遺言2
バブルン陥落から2ヶ月、ドルクの情勢は意外なほど落ち着いてた。激しい追撃を覚悟していたスエーズ軍も、モンゴーラ軍の追撃を受けること無く西へ西へと逃避行を続けていた。その足は緩やかで緊迫感もあまりなく、若い女性が道端の花園にしゃがみこんで、花を摘んで香りを楽しむ余裕すらあった。
「さびーなサン、休憩オワリデース! 戻テクダサーイ!」
サビーナと呼ばれた女性は、遠くから片言の異国言葉で呼ばれて顔を上げた。すると側にいた奴隷軍人がすっと手を差し出したが、彼女はその手を取ることなく小声でそっと囁いた。
「バカ、俺は目が見えないことになってんだ。お前から俺の手を取らなきゃならないんだよ!」
奴隷軍人は口の端をヒクヒクさせながらも笑顔で彼女の手を取ると、スエーズ軍の方へと歩き出した。
「くそっ、なんで俺がこんなことをしなくちゃいけないんだ!」
「それは俺のセリフだっ!」
二人は(傍目には)仲睦まじそうに寄り添いながら、小声で悪態をつき合った。彼らがこんなことをしているのも全てイゾルテのせいである。
バブルンが陥落したその日の夜、セルカンは荷馬車の中でぐっすりと眠ることが出来た。というか、むしろ寝すぎた。おかげで彼が目覚めた時、既にプレセンティナ艦隊もスエーズ軍も出発していたのだ。……彼を荷馬車に乗せたまま。
「ど、どいうことだっ!?」
狼狽えてあたりを見回したセルカンは、無人のベッドの上に置き手紙と女物の服が置いてあるのに気づいた。
『あんまり気持ちよさそうに寝ていたので、起こさないでおいた。
それとこの馬車は船に載せれないので、スエーズ軍にプレゼントした。
出発前に降りないと連れて行かれちゃうぞ(笑) by トリス』
「あのアマっ……!」
彼は驚きと怒りに肩を震わせ、クシャリと手紙を握りつぶした。だがそれを放り捨てる前に裏にメッセージの続きがあることに気づいた。
『追伸 サビーナのフリをしてくれ。そうしないとビルジはサビーナを探し続けるぞ』
「…………」
セルカンはぐうの音も出なかった。確かにビルジは保身と安いプライドと変態的な欲求からサビーナを追い続けるだろう。だからこそ敵を誘導するための餌にも使えることを、彼も心得ていたのだ。
――馬車で休んで行けって言ったのも、敵をサナポリに引き付けるという作戦を俺に聞かせたのも、全てはこのためだったのか……
もし誘導に失敗すれば、ビルジはきっとエフメト派の牙城たる北部へと向かうことだろう。しかしビルジだけならともかく、エフメト派にはプラグの本隊を倒す力など有りはしないのだ。敵が北へ向かえば、ハシムやテュレイは死ぬだろう。だがもちろんセルカンとしては、サビーナを危険な目に合わせたくなどない。だったら誰かがサビーナの代わりに囮になる必要があるのだ!
セルカンにこの頼みを断ることは出来なかった。彼は渋々その変装用と思われる服を手にとって……気づいた。その服がセルカンよりも、それどころかサビーナよりもずっと小さいサイズであることに。特に胸が! こんな小さい服を着れるのは女だけだし、こんな大きな胸パッドを入れなければならない女は一人だけだ。誰がこの服を着て囮になるつもりだったのか、彼は悟らざるを得なかった。
――俺に恩を着せるためにこの服を用意した……はずはないか。俺が死んでいた可能性だってあったし、サビーナ自身を囮に使うのが一番確実なのだ。しかも見えっ張りなあいつが、俺に見せるためだけにわざわざ胸パッドを付けたとも思えないしな……
彼は服に布を継ぎ足して無理やり自分用に仕立て直すと、それを着て自らサビーナ(偽)になった。彼の代わりにセルカン(偽)となってサビーナ(偽)とイチャイチャしなくてはならない奴隷軍人はいい迷惑だったが。
。
15万の歩兵と膨大な物資からなる長大な行列を引き連れ、ついにビルジは帝都バブルンに帰って来た。ついにって言う割には本人は何の苦労もしていないんだけど。
一方最大の功労者であるティムルは片腕と片足を失ったもののその後は順調に回復し、今では杖を使って歩いたり愛馬に跨って遠乗りに出ることすら出来るようになっていた。シロタクの信頼を得たことでビルジに怯える必要が無くなったため、その顔色はむしろ以前より明るくなっていたかもしれない。そして今日、ようやくバブルンに到着したビルジをシロタクとともに迎える彼の表情も、不具者とは思えぬほどに精気と自信に満ちていた。
「……シロタク殿、ティムル殿、出迎え大義だ」
ビルジは少しばかり言葉に詰まりながらも、十分に通じるレベルのモンゴーラ語を口にした。しばらく会っていないうちにマフズンが(そこそこ)モンゴーラ語を話せるようになっていて、自分だけ話せないのが嫌で行軍中の暇つぶしも兼ねて覚えたのだ。もともとビルジは頭が悪いわけではなく、彼が外国語を覚えようとしなかったのは、ただドルク以外の国々を見下しているからに他ならない。モンゴーラと一緒に軍事行動を行うようになって、ようやく重い腰を上げたのだ。もっとももしセルピナが同行していたら、きっと彼女から(彼女はモンゴーラ語が話せないから、大して必要のない)カンザスフタン語を教わったことだろうけど。
「状況を教えてくれるか?」
「食料が足りず兵は動かしていません。斥候は放っていますが、このバブルンを始めとして東西の大河沿いにある都市、町、村、尽くが無人のまま打ち捨てられています」
ビルジに答えたのはティムルだった。兵のほとんどがアムリル部の民だったので、斥候の報告を直接まとめていたのも彼だったのだ。だがその報告を聞いてビルジは眉をしかめた。
「無人だと……?」
いくら土地を手に入れても農民がいなければ収穫は得られない。というか、だからこそ彼はエフメトの手に渡る前に無茶苦茶にしていったのだが。
「スエーズ軍はどこへ行った? エフメトは?」
「バブルンから退いた敵の残党は、大河を越えてもまだ西に向かっています。北も山岳部に至るまで敵影はありません」
「むぅ……」
いくら今この瞬間の生産力が皆無だと言っても、本来この中央平原はナイールに次ぐ巨大な生産力を持つ大穀倉地帯なのだ。無人にはなっても無主になるとは考えにくいことだった。
「なぜだ? なぜエフメトは出てこないんだ……?」
自問するように呟いたビルジに、マフズンが答えた。
「密偵によるとエフメトは怪我で動けないという話です。病室から一歩も出てこないそうです」
「怪我? ……そうだったな。しかしそれなら信頼できる部下を、ハシムを派遣すればいい話だろう」
「確かに。ですが自分の死後の事を考えれば、幼子の後見としてハシムを側に置いておきたいはずです」
ビルジははっと息を呑んだ。(口には出さないがあんまりマフズンを高く評価していない彼とは違って)エフメトはハシムを股肱の臣だと考えいるはずだ。だからこそハシムに主力を任せて自分自身を囮にするという思い切った作戦を練ることも出来たのだ。そして、ハシム以外の者にバブルンを攻めさせることが出来ないのは逆の理由だ。もしあの時ハシムに僅かでも異心があれば、今頃ビルジとエフメトは兄弟仲良く首を並べていたかもしれない。ハシム以外の人間など論外だ。
「なるほど、エフメトが動けないの分かった。しかしスエーズ軍は逃げ過ぎじゃないか? せめてユーロフラテンス川で踏みとどまって防衛を試みるべきだろう」
それを攻撃側のビルジが言うのも妙なものだが、こうも引き際が良いと何か裏があるのではないかと不安になるのも仕方がないことだ。
「実は、戦場跡にこんな刀が転がっていたのだが……」
横からシロタクが差し出したのは、大きく湾曲した抜身の片刃刀だった。ビルジが持つ装飾過多な飾り物とは違って実用的で実戦向きなものではあったが、柄には銀細工が施され小さな宝石まで埋め込まれていた。明らかに特別な身分の者の持ち物である。そしてその刀身にはこう書かれていた。
『神とムスリカ帝国に栄光と平安あれ! 指導者アリーの配偶者にして王、バール・アッディーン』
「かみ……むす……て……?」
「……読めないのか?」
「失敬な! 確かに読めないけど失敬な! これはドルク語じゃなくて聖典とかに使われてる古アルビア語の文字なんだから仕方がないだろう!?」
彼はバカではないのだが、その性格も行動も敬虔さとは縁遠かったので、わざわざ説教を聞きたくも読みたくもなかったのだ。
「そういうものなのか? 捕虜になっていた海軍士官に見せた所、これはどうやらスエーズの王の持ち物らしい」
ビルジは驚くように方眉を上げた。
「ほう? では王を討ち取ったのか?」
「それがこの刀は城門の上から投げつけられたもので、誰が持ち主なのか分からないのだ。なにせ乱戦だった上に街中が火事だったから、身分を確認できない遺体が山程あったのだ」
さらに言えばこの周辺の風俗に詳しくないシロタクやティムルには、総じて質実剛健(というか質素倹約?)な奴隷軍人たちの装束から社会的階級を割り出すのは難しい。唯一の例外とも言うべき刀を投げ捨てちゃっていたバールは小部隊の隊長くらいにしか見えず、十把一絡げに身ぐるみ剥がされて郊外で風葬(というか実質的には放置)されていた。今頃は腐敗してるか白骨化しているだろうから、何をどう頑張っても識別は不可能である。だが遺体が確認できなくても、死ぬなり重傷を負っていると考えればスエーズ軍の消極的な行動も納得できた。
「そうか、スエーズも王が不在なのか……」
北の敵も西の敵も動くに動けない理由があるというのなら、ビルジ達はバブルンを堅守するだけでなく広く行動の自由を与えられたことになる。エフメト(というかその妻のニルファル)に深い恨みのあるシロタクはニヤリと笑った。
「では、心置きなくエフメトを攻められるな」
しかし主将たるビルジの考えは違った。
「エフメトが生死の境にいるのなら、今攻めかかっても詮なきことだ。死ぬなら死んだ後の混乱を狙うべきだし、万一回復するにしても時間がかかる。その頃にはプラグ殿の本隊も到着するだろう。
それよりも逆に、プラグ殿の本隊が来る前に海路を確保すべきだ。海路を確保出来なければ補給もままならない」
ビルジが得意なのは戦術でも戦略でもなく政略だ。戦争に限定すれば軍政家であると言えよう。何だかんだ言いながらも15万の歩兵を揃え、膨大な食料を挑発して見せたのはその現れだ。しかしその裏には実に女々しい思惑も隠されていた。セルピナの救出である。
海賊は彼女の左右のおっぱいは切り落とすと脅していたが、男としてそんな勿体無いことをするはずがないと彼は信じていた。(まあ、そう言ったのは女なんだけど) そして性病の潜伏期間が終わった彼女は海賊たちに心置きなく弄ばれているだろうけど、もともと性病にかかっていた(かもしれない)彼女に処女性なんか求めるはずもないのだ。むしろ「俺は一回もやってないのに、海賊たちは毎日毎日やってるんだろうな。羨ましいぞ、畜生!」と思っていた。
「待たれよ、それでは話が違う! 協力してエフメトとニルファルを捕える約束だったろう!」
シロタクは思わず声を荒げたが、ビルジは毅然として首を振った。
「もちろん俺もそうしたい。だがこの手があいつに届く前に、あいつは勝手に死んでしまうかもしれないのだ……」
「…………!」
ビルジの残念そうな言葉を聞いて、シロタクは彼の気持ちを思い出した。ビルジはエフメトを愛していたのだ! (と、彼は思っていた) ニルファルに寝取られた(?)愛する弟を奪い返し、彼女の前で抱くと宣言していたではないか! (とも取れる言葉を、以前ビルジは口にしていた)
――変態は変態なりに強い執着があったのに、戦略に私情は挟まないというのか……。変態のクセに!
それに比べてシロタクの主張はニルファルへの私情に満ち満ちていた。変態ではないが恥ずべきことだ。変態ではない彼も自らを恥じて口を噤んだが、それをマフズンは不満から黙り込んだのだと取り違えた。傲慢なビルジは角を立てやすいので、場をとりなす(というか誤魔化す)のは彼の重要な仕事である。
「まぁまぁ! 今日は陛下も私も疲れております。まずは一休みして、明日にでもまた相談いたしましょう。いかがですか、ティムル殿?」
ティムルは心情的にシロタクの味方をしたかったが、強大なエフメト派と戦って死ぬのはゴメンだった。海上に逃げるのが分かり切っている海賊を襲うのもバカバカしい。本隊が到着するまでバブルンを守っているべきだと思ったが、ここでそれを主張して二人に恨まれるのも馬鹿馬鹿しかった。
「そうですな。休めば名案が浮かぶかもしれません」
ティムルの言葉でその場は解散となった。
宮殿を辞したティムルは器用に杖を操って愛馬に跨ると、自らの宿舎にしている礼拝堂へと帰ってきた。ここだけはバールも火を付けることができず火災を免れていたのだが、そのせいでアムリル部の司令部として機能しているのだから皮肉な話である。そしてそこで彼を待っていたのもまた、とても皮肉な報告だった。
「ティムル様、敵を追跡していた斥候から重大な報告が届きました」
「どうした? 反攻でも企てているのか?」
「いえ、それが、敵に同行しているようなのです」
「誰が? ああ、スエーズの王が生きていたのか」
「いえ、その……サビーナ様です」
「…………!」
ティムルは驚愕に目を大きく見開いて、その部下をまじまじと見つめた。サビーナが生きている(かもしれない)ことは部下には秘密にしていたから、当然ながら斥候たちは公式発表通りサビーナは死んだと思っているはずなのだ。それなのに「死んだはずの人間が敵と一緒にいる」などという報告をするということは、よほど確信があるのだろう。だがそうと分かっていても、ティムルは確認せずにはいられなかった。
「……確かにサビーナなのか?」
「誰もサビーナ様を見知った者はおりませんでしたが、カンザスフタン語を話す盲目の美女が、敵の兵士からサビーナと呼ばれていたそうです」
滅多に人前に出なかったサビーナの顔が知られていないのは仕方がないことだ。だがこの世の中で盲目の女性が生き残れるのは、人に傅かれるほんの一握りの身分の者だけだ。更に異郷の地にあってカンザスフタン語を話すサビーナという名の女となれば、到底別人とは考えられなかった。
「そうか、生きていたか……」
ティムル心は千々に乱れた。姪が生きていたことを喜ぶ気持ちも確かにあったが、同時に様々な疑問が脳裏を駆け巡った。サビーナは最初から敵の手で拐かされたのだろうか? それとも逃げ切れないと悟って自ら敵に身を投じたのだろうか? あるいは素性を隠したまま一般人として保護されているだけなのだろうか? できれば世界の端で静かに暮らしていて欲しかったが、モンゴーラの方が世界の果てまで征服する勢いだ。後腐れなく殺して闇に葬るか、あるいは内々に捕らえて密かに匿わなくては安心できない。
――敵に取引を持ちかけるか? いや、ダメだな……
敵がサビーナの素性を知らないのなら、こちらから教えることになってしまう。それでは藪蛇だ。
――やはり力づくしかないか。あるいは戦いの中で死んでしまうかも知れないが、それもあの子の運命だろう……
そのころ遥か東方のヒンドゥラの旧都デレーでは、一人のツーカ人が宮殿の中を歩いていた。プラグ配下の武将カク・カクである。プラグの配下には勇猛で有能な指揮官は掃いて捨てるほど居たが、その上攻城兵器に加えて火薬までをも使いこなす智まで備えているのは彼だけである。だから必然的に、ヒンドゥラの遺臣が立て籠もった各地の城塞を攻略するのに引っ張りだこになっていた。そのカク・カクが東部で5つほど城を落として旧都デレーに戻って来ると、足を休める間もなくプラグからの呼び出しを受けた。
「お呼びですか、プラグ様」
「ああ、お前に見てもらいたい物がある」
プラグがパンパンと手を叩くと、侍女が黒く小さな潰れた筒を捧げ持ってきた。ツーカ人であるカク・カクにはそれが何であるか一目で分かった。
「これは印籠でございます。ツーカでは印章の携帯用容器として使用しております」(注2)
「やはりツーカの産品か。シロタク殿がバブルンで見つけたらしいのだが、蓋の内側にツーカ文字が書かれていたのだ。ちなみに中身は薬だった」
カク・カクは印籠を手に取ると蓋の内側を覗き込んだ。
「ふむ、確かに。どうやらテ・シという人物が贈った物のようでございます」
「なんだ、ただの名前か。有名な奴か?」
「いえ、私は存じません。それにこの印籠自体、私が知るものとは趣が異なります。このように鮮やかな金箔模様{蒔絵(注2)}は見たことがございません。もっとも私は華北の生まれですから、あるいは江南の物かもしれませんが」
広大なツーカ帝国では北部と南部で気候も風俗も異なる。彼は先んじてモンゴーラの支配下となった北部で生まれ育ったので、最近までソウ王朝の支配下に留まっていた南部の文化・風俗には馴染みが薄いのだ。
「しかしツーカ人でテ姓といえば、鯰髭の男もそうではなかったか? ヒンドゥラ王に要らぬことを吹き込んだ男だ」
「そういえば……テ・ワ、でございましたか」
「そうだ」
テ・ワを名乗る鯰髭のツーカ人の存在はこのデレーを占領した後に判明したことである。彼がプラグの侵攻に先駆けてこのデレーを訪れ警告したことで、ヒンドゥラ王は大軍を揃えてプラグを待ち構えることが出来た。もしビルジがヒンドゥラを裏切らなければ、あわやプラグは戦場の露と消えるところだったのだ。プラグとしては面白いはずもなく、テ・ワの名を聞いて顔をしかめていたが、カク・カクもすっと目を細めて難しい顔をした。
「モンゴーラに抵抗するテ姓の人物といえば……1人思い当たる者がおります」
「ほう?」
「しかもその者の母親はツーカの東の島国――ワ国の者で、本人も幼いころはそちらで育ったという話でございます。異国風の印籠を所持していても不思議ではないかと」
「妙に素性に詳しいな。それは何者だ?」
「その者の名はテ・セコ。通称……国姓爺(注2)」
カク・カクが静かな声でその異名を口にすると、プラグは目を丸くした。
「なにっ、あの国姓爺か? テ・ワはその縁者だというのか!?」
国姓爺ことテ・セコはソウ王朝滅亡後もモンゴーラに抵抗し続ける唯一のツーカ人勢力の首領である。もはや他のツーカ人抵抗勢力は草の根のゲリラ活動くらいしか出来なくなっていたが、テ・セコだけは大陸を追われた後もテーワン島に根拠地を構え、組織だった抵抗活動を繰り広げていた。
「もちろん何の確証もございません。しかしこのヒンドゥラにまで使者を派遣する力があるのは彼奴一人でございます。しかも彼奴と同盟を結んだワ国やナエツ国(注3)はクビレイ様の軍を退けたとも聞き及びます。その同盟にヒンドゥラが加われば、大モンゴーラに匹敵する力となっていたかもしれません」
「…………」
その恐ろしい想像にプラグは言葉もなかった。もしカク・カクの言葉が事実で、プラグがヒンドゥラ軍に敗れていたら、東西から挟撃される形となったモンゴーラは窮地に立たされていただろう。力で屈服させた諸民族も抵抗を始め、モンゴーラは再び北の草原へと追い落とされていたかもしれない! だが実際にはプラグは紙一重でヒンドゥラを破り、今こうしてデレーの玉座に腰を下ろしていた。テ・セコの大戦略は脆くも崩れ去ったのだ。
「……それならこの印籠はテ・ワの物ではないな。もしテ・セコの遣いだったなら、とっくに東に帰ったはずだ。あるいは路銀のために売り払ったのかもしれぬが」
しかしほっと緊張を解いたプラグとは違い、カク・カクは未だ難しい顔をしたままだった。
「そうとは限りません。確かにテ・セコと同盟を結べるのはヒンドゥラが限界でございましょう。しかしドルク以西の国々をまとめ上げ、テ・セコとは別にモンゴーラに対抗することは出来るかもしれません」
壮大な計画ではあったが、痴人の夢だった。
「……はああぁ? たかが中年男1人だぞ? そんなこと出来るわけ無いだろう」
プラグは思いっきり呆れた。何で初めて会ったオッサンの言葉を信じて幾つもの国が大同団結しなくてはいけないのだろうか。キルギス大汗が大モンゴーラを統一するまでにどんだけ血を流したと思っているのだろうか? しかしカク・カクの表情は晴れなかった。
「前例がございます。太古の昔――ツーカが7つの国であった戦国時代にソ・チンという在野の賢者がおりました。彼は身分も富も人脈すらも持っておりませんでしたが、その三寸不爛の舌で以ってやにわに6つの国をまとめ上げ、強大な一国に対抗させました。これを合従と申します」(注5)
プラグは皮肉げに口の端を歪めた。現状に当て嵌めれば、仲間はずれの一国がモンゴーラであることは明らかだ。
「ソ・チンはそれを一人でやったと申すか」
「はい、ツーカでは大変有名な故事です。テ・ワが一廉の人物であれば、間違いなく知っておりましょう」
「……なるほど」
それが実現可能かどうかはともかく、テ・ワが自分をそのソ・チンに準えて西へと向かった可能性はあるかもしれない。それが可能かどうかはともかく、キルギス大汗に憧れて自分を彼に準える若者はモンゴーラにも多いのだ。
「それにシロタク殿の話ではハサールに異民族が協力していたとか。それも平原でモンゴーラ騎兵を蹴散らすような強力な敵です。ハサールの支配下にある者達とはとても思えません」
確かにその通りだ。そんなに強かったら逆にハサールの方が属国になってるところだが、それならそれで属国が攻められたところでわざわざ守りに行かないだろう。プラグはなんだか不安になってきた。きっとソ・チンもこうやって不安を煽ったのだろう。
「しかし、それにしてはあっさりとバブルンが落ちたぞ? たった5万の騎兵でだ! 大同盟があるのなら万全の体制で迎え撃っているはずではないか?」
しかしカク・カクはその当然の疑問すら一蹴してしまった。
「我らのことは抜きにしても、ビルジ殿がバブルン奪還を狙っていることは敵も知っていたでしょう。もし同盟が無かったとしたら、あまりにも脆すぎると思いませんか?」
プラグとてバカではない。彼はカク・カク言いたいことを悟って頬を引き攣らせた。
「……誘い込まれた、とでも言うのか?」
「ただの思いつきでございます。確証は何もございません。ただ単に相手が愚かなだけかもしれません。
しかしもし誘い込まれたのだとすれば、それは一国で出来ることではございません。最低でも周辺諸国との間に不戦の約定があるはずです。そして実際に我らの脅威が迫った現在、それは攻守同盟に発展していても不思議ではありません」
「…………」
それは仮定に次ぐ仮定ではあったが、それぞれの仮定はそれなりに筋が通っていた。そもそもツーカ帝国の伝統的外交姿勢は「夷を以て夷を制す」(注6)だ。キルギス大汗が大モンゴーラとして大統一する以前も、ソウ王朝は舌先三寸で遊牧諸族を互いに争わせ、自らは一兵も出すこと無くその勢力が大きくなることを防いでいたのである。だがそのソウ王朝も、結局は大モンゴーラの前に滅び去ったではないか!
「しかし、結局ツーカは1つの国となったのだ。合従は敗れたのであろう?」
いかにもモンゴーラ人らしい身も蓋もない言葉であるが、それだけに明らかな真理でもあった。ツーカ人は理屈を捏ねているうちに本質を見失うことがあるが、モンゴーラ人は単純明快に真理を衝くことがある。カク・カクはそれを知っているからこそモンゴーラに仕えているのだ。問題は常にそうだとは限らないことだけど。
「はい、合従を破ったのは連衡(注7)でございます」
注1 印籠は室町時代に明から伝わったそうです。当初は文字通り印章を入れていたのですが、江戸時代には薬入れとして普及しました。
また印籠といえば水戸黄門が有名ですが、あれは三つ葉葵の御紋が重要なのであって小刀や櫛でも構いません。許しもなく三つ葉葵の御紋を入れると身分詐称&不敬罪で死罪ですから、徳川・松平氏族か特別な贈り物として貰った人であるという身分証明になるからです。
印籠自体は町人が使っても全然構いませんし、蒔絵を使っても(贅沢禁止令に触れること以外は)問題ありません。
注2 蒔絵は漆器に施される装飾技法の1つで、漆が乾く前に金箔の粉をふりかけることで金色の模様を描きます。
中国の戦後時代にも類似する技法を使った美術品が作られているのですが、その後パタリと途絶えてしまいます。だから日本の蒔絵技術は、(古代中国の美術品をヒントにして編み出した)オリジナル技法なのか、あるいは中国の職人なり技術書なりに学んだものなのかは謎だそうです。
何れにせよ宋・明・清朝時代の中国には蒔絵技術が無かったと思って良いでしょう。
注3 テ・セコ=鄭成功
鄭成功は明末に清に対抗した英雄で、鄭氏台湾政権を興した人でも有ります。通称「国姓爺」
近松門左衛門の「国性爺合戦」の元ネタの人です。
鄭成功は、実は母親が日本人で平戸生まれの日中ハーフです。
日本での幼名は福松。しかし元服する前に中国に行って高等教育を受けます。この時の中国名が「鄭森」(=テ・シ)です。
しかし清によって明朝が崩壊すると、各地に皇族を旗印にした地方政権が乱立します。
彼は父親とともに江南に割拠した隆武帝に仕えたのですが、その隆武帝に気に入られて「皇族の姓である『朱』を名乗ってもいいよ」と言われます。
すんごい名誉です! いきなり天皇陛下から宮家を名乗って良いよって言われるようなものです! 彼の場合は宮内庁から予算を貰えないので、まったく実益はありませんけど!
三国志の劉備が献帝に「あなたは私の(40親等くらい遠縁の)叔父さんです」と言われて「皇叔」と名乗ったように、実質的な物を与えることの出来ない貧乏で脆弱な皇帝に残された最後の褒美が、この「皇族認定」なのでしょう。
彼はこの時に名を「森」→「成功」に改めます。これで「朱成功」(=シ・セコ)になるはずでした。
しかし劉備はホクホクと「皇叔」を名乗ったのに対して、謙虚な鄭成功は「鄭」姓を名乗り続けます。「鄭成功」の誕生です。
ですが人々は親しみを込めて「国の姓(皇帝と同じ姓)を持つ偉い人」という意味の「国姓爺」と呼びました。いかにも日本人が好きそうな話ですよね。
皇帝の言葉に感激して忠誠心を燃やした鄭成功は、何度か清に対して海から戦いを挑みますが敢え無く頓挫します。南京までは攻め上ったんですけど、まあ、国力の差が絶望的ですからね。
そこで彼は新天地を求めて台湾に向かいます。当時の台湾はオランダ人が支配していましたが、これを破って追い出し、初の漢人政権である鄭氏台湾(東寧王国)を興します。しかし彼自身は一年と経たずに亡くなり、鄭氏政権も20年あまりで清に倒されてしまいます。
しかし彼の勇名と忠誠心は広く轟き、日中台の三国で英雄として名高いとっても珍しい人物となりました。
あと、鄭成功と鄭和とは無関係です。同じ王朝に仕えた同じ姓の人ってだけですね。まあ、劉備と献帝くらいのものすごく薄い血縁関係ならあったのかもしれませんけど。
あとは作中では宋に仕えたことにしてるんだから「朱」じゃなくて「趙」じゃね? とも思ったのですが、(明の祖)朱元璋は覚えてたけど(宋の祖)趙匡胤は忘れてたので「朱」にしときました。
注4 ワ国=和国、ナエツ国=南越国(=ベトナム)
日本(鎌倉幕府)が2度の元寇を退けたことは日本人にとって常識ですが、なにげにベトナムもモンゴルに3回攻められて3回とも撃退しています。
順番としては 第1次元越戦争(1258) 文永の役(1274) 弘安の役(1281) 第2次元越戦争(1283) 第3次元越戦争(1287) です。
ベトナムはモンゴルにもアメリカにも勝ってる訳で、何気にジャイアントキラーなんですよね。
特に第3次元越戦争の白藤江の戦いでは、元の水軍(といってもほとんど江南の中国人)を大規模な罠にかけてほとんど全滅させてしまいます。おかげで計画中だった3回目の元寇が中止になったとか。
まあ、逆に言えば弘安の役で元の水軍(といってもほとんど江南の中国人)に大損害が出てたので、第2次&第3次元越戦争ではベトナムも助かったはずです。
ちなみに文永の役の時の元の水軍はほとんど朝鮮人です。まだこの時は江南の水軍は南宋のものだったので。
注5 ソ・チン=蘇秦 です。
戦国時代中期の縦横家(政治思想家?)の一人で、各国の王に合従策(秦に対抗するために残りの六ヶ国全部で同盟する)を献策した人です。
彼は平民出身で何の実績も裏付けもないただの論客に過ぎませんでしたが、次々に王を説得して六ヶ国の同盟を成立させてしまいます。そして六ヶ国の宰相を兼任することに。 平民から宰相! しかも六ヶ国兼任!
劉邦みたいに自ら戦ったわけでもなく、秀吉みたいに誰かに仕えたわけでもなく、舌先三寸で王様達を丸め込んでサクッと位人臣を極めちゃったわけです。
ちなみに蘇秦自身は「秦は我が仇!」だとか「我が故郷を守るために!」とか思ってたわけでは全然なくて、最初に秦に行って就職活動してみたけどダメだったので、他の国に売り込むために考えたのが合従策だっただけです。
理想を実現するために政治家になるのではなく、政治家になるために政策を考えたわけですね。まあ、それでも無能よりは100倍マシですけど。
注6 歴代中国王朝の蛮族に対する基本方針は「夷を以て夷を制す」です。
この言葉は『後漢書』の『鄧訓伝』に出て来ます。
異民族羌に手を焼いていた漢王朝は「敵対してる小月氏をそそのかして戦わせればええやん」という方針になりかけましたが、鄧訓が「そんなことしてると信頼失うからアカンで」と言い出します。おや?
しかし彼がやったことは、羌に攻撃された小月氏を守って彼らの信頼を得、その後に彼らと協力して羌を屈服させました。あれ? 結局異民族を利用してるやーん。
ぶっちゃけ「放っておくと近いうちに小月氏が滅びちゃうから、その前に肩入れして拮抗させたろ」というより悪辣な意図があるように思えてなりません。
注7 張儀の唱えた連衡策は、合従策とは逆に(小国が抜け駆けして)秦と同盟を結んで生き残ろうという策です。
同盟というか属国になる訳ですね。正確には属国その1。特典は属国の中の属国として属国その2~6に対して威張り散らせることです。スバラシー!
張儀は蘇秦と同門の学友だったので、先に出世してた彼を訪ねて「なあ、俺の仕事も世話してくんない?」と頼みました。そしたら蘇秦に「はぁ? お前まだプーなの? 超ウケるwww」と爆笑されたので「チクショー!」と秦に駆け込んで連衡策を献じました。なんというコント!
しかしコントでは終わりません。実はこの蘇秦、わざと張儀を挑発して秦に向かわせたのです!
蘇秦「私の知っている張儀ならば必ず秦で出世するだろう。逆に彼が宰相となるまでは連衡策を打ち出しては来るまい。あの時は六ヶ国同盟を堅固なものにするための時間を稼ぎたかったのだ」
……ホンマかよ。しかし人伝にこの話を聞いた張儀は蘇秦の深い考え(?)に感服して「蘇クンが生きてる間はとても攻めれへんわぁ」と言わしめます。蘇秦助かりました!
何気に張儀は恨み深い性格だったのです。大昔に楚の宰相にボコられたことをずーーーーっと根に持っていて、出世して(強国の)秦の宰相になった後に「てめぇ、あの時のこと覚えてんよな? 今度は俺がボコる番やで?」と脅迫文を送りつけたりしています。完全に根がチンピラですね。
蘇秦も恨まれたままだったらどうなってたことでしょう? 彼は張儀の性格を知ってたからこそ、張儀が秦で出世していくのを見て慌ててごまかしたんじゃないかと邪推してしまいます。




