、この作戦の成功率は高い。そして一旦閉じこめられてしまえばアムリル部は全滅しかねないぞ!

ましてそれが自分のせいだと知れば、サビーナはどれほど傷つくだろうか。

 押し黙るセルカンを余所に、ダングヴァルトは馬車の窓を開けた。

「聞こえてきたな。あれが敵の歌声だ」

セルカンが予想した通り、それはカンザスフタン語の歌だった。


 見よ、悍馬が千里を駆ける

 悍馬よ悍馬、なぜ疾く駆ける

 さては狼に追われしか

 否、ただ懐かしき友に会わんがために


 聞け、悍馬の細い嘶きを

 悍馬よ悍馬、何を嘆くか

 さては獣に噛まれしか

 否、ただ優しき父母に会えぬがゆえに


 感じよ、悍馬の速い鼓動を

 悍馬よ悍馬、何を怯えしか

 さては我が恐れしか

 否、ただ愛しき我が子に会えぬがゆえに


 哀愁を誘う(◆◆◆◆◆)その歌声に、セルカンはサビーナがこの歌を口ずさんでいたことを思い出した。

「お母様が好きな歌なのです。故郷を思い出してよく歌っておられたのですよ」

彼女はそう言って寂しそうな顔を見せたが、彼女が想っていたのは草原ではなく、この歌を歌う母親だったのだろう。

「これは望郷の歌だ。サビーナが……というか、彼女の母親が好んでいたそうだ」

「へぇ」

 実のところこの歌はもっと陽気な歌なのだが、アムリル部の兵たちは理由も説明されずに同じ歌を延々と歌わされて疲れてきていて、「何でこんなに歌わされなあかんのや」という物悲しい気持ちになっていただけだった。そしてサビーナの母親も実は陽気な歌だと知っていながらもホームシックのせいで歌声が物悲しくなっちゃっただけであり、サビーナは母親の歌うところしか聞いたことがなかったので、てっきり望郷の歌だと思い込んでいたのである。

「外の敵はその母親の出身部族で、族長はサビーナの叔父にあたるんだ」

「ふーん。ということは、サビーナちゃんへのメッセージか。でも、こんな歌を聞かせてホームシックにさせようっていうのかな?」

「スエーズ軍といたときは割と自由に行動して姿を見せてたからな。自由意志で逃げ出せると思ってるのかも」

「目が見えないのにか?」

「俺が……っていうか、つまり駆け落ち相手がいるじゃん」

「ふーむ」

ダングヴァルトはしばらくあごをさすって考え込んだ。

――セルカンを送り込んでみるか? サビーナちゃんの脱出の手配をしているとか言えば、時間をかせげるかもしれない。でもこいつが拷問されて城内の様子を探られる可能性もある……って、今更だな。ビルジの密偵なんて幾らでも紛れ込んでるだろうし……

 何事かを考えながらじっと自分を見つめるダングヴァルトに、セルカンは身の危険を感じた。驚くべき事にダングヴァルトは、真剣に考え込んでいてもいやらしい妄想に耽っているようにしか見えなかったのである! 数多(あまた)の男の純真を弄んできたセルカンだったが、ダングヴァルトほどの女好きに見つめられて虚心ではいられなかった。なにしろ彼は敵の姫で若妻でDV被害者で駆け落ち中の盲目の美少女なのだ。ちょっと特殊な萌え要素が勢揃いである。

「よし、この際試してみるか」

「まままま、待てっ! 確かに俺は可愛いが、あくまでも男だ! 胸だって偽物だし、ナニだって付いたままだぞ! 確かに仕事でならやったこともあるが、お前は俺の正体を知っているだろう!?」

「何の話だ?」

「……ナニの話だろ?」

「……何だって?」

今度は明らかに噛み合っていない会話に、ダングヴァルトが首を傾げた。

「い、いや、何でもない。気にしないでくれ!」

「そうか? じゃあお前の身の危険は気にしないで、敵に潜入してきて貰おうか」

「おう、もちろんだ! それくらい……え? 潜入? 無理無理無理っ! ハサール人ならともかく、アムリル部の風習とか何も知らないし!」

「そうじゃなくて、サビーナちゃんの駆け落ち相手として行くんだ。サビーナちゃんを脱出させるからちょっと待ってくれって言って来てくれればいい」

「アホか! 駆け落ち相手がのこのこ出てきたら殺されるに決まってるだろ!」

「だとしても、お前を殺すことよりサビーナちゃんの身柄を確保することを優先するんじゃないか?」

「それは! ……そうだけど」

確かに部族のことを考えればそうだろう。だがそもそもセルカンこそが元凶なのだ。殺されないにしても、彼にしてみれば針のむしろに座るような心境である。躊躇するセルカンにダングヴァルトはビシっと指を突きつけた。

「女に惚れて駆け落ちしたんなら一本筋を通して来い! それが嫌なら素人娘には手を出すな!」

その言い分はまことにもって尤もなことだった。言葉だけは。

「いや、でも……結局騙してくるんだろ?」

「騙し騙されるのが男と女だ!」

「親戚まで騙すなよ!」

「だがやらないと、その親戚と血みどろの戦いになるわけだ。どっちが勝つと思う?」

「…………」

セルカンはこの男がイゾルテの部下であるということを歯噛みしながら思い知った。彼としてはどっちに負けられても困るのだ。

「ああ、分かったよ! 行けばいいんだろ、行けば!」

彼は備え付けのペンを取ると、さらさらと何事か書き込んだ。

「あの歌の続きだ、矢文にでもして敵陣に射ち込んでおけ。それでサビーナに帰郷の意志があることが伝わるだろう。この格好では潜入もできないし、一旦戻って準備させてくれ」

「よしきた!」

満足そうなダングヴァルとのニヤケ顔に、セルカンは少しばかり殺意が湧いた。



 二人が再びサビーナの部屋に戻ると、今度は衛兵が二人揃って笑顔で出迎えてくれた。

「ああ閣下、お帰りになったんですね! 良かった!」

「ホントに心配したんですよ!」

「お前たち……」

兵に人望が無いことを(晩飯のおかずの 1/2くらいは)気にしていたダングヴァルトは、その言葉にちょっと嬉しくなった。

「色街の割引券やるよ! 貰ったんだけど俺は使わないから要らないんだ!」

彼は既に回数券をまとめ買い済みなのである。

「え、いや、それは……」

衛兵たちはチラチラとドアに視線を向けながら、なぜか受け取ることを躊躇した。

「遠慮しないで受け取れって!」

「つ、使う予定はありませんけど、一応受け取っておきます!」

「同僚にやります! 俺たちは使いませんけど!」

衛兵たちは何故かドアに向かってそう言い訳した。ダングヴァルトは不思議そうにしながらも割引券を渡すと、セルカンの手を引いて部屋に入った。だがセルカンはそこで意外な人物に出会うことになった。小柄で金髪の美女が肩を震わせながら怒りの形相で突っ立っていたのである。

「い、イゾルテ! 何でここに!?」

思わず男声で発してしまったその叫びに、女はきょとんとし、ダングヴァルトは硬直した。

「イゾルテ陛下が何ですって? っていうか、まさか……男なの?」

その言葉がタイトン語だったことで、彼女がドルク語が出来ないことが分かった。よく見ればイゾルテほどの美形ではない。しかし胸はイゾルテほど小さくもないので、好みが分かれるところだろう。

「そ、そうなんだ! こいつはイゾルテ陛下の命令でサビーナ姫のフリをしてるんだよ! だから全然浮気じゃないよ、ちーちゃん!」

「ホントに……? じゃあ、その手はなんなのよ?」

指摘されてダングヴァルトは慌ててセルカンの手を離した。

「さ、サビーナ姫は目が見えないんだよ! だからこうして手を引いて連れ出さないといけないんだ!」

「…………」

疑わしそうな彼女の視線がセルカンに向くと、彼は静かに頷いた。

「本当だ。サビーナはモンゴーラの姫なんだが、敵を誘導するために俺がサビーナのフリをしてきたんだ。本物のサビーナはイゾルテといっしょにいるはずだ。それに……」

「それに?」

「それに、サビーナは俺よりももっと可愛いぞ!」

「「…………」」

セルカンから溢れるのろけ臭に、浮気を疑っていたチェチーリアも毒気を抜かれた。

「……なるほどね。まあ、あんたが素人娘に手を出すとは思ってなかったけど。でもあんたってお姫様に特別な執着があるしねぇ?」

「そ、そんなことないよ! アレクシア姫にも手を出さなかったろ!」

「あれは男でしょ! ルクレツィア姫に迫られた時はタジタジだったじゃない!」

「あの娘は玄人だ! 国家レベルの娼婦だ!」

なんだか話が良く分からなかったが、セルカンは二人を仲裁しようと声をかけた。

「安心していい。あなたはサビーナほどではないけど、イゾルテによく似て美人だ」

「……え?」

思いがけない言葉にチェチーリアが黙りこむと、なぜかダングヴァルトが慌てだした。

「あー! これだからドルク人は! 見慣れてないから金髪女性がみんな一緒に見えるんだよな!」

「いや、俺の母は金髪のスラム人だけど?」

「(うるせーよ! 事情を察してちょっと黙ってろ!)」

「(じ、事情は全く分からないが、スマン)」

「あ、あれだろ? 金髪女性を見ると無条件におふくろさんの姿を重ねちゃうんだろ? だから二人が似てるように思えただけだよな! このマザコンめっ!」

「(て、てめぇ……!) そ、そうだな! だがよく見ると二人は全然違うな! シミとか小ジワとかあるし!」

「…………」

メラメラと怒りの炎を燃やすチェチーリアの瞳に、セルカンはイゾルテの中に棲まう獣に近いものを感じた。胸の話を持ち出すと暴れるあの獣だ。

「い、いや、俺のおふくろの事ダヨ? あんたの肌は綺麗だ! 俺と同じくらいに!」

「…………」

チェチーリアの瞳が怒りを忘れ、困惑と悲しみの中に沈んだ。男といっしょにされたことにショックをうけつつも、確かにセルカンの肌は綺麗であり、それと同等と称されたことは喜びでもあったが、やっぱりなんだか釈然としなかった。まあ、セルカンのは特殊な化粧の結果なんだけど。

 彼女の怒りから解放されたセルカンはほっと一息吐きながら、今更ながらに気付いた。

――あれ? 俺はなんで夫婦の仲裁なんかしてるんだ? 俺はこいつに危険な仕事を押し付けられたんだぞ?

セルカンはダングヴァルトを見ながらニヤリと笑った。少しくらい報復という名目で嫌がらせをしても良いだろう。

「しかし、俺が敵陣に潜入するということは、誰かにサビーナの役を変わってもらわないとな」

「それならこちらで手配する」

「それは美人か?」

「お前はいないんだから関係ないだろ?」

「なんだと!? 俺のサビーナのフリをするんなら、とびっきりの美女じゃなくちゃ納得できん! この女性くらいのとびっきりの美人じゃなきゃな!」

彼がビシっとチェチーリアを指差すと、彼女は目を白黒させながらもまんざらでもない顔を見せた。

「この女性以上の美女を連れてこない限り、俺はこの仕事を断るぞ!」

「…………」

二対の視線に晒され、ダングヴァルトは返答に窮した。仮に誰かを連れて来てセルカンを満足させれば、チェチーリアは「ふーーーーーん、私よりその女の方がイイんだ?」と言って口も聞いてくれなくなるだろう。そもそもチェチーリアに勝る美女など、彼にはイゾルテしか思い浮かばなかったし。

「ちーちゃん、やってくれる?」

「し、仕方ないわねっ。お姫様役なんて面倒そうだけど、あんたのために一肌脱いであげるわっ!」

そう言いつつも、なぜかチェチーリアの瞳はキラキラしていた。どうやらお姫様願望があったようだ。

「じゃあ、俺はちょっと着替えて来る」

セルカンはバスルームに入って変装を解くと、なんだかぱっとしないどこにでもいそうな男の姿になって現れた。

「見事な変装だな。何の特徴もなく記憶に残らない顔だ。さすがだな!」

「……まあな」

それが素顔だとは、セルカンには言えなかった。

「服のサイズは合わないだろうが、そちらで調整してくれ」

「わ、分かったわ」

どさっと着替えを渡されたチェチーリアは、その中に女性用下着が含まれていることに戦慄した。胸パット入りのブラは当然としても、下までもが女性用だったのだ!

――こ、この人……プロだわ!

彼女は目の前の女装男がただの女装男でないことをようやく悟った。でも彼女はプロではないので、下着だけは自前のを使おうと誓った。

「じゃあ、俺は行くから」

彼は窓から身を乗り出すと、壁を伝って夜の闇へと消えていった。鮮やかな身のこなしだったが、やはりついさっきまで女性用下着を履いていたことの方がインパクトが強かった。いや、今は男性用を履いているという確証も無いんだけど。

「ちーちゃん、ホントにいいの?」

「いいわよ、どうせ大してすることもないし。私は病気で寝込んでることにしておいてよ」

「そっか……じゃあ、夜のお勤めも出来ないよね? 俺、サビーナちゃんと浮気しちゃおっかなー♪」

そう言ってダングヴァルトがチェチーリアの服を脱がせ始めると、彼女もまんざらではなさそうに答えた。

「でも今日は疲れてるから……3回だけよ?」

「囚われのお姫様プレイって、初めてだよね?」

お姫様という言葉に、チェチーリアはうっとりとした。

「も、もう! 仕方ないわね! ……5回だけよ?」

「し・か・も! サビーナちゃんは盲目なんだよねぇー♪」

ダングヴァルトが彼女に目隠しをすると、彼女はそれだけではぁはぁと熱い吐息を漏らし始めた。

「ああん、もうっ! 10回までだからねっ!」

「畏まりました、姫様」

「ああっ!」

その夜チェチーリアは、姫さまと呼ばれる度にビクビクと震えた。もちろん、うっとりと。


 だが二人の秘め事は全然秘められていなかった。衛兵というのは、話の内容は聞こえなくても変事が起これば慌てて駆け付けられる程度には部屋の中の声を聞ける位置に配置されるものなのだ。部屋の中から漏れ聞こえてくる嬌声に、二人の衛兵は愕然としていた。

「おい……なんで始まっちゃったんだ? さっきまで怒鳴って喧嘩してたよな?」

「仲直りエッチか? でも、サビーナ姫も出てきてないよな?」

「まさか……チェチーリアさんとサビーナ姫を同時に?」

二人はその様子を想像してがっくりと崩れ落ちた。ひょっとすると前かがみになったせいかもしれないが。

「羨ましすぎるっ!」

「大神ゼーオスよ! こんな事が許されていいのですか!?」

だがゼーオスの天罰は下らなかった。彼もそんなことばっかりやってるから、あんまり悪いことだと思ってないのかもしれない。きっと女神ヘーレなら罰を与えてくれるだろうが、彼女の場合は何故か女を怪物に変えることしかしないのでこの場合はふさわしくなかった。

「なあ……仕事上がりに、行くか?」

衛兵の一人が先ほど貰った割引券をちらりと見せると、もう一人は眉を顰めた。

「明日は戦争だろ? そもそも営業してるのか?」

「うちの防衛司令は別の戦争をしてるぞ? 美女2人相手に!」

「……そうだな、俺達も華々しく戦ってくるか!」

幸いその日はモンゴーラ軍の攻撃が無かったので、彼らは3割引で豪遊することが出来た。それがサビーナ姫ことセルカンの献身のおかげだとは、彼らには知る由もなかったが。

ごぶさたしております。

ちょっと天然痘の亜種が蔓延して隔離されたニューヨークで治安維持活動してたり、ある国でいなくなった王さまたちを玉座に連れ戻したりしてました。(※ゲームの話です)

今後は文明世界から離れて石器時代を体験してくる予定もあるのですが(※ゲームの話です)、次はなんとかもうちょっと早く投稿したいと思います。

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