バブルン陥落
遅くなった代わりに長文です
人間はどんな環境にも慣れることが出来るらしい。初めて嗅いだ潮の匂いを不快に感じた人も一週間も海辺にいれば気にならなくなるし、不美人と結婚した男も3日も経てば見慣れるという。
「……起き……ってば!」
不意に肩を強くゆすられて彼が目を開けると、そこには薄汚れた作業衣を着た男がいた。彼はその男を知っているはずだったが、名前を思い出すことが出来なかった。
「ようやく起きたか。つい先程避難指示が出た。実験は中止だ。お前も避難の準備をしろ」
「……避難?」
「そうだ、匈奴が攻めて来てるんだよ! このままやつらに捕まったら、今度は実験じゃなくてホントに拷問されることになるぞ。
お前みたいに恥ずかしい黒歴史を白状させられるくらいなら、俺は死んだ方がマシだ!」
「……へ?」
彼は――セルカンは拷問と聞いてようやく男のことを思い出した。定期的に新型拷問具真理の天使の導き{ゼンマイ式自動鐘打機}と真理の天使の羽ばたき{ゼンマイ式自動こそぐり機}のゼンマイを巻きに来ては、わずかな睡眠時間と引き換えに彼から恥ずかしい自白を引き出した性悪な拷問吏である。名前を思い出せないのは当然だ。おそらく10日以上も毎日顔を合わせているのに、この男は名を名乗っていないのだから。
「だからお前も早く避難を……」
「うるせぇ、ほっとけ! 近寄るな変態!」
「な……なんだと? 俺が変態だって!?」
「そうじゃねーか! 必要もなく喜々として拷問するような男は変態のサディストだ!」
愕然とした男は怒りを押し殺すようにワナワナと震えだした。
「し、信じられない……実の姉に欲情して夜這いをしたお前に、老人の目の前で盲目の美少女を犯したお前に、変態なんて言われたくねぇ!」
「……へ?」
それは実際に行われた事ではあったが、どちらも彼がやったことではなかった。夜這いは彼がしたのではなく姉のテュレイが弟のハシムにしたのだし、サビーナを犯したのはビルジであって彼は見せつけられた老人の方だ。おそらくは彼の密偵としての防衛本能が、朦朧とした意識の中で9分の真実に1分の虚構を混ぜたのだろう。そう、無意識のうちにテュレイとサビーナの名誉を守った(?)のである! ……あるいはただ、そうだったら良いなぁという妄想をしただけかもしれなかったが。
「お望み通り放っておいてやるよ! だが最後にレポートだけは書いてもらうぞ。書き終わったら勝手に逃げるがいいさ!」
男は机の上に紙を置くとプンプンしながら出て行ってしまった。変態近親性愛強姦魔に変態サディストと言われたことがよほど腹に据えかねたのだろう。
――まあ、いいや。二度と会うことも無いだろう。
彼はけだるい体を引きずって机につくと問題の紙を覗き込んだ。そこにはこう書かれていた。
『被験者の感想:今あなたはどれくらい眠いですか? 客観的にその眠さを表現して下さい』
「…………」
見聞きしたことを正確に報告することは密偵の基本中の基本である。しかしどうやったら眠さを客観的に表現できるのだろうか?
――羊を1000匹数えたくらいとか? いや、2000匹数えても全然寝れない時もあるしな……。女に誘われても断って寝ちゃうくらいとか? うーん、でも女の魅力も個人的な好みが大きいから客観的と言えないし……。眠さ……客観性……ねむさ……ねむ……zzz
しばらくして戻ってきた作業服の男は、眠りこけたセルカンの傍らからレポートを回収すると満足して出て行った。まるでミミズがのたくった様な解読不能な文字の羅列は、誰が寝落ちする寸前に書いたことのあるものだ。完全に主観的でありながら誰もが経験したことのある眠さを思い起こさせる、ある意味客観的な表現だった。
昼下がりになると、しばらく音沙汰のなかったモンゴーラ軍が多数の投石機を押し出して来た。と言っても正確には少数の投石機と多数の投石機の部品である。車輪が用意することが出来なかったから、丸太を幾らか加工した程度の大雑把な部品を、手で担いだり馬に引きずらせて前進してきたのだ。
「……あんなのでまともに石を飛ばせられるのか?」
「むしろあのまま破城槌にした方が良さそうだな」
張り詰めていた奴隷軍人たちが拍子抜けするのを感じ取り、城門の上で陣頭指揮を執っていたバールは大喝した。
「忘れるな! 恐れるべきは投石器でも騎兵でもない、投石器の放つ火薬玉の方だ! 騎兵がどんなに強かろうとこのバラクダットの城壁は破れぬが、投石器がどんなにしょぼかろうとあの玉の爆発は巨岩をも砕く。気を引き締めろ!」
「「「はっ!」」」
「弓隊、火矢を準備せよ!」
バールの命に従って奴隷軍人たちは油の染みこんだ火矢を手に取った。新型投石器だけでは手が足りなくなることを想定し、予め大量の火矢を準備していたのである。だがモンゴーラ軍もそれを予測していた。奴隷軍人たちがそれに火を付ける前にモンゴーラ軍も軽騎兵を押し出して来たのである。
「「「うぅぅらぁぁあぁ!」」」
怒涛のごとく押し寄せた軽騎兵の目的はもちろん城門を破ることではなく、守備側を牽制するためだった。
奴隷軍人とモンゴーラ軽騎兵の矢の射ち合いは何度も行われていたが、これまでは守備側の兵力を探るための威力偵察に過ぎなかった。しかし今度ばかりはモンゴーラ軍も本気である。彼らは躊躇なく守備側の射程範囲に入ると、城門や城壁の上に向けて無数の矢を放った。
もちろん地の利は守備側が圧倒的に有利なのだが、狭い城壁の上にしか兵を配置できない守備側に比べて城門の外を広く駆け回る攻撃側の方が圧倒的に数が多かった。守備側の弓兵の心理としては、手前の騎兵が激しく射かけてくるのにその向こうにいる投石機を狙撃するのは非常に難しい。況して鏃がかさばる火矢は狙撃には向かないものだ。そうこうしている間に投石器部隊も150~200mほどにまで接近して停止し、組み立てと攻撃の準備を始めようとしていた。
「ダメです、とても狙ってられません!」
「やむを得ん。1番、3番、5番隊は敵騎兵に応戦しろ! 通常の投石機も敵騎兵に散弾を放て! 敵を追い払わなければ投石器を攻撃することも出来ぬ!」
バールは唇を噛んだが、その代わりに彼の足元で新型投石器がバシュッ、バシュッという頼もしい咆哮を上げ始めた。
最初の着弾点は敵軽騎兵の只中だったが、射手が即座に照準を修正して10秒と立たないうちに組立済みの投石器の1台を捉え、15秒ほどの連射で半壊させた。本当なら火薬玉が爆発するまで攻撃を続けたいところなのだが、今は敵の攻撃を防ぐことの方が重要だ。射手はそのまま別の投石機に向けて照準を修正し、次から次へと投石機を破壊していった。
通常の投石器が放った散弾も兵数の不利を補い、軽騎兵はバタバタと倒れ、あるいは傷を受けたまま後退していった。しかし兵数に余裕のあるモンゴーラ軍は即座にその穴を埋め、攻撃の手を緩めようとはしなかった。損耗比で考えればバカバカしいまでにスエーズ軍の圧勝であっただろう。だがバールの心の中は焦燥感で一杯だった。この勝負は兵の損耗数で決まるのではなく、投石器の攻撃が始まるまでに全ての投石器を破壊できるかどうかで決するのだ。この時既に完成済みの投石器は全部破壊出来ていたが、組立中のなんちゃって投石器はいかんせん数が多すぎた。
――ちっ、あっちでは壊れた投石機から部品を集めて再建しようとしている! 新型投石器だけではさすがに手が足りないか……?
新型投石器が猛威を奮う一方で、弓兵の半数が放つ火矢は未だに一台の投石機も破壊出来ていなかった。命中率も良くないのだが、投石機に火矢が突き立ったところで延焼する前に叩き落とされればどうということはないのだ。火薬玉に着火できれば確実に吹き飛ぶだろうと期待していたのだが、それも起きていなかった。ひょっとすると事故防止のために不燃物で頑丈に保護されているのだろうか? だとしたら火矢ごときではどうにもならないのかもしれなかった。
――弓兵には軽騎兵の対応をさせて、通常型の投石器には敵投石器を攻撃させた方が良いかもしれんな……
今この瞬間に最も重要なのは、敵騎兵を沢山倒すことでも味方の損害を減らすことでもなく、一台でも多く敵投石機を破壊することなのだから。
「2番、4番、6番隊も敵騎兵に応戦しろ! 代わりに通常型投石機で敵投石器を攻撃せよ!」
バールの指示に従いスエーズ軍が攻撃の方法と対象を切り替えると、モンゴーラ軍の方でも密かな動きがあった。
一方シロタクの方も、いくら兵力に余裕があると言っても心の方には余裕が無かった。多くの騎兵が次々に討たれ投石器も次々に破壊されて行く中で、平然としていられるほど彼は打たれ強くはないのだ。だがそれを表に出さないだけの胆力を今の彼は持っていた。
――もう決死隊を投入した方が良いのではないか……?
ティムルが気を失う寸前にシロタクに授けた策は、投石器すらも囮にするという物だった。準備万端整えて50mにまで近づいたのに的を外してしまったのだから、3倍以上離れていたら余計にダメなのは明らかである。だったら確実に門扉に当てるにはどうすれば良いのかというと、もちろん騎馬によって運ぶのである。シロタクの組織した決死隊というのは、焙烙玉を直接運ぶ部隊のことなのだ。
ではなぜ最初から彼らを突撃させなかったのかというと、のこのこと決死隊だけが近づけば集中攻撃されるに決まっているからだ。だからこそこれみよがしにたくさんの投石器を組み立てさせているのだし、それを支援する振りをして軽騎兵の大軍を出撃させているのだ。今ならそこに弓を持たずに大きな袋を担いだ騎兵が紛れ込んでも敵は気付かないだろう。
――とはいえ、火矢の一本で終わりだからなぁ。焙烙玉に当たれば連鎖的に大爆発が起こって他の騎兵も巻き添えになるし……
しかもそれで死ぬのはほとんどがアムリル部の兵だ。そんなことになれば、死の淵を彷徨っているティムルに合わせる顔が無いではないか。
「……む? 敵の攻撃が変わったな」
「火矢が無くなったようですね。代わりに火の玉が増えた気がしますが……」
「投石機には投石機で、という訳か。しかしこれは……好機だな。
決死隊に攻撃を命じる。くれぐれも城門に近づくまでは目立つなよ!」
「「「ふぅぅらぁっ!」」」
頼もしい雄叫びを上げた決死隊に向け、シロタクは怒鳴った。
「目立つなって言ってるだろうがっ!!」
「「「……うらー……」」」
水を差された決死隊は、とぼとぼと、あるいはしょんぼりと馬を進めた。何だか逆の意味で目立ちそうであったが。
一方スエーズ軍が通常型投石機でも燃える煉瓦を放ち始めたことで、モンゴーラ軍の投石器が破壊されるペースは幾らか上がり始めていた。だがこの時すでに半数あまりの投石機を破壊していたというのに、未だに火薬玉は一つも爆発していなかった。
――発射の寸前までは強固に守られているのか? まあ、仕方がないか。投石器さえ破壊してしまえばどうにもならないのだしな。
バールがそう考えるのも自然なことであっただろう。スエーズ軍の誰もがこの戦いの鍵は投石器隊が握っていると考えていたのだから。
だがこの時、彼らの足元を走り回っていたモンゴーラ騎兵の一部が不意に城門に向けて馬首を巡らせた。それに気付いた奴隷軍人たちは彼らに弓を向けた。自分たちの数倍の弓兵から、しかも指呼の距離で矢を射られた騎兵たち――決死隊は次々に矢を受けて落馬していった。しかし落馬していった者達の影には大きな袋を抱えて身を小さくしている別の騎兵が隠れていた。いや、彼らを守るために他の騎兵たちがその身を盾にしていたのだ!
「ま、まさか……火薬玉を背負っているのか!?」
バールは即座に敵の思惑に気づいたが、既に敵騎兵は目前にまで迫っていた。弓兵達は火矢を手放している。今更命じたところで火を付けている間に城門まで辿り着いてしまうだろう。
「やらせはせん! まだ、やらせはせんぞ! 喰らえぇ!」
バールはとっさに刀を抜くと胸壁から身を乗り出して眼下に迫る先頭の騎兵に向けて投げつけた。それに気づいた敵騎兵もそれを打ち払おうとしたが、バールが狙ったのは彼自身ではなく馬の方だった。刀は狙いあまたず疾走する乗馬の頭に突き刺さり、馬はどうと倒れ騎手は地面に激しく投げ出された。だが後に続く者達は躊躇なくそれを踏み越えて体当たりするような勢いで門扉に迫ると、担いできた袋をその場に落として急いで逃げて行った。後に残されたのは10個ほどの黒い玉と点在する人馬の死体、そして立ち上がろうと藻掻く一人の男だけだった。ここに火矢の一本でも飛んで来れば大爆発は避けられないだろう。
「やられた……! 退避だ、退避! 二次防衛線に下がれ!」
慌てて後退するスエーズ軍の足元で、馬から投げ出された騎兵は袋を引きずり続け、ついに焙烙玉の小山の下にたどり着いた。彼は満足気な笑みを浮かべると、咳き込みながらその場に倒れた。落馬した時に肋骨が折れたのだと分かっていたが、無理に動いたせいで肺に穴が開いたのだ。完全に致命傷である。だが彼は満足だった。血の溢れる口を薄っすらと歪めると、彼は最後の力を振り絞って右手を上げた。次第に暗くなっていく視界の隅を赤い炎が走った時、彼はついに力尽きた。
どっがぁぁぁあぁあぁぁあぁああぁぁっん!!
戦場どころか大地の全てを揺るがしそうな爆音と振動に、スエーズ軍だけでなくモンゴール軍までが震撼した。というか一番びっくりしたのは彼らの馬だった。
「ぶひひひいぃいぃぃんっ!」
「どうどう! 落ち着け、大丈夫だ!」
モンゴーラ軍は間髪入れず突入するはずだったが、さすがにそれどころではなかった。
バールは第二防衛線への撤退を確認するとその場は部下に任せ、自身は南西の門へと急いだ。城門の内側には荷物を抱えた避難民が押し寄せ、それを護衛するための奴隷軍人たちも待機し、そして城門では鉄格子を爆破するための作業が行われていた。
「爆破の用意はまだか?」
「今少しかかります。それより避難民たちの方が問題です。いくら言っても荷物を捨てようとしないのです」
何の保証もなく住み慣れた街を捨てようとしているのだから、僅かな財産に執着するのも良く分かる。だがそのために命を危険に晒してどうしようというのだろう。何よりも大切なのは人の命なのだ! 少なくとも、彼らが抱えている鍋だの釜だのエロ本だのよりは貴重なはずである。
「……私が説得してみよう」
バールは城門の上から市民に向かって呼びかけた。
「ムスリカの民よ! 平安の都バラクダットがドルクの手により陥落して幾星霜、残念ながらこの街が再び蛮族に踏み荒らされる時が来た。
だがこれは計画の内だ。これより彼奴らを城内に招き入れ、足止めをする。諸君にはその間に南の水路まで逃げてもらう。そこから先はプレセンティナ艦隊が安全な所まで送ってくれるだろう。
水路までは我らムスリカ帝国の兵が護衛をするが、敵は剽悍な騎馬の民だ。恐らくは激しい追撃を受けることだろう。またプレセンティナ艦隊も3万もの人間を載せるには十分とは言い難い。荷物を載せる余裕が無いのだ。荷物はこの場に捨てて行って欲しい!」
荷物を捨てろと言われて市民が動揺しているのがバールにも良く分かった。ただでさえ家や土地を捨てていくというのに、この上更に着替えや思い出の品まで捨てろと言うのだ。今日の日に備えてきた市民たちはバールの言葉の正しさを理解していたが、不安と哀愁の思いが彼らにぎゅっと荷物を握りしめさせていた。
「ムスリカ帝国の治世を預かる王として約束しよう。諸君が水路を渡るまでの時間を、我らが必ず稼ぎ出そう。そして近い将来、必ずこの街は平安の都バラクダットとして再建しよう! どうかその日まで、この街での思い出とともにその手にある荷物も置いて行って欲しい。このとおりだ!」
バールが市民に向けて頭を下げるのを、市民だけでなく奴隷軍人たちまでもが驚きを持って見つめた。この街の支配者である彼に市民に対して頭を下げる謂れなど無い。況して神の代理人たる指導者に選ばれた王である以上、おいそれと余人に頭を下げるべきではない……はずだった。だがイゾルテの軽薄な、それでいて慈愛と責任感に満ちた振る舞いを間近にしてきたことで、バールも人の心を動かすのは権威や信仰心だけではないのだと理解していた。信仰心に薄くスエーズ軍の支配下に入って日の浅い彼らの心を動かすためには、対等な人間として真心を以って頼むしか無いのだ。助けさせてくれと。
シーンと静まった市民たちの中で、特長のありすぎる四角い箱馬車からひょっこりとなまず髭の怪しい中年が顔を出した。
「ワカタアルネ! 荷物置イテクアルヨ!」
そして彼は再び車内に引っ込むと、その窓から本やらガラクタやらがポイポイと放り出された。
「ぎゃー! テ・ワさん、何てことを! それは貴重な品なんですよ!」
「ココデ捨テナクテモ、キット船ニハ載セテモラエナイネ。シカモ姫サンニシコタマ怒ラレルアルヨ?」
「そ、それは……そうかも……」
「安心スルヨロシ。私2万ミルムモ逃ゲテ来タネ。荷物無クテモ大丈夫ダタヨ!」
「…………」
それで大丈夫なのはテ・ワくらいだと言いたいところだったが、コロテス男爵も遭難して新大陸に流された身である。彼が黙りこむとそのままポイポイと荷物が捨てられ続け、ついにはバキバキと破壊音が聞こえたかと思うと半壊したベッドや机までが叩き出された。全てを諦めたコロテス男爵は馬車を下りて叫んだ……泣きそうな顔で。
「えーい、こうなったら仕方がありません! 年寄りに怪我人、病人はいないですか? 歩くよりは楽なはずですから、乗ってください!
そして後でうちの陛下にお願いして下さい。私の研究予算を増やしてくださいって!」
市民たちは笑いながらも次々に荷物を捨て始めた。プレセンティナの艦隊がプレセンティナ人の荷物よりドルク人の命を優先すると言っているのに、ドルク人の荷物を載せてくれるはずもない。それでも載せろ駄々をこねると言うことは、他のドルク人を殺せと言っているようなものだろう。彼らはそれを身を切ることで示しているのだ。その様子を見ていた奴隷軍人たちも、誰に強制された訳でもなく姿勢を正し頭を下げた。
「上様、準備が整いました」
「よし、爆破せよ。皆の者、その場に伏せて頭を守れ!」
市民たちがあたふたとしゃがみ込むと、火薬師(見習い?)の少年が秒読みを始めた。
「3……2……1……点火!」
どんっ! どんっ、どどどどっ! どんっ!
北東の門での爆発に比べると随分と小規模な爆発が連続して起こると、鉄格子を固定していた石材が次々に吹き飛び、支えを失った鉄格子がゆらりと外向きに傾いた。
ずっどおおおおぉおぉぉん!
むしろ爆発の時よりも酷い地響きが城門を揺らすと、奴隷軍人たちが城門を開け放った。そして奴隷軍人と市民が城門から溢れ出すと、遠巻きに監視していたラモンゴーラ軍の斥候が慌てて報告に駆け戻っていった。鉄格子が降りていたため、こうも素早く城外に出て来れるとは思っていなかったのだろう。
バールは市民の護衛隊を指揮する将軍の肩を叩いた。
「苦労をかけるが、後は頼んだぞ」
「はっ。必ずや市民を無事にプレセンティナ艦隊に引き渡します」
「……いや、その後のスエーズまでの撤退も頼みたいのだ」
「え……? ま、まさか、上様は?」
「ワシは殿だ。十分に時間を稼いだら追いかけるが、敵に阻まれて合流できないかもしれないからな。その時の備えだ」
それが別ルートで撤退するという意味ではなく、この街を枕に討ち死にするという意味であることは状況からして明らかだった。
「し、しかし……それなら私が残ります!」
「王が市民とともに逃げれば、敵は追撃を優先するだろう。それではムスリカの民を守るというワシの誓いを破ることになる」
「上様……」
将軍は思わず顔を伏せた。
「これを指導者様に渡してくれ。ワシの遺言だ。
それとサラに伝えて欲しい。イゾルテ殿とともに、シャジャルを守れ、とな」
「……はっ!
顔を伏せたまま肩を震わせ続ける腹心を置き去りにして、バールは最終防衛線の中核である皇宮へ戻った。彼の最も苦しく重要な戦いは、これからその尖塔の上で密かに行われるのだから。
バールからの呼び出しを受けて艦隊司令室を訪れたイゾルテは、司令部の面々の強張った顔を見て眉をひそめた。
「爺、どうした?」
「バブルンの城門を突破されたそうです」
「な……何だとっ!? 一体どうやって!?」
「火薬を使った兵器だそうです。それで城門を爆破したのだそうです」
「ロケ・コット花火か! くそっ、まさか私以外の者があれを完成させるとは……!」
勘違いしたイゾルテは唇を噛んだが、そもそも彼女自身はロケ・コット花火の開発で何ら苦労をしていなかった。
「それよりバール殿が、陛下と差しでお話したいとのことです」
「差しで?」
「なにやら思いつめたご様子です」
イゾルテも切迫した状況を感じ取り神妙に頷いた。
「……そうか。一人にしてくれ」
司令部の面々が出て行くと、イゾルテは硬い顔で遠くと話す箱{無線機}を掴んだ。
「こちらイゾルテ。何の用だ、バール・アッディーン。ドウゾ」
イゾルテの硬い声に応じたバールの声も、同じように硬かった。
『イゾルテ殿に……我が子をお願いしたいのでござる。ドウゾ』
遺言のような言葉に5年前の海戦で死んだセルベッティ提督の顔が過ぎり、イゾルテは胸が締め付けられた。
「もちろんだ! プレセンティナ帝国として最大限の援助をするぞ。ドウゾ」
だがイゾルテの言葉に返って来たのは否定だった。
『そうではござらん! あの子と結婚して支えてやって欲しいのでござるよ! ドウゾ!』
「な、ななな、な、何をいきなり言い出すのだ!」
突然のプロポーズだった。本人じゃないけど。本人の親からだけど!
「……えーと、ドゾ」
『これが非常識な申し出だということは分かっているのでござる。本当はムスリカ教に改宗して欲しいところでござるが、それも求めませぬ。異教徒が王となることも異例中の異例ではござるが、似たような例も無いことでは無いでござる!(注1)
「…………ん?」
イゾルテは首を傾げた。スルタンになるのは次期指導者であるシャジャルの婿のはずなのだ。
『このバール・アッディーン、男の中の男としてイゾルテ殿を見込んだのでござる!』
イゾルテは湧き上がる感情を必死に押し殺した。
「……男の中の男……だって?」
それでも声が震えてしまったのは――怒りに震えてしまったのは、やむを得ざるところだろう。一年近い付き合いなのに、ずっと男だと勘違いされていたのだから!
――じゃあ何か? トリスの時の私は女装趣味の男だと思われてたのか!? こんな可愛い男がこの世のどこに居るっていうんだ!?
サラがいた。バールの息子である。バールが勘違いし続けたのも、強ち責められないかもしれない。
『そうでござる。男の中の男でござるよ! ドウゾ』
再びバールは言い切った。何と恐れ知らずだろうか! むしろバールこそが男の中の男かもしれない。しかしイゾルテは怒りに震えながらも、この失礼極まりない勘違いを利用することを思いついた。
――そうだ、さすがに女同士で結婚なんて出来ないんだから、ここでウンと言っても約束は守らなくて済むんじゃないか? どう見ても勘違いしたバールが悪いんだしな!
密かな復讐である。イゾルテは薄く笑いを浮かべると、バールに条件を出した。
「だったらこちらからも条件があるぞ。お前、そこで死ぬつもりではあるまいな? ドウゾ」
『……しかし、もはや宮殿は包囲されているでござる。逃げるのは不可能でござるよ。ドウゾ』
「馬鹿者、諦めるな!」
イゾルテは怒鳴ったが、バールが自分の命を諦めているのは明らかだ。そもそも生き残れないと思ったからこそイゾルテに頼み込んでいるのである。何か彼を奮起させる口実が必要であった。
「……お前に預けたその遠くと話す箱{無線機}を、よもや敵の手に渡す気ではあるまいなっ!? ドウゾ!」
『…………!』
イゾルテの言葉にバールが息を飲むのが分かった。
『た、確かに、仰る通りでござった……!』
ぶっちゃけイゾルテとしては壊して貰えば良かったのだが、バールはきっと2個1組しかないと思い込んでいるのだろう。唯一無二の貴重な神の宝物を壊すことは、ムスリカ教の守護者たる彼に出来ることでは決して無かった。世界に神は一柱と信じる彼にとってはタイトンの神など居るはずもなく、人智を超えた品は皆ムスリカの神の遣わされた奇跡の品なのだ。自分の命は諦めていた彼も、これだけは何としても守らなくてはならないと納得したようだ。
『こうしてはいられないでござる。包囲網が厚くなる前に、さっそく脱出を試みるでござるよ!』
「よし、市民を収容して待っているからな! |遠くと話す箱{無線機}を受け取らない限り、結婚の話は無しだからな! 以上、通信終了! ドウゾ!」
イゾルテはバールの気が変わらないうちに通信を打ち切った。
『イゾルテ殿……、かたじけのうござる! 通信終了でござる!』
すっかりその気になったバールの声にイゾルテはニヤリと笑った。合流したバールにどんな嫌味を言ってやろうか。勘違いに気付いたバールはどんな顔で慌てるだろうか。彼女はそんな想像をすることで、恐らく待ち構えているであろう地獄の光景を頭から追い出そうと試みていた。
この時イゾルテは致命的なミスを犯していた。彼女は司令部要員を人払いしてバールと一対一で話し合った……つもりだったが、実は盗み聞きしていた者がいたのだ。それはビルジが潜り込ませた密偵……では全然なくて、何を隠そう親衛隊中隊長ロンギヌスその人である。彼は何時如何なる時でもイゾルテを守るために近くに侍っていた……のでも全然なくて、海賊船に置き去りにされて暇を持て余していたので、イゾルテが置いていっちゃった|遠くと話す箱{無線機}を自分の船室で聞いていたのだ。
もともとイゾルテは遠くと話す箱{無線機}を2台しか持って来ていなかったから、自分が使っているのがムルクスの持って来た3台目だということをすっかり忘れてしまっていた。何の事はない。2個1組しかないと思い込んでいたのはバールだけではなかったのだ。そのため彼女は司令室から人払いをしただけで、遠くと話す箱{無線機}に向かって「バール以外に聞いてる奴はいないよな?」と確認をしなかったのである。だからロンギヌスは人払いされないままなんとなく全ての話を聞いてしまい、そのとんでもない密約に呆然とさせられることになったのだ。
「な、何ということだ……。イゾルテ陛下がサラ王子と結婚してムスリカ帝国の王になるだと……?」
既にプレセンティナ帝国の皇帝であるイゾルテを、同盟関係にあるとはいえ別の国の王子の元に嫁がせようというのだ。しかもその国は異教の神権国家だ。プレセンティナにはルキウスも健在だから大事は無いのかもしれないが、ムスリカ帝国の内には異教徒に王位を与えることに抵抗があるに違いない。しかも女だ! もともと指導者は男が継いでいたとはいえ、女が継ぐようになってから何百年も経っている。しかも女性が指導者になるからこそその夫が王になってきたと言うのに、女のイゾルテが王になるから夫のサラが指導者になるというのは本末転倒である。揉めそうだ。いや、絶対に揉めるだろう。しかしバールは、"男の中の男である自分"が見込んだのだから、何ら問題は無いと押し切ったのだ!
――絶対問題あるよなぁ。でも、確かにこれは妙手かもしれないんだよなぁ……
モンゴーラ軍を撃退した後に、エフメト派とムスリカ帝国が中原をめぐって争うのはほとんど自明のことだ。しかしそのムスリカ帝国をイゾルテが治めるとなれば、エフメト派も諦めざるを得ない。プレセンティナ帝国とムスリカ帝国に挟撃されては溜まったものではないのだ。エフメト派もハサールも深刻な痛手を受けているのだから、きっとヘメタル同盟の枠組みの中に収まって均衡状態を保とうとするだろう。ムスリカ帝国としてもプレセンティナ帝国としても、まさしく願ったり叶ったりだ。
「とはいえ……簡単には割り切れないものがあるな……」
あのイゾルテが、ペルセポリスの全市民に愛される太陽の姫が、海を越えて異国に嫁ごうというのだ。それを思うとロンギヌスは胸が張り裂けそうになった。そしてその痛みが、彼に自分の想いを気付かせた。
「そうか……私は、私は陛下のことを……娘みたいに思っていたのか!」
彼はペルセポリスに置いてきた娘達が嫁ぐ姿を想像し、胸を掻きむしった。なんという痛みと苦しみだろうか! 想像しただけでこれほど苦しいのだから、本当に結婚なんてしちゃったら耐えられる訳がない!
「娘達よ! パパが一生面倒を見てあげるから、余所の男と結婚なんてしちゃダメだぞぉー!」
突然叫び声を上げはじめた中隊長の声を聞き、近衛兵達はやれやれと肩をすくめた。
「また隊長の親馬鹿が始まったか……」
「まだ8歳と5歳だろ? 結婚なんて10年先の話なのにな」
イゾルテが盗み聞きをした不心得者の存在に全く気づかなかった一方で、バールは不埒者に気づいていた。というか、遠くと話す箱を丁重に布で包んでかばんに入れ、さあ尖塔を下りようと思ったところに不埒者の方がのこのこと部屋に入ってきたのである。
「馬鹿者! ここには入るなと言っただろう!」
バールが怒鳴りつけると、中に入って来ようとしていた男がビクリと震えた。その男は奴隷軍人でもなければ敵でもなく、その質素な貫頭衣から察するに混乱の中で逃げ出した奴隷のようだった。
「奴隷か……この宮殿はすぐに火の海になるぞ。今のうちに逃げるが良い。可能とは思えぬがな」
「いえ、私は奴隷ではありません。覚えておられませんか? 私はエフメト派の密偵のセルカンです。陛下には一度お会いしております」
「なに?」
なぜセルカンがこんなところに居るのかというと、彼が「触んな、放っとけ!」と言って寝落ちした結果本当に放って置かれ、気づいた時には近隣に誰も残っていなかったのである。しかもどこからか戦いの音が聞こえてきた。途方に暮れた彼はとりあえず情報をつかむために抜け道から皇宮に侵入したのである。ついでに街の様子を眺めようと尖塔に登ったら、ばったりとバールに会ってしまったのだ。部屋に入るまでバールの気配に気付かなかったのは、きっと真理の天使の導き{ゼンマイ式自動鐘打機}のせいで耳が馬鹿になっているからだろう。
「……おお、あの時の密偵か。すまぬ、のぼっとした印象の薄い顔だから忘れておった」
あの時というのは、遠くと話す箱{無線機}で既に伝えられていた情報(シロタクが攻めてくる事)をわざわざ直に伝えに来たことである。セルカンの方は拍子抜けして気落ちもしたのだが、バールの方は後から考えて「知っているはずのない情報を知っているという矛盾を解消するために、あの密偵が伝えたというアリバイを作るための偽装工作だったのだろうか? うーむ、奥が深いなぁ」と感心していたのだ。しかし今このタイミングで奴隷軍人たちの警備をかいくぐってこの尖塔にひょっこり現れたところを見ると、とてもそれだけとは思えなかった。
「まさかお主……イゾルテ殿の指示でこの街に留まっていたのか?」
「ええ、まあ……」
セルカンは嫌そうな顔をした。彼が今この街に居るのは確かにイゾルテの指示によるのだ。新型拷問道具の実験台になれという指示に……。
「しかし、我が兵たちがよく黙って通したな」
「いえ、抜け道を通って来たので誰にも会っていませんよ」
「……なるほど」
考えてみれば抜け穴の十や二十はあっても不思議ではない。敵がその一つをビルジから教えられている可能性は非常に高いだろう。やはり宮殿に立てこもるのは愚の骨頂だ。バールが腕を組んで考えこむ素振りを見せると、セルカンは驚くべき提案をした。
「えーと、抜け道をお教えしましょうか? 脱出するにも敵を撹乱するのにも使えますよ」
「…………!」
セルカンの立場からしてみれば、エフメトが手放しバールが破壊する意志である以上、今更抜け道なんてどうでもいい話だ。だがバールは彼の言葉に衝撃を受けた。イゾルテに派遣された密偵が、このタイミングで密かにバールに接触し、しかも抜け道を教えると言って来たのだ!
――このために……遠くと話す箱{無線機}を回収しワシを脱出させるために、この者を派遣していたのか! しかも救助するというのではなく、ワシが自発的に脱出するという名目を整えようとするとは……
恐るべき先見の明である。神算鬼謀とはまさにこのことだ! だが、彼の心を打ったのはその心憎い配慮だった。いかに能力に秀でようと信頼できなければ警戒せざるを得ない。確かにプレセンティナは利害を共有しているから信用は出来るが、モンゴーラを破った後にはその利害関係も崩れかねないのだ。(注2)
――それでもイゾルテ殿は信頼出来るお方だ。ワシはこの上ない娘婿を迎えることが出来た! なんと幸せ者なのだろうか!
バールは思わず滂沱の涙を流した。セルカンは訳が分からずちょっと退いてしまったが。
――イゾルテ殿に任せればムスリカ帝国はきっと再建出来るだろう。だが、たった一つだけ気がかりがある……
それはイゾルテの強さだった。ペルージャ湾を制覇し、アルビア半島を手中にしたことは当然必要な処置だったと思う。しかし彼女の艦隊が避難民を回収すれば、彼女がスエーズ軍と繋がっていることは明らかとなる。いつぞやの八百長の戦いも偽装だったとバレるだろう。そうなった時、果たしてモンゴーラ軍は思惑通りスエーズに向かって侵攻してくれるだろうか? スエーズ軍は撤退しながら追撃を誘う訳だが、それとて途中で壊滅するか算を乱して潰走することになるかもしれないし、あるいは本隊が到着するまでこのバブルンに留まって追撃してこない可能性がある。そして策を弄してペルージャ湾とアルビア半島をもぎ取ったのがスエーズ軍(に協力しているプレセンティナ軍)だと考えれば、スエーズ軍がエフメト派に比べて著しく弱体とは言い難くなる。そしてビルジもシロタクも本来の目的はエフメトの首級なのだ。スエーズがそれほど弱くないのであれば、どうしてわざわざ先に攻めるだろうか? 敵を確実にスエーズに誘導するには、少しでもスエーズ軍が弱体であると信じさせねばならない。宮殿に追い詰められたはずのバールがまんまと出しぬいて脱出してしまったら、敵はどう思うだろうか。
――そう、大事なのは国だ。私が生き延びることより私が死ぬことが役に立つのなら、迷う必要は無い。
「……抜け道は不要でござる。その代わりにこれを、イゾルテ殿に届けて欲しいでござる」
遠くと話す箱{無線機}をイゾルテの下に持って行くのは同じでも、バールが「届けろ」と言ってイゾルテのもとに運んだのなら約束通りバールが「届けた」ことになる。イゾルテはこう言ったのだ。「|遠くと話す箱{無線機}を受け取らない限り、結婚の話は無しだからな!」と。
しかしそんな密約を知らないセルカンは「あんまりイゾルテには会いたくないんだけどなぁ」と思いつつも、「でもサビーナのもとに戻るには避けては通れないしなぁ」と諦め、バールの頼みを承諾した。
「まあ、構いませんけど……」
「イゾルテどのにこう伝えて下され。『確かにお届け申した。イゾルテ殿も約束を守ってくだされ』と」
「はあ? ……分かりました」
ことの重大さを全然理解していないセルカンは、窓から四方を見回して大まかな敵の配置を掴むとペコリと頭を下げてそそくさと出て行った。気負った様子もなく、バールの目にはいかにも脱出の算段がありそうに見えた。まあ、まだ眠気が残っててちょっとぼーっとしてただけなんだけど、セルカンに脱出の自信があるのは確かなことであった。
決死隊の攻撃によって門扉に穴を穿つことに成功したシロタク軍だったが、爆発に怯える馬を宥めるのに時間がかかり、門扉に開いた小さな穴から中に入るのに時間がかかり、さらには幾重にも張り巡らされたバリケードを突破するのに時間がかかってしまった。途中街の住人が南に向かって大挙して逃亡しているという報告を聞いたが、バブルンという巨大都市の内部に入り込んだ今となっては追撃に兵を回す余裕が無かった。なんせ100万人が暮らし得るほどの巨大な街なのだ。しかも辻辻のどこに敵兵が隠れているかもしれない。街を捜索し、敵の反撃を粉砕し、そして中央に聳える皇宮にまで辿り着いた頃には、日はすっかり沈んでいた。
しかしスエーズ軍はまるでそれを想定していたかのように篝火を用意していてくれた。何だか黒くてドロドロした油が撒かれた家があちこちで丸ごと燃えていて、その火は空を赤く焦がし、辻辻は昼間のように明るくなっていたのだ。いや、全然嬉しくないんだけど。
「ぐぬぬぬ、これでは街が焼けてしまうではないか!」
略奪を以って兵への報酬とする彼らにとって、略奪する前に都市が焼けてしまうのは大いに困る。荷物を捨てて逃げていった市民や皇宮に立て籠もった敵の残党より、今は何より街を火事から守ることが最優先だった。というか報酬が燃えていくのを横目で見ながら戦ってくれる兵士なんてそうそういないのである。だがいくら兵の数で優っていても、火を消すよりも火をつける方が容易なのは言うまでもないことだった。
「台吉、大変です! 敵の立て籠もった宮殿からも火の手が上がりました!」
「なんだとーっ!?」
宮殿に火をつけたバールは、最後に残った3千あまりの兵を中庭に集めた。絶望的な状況に誰の目にも明るい光は無かった。しかしどんな大きな炎も、たった1つの火種から熾るものだ。
「お前たちに良い知らせだ! プレセンティナ皇帝イゾルテ殿がシャジャルの婿になって下さるそうだ!」
「「「おおっ……!」」」
さすがに幼いシャジャルに懸想する者はいなかったようで、皆が顔をほころばせた。中にはイゾルテが女だと聞いていた者もいたのだが、だからこそこれは彼女が少年のようだということをあげつらった諧謔だと思い込んだ。
「それ故、これより我らは撤退する。婚礼の儀に出ない訳には行かないからな」
「では、南西の門ですか?」
「馬鹿者! それでは敵を避難民の方向へと向けることになるだろう!」
「え? じゃあ、どうするんですか?」
「他に開いている門は北東しかないだろう? 北東に決まっている! 」
「し、しかしそちらには敵の本営が……」
「そうだ。我らは敵に向けて撤退するのだ!」(注3)
「「「…………!」」」
それはどう見ても攻勢を目撃とした突撃としか思えなかった。静まり返った兵士たちの顔には様々な感情が浮かんだが、やがて一様に穏やかな顔になった。戦場の只中にいるとは思えないほど穏やに。このまま宮殿に篭ることも出来ないのだし、どっちの門に突撃しようと大して違いはない。いっそ盛大に突撃して敵の耳目を集め、ついでに最後の徒花を咲かせる方が華やかで良いではないか!
「撤退のついでに敵を蹴散らすわけですね、上様」
「そうだ。敵は東の果てからやって異郷の者共だ。大将首を取ればきっと珍しい土産になるぞ!」
「帰るまでに腐っちゃうから、大将だか雑兵だか分からなくなっちゃいますけどね!」
「「「ははははっ!」」」
そのくだらないやり取りに奴隷軍人たちは心底楽しそうに大笑いした。奴隷として生国を追われ、信仰によって第二の生を受けた彼らにとって、指導者とムスリカ帝国と神のために死ぬことこそが本懐なのだ。彼らは宮殿の火に背中を照らされながらその豪奢な門を大きく開いた。
「征くぞ、神の子たちよ!」
「「「ムスリカ神は偉大なり!」」」
王バール・アッディーンの率いる奴隷軍人およそ1万は、憑き物が落ちたような清々しい顔つきでその門をくぐり、精霊が取り憑いたように激しく暴れ回った。だがその誰一人として地上のいずれの門をくぐることもなかった。
この日一人の王が死に、一つの都が滅びた。そして天上の門へと至る道は、勇者たちに埋め尽くされた……かどうかは、誰も知らない。
注1 最初のスルタンはセルジューク朝のティグリル・ベクですが、その前に事実上の天下を取っていたのはブワイフ朝の君主(称号は大アミール)でした。
ブワイフ朝はアッバース朝の正当性を認めないシーア派だったんですけど、バグダットを占領してカリフを保護(というか飼い殺しに)して実権を握りました。
スルタンじゃなくて大アミールだったのはまだそういう位が創設されてなかったからで、事実上のスルタンですね。
注2 「信用」と「信頼」はぶっちゃけほとんど同じ意味ですが、2つの点で微妙にニュアンスに違いがあります。
1つには、信用は過去の実績に基くものであり、信頼は将来の行動に対する期待だそうです。
どこかの業者が飛び込み営業をかけてきたとしましょう。
受験生A「成績も良く、問題行動も起こしたことはありません」
面接官 「うむ、合格!」 ← 信用
受験生B「成績も悪く、問題行動ばかり起こしてました。
でも、先日逝った親父の今際の際に誓ったんです! まっとうになるって! だから俺、心を入れ替えて頑張るっす!」
面接官 「そうか……合格だ!」 ← 信頼
そしてもう1つの違いは、信用は即物的なもので、信頼は精神的なものだということです。私はどっちかというとこっちの解釈のほうがすっきりします。
例えば人質を取って身代金を請求したとしましょう。
犯人A「ちゃんと金を持ってくるかな?」
犯人B「大丈夫だ。奴はいつも家族思いだったからな、ククク」 ← 信用
人質妻「そうよ、あの人ならきっと私を助けてくれるわ!」 ← 信頼
同じことを言ってても全然ニュアンス違いますよね。
「信用取引」なんてのも別に相手の人格を「信頼」してる訳ではなくて、法律と契約でガッチガチに縛り付けてあるから「信用」してるだけですし。
注3 前進撤退というと関が原の戦いに於ける『島津の退き口』が有名ですが、あれは一応ちゃんと撤退でした。しかしこれはどっちかというと、コンスタンティノープル陥落時のコンスタンティノス11世最後の突撃を意識しました。
日本の武将なら辞世を詠んで切腹するところですが、自殺の許されないキリスト教徒としては突撃するしか無いんでしょうね。彼は僅かな部下とともに敵に切り込み、その遺体は多くの屍に紛れて発見されなかったそうです。
(数日後に発見されたことになってるけど、別に隠れてたわけでもないのに最重要捜索対象の遺体が数日後に発見されるというのが明らかにおかしいので、「本人じゃなくね?」と言われてたそうです)
史実におけるバグダットの陥落は、歴史上名高い悲劇です。
当時のアッバース朝はすでに実権を失い何度もバグダットを包囲されては「た、大義である。スルタンにしてやるぞよ、えっへん!」と言って生き残っていました。源平以降の日本の朝廷みたいですね。
だからモンゴル軍に包囲された時のカリフは、その圧倒的な戦力差を見ても「きっといつも通りやればいいんだわー」という甘ったれた考えだったのでしょう。降伏勧告に対して「攻めたければ攻めてみろでおじゃる。でも天罰が落ちるぞよ? あきらめてひれ伏すでおじゃる」と舐めた返事を返します。彼らはイスラム教徒ではなく、カリフの宗教的権威を必要としていなかったんですけどね。
そんな訳で頭にきたモンゴル軍はバグダットを攻めます。この時のモンゴル軍はトルコ人や欧州人(当然キリスト教徒)まで含んだ多宗教混成軍で、果ては中国の火薬技師までいたそうです。もう何でもアリ。
そもそもローマ教会は(バトゥの長子でシロタクの元ネタである)サルタクに使節を派遣して「えへへへ、一緒にイスラムを攻めてくれませんかね? お礼はたんまりしますから……」なんて言ってたくらいですから、キリスト教徒が混じってるのはむしろ当然です。十字軍国家からも援軍が出てたそうです。サイアクですね。
一方まともに戦闘する気のなかったバグダットは戦の備えもなく、あっさりと陥落します。そして虐殺と略奪が……。老人子供も皆殺しで、最低でも20万、下手したら200万人も殺されたそうです。ただでさえモンゴルの報復は苛烈なのに、十字軍気取りのキリスト教徒が混じってるんじゃあどうにもなりません。
恐らく20万っていうのは包囲の前に大勢逃げ出しただろうって数字で、200万っていうのはモンゴル軍に追われた周辺の住人たちが「バグダットなら安心だわ!」と逃げ込んでいた場合でしょう。
いずれにせよ皆殺しです。マクデブルクの悲劇を10~100倍にして再現した訳です。(つーか、こっちの方が先ですが) カリフ自身も絨毯で簀巻にされて馬に蹴り殺されました。一応モンゴル的には高貴な者に対する礼節に適った殺し方だそうですが。
モンゴルに降伏した他の都市は破壊されずに生き残りましたし、さっさと降伏してればこうはならなかったでしょうね。それどころか逆にモンゴルを利用したカトリック教会の強かさには目を見張ります。もちろん、悪い意味でですが。
しかしバールの最期のモデルをこの情けないカリフにしたくなかったので、前述のとおりコンスタンティノス11世みたいにしました。幸いコンスタンティノープルは陥落しませんので、ここで使っちゃっても構いませんから。




