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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
290/354

平安の都 その9

別件ですが、どういう気の迷いか新作で短編童話『賢者の忘れ物』を投稿しました。

気が向いたら読んでみてください。

きっとあなたも気の迷いだったと思うことでしょう。

 すっかり足長{ジャンピング・スティルツ}の扱いにも慣れたイゾルテは、いつしか海賊たちに範を示すという目的も忘れ新技の開発に余念がなかった。

「屈伸宙返り!」(注1)

「「「おおぉ~!」」」

「今度は伸身二回捻りだ!」

「「「おおぉ~!」」」

 いくら普通より高くジャンプできるからと言っても、常人が見たら目を回しそうな軽業である。それを繰り出すイゾルテもイゾルテなら、すっかり順応して歓声を上げている海賊たちも普通ではない。しかし生まれも育ちも(性別も)違っていても、彼らは同じく海の男(女)なのだ。新入りに対する一種の通過儀礼として、あるいはベテランが新人に力の差を見せつける場として、不定期に行われるのが度胸試しの飛び込みである。中には宙返りのようなアクロバット芸を披露するお調子者もいる。さらには手足を縛られたり錘を付けられて一世一代のジャンプをする者もいるんだけど……それはちょと趣旨が違うので置いておこう。(注2)

「抱え込み二回宙返り!」

「「「おおぉ~!」」」

 頭から落ちたらただ事では済まないが、彼女がバランスを崩しても見学している海賊たちが手を差しのべて受け止めてくれるのだ。だから彼女も思い切って高難度の技に挑戦できていた。その強い信頼感こそが上達の秘訣なのである。

「よーし、次は限界に挑戦しちゃうぞ! 伸身の宙返りだ!」

「「「おおぉ~!」」」

イゾルテの宣言に海賊たちは湧いた。

「親分また失敗しないかなぁ」(コソっ)

「なんだよ、おまえはさっき親分に(さわ)れただろ」(コソっ)

「だけどその時は抱え込みだっただろ? 良い位置取りだったのに、おっぱいに触れるはずが太ももだったんだよ! だが伸身なら胸も触り放題だ!」(コソっ)

「な、なるほど……だが、やらせはせん。やらせはせんぞ! だって今度は俺が触るから!」(コソっ)

「くそっ、押すんじゃねえ! お前はおしりで我慢してろ!」(コソっ)

イゾルテは彼らを信頼していた。信頼とは、時に無知の上に成り立つものである。イゾルテは力を溜めて高く舞い上がり、ピンと体を伸ばしたまま優雅に一回転して見事に着地した。

「「「おおぉ~!」」」

「わはははっ、どんなものだぁ~!」

 イゾルテはまだ余裕があると感じていたが、それでもさすがに伸身2回宙返りは無理だと分かっていた。抱え込み、屈伸、伸身と体を伸ばしていくほど回転は緩やかになりその分滞空時間(=高さ)を要求されることになる。しかしどう頑張っても2mまでしかジャンプできないのだから伸身の2回転は無理だ。

――となると一回宙しか出来ないが……そこに捻りを加える事なら出来るかな?

 前代未聞の危険な技である。技そのものよりも、縦横の回転を組み合わせることで平衡感覚が狂ってしまわないかという恐れがあるのだ。だが失敗しても海賊たちに受け止めて貰えるという信頼感が、彼女にその無謀な挑戦を決意させてしまった。信頼とは、時に人を破滅へと誘う罠である。

「次は前人未到の大技をやっちゃうぞぉ~!」

「「「おおぉ~!」」」

 海賊たちが期待に満ちた表情で指をワキワキとさせる中、彼女はジャンプを繰り返しながら次第に力を貯め、ついにこれまでにない大ジャンプに挑んだ! ……いや、挑もうとした。だが船内から飛び出してきた近衛兵が急報を告げたのである。

「た、大変です! バブルンが攻撃を受けているそうです!」

「へ?」

 それは事故だった。イゾルテはジャンプの瞬間に動揺し、その強さはそのままに予定とは大きく異なる方向にジャンプしてしまったのだ! しかしどんな危機的な状況でも彼女の美しさは微塵も揺るがなかった。ピンと伸ばされた姿勢のまま彼女はくるくると大空を舞い、海賊たちはその優雅さに目的(エロ)を忘れて心を打たれた。

「こ、伸身後方二回宙返り一回捻り{ムーンサルト(注3)}!?」

「か、神業だ!」

だが彼女に見惚れた彼らは、誰ひとりとして彼女を受け止める事が出来なかった。……海に落ちて行ったので。


 どっぼーん


舷側の陰に隠れてからもさらに半回転して頭から海面に飛び込んだイゾルテは、再び浮かび上がってきた時に拍手と喝采で迎えられた。

「ブラボー!」

「縦回転に捻りまで加えるとは、さすがです!」

「最高っす!」

「マストからの飛び込みだってこうはいかねーよな!」

決して計画しての行為ではなかったのだが、彼女は必至で立ち泳ぎを続けながらも強がった。

「……わ、わはははっ! 子々孫々にまで語り継ぐがよいぞ!」

無駄な贅肉(◆◆◆◆◆)のない彼女のスリムボディはもともと浮力が小さいというのに、5kgほどもある錘を足につけているのだ。重いだけでなく足の動きも制限されていて、彼女は自由に動かせる手だけで必死に水を掻いていた。

――くそう、胸さえ大きければ浮くのに!

しかし当然海賊たちはすぐに彼女を助けてくれる……はずが、海賊船は無情にもそのまますすーっと進んで行ってしまった。

「え……? いや、ちょっとまっ……」

「足長{ジャンピング・スティルツ}を貰えるのが楽しみになってきたな!」

「親分、俺たちも頑張りますよ!」

「その時は今の技も教えて下さいね!」

「…………」

彼らは決して無情な訳ではなく、イゾルテが泳げると知っているから一刻を争う事態だとは想像もしていなかったのである。信頼とは、時に過失の原因ともなりうるのである。

――助けを求めるか? しかしせっかく恰好良いところを見せられたのに、ちょっと情けないぞ。それにどうせ停船するまでに相当先に進んじゃうし、小舟を下してここまで戻って来るまで私は持ち堪えられるのだろうか……?

イゾルテ最大の危機である。なんとも情けない理由だけど。

「姫様ぁーーー! ご無事でしょうかぁーーー!?」

めったに聞くことのないムルクスの絶叫を聞いて、彼女は必死に振り向いた。すると海賊船の後ろを進んでいたゲルトルート号から小舟が投げ落とされ、ムルクス自らがそのすぐ脇に飛び込むところだった。いつも泰然自若としている彼には似合わない慌てぶりである。それを見てイゾルテは自分の過ちに気付いた。彼女の最大の危機は、今現在溺れそうな事ではなかったのだ!

――まままま、まずい! あの爺が慌てている! 足長{ジャンピング・スティルツ}で遊んでいた事がバレたらどんなに怒られることか……!

極限状態でこそ人の真価は発揮されるものだ。彼女はその時、普段ならあり得ないような思い切った決断をした。即ち、せっかくの贈り物を海中に投棄することにしたのである。

――まあいいさ、足長{ジャンピング・スティルツ}なんて幾らでも作れるはずだしな。

 贈り物の足長{ジャンピング・スティルツ}をそこらの道化師が持ってる普通の足長{スティルツ}と同じような物だと誤解していた彼女は、その再現が可能であることに微塵(みじん)も疑いを持っていなかった。だったらオリジナルそのものはそれほど惜しくはない。彼女は一旦大きく息を吸い込むと、海中に潜って足長{ジャンピング・スティルツ}を外した。


 一方ムルクスはイゾルテが海中に沈んだのを見て生きた心地がしなかった。彼はもちろんイゾルテが泳げることを知っていたが、そもそも彼女が海賊船から突然飛び降りたことで「もしや反乱でも起こったのでは?」という深刻な疑問を持っていたのである。彼は海賊を取り締まる側として半生を過ごしてきた人間だ。海賊を名乗る連中をおいそれと信じられる訳がないではないか! 信頼とは、一朝にして形作られるものではないのである。まあ、その海賊団の頭目はイゾルテなんだけど。そして反乱の中でケガをしていれば、いくらイゾルテが泳げても溺れる可能性はある。彼は彼女を半神であると思っていたが、例え不死であったとしてもオデュッセイオス(注4)みたいにどこぞに漂流しちゃう可能性もあるではないか。

「急ぐのです! 陛下の身が危険かもしれません!」

彼は水兵たちを急かしながらイゾルテの沈んだ場所を見失わないように目を凝らした。……が、思いのほかあっさりと浮かび上がって来た彼女は、すすーと彼らの小舟に向かって軽やかに泳ぎ始めた。どうやらケガをしている訳でもなさそうで、しかもその顔からは反乱があったかのような焦りは窺い知れなかった。

「アー、ムルクス提督、大義であるゾ」

「……はぁ」

なにやら堅苦しい物言いにムルクスは疑念を抱いたが、それ以上に彼女が無事だったことに心底ホッとしていた。

「ご無事のようですが……どうして突然飛び込まれたのです?」

「そ、それは……バブルンの急報を聞いたからだよ、モチロン! 一刻も早く爺と相談しようと思ったのだよ、モチロン!」

「はぁ……」

ムルクスは何とも納得のいかなさそうな顔をした。

「そうはおっしゃいますが、例の匈奴軍が単独で攻撃を仕掛けてきただけだそうですよ?」

「えっ!? 匈奴軍が単独で……?」

イゾルテは唖然として何度か瞬いた。驚くのも当然であろう。軽騎兵が何万いようとバブルンのような巨大な城塞都市は落とすことができないのだ。それを見てムルクスが細い目をますます細めたのは、それが分かるイゾルテの賢明さを喜んでいる……訳ではなく、まるで今初めて聞いたかのような反応を訝しがっていたからである。

「…………」

ムルクスのジト目に気付いたイゾルテは、とっさに言い訳をした。

「いや、それはちゃんと聞いてたさ! でもその……ほら、きっと秘策があるに違いないんだ! なんといってもツーカ帝国を征服し、ヒンドゥラ王国をも飲みこもうとしている奴らだぞ? ハサール人と違って城攻めの手段も持っているはずだゾ!」

イゾルテの言葉にも一理あり、ムルクスは不承不承頷いた。

「……まあ、確かにそうかもしれませんね」

彼も彼女も後にこの予言を思い出して愕然とすることになるのだが、この時点では誰にも予測出来るはずもなかった。



 一方バブルンに立て籠もったバールも、予想外の攻撃に戸惑っていた。そもそもテゲレス川を渡河して来ることすら予想外だったのに、上流のいずこかで渡河して北からバブルンに襲いかかってきたのである。

 テゲレス川東岸地帯はほぼ無人の地となっているが、それは同時にいつ他の勢力に奪われても不思議ではないということだ。他の勢力とはスエーズ軍だけでなくドルク軍やハサール軍ということもあり得るのだから、ここを放置して敵地に深々と侵攻するなど蛮勇の局地とも思える無謀さである。だがその一方で、それとは裏腹にバブルンに対する攻撃は非常に散漫なものだった。

「上様、相変わらず敵の攻撃は大したことがございません」

「幾らか矢の当たった者はおりますが、今のところ軽傷者だけです」

「この分なら春どころか次の冬まで保ちそうですな」

「…………」

部下たちは楽観視していたが、バールは厳しい顔をして無言だった。

 敵はバブルンを包囲するほどの兵はいないものの、数ではスエーズ軍を上回り、機動力においては比較するのも馬鹿らしい。野戦ではスエーズ軍に勝機は皆無だった。だがバールはもともとそれをやるつもりではあったのだ。バブルンに火を放って撤退するという計画である。退路上の水路や川には、味方だけを通して敵を足止めするために浮き橋や渡し船の準備も出来ていた。しかしそれは、あくまで精強な奴隷軍人(マムルーク)だからこそ可能なことであって、足が不自由で武装もない一般市民3万人を守っての撤退ともなれば話は大きく変わってくる。

――敵の攻勢前に市民を避難させられなかったのが致命的だ。ユーロフラテンス川までたどり着ければ、イゾルテ殿の艦隊に回収して貰えるだろうが、匈奴軍を相手に彼らを庇いながら50ミルムも撤退するのは……あまりにも無謀だ!

バールは開城を条件に市民の安全な退去を打診してみようかとまで考え始めていた。相手が約束を守るという保証はどこにも無かったが、彼は精神的に追い詰められていたのだ。

「上様、何をそんなに心配されているのです。我らには心強い味方がいるではないですか。いざとなれば北部のドルク軍を動かしてでも救ってくれましょう」

――ドルク軍を……?

 それは目からウロコの発想だった。なるほど優しいイゾルテであればどんな無茶をしてでも助けを寄越してくれるかもしれない。しかしそれでは、匈奴軍本隊をスエーズ地峡におびき寄せるという基本戦略が崩壊しかねないのだ。それでは本末転倒である。そしてバールは、イゾルテがただの優しい少()ではないと知っていたのだ。

――無理だろうな。我ら6万を救うために数千万の民を危険に晒す訳にはいかない。……だが、あるいはイゾルテ殿なら妙策を思いつかれるかもしれぬか?

少なくとも彼女と相談するのは悪いことではないだろう。さらに言えば、打つ手もないままむやみに楽観論を否定して兵たちの士気を下げる必要も無かった。

「……そうだな、相談してみよう。さっきは一報を入れただけだったからな」

バールは謎の言葉をつぶやくと尖塔へと向かって歩いて行ってしまった。残された部下たちは首を捻った。

「はて、上様はどこに行かれるのだ? まるで今すぐ相談するみたいな口ぶりだったが」

「信心深い方だから"味方"というのが神様のことだと思っちゃったのでは? 祈りを捧げに行かれたのだろう」

「うーむ、イゾルテ陛下やトリス殿のつもりで言ったんだがなぁ」

 バールは部下たちを信頼していたが、遠くと話す箱{無線機}のことはまだ秘密にしていた。まだイゾルテに対する評価を下し終えていない彼は、部下たちに何と説明するべきか分からなかったのである。彼は尖塔の最上階で一人になると、隠しておいた遠くと話す箱{無線機}をこそこそと取り出した。

「あー、イゾルテ殿、イゾルテ殿。こちらバブルンのバールでござる。……あっ、えーと、ど、ドウゾ」



 バールからの連絡が入った時、イゾルテはシャワーを浴びて服を着替えたところだった。ムルクスがわざわざ持って来てくれた新品の軍服である。さすがは幼い頃から彼女の面倒を見てきた傅役(もりやく)だけあって気が利いていた。……まあ、さすがに下着までは持って来てくれなかったけど、もし持ってきていたらそれはそれで嫌だった。

「陛下、バール殿から連絡があったそうです」

「続報か? ……って、あれ? そういやまだ河口付近だよな。なんで話せてるんだ?」

「それはもちろん、高いところで話しているからです」

「高いところ?」

「マストの上です」

「…………」

どうりでムルクスの口から伝聞の形で語られる訳である。それに一際(ひときわ)高いゲルトルード号のマストの上なら、さぞかし遠くまで話すことが出来るだろう。

「じゃあ、ちょっと直接話して来るよ」

 イゾルテは久しぶりにゲルトルート号のマストをせかせかと登ると、見張り台の上で遠くと話す箱{無線機}を抱えて震えていた若い士官がいた。きっと長時間待機させられているのだろう。震えていたのは寒さのせいか、それとも高さのせいか。ひょっとするとオシッコをしたいだけかもしれないけど。

「あー、バールはまだいるか? こちらはイゾルテだ。ドウゾ」

『ああ、良かった。こちらはバールでござる。イゾルテ殿と直接話せて助かったでござるよ。ドウゾ』

間に2人3人も置いて連絡していたので、文字通り話が遠かったのだろう。

「匈奴軍が攻めてきたそうだな。どんな様子だ? ドウゾ」

『守りの準備は十分なのでござるが、おかげで市民を避難させることが出来なくなったでござる。まだ3万人程も残っているでござるが、彼らを抱えたまま撤退するのは無理でござるよ。何とかして頂けないでござるか? ドウゾ』

「何とかと言ってもなぁ……。我々の艦隊では地上戦力が足りないし、かといってドルク軍を動かす訳にもいかないぞ。それではエフメト派と我々がツーカーだとバレてしまう。ドウゾ」

『……そうでござるなぁ。……ドウゾ』

予想通りの答えにバールの声は沈んでいた。だがイゾルテは無情でも無能でもなく、無策でもなかった。

「……待てよ、匈奴軍の指揮官はシロタクだったな。奴はハサール軍と因縁浅からぬ間柄という話だ。シロタクが近くに来ていると知ったハサール軍が突出することは不自然ではないんじゃないか? その上ハサール軍単独なら、バブルンを目の前にしても攻撃しなくて当然だ。戦わなくても我々が協力関係にあることを隠匿できる。いや、ついでに彼らと同盟関係にある"ドルク人"の解放くらい要求してもおかしくないよな? ドウゾ」

『な、なるほど……!』

バールは思わず膝を打った。つまりハサール軍にシロタク軍を蹴散らしてもらい、ついでにバブルン市民が北部に避難するのを護衛してもらおうというのだ。しかもその行動の理由を、スエーズとの協調関係ではなくあくまでシロタクとの因縁だと思わせることが出来るのだ。彼らは知らないことだが、シロタクとニルファルの間には本当に我を忘れて戦い始めそうな因縁が存在していた。その上エフメト派には強力なハサール軍がついているという宣伝にもなるから、やがてやって来るモンゴーラ軍本隊にも警戒させる事が出来る。それは彼らをスエーズ方面へと誘いこむ大きな一因となるかもしれない。

 一方バールの方は市民を守る重責から開放されるし、再び解囲されれば本格攻勢の前に悠々と撤退することが出来るだろう。彼らはただ少しの間シロタク軍の攻撃を耐えしのげば良いのである。

『やはりイゾルテ殿に相談して良かったでござるよ! ドウゾ』

バールの声は弾んでいた。イゾルテは窮地を利用して、むしろ好機に変えてしまったのだ。

「とはいえ、ここでは光通信{反射鏡と望遠鏡を使ったモールス通信もどき}が使えないし、ハサール軍がどこにいるのかも知らないんだ。連絡するだけでも一週間はかかるだろうし、移動するのにどれだけかかるかも分からない。まあ、状況からして国境付近にいるとは思うけどな。ドウゾ」

『大丈夫でござる。匈奴軍の攻撃は散発的でまとまりもなく、その上弓以外の攻撃をして来ないでござる。食料が続く限りは大丈夫でござるよ。ドウゾ』

それはイゾルテを安心させようという主旨の言葉だったが、しかし返って彼女の不安を煽った。バールの気の抜けた言葉に油断を感じ取ったからだけではなく、城攻めに慣れているはずの匈奴軍があまりにも不可解な行動をしているせいだ。

――物資の流入を防ぐためなら遠巻きに囲んでいるだけで良いんだ。匈奴軍には何か目的があるはずだ。擾乱攻撃か? それとも威力偵察か? だが何のために? 本隊が到着する春以降まで攻撃しないのなら、どちらも今やる理由はない……ということは!?

先ほどムルクスに言い訳した言葉が、彼女の中で急速に現実味を帯びてきていた。

「……油断するなよ、バール。匈奴軍は数多くの城を攻め落として来た手練(てだれ)だ。実際には征服した国の兵に攻めさせたのかもしれないが、少なくとも城の攻め方は心得ているんだ。だというのに無駄に思える行動をしているのなら、そこには何らかの意図があるのかもしれない」

イゾルテの声音は差し迫って聞こえたが、その警告はあまりにも漠然としすぎていた。

『具体的にはどんなものでござるか? ドウゾ』

「分からん。トンネル掘りだとか、トロロイヤの木馬のように詐欺の類かもしれない。だがいずれにせよ、そのための下準備だとすれば威力偵察の可能性が高い。防衛体制を悟られるな。城壁に奴隷を立たせて兵を多く見せるとか、あるいはわざと隙を見せて特定の場所へ敵の攻撃を誘うのも良いだろう。密かに待ち構えて一網打尽にしてやれ。ドウゾ」

『なるほど……確かにそうでござるな。相談して良かったでござる。あとはハサール軍への連絡をお願いするでござるよ。ドウゾ』

「ああ、任せてくれ。じゃあ頑張ってくれよ。通信終わり。ドウゾ」

『通信終わりでござる』


 話し合いを終えた時、バールの気持ちは随分と軽くなっていた。窮地に追いつめられたはずだったのに味方が助けに来てくれることになり、市民を守って撤退するという責任からも解放された。それどころか撤退戦すらしなくていいかもしれない。彼の肩に伸し掛かっていた重圧は魔法のように消えてなくなっていた。

「さすがはイゾルテどのだ。やはりあの御仁(ごじん)は……いや、今は戦のことだな。城壁に奴隷や市民を立たせておくのは良いとしても、問題は弱点か……」

バールは悩んだ。バブルンは完全に円形の計画都市だから、全周360度どこをとっても大きな違いはないのだ。敢えて弱点を用意するのが築城の妙だと言われる理由が良く分かる好例である。弱点だらけで困るよりは遥かに贅沢な悩みだったが。

「敢えて言えば門であろうか……。各門にはそれぞれ例の新型投石器が置いてあるし、あそこに敵を呼び寄せれば大打撃を加えられるかもしれないな。」

新型投石器とはギャザリンが作った煉瓦を連射する投石機のことである。迂闊に近寄った敵は燃える煉瓦{アスファルト製日干し煉瓦}で軒並み粉砕され、焼かれることになるだろう。

「うむ、それがいいな。しかし弱点に見せるためには鉄格子は邪魔か?」

 城門のすぐ外側に落してある巨大な鉄格子は、その重量故に引き上げるのは数時間かかるが、落すだけならものの1分もかからない。後先考えないなら5秒もかからないだろう。これを引き上げておいてもそれほど危険には思えなかったし、戦理においても「打って出る」ための準備とも取れるから無意味な行動とは思われないだろう。

「うむ、鉄格子は一旦引き上げさせておこう」

それはリスクの少ない妥当な策に思えた。少なくとも、この時点では。



 シロタク軍が積極性を欠いていたのは、イゾルテが想像した通り威力偵察のためであった。しかしスエーズ側の人員配置というよりは、むしろ城壁そのもの調査が主たる目的だった。何しろ焙烙玉(ほうろくだま)は50個程しか持って来ていないのだ。弱点を探しだして攻撃を集中させなければ、とてもではないが数が足りないのである。シロタクはティムルと額を寄せ合い、その偵察の結果を聞いていた。

「どうだ、城壁は抜けそうか?」

「難しいです。どこも同じように強固な城壁に守られています。地形を利用せず平原にぽつんと建てられているせいで、返って弱点らしい弱点がありません。

 所々表面の煉瓦が崩れたところはありましたが、その奥は堅牢な石造りでした。あの巨石を割るには穴を穿ってその中に火薬を埋めねばなりませんが、我々とて火薬の扱いに精通している訳ではありません。さらにそれが成功しても、出来るのは瓦礫の山です。歩兵ならよじ登って侵入出来るでしょうが、騎馬のままでは到底無理でしょう」

彼らの精強さは馬に乗ってこそである。城壁の崩れた箇所で敵と押し合いへし合いするのはあまりにも向かないし、仮に城内に侵入できたとしても徒歩のままでは損害が馬鹿にならない。

「では城門か……」

「しかし城門は城門で鉄格子が下ろされています。門扉だけならともかくあの鉄格子は簡単には破れそうにありません」

もし鉄板であったなら、そこに穴を穿つことはそれほど難しくはないであろう。しかし格子では爆風が格子の間から抜けてしまうのだ。曲げるくらいは出来るだろうが、多少曲がったところでその間を通り抜けることは不可能だろう。

「ではやはり、どこか城壁を崩すしかないか……」

 だが2人が難しい顔をしていると、思わぬ朗報が入ってきた。

「敵に動きがありました! 全ての門で鉄格子が巻き上げられようとしています!」

「「何だと!?」」

あまりにも好都合な自体にシロタクは色めき立ったが、同時にあまりにも好都合過ぎて警戒心も呼び起こされた。今の彼は縛られた美女を前にしても、思う存分楽しんで満足するまでは決して縄を解かない慎重な男なのだ。

「どういう意図があるのだ。まさか打って出てくるのか?」

「通常の野戦を挑んでくる可能性は低いと思います。まだ飢えるには早いですし、城外で戦うつもりなら最初から待ち構えていたはずです。少なくともいつでも出られるように格子は下ろしていなかったはずです。

 今格子を上げたのは、我らの数が少ないことを見て攻撃を一箇所に集中させると踏んだのでしょう。我らがそうした場合、門から兵を出してこれを逆包囲するという意図かもしれません」

「なるほど……少なくとも牽制にはなるしな。あるいは我らには門扉すら破ることが出来ないと踏んだのかもしれない。まあいざとなればもう一度下ろすだけだろうし、やはり門を破るのは無理か……」

シロタクは肩を落とした。ちょっと期待しちゃった分落胆は余計に大きかったのだ。ニルファルが美人だったからこそ彼の心の傷が大きいように。しかしティムルは腕を組んで考え込んでいた。

「……いえ、そうでもないかもしれません」

「何だと?」

「確かに下ろすのは数秒で出来るでしょうが、その前に下ろせなく出来るかもしれません」

シロタクは首をひねった。何十トンもありそうな巨大で破壊不可能な鉄格子を宙に浮かせておく方法があるというのだろうか?

「……どうやって?」

「あの格子は左右の窪みに沿って上下にスライドできる仕組みになっているはずです。それがなければ鎖が切れた途端にパタンと倒れてしまいますから」

「まあ、それはそうだな」

だからこそイザという時は巻き上げ機をぶっ壊したり鎖を切ってしまえば数秒で下ろすことが出来るのだ。……修理に1月くらいかかりそうだけど。

「そしてあの太い格子を破ることは不可能ですが、曲げるくらいなら可能です。そして再び下ろされる前に鉄格子を曲げてしまえば、窪みの中で引っかかって下ろせなくなるかもしれません」

つまり横開きの扉をひん曲げたら開きにくくなるのと同じことだ。門の外側にあり、しかもぶっ()くて丈夫な鉄格子だからこそ、復旧は容易ではないだろう。

「なるほど! しかし、そんなに上手く行くのか?」

「敵が我々を侮っている間に焙烙玉(ほうろくだま)を叩き込みます。一度失敗すれば敵は即座に鉄格子を落すでしょうから一回きりの賭けです。

 確率を上げるため4つの門の両脇8箇所に同時に攻撃を仕掛けましょう。一箇所でも成功すれば、今度は残りの焙烙玉(ほうろくだま)を全てそこに叩きこみ、門扉を粉々に粉砕します」

 一度鉄格子を曲げてしまえばおいそれと修理も出来ないのだろうから、門扉を壊すのには時間的な余裕があるだろう。全ては最初に鉄格子を無効化出来るかどうかに掛かっているのだ。

「良かろう。ならば敵の気が変わらないうちに攻撃することにしよう。準備を急げ」

「かしこまりました。では夜の内に準備を整え、日の出とともに攻撃を加えます」


 こうしてシロタク軍も4つの門に向けて攻撃の準備を始めた。それはバールの思惑に乗せられたとも言えるし、彼の思惑を越えたとも言えるかもしれない。彼らの明暗が分かたれたのは、翌朝8つの爆音がバブルンの街を揺るがしたその瞬間であった。

注1 時代設定とは無関係ですが、現代の体操競技の回転技は姿勢によって大きく3つに分類されます。

 抱え込み:体操すわり状態

 屈伸:前屈状態

 伸身:直立状態

体を伸ばすほど回転半径が大きくなりますから、同じ技でもそれだけ難易度が高くなります。つまり 伸身 > 屈伸 > 抱え込み ですね。さらに開脚した方が回転半径が小さくなりますから、閉脚 > 開脚 です。

つまり足を閉じた状態でまっすぐ体を伸ばして回転するが最高難度な訳ですね。


注2 要するに死刑です。海賊による処刑法と言えば伝統的に飛び込み刑のイメージがあります。高いところで怯えて泣き叫ぶから見せしめ効果が大きいんでしょうか。

ちなみに正式名称(?)は「walk the plank」で、直訳すれば「厚板の上を歩く」刑です。それだと丸っきり意味不明なので、勝手に「飛び込み刑」と言ってます。

スターウォーズ エピソード6の最初の方で、ハン・ソロを助けに来たルークが死刑にされそうになりますが、あれも飛び込み刑でした。

まあジャバ・ザ・ハットは金貸しとかもやってるので、海賊というより都市型(?)ギャングっぽいですけどね。


注3 ムーンサルトは各種体操競技で用いられる技で、(前方又は後方)二回宙返りに一回のひねりを加えたものです。

前方だったり後方だったり伸身だったり抱え込みだったり千差万別ですが、全部ひっくるめてムーンサルトです。

「月面宙返り」とも称されますが、月面(moon)は英語、宙返り(salto)はドイツ語と、良く分からない組み合わせになっています。

これはどうもドイツ語の「salto」はラテン系言語(スペイン語・ポルトガル語・イタリア語)にも取り入れられているそうで、体操界(?)ではそれが標準語として通用しているのかもしれません。

歴史的にドイツには軽業師が多いのでしょうか?

ちなみに正式名称は、最初に実演した選手の名をとって「ツカハラ」です。

当時としては縦横の回転を組み合わせたことが画期的だったのだそうです。


注4 オデュッセイオス=オデュッセウス

オデュッセウスはイタケーの王様で、トロイア戦争では例の木馬の奸計を考えついた姑息な……いや、頭の切れる人です。

古代ギリシャの詩人ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』の主人公でもあります。

その物語ではトロイア戦争の帰りに遭難しちゃって、故郷を目指して10年間もあちこちを旅するハメになっちゃうという元祖ガリバーみたいな人でもあります。

10年間ほったらかしていた妻と再会した時にも「待たせてごめんよ、マイハニー!」とは言わず、「俺のいない間に浮気してたんちゃうか?」と疑って爺さんに化けて妻の様子を観察したという腐れ外道……いや、慎重な人です。

幸い奥さんは操を守っていましたが、もし新しい恋人や夫が出来ていても彼は大人しく身を引いたことでしょう。だって英雄ですし!

ええ、彼女に求婚していた連中を皆殺しにしたりもしますが、きっと彼女自身には手を出さないはずです……よね?



 この話では鉄格子が重要なポイントになってきます。都市の城門に鉄格子が標準装備されているイメージはないのですが、軍事要塞的なこじんまりしたものには結構ついてるような印象があります。まあ、しっかりした考証ではなくて映画とかの印象に過ぎないのですけど。しかも主にヨーロッパ(あるいはせいぜいイスラエル)を舞台にした映画であって、間違ってもバグダットではありません。まあ、そもそもどでかい鉄格子ってコストが掛かる上にお手入れが大変ですしね。野ざらしだから錆びちゃいそうだし。

 ついでに言うとモンゴル軍が使ったという「てつはう」が鉄格子を曲げることが出来るほどの爆圧を持っていたかどうか分かりません。そもそも鉄格子の太さや密度の設定は詰めてませんし、火薬成分も知らないし、着火のさせ方すら分かりません。高所を狙った場合、任意の場所で爆発させられるのでしょうか?

まあ多分導火線を使っていて、その長さでタイミングを合わせたのでしょうけど。でも導火線はロケ・コット元班長(現平研究員)の発明品ということになってるから使わせたくないという事情もあったりします。だから着火方法は謎のままです。


つまり私が何を言いたいのかと言うと、こういうことです。


 その辺は深くツッコまないで!

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