遺言1
バブルンの南8ミルムをユーロフロテンス川とテゲレス川を結ぶ運河の一つが通っている。川を下れば合流するとはいえ、往復で800ミルム近い道程となるから、小ぶりな川船に荷を移してこの全長50ミルムの水路を運ぶ方がずっと早く着くここにはそれを生業とする人々と無数の小舟があったのだが、戦乱とともに四方へと散ってしまった。それでも廃船や廃材は残っていたので、スエーズ軍は撤退の日のために浮き橋を作る準備を整えていた。
避難民までが一緒に渡ることになるのは想定外だったが、3万の市民と2万の奴隷軍人たちは大過なく水路を渡ることが出来た。ひとまずここまで来れば水路を盾として追撃を防ぐことが出来る。逃避行で体力を使い果たした市民達は安堵で崩れ落ち、まだ余力のあるはずの奴隷軍人たちは不安と心配に顔を曇らせていた。ここに至るまでモンゴーラ軍は追撃らしい追撃を行って来なかったのだ。軽騎兵にとって追撃戦こそが草刈り場であるというのに。
「上様はまだか?」
「……まだです」
「そうか……」
日がとっぷりと暮れてもバブルンは赤々と燃え盛り、満点の星空の一角を真っ黒に焦がしていた。誰もがバールの無事を祈りつつも、その命運が尽きたことを予感していた。
「将軍、テゲレス川河畔にプレセンティナ艦隊が到着しました。市民の乗船が始まっています」
「…………」
「……将軍?」
「しっ! ……何か見えないか?」
彼らがじっと目を済ますと、燃えるバブルンを背景として、一つの松明が動いていることに気づいた。
「もしや……上様?」
「ええっ、上様なんですかっ!?」
「上様だって? みんな、上様だ! 上様が戻られたぞ!」
「「「うぅえぇーさぁまぁぁぁあぁぁ!」」」
バールの帰還を切望する彼らの声に応え、闇の中から現れたのは……なんとも冴えない男だった。
抜け道を使って皇宮からバブルン市内に戻ったセルカンは、モンゴーラ兵の死体から外套と鎧を奪い、主を彷徨っていた馬を一頭とっ捕まえて、伝令の振りをしてバブルン城外へと脱出した。このあたりは手慣れたものである。幸いモンゴーラ軍は市内の戦いと消火に手一杯で、城外での戦闘は行われていなかったから、彼は悠々と水路まで到着することが出来た。だがここに来て、思わぬ障害に出くわしてしまったのである。
「「「うぅえぇーさぁまぁぁぁあぁぁ!」」」
バールを呼ぶ奴隷軍人たちの悲痛な叫び声を聞いて、セルカンは躊躇した。周りを見回しても彼の他には誰もいなさそうだ。奴隷軍人たちは彼のことをバールだと思って呼んでいるのだ! だが水路を渡らない限りモンゴーラ軍から逃れることは出来ないし、サビーナとも再会できない。
――とりあえず匈奴兵のフリは止めるか。敵だと思っていきなり殺されかねないしな
こうして彼は鎧と外套を脱ぎ捨てると、粗末な貫頭衣に戻って奴隷軍人たちの前に姿を現した。
「……誰だ?」
「ええっと、俺はセルカンです。バール陛下からイゾ……トリスさんへのお届け物を預かって……来たんですけど……」
奴隷軍人たちはがっくりと肩を落とした。セルカンとしては甚だ居心地が悪かった。
「……そうか、じゃあ預かろう。ご苦労だったな」
セルカンは思わぬ幸運を天の神に感謝した。これでイゾルテに会わなくて済むかもしれないのだ!
「あ、渡してもらえるんですか? 良かった! あと、陛下からトリスさんへの伝言なんですが……」
「待て! 言伝ということは、直に上様にお会いしたのか? どこで!?」
「え……皇宮の尖塔ですけど?」
「……では上様にお会いしたのはお前が最後だな。そういうことならトリス様へはお前自身がお伝えすべきだろう。プレセンティナ艦隊はあの光の下にいる」
「…………」
セルカンは水路を渡ると、指示された方角に向かって渋々馬を向かわせた。
テゲレス川河畔にたどり着くと、そこには疲れた顔の市民たちが大勢押し寄せていた。川には仮設された3本の浮き桟橋が浮かび、そこに接舷した大型船が次々に人々を収容していたのだが、セルカンは奇妙な違和感を感じて眉根を寄せた。
「……こんな状況なのに、なんでこんなに落ち着いてるんだ?」
密偵というのはどんな任務に於いても目立たないことが第一である。しかしどうしても人前で行動(暗殺とか窃盗とか)をする必要がある時には、周囲の人々にパニックを起こさせ、護衛や官憲の注意を逸らすのが常套手段だ。故にセルカンは人々がどういう時にパニックを起こすか――裏を返せば、どうやったらパニックを起こさせることが出来るか――を良く心得ていたのだ。そして蛮族の襲撃から逃れて船に乗ろうとしているこの状況は、パニックを起こす条件が全て揃っていた。人々は我先にと船に殺到し、弱いものは川に突き落とされ、運良く船に乗った者はすぐさま出港しようと後ろに続く者を蹴落とそうとする……そんな阿鼻叫喚の地獄絵図こそがこの場に本来あるべき姿なのだ。だがなぜか人々は落ち着いており、僅かなプレセンティナ兵が松明を持って巡回するだけでその指示に大人しく従っていた。
――いったいどうなってるんだ?
セルカンは首を傾げたが、今の彼は別に混乱を望んでいる訳ではない。とりあえず彼は荷物と伝言を押し付けるために巡回中のプレセンティナ兵に近づこうとした。
「こぉらぁぁあぁ! そこの貧相で寒そうな男ぉ! ちゃんと列に並べって言ってるだろっ!」
横からの甲高い怒鳴り声に耳を打たれると、彼は肩を竦めた。会いたくない相手というのは、得てして避けては通れないようだ。
「お前は馬鹿か!? 人の話を聞かない馬鹿なのか!? 最後尾に私がいるのに置いて行かれると思っちゃう馬鹿なのかっ!?」
容赦のない罵詈雑言である。だから会いたくなかったのだ。その怒声の聞こえて来る方向を見ると、ぐねぐねと九十九折になった行列の最後尾に、四角い荷馬車の屋根の上で仁王立ちになったイゾルテがいた。いや、黒髪だからトリスだろうか。
――なるほど、大将が自ら殿になることで安心させているのか
確かにこれなら避難民たちも置いてきぼりにされる心配はないだろう。しかしいつ暴動に発展するとも分からない中に自ら身を投じるとは、なんという度胸と優しさだろうか! 列を乱す者には容赦の欠片も無いようだけど!
しかし怒りたいのはセルカンの方だった。彼は会いたくはなかったのだが、会ってしまった以上文句を言わずにはいられない。馬車の周りはプレセンティナの近衛兵が10人ほどいたが、彼はプンスカと怒りながら近づいくと、イゾルテに食って掛かった。
「おいコラっ! お前のせいで大変な目にあったんだからな!」
「…………?」
ポカンと不思議そうに首を傾げたイゾルテだったが、ふと何かを思い出してぽんっと手を打った。
「……ああっ、セルカンか」
「見れば分かるだろ!」
「だってお前の素顔はのぼーっとしてて特徴が無いんだよ。いや、すまない。きっと厳しい変装の修練によって顔の特徴が無くなってしまったのだな」
「…………」
もちろんセルカンは、密偵になる前からこの顔である。
「そうじゃなくて、拷問したことに対して謝れよ!」
セルカンが怒鳴ると、イゾルテはニヤリと口元を歪めた。
「そうだな、お前が実の姉に夜這いをかけた過去を知ってしまって、済まなかった」
「なっ……!」
驚きに目を見張るセルカンの前でイゾルテは書類の束を示してバンバンと叩いた。
「これによると他にも、人前でサビーナちゃんを無理やり犯したそうだな?」
セルカンは真っ青になった。冷静に考えれば、あの場にいたイゾルテが実験に噛んでいない訳が無いのだから、その報告が彼女に届くのは自明のことだった。見れば近衛兵たちが寄り集まってヒソヒソと囁き合っていた。
「ち、違う! それは……その……誤解だ!」
釈明になっていない釈明だったが、イゾルテは軽く肩をすくめただけでその書類をくしゃくしゃと丸めて放り捨ててしまった。
「……どういうつもりだ?」
「あの実験は新型器具の効果を測るためのものだ。それによって得られた情報そのものに価値はない」
「…………」
てっきりその弱みを利用して扱き使われるのだと思ったのだが、今度は拍子抜けしたセルカンがポカンとする番だった。
彼女はサビーナを犯したのがビルジだと知っていたから、何がどうなってセルカンがやっちゃったことになったのかは良く分からなかったが、セルカンが姉のテュレイを夜這いしたという自白も信じるには足りないと思ったのだ。残念ながら真理の天使の導き{ゼンマイ式自動鐘打機}は、そのあまりの眠さによって得られる情報までもが歪められてしまうらしい。きっとセルカンの抑圧された欲望が彼にそんなことを口走らせたのだろう。実の姉に懸想するなど変態である……のだが、その気持はイゾルテに同志めいた共感を覚えさせていた。
「それより疲れただろう? まだまだ船には乗れないからこの馬車の中で休んで行くといい」
警戒の緩んだセルカンの心に、その魅力的な言葉はするりと入り込んだ。確かに眠かったし、断ったところで馬車の目の前の行列に並んで立ってるだけなのだ。
「じゃあ……休ませてもらおうかな?」
セルカンが馬車に入るのは初めての事だったが、ベネンヘーリから聞かされていたのとは違ってテーブルもソファーも無くなっていた。唯一壁際に宙吊りになったベッドが残っていたが、そこには獅子が寝ていた。他にも海軍士官の老人と近衛の中年、そして一般人らしい小太りの中年男という3人の先客がいて、さらにイゾルテが天井からするりと降りてきたがそれでもそれほど狭苦しい印象はなかった。
「車輪男、報告の続きを聞こうか」
イゾルテが促すと中年で小太りの男が頷いた。車輪男とはなんとも変わった名前である。
「現物は見ていませんが、直径50cm程の球体だったそうです。最初はそれを投石器で投げ込んで鉄格子が下りなくなり、次は騎兵が担いで門前まで持ってきて山積みにしたそうです。その爆発で門扉が半壊し、侵入を許したそうです」
「……なるほど、バカバカしいが有効な手だな」
イゾルテは眉根を寄せたが、その態度は冷静そのものだった。
「ペルセポリスには城壁の外に堀を作らせよう。水にだけは困らないしな」
その言葉に頷いたのは浅黒く肌の焼けた老人だった。セルカンは初対面だったが、彼がムルクス提督だということは想像がついた。こんな状況だというのに噂通りに笑顔を浮かべていて、とても陽気な人のようだ。
「なるほど。重い荷を背負ってれば越えるのも大変ですし、濡れれば使い物になりませんね。手間もそれほどかからないでしょう」
「だが先にサナポリだ。ダングヴァルトに連絡して対策を講じさせよう。ロンギヌス、後で手紙を書くから伝令を派遣しろ」
「はっ」
ロンギヌスは近衛士官らしく素直に頷いたが、ムルクスが不思議そうに首をかしげた。
「サナポリですか? しかし、次の戦いはスエーズなのでしょう?」
「いや、スエーズの罠は一度しか使えないから敵本隊のために残しておく必要がある。先遣隊はサナポリで潰そうと思う」
「しかしサナポリの防衛戦で勝利しても、敵本隊がサナポリに押し寄せるだけではありませんか? 同じことでしょう」
「まあ、そうなんだがな。しかしビルジとシロタクは先に殺しておきたいんだ。プラグにとってはエフメト派もスエーズ軍も等しく敵にすぎないが、この二人だけはエフメトを優先する理由がある。奴らさえ始末してしまえば敵は必ずスエーズに向かうだろう。
暗殺者を雇ってもいいんだけど、全然アテにならないしなぁ」
イゾルテが肩眉を上げて横目でセルカンを見ると、皆の視線も彼に集まった。
「ちょっと待て。……いや、待ってください」
思わず口を挟んだセルカンだったが、何故かムルクスの笑みに妙な殺気を感じて言葉を改めた。危険を察知する能力も密偵には必須なのだ。
「えーと、その……何でスエーズに向かうって分かるん……でしょうか?」
「そりゃあ食料が不足するからだ。ハサール軍も駐留する北部のエフメト派を倒すのは容易ではないし、倒したところで余剰食料なんてたいしてない。一方でスエーズの先のナイールには唸るほどの食料がある。遅かれ早かれスエーズに侵攻するのは確かだ」
「……なるほど」
鹿と狼が寝ていたとしても、わざわざ狼を襲う肉食獣はいないだろう。
「しかし姫、例え先遣隊に限ったとしても野戦で叩き潰すのは難しいですよ。そもそも本隊を待たずに先遣隊だけでサナポリまで来るでしょうか? しかも2人が揃って出てくるとは限りません」
イゾルテはパチンと指を鳴らした。
「そこだ。今回ビルジは皇帝でありながら自らは一兵も動かすこと無く、同盟者が単独であっさりと首都を陥落させてしまった。これでは奴のメンツは丸潰れだ。何としても本隊が来る前に自分の手で武功を上げたいだろう。そしてその尊大で卑劣でそれでいて臆病な性格も考えれば、シロタクに別行動を許すより自分の指揮下で戦わせることを選ぶだろう。失敗した時に責任を被せられるしな」
その言葉に思わず深く頷いたのはセルカンだった。イゾルテの言葉は偏見に満ちていたが、その評価はビルジの実像からそう遠いものではなかった。
「しかし、ビルジの歩兵まで合流すれば大軍です。それに彼が臆病であればこそ、そうそう前線には出て来ないでしょう。いったいどうやって倒すつもりなのですか?」
ムルクスの核心を衝く質問に、イゾルテは確信を持って答えた。
「まあ、きっと何とかなるよ。たぶん」
全然確信を持ってなかった。すごく不安な回答だったが、ムルクスはやれやれと肩を竦めただけで納得してしまった。陸戦は専門外だからこれ以上の口出しを控えたのか、イゾルテならなんとかするだろうと信じているのかは、その嬉しそうな笑顔からは窺い知れなかった。
「では、私は一旦船に戻ります」
「ああ、よろしく頼むぞ、爺」
「あ、私がお送りします」
ムルクスが部屋を出ようとすると、ロンギヌスが慌てて付いて行った。馬車に残ったのはセルカンとイゾルテの2人……と獅子と中年のおっさんである。色っぽい雰囲気になるはずもなく、セルカンはさっさと眠りたかったが、彼には済ませねばならない用があった。
「そういえば、お前にこれを預かってきたんだった」
「ん? 何だ?」
何の気なしにかばんを受け取ったイゾルテは、中身を見て凍りついた。
「何でお前がこれを……」
「皇宮で偶然バール王に会っちゃってさ。これを届けろって頼まれたんだ。そうそう『ちゃんと届けたんだから約束を守れよ』って言ってたな」
「ちょっと待て! 私はアイツに届けに来いと言ったのだぞ!」
イゾルテはセルカンに詰め寄ったが、事情を知らない彼は戸惑うばかりだった。
「と、とにかく、俺は頼まれたことをしただけだ」
「じゃあ、バールはその後どうしたんだ?」
「残ったよ。俺は抜け道を教えるって言ったんだが、彼は断った。覚悟を決めた目だったな。
まだ踏みとどまっているのか、あるいは……」
「何故だ! 何故生きようと努力しない!? 1%でも可能性があるなら生き残れるように足掻くべきだろう!?」
彼女は涙を浮かべてセルカンの胸ぐらを掴んだが、その力はか弱く、セルカンは初めてイゾルテを歳相応の少女だと感じた。だがその瞳にはやはり歳に似合わぬ知性の光も宿っていた。
「……分かってるんだろう? 囮だよ。おかげで俺は易々と脱出できたし、他の奴らも追撃を受けなかったんだろう? そうじゃなきゃ死体がごろごろ転がってたはずだ」
「…………」
イゾルテは何も言い返せず、悔しそうにセルカンを睨んだ。その美しい碧眼を間近に見ていると魂が吸い込まれそうだったが、イゾルテなんぞに魅入られたら碌な目に遭わないという確信もあって、セルカンはぷいっと目を逸らした。
「スエーズ兵たちはまだ水路でバール王を待ってたよ」
「そうか……私も彼らと一緒にバールを待つことにしよう」
セルカンから手を離したイゾルテは、トボトボと外に向かって歩き出した。
「あ、ちょっと待ってくれ! その……毛布かなにか貸してくれないか? この格好では寒くてしかたがないんだが」
セルカンがもじもじしながら言うと、イゾルテは振り向きもせずに応えた。
「車輪男、魔人プーの服を出してやってくれ。クローゼットの中にあるはずだ」
そして彼女はそのまま馬車から出て行った。
「魔人プーって……何?」
「着ることの出来るクマのぬいぐるみ{きぐるみ}です。綿でふかふかなので保温効果はばっちりなんですけど……」
車輪男は言いにくそうにポリポリと頭を掻いた。
「……かさばるからテ・ワさんが捨てちゃったんですよね」
ムルクスがカメルスを降りると、すぐにロンギヌスが後を追ってきてそっと囁いた。
「提督、少々お話があります」
「……陛下の前では話せないことかね?」
ムルクスは彼がわざわざ追ってきたことに内密の話があることを予感していたが、さすがにその内容までは想像できていなかった。
「はい、陛下の御結婚の話です」
「……何の話ですって?」
寝耳に水の話にムルクスの目は丸くなった。といっても、5mmくらい開いただけなんだけど。
「昼間に陛下とバール王がされていた話ですよ。イゾルテ陛下がサラ王子に嫁ぐという」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。あなたはお二人の会話を聞いていたのですか?」
珍しくムルクスが慌てたので、ロンギヌスは首を傾げた。
「え? ムルクス提督も陛下のそばにいらしたんでしょう?」
「いいえ、私たちは途中で人払いされました。ですからその会話は、本来イゾルテ陛下とバール王以外が聞いてはいけないものですよ」
「…………!」
ロンギヌスの顔はさーーーっと青くなった。ムルクスにすら聞かせられない密談を、近衛兵になったばかりのロンギヌスが聞いてしまったのである。策謀好きのイゾルテのことだから、口を塞ぐために投獄されるのだろうか? それともサクッと処刑されちゃうのだろうか?
――すまん、娘達よ! どうやらお父さんは、お前たちの面倒をみることは出来ないようだ。男に頼らないでなんとか自立して生活してくれ!
自分が死んじゃうのならどこに嫁に行っても構わなそうなものだが、そこは微妙な父親心である。
だがムルクスの方もイゾルテのことを娘か孫のように思っていた。本来口を挟むべきでないことは重々承知していたが、イゾルテの縁談と聞いては彼も黙ってはいられなかった。
「……それで、それはイゾルテ陛下から言い出されたことなのですか?」
「いえ、バール陛下からです。サラ王子と結婚して王になって欲しいと」
「陛下が王になるのですか? ……しかし陛下は女性である上に異教徒ですよ? 王になるのは無理があるでしょう」
「ですがバール王は、男の中の男である自分が認めたのだから問題ないと言い切っておられました」
「……確かに今婚約を発表すれば両軍の絆は強まりますし、戦後を考えれば政略結婚としては悪くありません。サラ王子の政治的・軍事的才能が未知数である以上、イゾルテ陛下を王に据えたくなる気持ちも分かります。しかし陛下が改宗することは大問題です」
なにしろタイトンの神々というのは、癇癪を起こすと美しい女性をメドゥーサ(注1)やラミア(注2)のような怪物に変えてしまったり、大洪水や大火事を起こしたりするのだ。イゾルテが他の宗教に改宗なんぞしたら、今まで彼女に贈り物をしていた何れかの神の機嫌を損ねることは間違いないだろう。だがそのあたりの事情を心得ているのは、ムルクスを含めてほんの数人だけだった。
「陛下はムスリカ教に好意的な様子でしたけど?」
「いろいろと事情があるのですよ」
「はあ、でもバール王は改宗も求めないと仰っていましたよ。似たような前例もあるとか」
「なんですって!? そこまで譲歩されたのですか……」
実質上の主権者に異教徒を据えようとは、神権国家にしては思い切った譲歩である。まあ、イゾルテのゆる~い宗教観を見越して、「どうせ次の世代にはムスリカ教徒に戻るからいいや」と考えたのかもしれないが。
「ふーむ、そこまで言われては陛下も断り辛いでしょうね」
「ええ、半ば押し切られるように承諾されました。ただし、バール陛下が遠くと話す箱{無線機}を無事に返却する、という条件も付けられました」
「なるほど、そうですか」
ムルクスはほっと安堵の溜息を吐いた。やはり彼としては、イゾルテには愛する人と結婚して幸せになってもらいたかった。そして不謹慎だが、彼はバールがまだ生きているとは露ほども思っていなかったのだ。仮に生きていても、もはや生きて戻ることはないだろう。
「しかしそれでは、この縁談はバール王の遺言ということになりかねません。そうなると、イゾルテ陛下が無碍になされるとは限りませんね……」
4年前にドルクがプレセンティナに宣戦布告する口実作りとして行われたプロポーズ(?)は、ムルクスが画策してテオドーラが身代わりを引き受けるように仕向けたのだが、その結果なんでかイゾルテが本格的に同性愛(しかも近親相姦?)に目覚めるきっかけとなってしまったのだ。他の件でもそうだが、イゾルテに何かを働きかけると思わぬ反応をして、とんでもない結果を招きかねないのだ。くれぐれも慎重に振る舞わねばならない。
「ロンギヌス中隊長、この件は極秘です。イゾルテ陛下本人はもちろん、ルキウス陛下にも漏らしてはいけません。もし漏らせば……」
にっこりと笑みを深くしたムルクスの表情にロンギヌスは震え上がった。どのくらい本気なのか表情から窺い知れないところが本当に恐い!
「わ、私は何も、聞いておりまっしぇん!」
「その調子です。行って良いですよ」
「しっ、失礼しまっしゅ!」
その後彼はカメルスから出てきたイゾルテを護衛して、奴隷軍人たちとともに夜明けまでバールの帰還を待った。果たしてバールに生きていて欲しいのか死んでいて欲しいのか、彼自身にも分からなかった。
夜の明けたバブルンでは、モンゴーラ兵が焼け跡から金目の物を漁っていた。これだけの大都市なのだから、持ちきれぬ程の略奪品を期待していたのだが、住民が人っ子一人残っていないのだから碌な物が残されているはずもない。さらに街の家屋や宮殿までもが大火に包まれ、残された僅かな調度品までもが失われていた。
しかし、ただ南西の門の手前の広場にだけは夥しい荷物が放置されていた。そこには金貨の類は一枚もなかったが、着替えや本のようなガラクタからそこそこ嵩張るが値の張りそうな小物や美術品、そして何より保存食があった。何故捨てていったのかは想像もつかないが、落ち延びていった住人たちの非常用荷物だったのだろう。貨幣が無いのはそれだけは捨てずに持って行ったからだ。誰かが捨てても他の誰かが拾っただろうし。
それらの荷を巡ってあわや仲間同士での争奪戦になりそうだったところ、シロタクは全てを召し上げた上で平等に分配すると宣言した。ごちそうを取り上げられた兵たちは面白くなかったが、どのみち彼らとてそのまま自分で担いで行きたい物などほとんど無かったから、一括して換金して貰えるのなら手間が省ける。その代わりに、焼け跡から少しでも価値のある物を拾おうと探し回っていたのである。そしてシロタクは、集められた戦利品を確認していた。例えば……巨大なクマのぬいぐるみ{きぐるみ}とか。
「……何だこれは?」
「分かりません。何かの儀式に使う物ではないでしょうか。生け贄の代わりとか」
「うーむ、俺なら真っ先に捨てそうだが、それなりに価値があるのかもしれんな。一応とっとけ」
「はっ」
「次は本か。読める者はいるか?」
「いえ、この地の文字でもないそうです」
「そうか……一応とっとけ」
「はっ」
「次は……ふむ、何かよく分からんが綺麗だな。小物入れ……いや、中身は薬か? じゃあ携帯用薬入れ{印籠}だな。何れにしても見事な細工だ。俺がとっとく」
「はっ」
こんな感じでめぼしい物に一通り目を通し、目録を作るのだ。換金するにしてもそのまま褒章としてくれてやるにしても、この目録は後々必要になるだろう。シロタク本人が確認するのは、誰かにくすねられないためと、自分がくすねるためである。
「そういえば、捕虜はどれだけいる?」
このタイミングで捕虜の話が出るのは、もちろん捕虜も戦利品だからである。商品として奴隷商人に売り払うことも出来るし、あるいは人口が激減しているこの穀倉地帯の新たな耕し手として働かせるのも良いかもしれない。
「捕虜は6000人ほどですが、うち2000ほどはビルジ殿の水軍の兵のようです。敵に捕らわれて奴隷にされておりました」
「それでは解放せざるを得ないな。残りの4000は?」
「海賊です。例の女海賊に敗れ、やはり奴隷として売られてきたようです」
「セルピナか……。結局あの女は敵だったのか? 味方だったのか?」
「まだ事情が掴みきれておりませんが、捕虜たちの話ではセルピナにはトリスという妹がいて、姉妹で首領の座を争っていたようです。それと魔女がどうとか言う者たちもおりまして……」
「魔女? 女なんぞみんな男を惑わす魔女だろう?」
シロタクはふんっと鼻を鳴らしたが、彼が脳裏に思い浮かべた女は魔女というよりは牝狼だった。
「いえ、それが何とか言う遠国の女王だとかなんとか。それでもって一万ミルムの彼方から艦隊を呼び寄せたとか言っておりまして……」
「支離滅裂だな」
「もう、訳が分かりません。とにかく今海上にいる艦隊が我らにとって敵であることだけは確かです」
「そうか……」
それはつまり、海路からの補給は絶望的であるということでもある。
「ですが、手に入った食料の他に傷を負ったり死んだ馬も多くおります」
「ようやくこれでひと息つけそうだな」
様々なことが想定外であったが、兎にも角にもドルク領侵攻の足がかりを得ることが出来た。これでハサール軍への牽制という、シロタクの本来の目的は十分に果たすことが出来ただろう。今後は斥候を放って四方の地形や情勢を調べつつ、ビルジ軍やプラグ軍本隊の到着を待てば良い。
午後遅くになって目録の作成を終えたシロタクは、激戦地であった北東の門に向かった。あの異常なほどの命中率を誇った敵の投石機を見ておこうと思ったのである。だがその投石機によって深手を負った者も同じことを考えていたようで、ティムルが担架に寝かせられたままその場所を訪れていた。
「ティムル! 大丈夫なのか!?」
「ええ。……五体満足、という訳にはいきませんが」
彼の体の上にかけられた毛布は、左足と右腕のあるべきところが途中からぺこりとへこんでいた。切断手術をしたというのに、昨日の今日で動きまわるとは正気の沙汰ではない。
「戦いの結末を確かめねば、おちおち寝てもいられませんので」
「そうか……」
何が彼を追い詰めているのか知らないシロタクは、ただただティムルに圧倒されるばかりだった。
城門の中に入り階段を登ると、鉄格子の巻上機とともに投石器があった。正確には、投石器の燃えカス、だったが。
「こんなに狭いところだったのか……? これでは投石機など何台も置けないし、とても高さが足りないはずだ!」
「その弓上の鉄板を御覧ください。おそらく大弩の類だったのでしょう。文字通り大きな弩です。なるほど、命中率が高い訳です」
「だとしても、ここには何台も置くだけのスペースが無い。あれだけの数をどうやって射っていたんだ?」
「同じ鉄板が3つ、重なるように転がっています。恐らくは、一台で3連射できる仕組みだったのでしょう」
「言われてみれば、連射ばかりで斉射がなかった気がするな……。しかし3連射どころではなかった。間断なく何十何百と射ち続けていたぞ?」
「そのあたりの仕組みまでは、さすがに分かりません」
ティムルは静かに首を振った。彼は別に賢者でもなければ技術者でもないのだ。
「何れにせよ、容易ならざる敵だったのは確かです。城内の戦いも激しかったようですね」
「分かるのか?」
「敵が皆前向きに死んでおりました。(注3) 背を切られた者も、傷が1つではありませんでした」
それはつまり、敵に背を向けて逃亡したのではなく、数で圧倒されて後ろに回り込まれたということだ。
「そうだ、彼奴らは最後まで抵抗を止めなかった。おかげで火を消すことも出来ず街も宮殿も焼けてしまった」
「それは残念です」
「幾ばくかの食料を得ただけで、皆の労をねぎらうにはあまりにも褒章が不足している。一軍を預かる大将として情けない限りだ」
モンゴーラにおいては、麾下の兵たちに十分な褒賞を与えることこそが将として求められる最たる資質であり、それこそが人望に繋がっていた。狼にとって最も大切なのは牙でも爪でもなく、美味しい獲物を見つけ出す嗅覚なのだ。しかしティムルは失望を露わにすることもなく、ただ静かに首を振った。
「いえ、私は大モンゴーラに対する忠誠を示せたことだけで満足です」
その穏やかで満足気な表情は、その言葉が皮肉でも虚言でもなく彼の本心であることを物語っていた。もっともその目的は保身だったのだが、そんなことを知らないシロタクは素直に感動していた。
「……そなたのモンゴーラに対する忠義、私は決して忘れまいぞ! そなたの忠勤はプラグ叔父にも詳しく報告しておこう!」
「ありがとうございます」
根が単純であるが故の真心に、ティムルはようやく安堵を覚えた。これでプラグの元に居づらくなってもジョシ・ウルスの庇護を受けることが出来るかもしれない。ジョシ・ウルスの勢力は決して大きくはないが、プラグ汗もその兄であるモンキ大汗も、シロタクの父である故パトー汗には大きな借りがあるのだ。アムリル部は未だ安泰とは言い切れないが、少なくともビルジの讒言1つで首を切られるほど危うい立場ではなくなったと言って良いだろう。
「そうだ! 戦利品の中にこんなものがあったのだ。価値は分からないが、なかなか珍しい品だ」
シロタクが差し出したのは、さきほどくすねておいた携帯用薬入れ{印籠}だった。形としては潰れた円筒形で、地は漆黒でありながら光沢を放ち、その上に鮮やかな黄金模様{蒔絵}が施されていた。その色の対称が実に見事で、異国の美術に興味のないティムルにもそれが高価な品だと分かった。
「これは見事な……。一体何なのですか?」
「どうやら薬入れのようだ。中に粉薬が入っていた」
シロタクはその黒い薬入れ{印籠}をパカっと開けると、中に入っていた粉を見せた。
「何の薬かは分からないが、薬入れ自体も相当な価値を持っているだろう。せめてもの気持ちとして、これを受け取ってくれ」
「はあ、ありがとうございます」
ティムルは用途の分からない薬に興味は無かったが、確かに容器の方には少しばかり心を惹かれた。残された左手で受け取ったそれは意外に軽く、金属製ではなく漆器であると気付いた。そして物珍しげにマジマジと見つめた彼はそこに見過ごせない物を見つけた。
「これは……ツーカ文字{漢字}?」
「なに?」
「蓋の内側にツーカ文字{漢字}が書かれています」
ツーカ帝国から1万ミルム以上も離れたこの場所に、ツーカ帝国の文字が入った品があるというのは少なからず気になる話である。もちろん交易商が商品として持ち込んだだけかもしれないが。
「確かにツーカ文字だ。読めるのか?」
「いえ。しかし我らがヒンドゥラ王国に攻めこむ前にツーカ人が訪れていたという話もありました。カク・カク殿(注4)に見せれば何か分かるかもしれません」
「カク・カク? ツーカ人なのか?」
「はい、ツーカ人でプラグ汗麾下の名将です。火薬の扱いにも詳しく、城攻めの上手です。私に焙烙玉を預けて下さったのもカク・カク殿ですよ」
「そうか……。ではこの薬入れはカク・カク殿のもとに送るとして、ひとまずティムルには……」
シロタクはうーんと唸ると、ちょっと困った顔で尋ねた。
「巨大なクマの人形って……要る?」
「……要りません」
注1 メデューサ=メデューサ 有名すぎるので逆にそのまんまです。
ゼウスの浮気相手で、怒ったヘラが彼女を怪物に替えてしまいました。
注2 ラミア=ラミア 昨年あたりから妙に有名なので逆にそのまんまです。
ゼウスの浮気相手で、怒ったヘラが彼女を怪物に替えてしまいました。
あれ? なんだか既視感が……
注3 似たようなことを、三方原の戦いの後に武田信玄が言ったと言われています。
この当時、兵の練度で一番重要なのは筋力でも技量でもなく、劣勢でも踏みとどまる忍耐力でした。なぜなら踏みとどまって戦うより逃げ出して追撃を受ける方がはるかに損耗率が高かったからですし、一部隊の崩壊が軍全体の崩壊に直結することが往々にしてあったからです。
だから徳川兵が劣勢でも逃げずに粘り強く戦ったことを、信玄が「敵ながら天晴!」と褒め称えた訳ですね。
もっとも、無謀にも戦いを挑んだ挙句さっさと逃げ出して脱糞までした家康が、後から自分のヘタレっぷりを誤魔化すために美談に仕立てあげた嘘話かもしれませんが。
注4 カク・カク=郭侃
郭侃はモンゴル帝国に仕えた漢人武官です。モンゴル帝国は異民族を大量採用しましたので、中国人の武将も当然居るわけです。
彼は千戸長としてフレグの西方遠征に同行し、火砲を巧みに使って各地で連戦連勝しました。中央アジアから中東に渡り、小アジアを平定して十字軍も倒しました。バグダット攻略でもカリフをとっ捕まえる武功を上げています。
状況からして、投石機で火薬玉を投げつけたのも彼かもしれません。
そんな彼に敵が付けた渾名がなんと「極西の神人」! その中二病っぷりはサラディンの「シリアの稲妻」に匹敵します。
しかし……極東から来たのに何で極西なんでしょう? 誰が呼んだかは知りませんが、謎のネーミングセンスです。
そんな彼ですが、大モンゴルが分裂した時にはフレグを見捨てて中国に帰っちゃいました。まあ、もともと中国出身でフレグ・ウルスの血縁集団でもないんだから、当然と言えば当然ですけどね。
でも家臣だと思ってたフレグはちょっとショックだったようで、『元史』には彼のことが載っているのにイル・ハン国の『集史』からは省かれています。




