表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
298/354

サナポリ1

 サビーナ(のフリをしたセルカン)が同行するスエーズ軍は、直接スエーズに帰るのではなく(にわか)に北上すると、無人の野となった中部平原に唯一残された大都市――サナポリへと向かった。ここに敵を引き付けるためである。だがサナポリを初めて見るスエーズ兵にとって、その姿は衝撃だった。

「こ、これがサナポリ……」

「同じドルクの都市でも、バブルンとはこうも違うのか……!」

 サナポリの城壁はたかだか5mほどで、15mの高さがあったバブルンの城壁とは比べようがなかった。その素材もただの日干し煉瓦だったし、その形も完全な円形だったバブルンとは対照的に小さな半円がいくつも張り出すようにデコボコしていた。カオスである。さらにそれぞれのデコボコにはそれぞれ粗末な城門まで付いているではないか! これでは弱点だらけである。むしろどこから攻めようかと攻め手が困るように仕向けているのだろうか?

――おいおいおいっ! いつの間にこんな風になったんだ!?

 スエーズ人たちは当然この街を訪れるのは初めてだったが、セルカンは義理の家族であるコルクト家の人々を北アフルークに逃亡させるためにほんの数日滞在したことがあった。彼は部下のベネンヘーリのように完全記憶能力を持っている訳ではなかったが、サナポリの城壁は彼の記憶にある姿から一変していた。以前の城壁はもっと高くて丈夫そうだったし、綺麗に弧を描いていた。あれからエフメトによる占領と籠城戦があったとはいえ、1年あまりですさまじい変わりようである。

 しかもどうやら住人の方もたるんでいるようで、スエーズ軍が近づくと誰何(すいか)も口上のやり取りもなくあっさりと城門が開いて男が一人出てきた。

「やあ、スエーズ軍の方々ですね。私はサナポリ総督の下でこの街の防衛の指揮を執っているダングヴァルトと申します」

防衛責任者が単身でふらりと出てくるとは、目も眩むほどの危機感の無さだ。だがわざわざ出迎えに来て北アフルーク語(訛りの古アルビア語)で挨拶したのだから、儀礼上は文句の付け所が無い。ダングヴァルトと名乗ったその男は、ちらりとサビーナ(のフリをしたセルカン)に目を向けたが、全く興味なさそうにすぐに将軍(アミール)に視線を戻した。密かに(変装した時の)美貌を誇りに思っているセルカンは地味に傷ついたが、それも外交上失礼がないようにという配慮なのだろう。きっとそういう堅苦しい男なのだと、セルカンは思うことにした。

「お出迎え痛み入る。(それがし)は……」

「いやいや、堅苦しいことは親父(おやじ)とやってください。あ、親父(おやじ)っていうのは総督のことですよ。愛称とかじゃなくて俺のクソ親父なんです。元が商人なんで経費の使い道にうるさいのなんのって……まったく、上司が身内ってのは考えものですよねぇ」

……意外といい加減な男だった。他人にはどうでもいいことをブチブチと言っていたが、いい加減な男が困っているのだから(実際に相手をする直属上司はともかく)更に上の人間には都合のいい人事なのだろう。……総督の上って言うと皇帝しかいないんだけど。

――いや、イゾルテの部下なら戦力的に格下とも取れる将軍(アミール)に気を遣わせないため、わざといい加減なフリをしているのかもしれないな……

 本当にいい加減な男なら悩殺できるはずだと、サビーナ(のフリをしたセルカン)はいかにも「暑いわぁ~」というそぶりで胸元を緩めてパタパタと扇いでみた。だが周りの奴隷軍人(マムルーク)たちがそわそわするだけでダングヴァルト自身は何の反応も示さない。やはりいい加減なのは演技にすぎないのだ。あるいは同性愛者か小児性愛者で成人女性には興味が無いのだろう。きっとそうだ、そうに違いない!

 粗末な城門は高さが足りず箱馬車(カメルス)が通れなかったので、サビーナ(のフリをしているセルカン)もセルカン(のフリをした奴隷軍人(マムルーク))に手を引かれ、他の兵士とともに歩いて門をくぐった。城門の内側にもかつて見たサナポリの町並みは無く、彼が幼いころを過ごしたような無秩序なスラムが広がっていた。辛うじて城門に繋がる大通りだけは舗装されていたが、その他は何の計画性もなく平屋のぼろ小屋が無秩序に乱立していた。その上大通りの脇の側溝が下水も兼ねているようで、なんだか少し嫌な匂いも漂っていた。カオスである。

 城門の脇ではなんだかやたらと大柄な兵士が2人で丸太のような木剣を振り回して雄叫びをあげていたが、それも別にスエーズ軍を警戒してる訳では全然なくて、単に二人で稽古をしているだけだった。木剣を打ち合う度にドガッ、ドゴッとすごい迫力だったから彼らにやる気が無い訳ではないようだが、やっぱり警戒心は無いようだ。それにずっと上の上司にあたるダングヴァルトがいるのに何の反応も示さないのは、軍事組織として大丈夫なのだろうか? その点でもカオスである。

 しかしセルカンが一番驚いたのは、大通りのずっと先にもう一つ城門があったことだった。彼が知る限りサナポリの城壁は一重だったはずだ。将軍(アミール)も同じことが気になったようで、ダングヴァルトに声を掛けた。

「城壁は2重なのでござるか?」

「えーと、ここは最短で……ひの、ふの、みの……」

ダングヴァルトは指折り数えだした。

「……12重、だったかな?」

「はぁ?」

常識外の答えに将軍(アミール)の目は点になった。二重三重の城壁は珍しくないが、十二重というのは前代未聞である。

「難民が2百万人近く雪崩れ込んで来たんで、逐次城壁を増築してその(くるわ)(注1)の中に住まわせているんですよ。既に(くるわ)の数は200を超えていますけど、毎日増えるんで正確な数は分からないんですよねぇー」

 つまり蜂の巣のように隔壁で守られた小さな空間を継ぎ足して継ぎ足して、だんだん大きくなっているのだ。カオスである。だが難民という無為な労働力を有効利用して後世に残るインフラを作るというのはスエーズの運河と同じ発想だ。転んでもタダでは起きないプレセンティナ人らしい発想だと言えよう。だが単にそれだけではない。有象無象の難民たちを個別の(くるわ)の中に隔離することで、個別に自治させることもできるし、暴動が起こっても他に飛び火する前に鎮圧することも出来る。少数で多数を管理するには、対処可能な少数にまで分断しておく必要があるのだ。それに純軍事的に見ても、紙のような防衛線でも12枚も重ねれば鉄壁だ。騎兵を主体とするモンゴーラ軍にとっては紙の防衛戦ですら難敵だし、ビルジのドルク兵が攻城兵器を持ってきても、11の城壁が邪魔になって本来の城壁には到底到達できないだろう。難攻不落である。尤も、例の火薬玉を考慮に入れなければの話なのだが。

「そ、それは凄いでござるな……」

「まあ、それを作ってるのは難民たち自身とムルス騎士団っていう迷路職人たちなんですけどね。おかげで俺も毎日のように迷子になってるんですよねぇー」

「はあ……」

防衛司令官がそんなんで大丈夫なのかと将軍(アミール)は眉を顰めたが、セルカンは無表情を保ったまま内心で驚いていた。

――ムルス騎士団が来てるのか! なるほど、無秩序な増築ぶりはそのせいでもあるのか……

 ムルス騎士団は東メダストラ海の孤島ローダス島を根拠地とするカルト教団だ。といっても教義なんか特に無いので単なるマッチョな戦闘狂集団なのだが、修行と称して迷路を作るのが趣味(?)だという変人たちでもある。かつて20万のドルク軍が海を渡ったが、たった500人のムルス騎士と修練の壁と呼ばれる大迷路に手を焼いてムルス神殿を攻略できなかったほどである。まあ、実際にドルク軍を追い詰めたのはイゾルテ率いるプレセンティナ海軍だったんだけど。それでもドルク軍が追い詰められるまで神殿を守り通したムルス騎士団の実力は折り紙つきだ。

――そういえばさっきの城門にやたらとデカい兵士がいたけど、あれもそうだったのかな……?

ムルス騎士団は独立国扱いだからプレセンティナ軍の命令系統には入っていないはずだ。なるほど、防衛責任者が側にいても無視して訓練している訳である。だがそうだとしてももう少しくらい敬意を示しても良さそうなものだが、そうされないのもダングヴァルトの人徳なのだろう。……悪い意味での。


 そのまま彼らは幾つかの城門をくぐり、同じ数の(くるわ)を通過した。郭によって町並みは様々で、ある(くるわ)は建物が整然と立ち並び、ある(くるわ)では市場が立っていて活況を呈していた。良い意味でのカオスだ。売り物は持ち出してきたなけなしの財産や手慰みに作った工芸品や生活雑貨、内戦の死者から剥ぎ取られたと思しき武器や鎧など様々だったが、中にはどこから持って来たのか新鮮な野菜や見慣れぬ根菜{ジャガイモ}までもが並んでいた。

「外縁部のくるわの中には農地ごと城壁内に取り込んだものがあるんですよ。そこで野菜を作って売ってるんです。どうしてどうして、難民も抜け目ないものですよねぇー」

ダングヴァルトはへらへら笑いながらそう(うそぶ)いたが、サナポリはエフメトから割譲された街で、城壁の外は現在ムスリカ帝国の土地だ。何の許可も得ないで勝手に領域を拡大しているのは明らかに不法行為なのだが、難民のせいにしてちゃっかり既成事実にしちゃっているのである。いったいどっちが抜け目ないのだろうか? だがそんな調子の良いダングヴァルトも次の城門に近づくと(にわか)に表情を改めた。

「次の(くるわ)は気をつけて下さい」

「何があるのでござるか?」

「文字通り……くるわ(◆◆◆)です」

「…………?」

将軍(アミール)は意味が分からず首を傾げたが、ダングヴァルトは意を決してその(くるわ)に足を踏み入れた。まるで入れば分かると言わんばかりに……

「あーっ、フー様! こないだ私が寝てる間に帰っちゃったでしょー!」

 入った途端にダングヴァルトに絡んできたのは、やたらと露出度の高い3人の女達だった。もうほとんど下着というべき極小の服(?)の上にすけすけのヴェールを纏っていて、それがひらひらする度に見えてはいけない物が見えてしまうのではないかと男たちの期待……ではなく、危機感を煽り立てていた。(サビーナのフリをしている)セルカンが胸元を扇ぐだけでそわそわしてしまう初心(うぶ)奴隷軍人(マムルーク)たちに太刀打ち出来るはずもなく、彼らは一様に頬を染めて顔を背けた。……横目でちらちらと胸元やお尻を観察していたが。だが女達は男の視線など慣れっこなのか、微塵も恥ずかしがること無く開けっぴろげな言い合いを始めた。

「何言ってるの、あんたが5回で気絶しちゃったから私が10回相手したのよ」

「そのあんたが倒れた後に私が15回したのよ。まったく回数無制限コースなんて廃止して欲しいわ」

 見た目と話し方はとっても娼婦っぽかったが、どうやらそれは誤解だったようだ。だって一人の男が一晩に30回もこなせる訳が無いから! セルカンは密偵として女を悦ばす技にも自信を持っていたが、精魂使い果たしても一晩で10回が限界だった。天国(ジャンナ)に行くと精力が100倍になって72人の天女(フーリー)とエッチしまくれる(注2)そうだが、この地上ではそうもいかない。一晩で30回もこなせる男など存在するはずが無いではないか!


――そ、それにこの女たちより俺の方が良い女だからな。それに俺に興味を示さないこの男が、同性愛者か小児性愛者であるはずのコイツが、こんな女達を買うはずがないもんな! そうだ、きっとあの女たちは会員制チェスクラブの打ち手か何かなんだ。露出度が高いのは対戦相手の集中力を削ぐための作戦に違いない! だが成人女性に興味のないこの男には色仕掛けが効かないから、何度対局しても勝てないんだ。……うん、そうだ。そうに違いない!

男としても女(?)としても誇りを傷つけられたセルカンは、そう思うことにしておいた。

「はっはっは、人違いだよ人違い。今の俺はダングヴァルトであって夜の帝王フルウィウスじゃないぞ。

 ちなみに回数無制限コースを用意することはこの遊郭(くるわ)に出店する際の条件にしてあるから、絶対に無くならないよ♪」

 悪びれないダングヴァルトは、否定しながらも自分がフルウィウスという人物だと半ば認めつつ、しかも公権力を濫用して"回数無制限コース"なるものを店に強制していることも自白していた。どういう料金体系だか知らないが、一晩に30回も相手をするなんて大変な重労働である。普通なら連続で5回もやれば寝落ちしても不思議ではない。……もちろんチェスの話だが。

「じゃあ、フー様に伝えといてよ。今度こそ朝まで耐えぬいて賞金をゲットするのは私だからね!」

「何言ってるの、私よ!」

「いーえ、私よ。私が一番回数が多かったんだからね!」

「はっはっは、きっとフルウィウスならこう言うだろうな。今度また来るから3人まとめてかかってきなさいって!」

「「「きゃー!」」」

 普通ありそうなのは「俺に勝ったら賞金を出すぞ!」というパターンだが、彼があまりに強すぎて勝てるはずがないから「寝落ちしないで最後まで対局し続けても賞金をやるぞ」ということにでもなっているのだろうか。しかもそれだけではダングヴァルトがつまらないから、ハンデとして3人まとめて相手をしようというのだ。……もちろんチェスの話だ。いわゆる多面打ち(注3)というやつである。なんだかいろいろ無理のある解釈だったが、セルカンはそう思うことで何とか折り合いをつけた。そう信じれば誰もが幸せでいられるのだ。優しい嘘である。

 ダングヴァルトは手を振って女達と別れると、将軍(アミール)に向かってわざとらしく肩を竦めてみせた。

「難民は男も女も単身者が多いんです。だからこの手の需要も供給も多いんですよ」

「……そういうものでござるか?」

 セルカンは妙なプライドのせいで彼女たちを娼婦だとは認められなかったが、別に女装癖のない将軍(アミール)は素直に娼婦だと理解していた。スエーズ人たちは売春には否定的だったが、実のところ子供の父親が分からなくなるのが問題なのであって、妻は4人までOKだったし女奴隷を買い取ってエッチするのもOKだった。(注4) 甲斐性さえあれば酒池肉林も構わないのだ。……国全体が甲斐性無しなだけで。だから難民たちの間で行われる限り売買春そのものには寛容だった。それにある程度はガス抜きをさせておかないと返ってより凶悪な犯罪や暴動を誘発させかねない。あんまりキツく取り締まると、思い余って最初にサラを襲っちゃいそうだったし。

 一方このサナポリでは、そもそも支配者であるプレセンティナ人自身が売春に寛容――というか積極的だった。船乗りは何ヶ月も家族に会えずに男だらけの職場で過ごすのだ。性欲を捨てられない以上、同性愛者になるか寄港地で娼婦を抱くしか無い。だから奴隷の権利には五月蝿いくせに性的には奔放なのだ。その一例として、ダングヴァルトの妻チェチーリアは高級娼婦出身だったし、それを隠そうともしていなかった。むしろプレセンティナは公的に娼婦を管理して犯罪と社会不安の芽を摘もうと積極的な介入まで行っていた。その結果がこの遊郭(くるわ)である。ここに住まう娼婦たちは過度にピンハネされないように財務監査が入り、健康診断も義務付けられ、定期的な休業の権利も保証されていた。尤もこの介入にはフルウィウスという謎(?)の男の個人的な趣味の影響もあったかもしれないのだが。とにかくそんな訳で、この遊郭(くるわ)の娼婦たちは健康的で明るく、活き活きとしていたのである。

「……ですので、この(くるわ)は気を付けないといけないのです。通り過ぎるつもりでも、ついつい道に迷ってしまうので」

だが大通りは一直線で、その両側に娼館が建ち並んでいるだけだ。建物自体は猥雑だったが、とても迷いそうな町並みではなかった。それに言い方も変だ。

「つい? うっかりではなくて?」

「ついつい、ですよ」(注5)

ふと見ると商魂たくましい娼婦たちが行軍中の奴隷軍人(マムルーク)たちにまで客引きをしていて、中には手を引かれて付いて行きそうになっている者までいた。なるほど、さすがに脱走だとは思えないが意図的に道に迷っているようだ。

「バカもぉーん! 列を乱すな!」

将軍(アミール)が大喝すると兵士たちは慌てて列に戻ったが、今度は名残惜しげに女達に手を振ったりしていた。今夜は厳重に監視しないと、本当に脱走してしまうかもしれないようだ。


 さらに幾つもの(くるわ)を通りすぎて本来の城門をくぐると、そこには以前と変わらぬ立派な町並みがあった。これほど整然としていて統一感に溢れた街は世界中のどこにも無いだろう! ……と思えるのはこれまでの(くるわ)がカオスだっただけで、旧市街はどこにでもある猥雑な交易都市の姿だった。猥雑さは自由闊達に交易が行われている証明だから、あながち悪いことではないのだけど。

 奴隷軍人(マムルーク)たちはそこに待機していたプレセンティナの兵士たち(実際にはヘーパイスツス傭兵)に付き添われてそのまま港に向かったが、将軍(アミール)とサビーナ(のフリをしたセルカン)だけは街の中心に聳える総督府へと連れて行かれた。どうやらサビーナ(の偽物)が敵を誘引する上で重要な鍵であるということは伝わっていたようだ。

――ってことは、最初から俺が男だと知っていたのかな? なんだ、それなら俺に反応しなくても仕方ないな!

セルカンは内心安堵したが、それでも一晩で30回もする自信がなかったので、依然としてさっきの女達はチェスの打ち手だと思うことにしておいた。

 総督府に着く頃には日が落ちて薄暗くなっていたが、彼らは何故か中庭へと連れて行かれた。中庭には篝火が焚かれ、一人の老人が待ち構えていた。その老人を前にして、ダングヴァルトは真剣な顔つきになって慇懃に腰を折った。やはり先程までのいい加減なキャラクターは演技だったのだろうか。

「総督閣下、ムスリカ帝国の(スルタン)、バール陛下をお連れ致しました」

その態度といい言葉遣いといい、一分の隙もなく完全に礼節に適ったものであった。……内容はともかく。将軍(アミール)は申し訳なさそうに声を上げた。

「あの……私は(スルタン)じゃないんですけど……」

「「え……?」」

「私は一介の将軍に過ぎません。バール陛下は我らを脱出させるために自ら殿(しんがり)となられたのです。恐らくは亡くなられたことかと……」

総督は固まった笑顔のままギロリと息子を睨むと、タイトン語で怒鳴りつけた。

「……どういうことだ? 情報戦はお前の専門なんだろう? 両陛下がお越しになると聞いてたのに、どっちも違うではないか!」

「いや、だって(スルタン)が死んじゃったなんて光通信では言ってなかったし! それに『世界一の美少女が行くから全身全霊で歓待しろ。具体的には焼き肉』って言われたらイゾルテ陛下が来るって思うじゃん!」

確かに焼き肉接待を求める美少女なんてイゾルテくらいだろう。それはたぶん本当にイゾルテ自身が来るつもりだったからそう連絡したのだろうが、バールが死んだことを伏せたのは情報を秘匿するためだろうか。スエーズの政情を考えてのことなら、当然スエーズにも伝えていないのだろう。

「焼き肉はともかく、イゾルテ陛下用に作ったドレスとかアクセサリーとかどうするんだ? その娘じゃあ全然サイズが合わないじゃないか! そもそも陛下に贈らなきゃ賄賂にならん!」

「また今度陛下に渡せば良いだろ! 俺なんか裏から女子会を企画してちーちゃんを他所にお泊りさせ、遊郭(くるわ)も素通りして準備も精力も万端整えて迎えに行ったのに、イゾルテ陛下じゃなかったんだぞ! 俺は今夜一人ぼっちで寝ないといけないのかっ!?」

「それこそ知るかっ! ちーちゃんほどの嫁を貰いながら、まだイゾルテ陛下に熱を上げとるのか!」

「ふっ……熱を上げてるのは陛下の方さっ!」

「「絶対違う!」」

期せずして総督とセルカンの声がハモった。将軍(アミール)はタイトン語が分からずきょとんとしていたが、総督親子は美女が突然男声で怒鳴ったことにビックリしていた。彼らはサビーナ(のフリをしたセルカン)が男だとは聞いていなかったようだ。

「……俺はイゾルテの代わり……というか、サビーナという女性の代わりになろうとしていたイゾルテの代わりにここに来た。事情は複雑なんだが、サビーナはビルジにとってはアキレス腱ともなり得る女だ。だからイゾルテは敵を引き付ける餌としてサビーナのフリをしてここに来ようとしていたんだ」

「「…………」」

二人は親子喧嘩とか浮気未遂や贈賄未遂の自白を聞かれてしまったことに気付いて、バツの悪そうな顔をした。

「ちなみにサビーナはイゾルテよりも可愛いから。そして俺もイゾルテより美人だから!」

「「…………」」

総督親子に無言で見つめられて、今度はセルカンがバツの悪そうな顔をした。総督はなんだか微妙になってしまった空気を誤魔化すようにゴホンと咳払いして、今度こそ将軍(アミール)に向き直った。

「と、とにかく、謹んでお悔やみ申し上げる。バール陛下のことは残念ですが、あなた方がギリギリ間に合ったのも陛下のおかげでしょう」

「ありがとうございます。しかし……ギリギリですと? 敵は斥候を送ってきただけで一向に追撃を受けませんでしたが?」

将軍(アミール)が疑問を伝えると、ダングヴァルトは驚くべきことを言い出した。

「敵の騎兵が150ミルムの所まで迫ってきています。夜間も移動しているようですから、明後日にはこの街に到着するでしょう」

「なっ……! 今になって、なぜそんな強行軍で?」

2ヶ月の間一切追撃をして来なかったのに、今更どうしてそんなに急いでいるのかは誰にも分からなかった。しかし将軍(アミール)やセルカンには、もっと理解できなくて戸惑うことがあった。ダングヴァルトがまるで敵が「今現在」そこに居るかのように話したことだ。

「お待ち下され。斥候が敵の姿を確認したのは何日前のことでござるか? それが2日前なら、今まさに敵が押し寄せてこないとも限りませぬぞ!

 攻城兵器を用意するのに時間がかかるとお考えなのかもしれませぬが、敵は攻城兵器を用いずとも城門を破る術を持っているのでござるぞ!」

軍事に携わる者にそんな基本的な忠告をするのはある意味失礼ですらあったが、将軍(アミール)がそう懸念するのも尤もなことだった。なにせ騎馬民族が強行軍しているのだから、海洋民族であるプレセンティナ人の斥候より速い可能性すらあるのだ。

「安心して下さい。最後に敵の所在を確認したのも30分前のことですよ」

「……30分? バカな!」

将軍(アミール)は困惑して眉を顰めた。徒歩の彼らは一番外の城壁からここまで半日近くかかったのだ。いくら早馬でも30分では到着できないだろう。

それなのに150ミルム先に敵がいるのを見て30分で総督に報告したというのだ。あり得ない! だがダングヴァルトは静かに笑うと、片手を上げて窓の外に浮かぶ丸い月を指差した。

「我々にはふくろうの目があるんですよ」

「月のことでござるか? いったい月がなんだと言うのでござるか?」

将軍(アミール)が肩を竦めてそう言うと、(サビーナのフリはやめたけど女装したままの)セルカンが固い声で囁いた。

将軍(アミール)……今日は半月です」

「あっ……! では、ま、まさか……まさかあれが……あれは月ではなく……!」

空に浮かぶ黄金色の月が本物の月ではないと悟り驚愕する将軍(アミール)に対し、ダングヴァルトはニヤリと笑った。

「ふっふっふ、そう、あれこそイゾルテ陛下の……」

「使い魔でござるな!」

「……えっ?」

セリフを途中で奪われたダングヴァルトを置き去りに、将軍(アミール)は感激していた。

「イゾルテ殿が空を飛ぶ金色の精霊(ジン)を使い魔にしていると、以前サラ様が言っておられたのでござる! なるほど、その精霊(ジン)が千里眼の持ち主でござったか!」

「「…………」」

総督親子はきょとんとして互いに目配せをし合っていたが、結局そのまま誤解を解かなかった。まあ、機能的にはだいたい似たようなものだし。

「えーと、まあ、そういうことです。敵の方は我々が完全に把握しておりますから安心して下さい。

 船が用意してありますから、スエーズ軍の方々はこのまま本国にお戻り頂きます」

むしろ味方のことは把握していなかった訳でセルカンはあんまり安心できなかったが、将軍(アミール)は素直に頷いた。彼はバールの遺書を指導者(ハリーファ)に届ける必要があったし、イゾルテと合流して反撃の準備をしなくてはいけないのだ。

「では、宜しくお願いするでござる。我らが再び駆けつけるまで、敵のことは頼みましたぞ」

そう言って将軍がポンと叩いたのは……セルカンの肩だった。

「え? お、俺?」

「サビーナ殿として敵を引きつけておいて下され」

「…………」

そういう訳でセルカンは、まだ当分サビーナでありつづける必要があるようだった。

注1 (くるわ)とは、城壁で囲まれた空間のことです。違う漢字を使って(くるわ)曲輪(くるわ)とも言います。

ここから転じて塀で囲まれた風俗街を、遊郭(ゆうかく)だとか単に(くるわ)とも言いました。


注2 イスラム教における天国は素晴らしいです。仏教やキリスト教では「憂いがない」的なほんわかふわふわなものを連想させますが、イスラム教は俗物的なものです。

まず、酒が川になって流れてます。地上では飲酒童貞だったイスラム教徒が、悪酔いしないお酒をがぶ飲み出来るのです。

もちろん肉や果物も食い放題です。120分とかの時間制限もありません。

その上フーリーと呼ばれる72人の美女がお出迎えして性的に接待してくれます。彼女たちは処女ですが床上手です。経験豊富だからです。経験豊富なのに処女なのです! 何度抱いてもすぐに処女膜が再生するのです! なんと素晴らしい! なんだかすごく面倒くさい気がするのは、きっと気のせいです!

しかし、子供も生まれないのにセックスし放題って……汝姦淫するなかれ(十戒)はどこに行ったんでしょう? 

それにしても、聖母マリアの処女受胎をありがたがるキリスト教とはえらい温度差ですねぇ……


注3 多面打ちというのは、将棋・囲碁・チェスといった1:1で行うボードゲームを、一人対複数人で(ボードも複数枚用意して)同時並行的に行うことです。

実力差が大きいと弱い方はうんうん唸って長考しちゃいますが、強い方は一瞬の判断だけで指しても余裕で勝てます。でも相手が悩んでる間待ってなくてはならないので時間がもったいない。だったら同時にやっちゃえという至極合理的な考えですね。

ファン感謝デーとかで一人のプロが複数の素人をまとめて相手してくれるそうです。……ボードゲームの話ですよ?

武術の達人が100人組手をやっても1:1を100回繰り返すだけなのに比べて、多面打ちはリアル無双ですね。えらく地味な無双ですけど……


注4 コーランによると、子供の身分は父親ではなく母親に従って決定されます。つまり一般市民から生まれれば一般市民、女奴隷から生まれた子供は奴隷身分になります。まあ、父親が主人なんだからちゃっちゃと解放しちゃいますけどね。

でも逆説的に言えば、女奴隷に子供を生ませてもOKということです。

トマス・ジェファーソンも、イスラム教徒だったら文句を言われなかったかもしれませんね。


注5 日本語のニュアンスの話ですが、「つい」は習慣的に行動してしまう際に使いますが、「うっかり」は不注意によるミスをした際に使います。

「ついつい道を間違える」ことや「うっかり道を間違える」ことは十分にありそうですが、「うっかり道に迷う」ことはあっても「ついつい道に迷う」ことは普通はありません。あるとしたら「毎回毎回わざと道に迷っているので、今日はそうしない予定だったけど習慣的に道に迷ってしまった」というニュアンスになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ