骨肉(後)
少しだけ百合展開
ヒシャームの交渉は、(その立場からして仕方がないが)通告というべき一方的なものだった。
『イゾルテ皇女を第3皇子エフメトの妻として迎え入れ、それを以って両国の平和と友好の橋渡しとしたい。それを望まぬということであれば、プレセンティナ帝国はドルク帝国との平和を望まぬものと解釈する』
ルキウスはそれを読むなりクシャクシャに丸めて放り棄てたが、少し考えてから拾い直し、皺を伸ばした。彼が断れば、ドルクはそれを大義名分として攻め寄せて来るのだろう。だとするといずれイゾルテの知るところとなる。
「イゾルテを呼んでくれ。それとムルクスもだ」
執務室に呼び出された2人は、クシャクシャの書状を見せられた。
「別に相手にするつもりはないのだが、いずれドルクがどうだこうだと言い立てて来るだろう。だから事前に伝えておこうと思ってな」
だがイゾルテは、ろくにルキウスの言葉を聞いていなかった。
「そうですか……」
「殿下、大丈夫ですか?」
イゾルテは、自分でも驚くほどに動揺していた。合理的に考えれば、彼女がドルクに嫁ぐことはあり得ない。"贈り物"がドルクの手に渡るのは、どう考えてもまずいのだ。それに第3皇子が皇帝になると決まっている訳でもないし、もし皇帝になっても嫁の実家に攻め込まないとは限らない。イゾルテに対する嫌がらせと、攻めるための大義名分作りに過ぎない。ルキウスの言葉(注1)を借りれば、秋も深まり晩秋となったということであろう。冬は目前だった。
だが、そういった合理的な判断の裏で、イゾルテは掴み所のない不安を掻き立てられていた。
――私は何に動揺しているのだ? ドルクが攻めてくることに? 大義名分に自分の名を使われたことに? それとも結婚に? 一人で敵の元に赴くことに? 国に二度と戻れぬ可能性に?
イゾルテ物心つく前に死んでしまった母親の事を考えた。
――母上はスノミ人として生まれながらこの国に嫁ぎ、この国の人間として死んだ。私がドルクに嫁ぐとしたら、私はプレセンティナの皇女ではなくなるのか? ドルクの皇族として新しい義務を負うのか?
心が千々に乱れ、考え事などまともに出来そうになかった。
「すみません、父上。気分がすぐれませんので、失礼します」
「動揺させたようだな。ゆっくり休むといい」
ルキウスは娘の動揺を、単にドルクに嫁ぐ可能性に怯えているのだと思った。彼は、イゾルテに続いて部屋を出ようとするムルクスを捕まえると、耳元で囁いた。
「私はあの子をドルクは勿論、国外に嫁がせる気はない。それどころか、いずれあの娘にも婿をとろうと思っているのだ。あの子を安心させてやってくれ」
帰りの馬車の中で、一言も口を利こうとしないイゾルテを、ムルクスはなんとか慰めようと言葉を尽くした。
「陛下はあのような申し出を受けるつもりはありませんよ。他の誰かに嫁げという圧力をかけているのでもないでしょう。それならまずテオドーラ様に見せるはずです」
ムルクスはそう言って笑った。
「それにエフメト皇子は帝位を狙う有力な皇子です。殿下なんか娶るはずがありませんよ」
何事か考え込んでいたイゾルテも、さすがにこの言葉には不機嫌に反応した。
「……随分な言い草だな」
「殿下は、ドルクでは『黄金の魔女』と呼ばれて、たいそう怖がられているそうですよ」
「魔女?」
「心を読むとか、人間を金塊に変えるとか言われてるそうです」
漂流船の噂が伝わって、新たに派生したバージョンである。
「港と船を焼いて、艦隊を全滅させ、ローダス遠征軍を全滅させた、恐怖の象徴だそうです」
「…………」
「ですので、殿下を嫁にしたらエフメト皇子の人気は暴落するでしょう。嫁ぐと言われても相手の方が困ってしまいます」
イゾルテはようやく、ムルクスが単に自分の悪口を言っているのではなく、自分を安心させようとしているのだと気づいた。
「ひょっとして安心させようとしているのか? 父上が私を国外に嫁がせないことは分かっている。"贈り物"の事もあるからな」
「では、どうされたのです?」
イゾルテは溜息をついた。
「私が揺らいだのだ。私が私たる所以が、な」
遠い目をして訳の分からない事を言い出したイゾルテを見て、今度はムルクスが不安になっていた。
――殿下はまた、化学変化を起こされているのではないか?
普通の話なら、イゾルテの一層の成長が期待できるかもしれない。だがこの話には嫁ぐか嫁がないの二択しかないのだ。嫁がせないと言っているのにイゾルテが悩んでいるということは、嫁ぐつもりなのかもしれない。
――まさかとは思うが、「ドルクを内側から乗っ取る」とか言い出しかねないのがイゾルテ様だ。ここは、確実に輿入れを妨害しておかなくては……。
離宮にイゾルテ送った後、ムルクスは再び皇宮へと向かった。
皇宮に舞い戻ったムルクスは、テオドーラの宮殿を訪れた。
「テオドーラ様、ムルクス提督がお越しです」
「ムルクス提督? イゾルテの守役の? 応接室にお通ししなさい」
テオドーラとムルクスに直接の接点はない。イゾルテを介して顔を合わせはするものの、1人で訪ねて来られるのは初めてだ。ならばこの突然の訪問は、当然イゾルテの身に何かが起きたということだった。
「ムルクス提督、イゾルテに何があったのです?」
「実はドルクから書状が届きました。ドルクの皇子の嫁として、イゾルテ様を貰い受けたいと」
「何ですって!?」
――イゾルテが嫁ぐ? しかもドルクに!?
テオドーラの感情はいきなり沸点に達した。
「なんて厚かましいの!? イゾルテに負けたくせに、身の程知らずな!!」
ムルクスは慌ててテオドーラを宥めた。
「もちろん陛下は無視するおつもりです。ですがイゾルテ様は、自ら犠牲になるおつもりのようなのです」
「イゾルテが……?」
テオドーラは、イゾルテがローダスへ向かう前、泣いて止めるテオドーラに言った言葉を思い出した。
『あなたとあなたの国に生涯仕えましょう』
――ひょっとして、私のためだと言うの……?
テオドーラは、名指しされたのが自分だったらと考えてみた。
――イゾルテのように国のために働くこともせず、(イゾルテ以外とは)結婚もしないと言い放つ私だったら……。それで平和が買えるならと、お父様も了承したかもしれない。だからイゾルテは、私の名が挙がる前に自ら犠牲になろうとしているのかもしれないわ!
湧き上がる感情を抑えて、テオドーラは言った。
「教えてくださってありがとうございます。ですが、今日の所はお引き取り下さい」
ムルクスが部屋を出るとテオドーラはその場に泣き崩れた。イゾルテとの別れが悲しかった。ドルクに対する怒りが募った。イゾルテの身を案じて不安にもなった。自らの不明が招いたことだと、悔しくも思った。だが何より、自分のことを想うイゾルテの気持ちが嬉しかった。
「でもダメよ、イゾルテ。あなたの気持ちは嬉しいけれど、私の方があなたを愛しているのよ!」
決然と立ち上がると、テオドーラは皇帝の元へと向かった。
書斎で寛いでいた皇帝はテオドーラの突然の訪問に驚いた。しかも涙で化粧がぐちゃぐちゃになっていた。テオドーラは開口一番言い放った。
「お父様、私が嫁ぎます」
それを聞いて、皇帝は一瞬喜びかけた。
――やっと結婚する気になってくれたか……!
だが、「嫁ぐ」であって「婿を取る」では無いことに気付いて、ドルクの話だと分かった。がっかりしながら皇帝は言った。
「求められているのはイゾルテだ。皇家の娘が欲しい訳ではなく、イゾルテが邪魔なのだ」
「ではイゾルテを差し出すつもりなのですか!?」
二人とも手放す気はこれっぽちも無いのに、なんで疑われなければいけないのだろうか。皇帝は思わず怒鳴っていた。
「私は天王ゼーオス(ペルセパネの父)のように、自分の娘を冥界に嫁がせる気はない!」
それを聞いてテオドーラも、イゾルテが勝手に犠牲になろうとしているだけなのだと思いだした。皇帝にその気はないのだと聞かされていたのだった。
気まずい沈黙の中、再び来客が告げられた。
「陛下、イゾルテ殿下がお越しです」
テオドーラは慌てて寝室に続く扉に向かった。
「お父様、私はこちらから帰りますわ。決してイゾルテをドルクにやらないで下さいね」
「あたりまえだ。私はそんなに信用がないのか……?」
皇帝はちょっとへこんでいた。
入れ替わりに書斎に入ってきたイゾルテも、開口一番こう告げた。
「父上、ドルクへ行きます」
予想通りの展開に、皇帝は脱力気味に言った。
「テオドーラにも言ったが、私は天王ゼーオスのように自分の娘を冥界に嫁がせる気はない」
「姉上に?」
「どこからか聞きつけて来て、代わりに自分がドルクに行くと言ってきたのだ」
イゾルテは途端に真っ青になった。彼女の考える義務の中には、テオドーラの血筋が皇統を継ぐことまでが含まれているのだ。
「なんてことを! 駄目です。絶対にダメです! だいたい誰が姉上の耳に入れたのです!? 姉上には知らないままでいて欲しかったのに……!
まさか父上、あなたがそう仕向けたんじゃありませんよね?」
イゾルテはルキウスに詰め寄った。突拍子もない濡れ衣に彼は慌てた。
「まて、なぜサーベルに手を伸ばす? 私は『自分の娘を冥界に嫁がせる気はない』と言ったはずだぞ!」
「……そうでした。失礼しました」
イゾルテの言葉を聞いて、テオドーラは自分の想像が正しかったのだと確信した。帰るふりをして、隣室で聞き耳を立てていたのだ。
「話を戻しましょう。父上のお気持ちは嬉しいのですが、私は父上の娘である前にこのプレセンティナの娘です。国のために犠牲にして頂いて結構です。
だだ心配なのは、国として私を差し出したとなれば、神がどのような罰を下されるか分かりません。ですから私は自分からドルクへ行き、暗殺か何かを試みます。そこで殺されれば神の怒りはドルクへと向くでしょう」
テオドーラは「神」とか「罰」という言葉に違和感を覚えた。だがそんなことよりも、イゾルテがわざと殺されに行くという方が遥かに重要だった。
「馬鹿なことを! まだ人質であれば、生きて国に戻る可能性もある。皇子との間に人並みの幸せを得ることもできるかもしれんのだ」
「ドルクで長く暮らせば、贈り物が届くでしょう。それを隠すことはできません」
「確かに贈り物がドルクの手に渡るのはまずい。さらに強力な船など作られれば、ようやく安定したメダストラ海もドルクの手に落ちるやも知れぬ」
「それに骨肉相食むドルクの皇子が、たかが妻の実家を攻めないとは限りません。そもそもエフメト皇子が皇位継承争いに敗れれば、私もどうなるか分かりません」
「だがそれを言うなら、そもそもお前がドルクに行く必要もないだろう」
イゾルテは寂しそうに自嘲した。
「私は『魔女』だそうです。敵愾心を煽り過ぎたのかもしれません。
それに魔女というのも、あながち嘘とも言い切れません。タイトンの神々も、彼らにとっては悪魔にすぎないのですから。
私がいては、プレセンティナの為にはならないかもしれません……」
「いいえ! あなたは『太陽の姫』よ!」
我慢できなくなったテオドーラは、寝室のドアから飛び出していた。
「皆があなたをそう呼んでいるわ! あなたこそがこの国に必要なのよ。
私は今まで何も知らず、何も考えず、何もしてこなかったわ。貴方がプレセンティナの娘だと言うのなら、私こそがプレセンティナの長女よ。あなたの前に犠牲になるべきでしょう!?」
「姉上……」
「お父様、いえ、皇帝陛下。私をドルクへ嫁がせて下さい」
テオドーラの言葉にイゾルテは目を潤ませた。一方的にイゾルテを求めるばかりだったテオドーラが、イゾルテとプレセンティナのために犠牲になろうとしているのだ。嬉しさのあまり涙があふれた。
「いいえ、それだけは絶対に駄目です。お姉様には帝位を継いで頂きます。そして子を産み、皇統をつないで頂きます。それこそがプレセンティナの長女の努めです!」
テオドーラも、頑なに譲ろうとしないイゾルテの言葉に、彼女が抱えこんだ義務の重さを感じていた。それは自分が投げ捨てていた分、イゾルテが抱え込んでいた重さだった。テオドーラは喜びと悲しみと深い罪悪感を感じながら、イゾルテに向き直った。
「イゾルテ……私はなんて愚かだったのかしら。あなたを愛しく想うあまり、自分の勤めを今の今まで分かっていなかったわ。
ごめんなさい、イゾルテ。私は結婚します、子も産みます、帝位も継ぎましょう。
でもイゾルテ、忘れないで。あなたを愛しく思う気持ちは、いつまでも決して変わらないわ」
イゾルテもテオドーラを潤んだ瞳で見つめ返した。
「お姉様、私もお姉様を愛しています」
見つめ合う二人はどちらともなく唇を交わした。それはかつて狂乱したテオドーラを落ち着かせるためにした物とは違い、やさしく、甘く、切なかった。そしてなぜかだんだん情熱的になっていった。あきらかに舌が絡み合っていた。
それは呆然とする父親の目の前で行われていた。彼1人を置き去りにして、2人の娘だけが勝手に盛り上がっていた。彼は何も悪いことをしていないのに、なぜかこんなことになっていた。それは彼に、かつての二人の母親たちを思い出させた。
「テオドーラ、よく言ってくれた!」
そう言って、父は無理やり娘たちを引き剥がした。彼は天王ゼーオスではないので、近親相姦を許す気はなかった。(ペルセパネは実姉ヘメタルとの間の娘)
「これでようやく、私も安心できるぞ!」
そう言う彼の心は、別の心配でいっぱいだった。
「では私も安心させて下さいませ。イゾルテを決してドルクには行かせないと」
「もちろんだとも! 良いな、イゾルテ。私は決してお前を差し出したりしないし、お前からドルクへ行くことも許さんぞ!」
「え? あ、はい、父上」
だがイゾルテは陶然として、ろくに父の言葉を聞いていなかった。
百合は深入りしません。これっきりです。
……たぶん。
(注1)ドルクの侵攻を冬のように避けられないものだという例え




