ユイアト海賊団 その11
長い航海を終えてようやくペルージャ湾にたどり着いたムルクスの艦隊は、今ようやくイゾルテと合流を果たした。事情の分からない海賊たちと、やっぱり事情の良く分からない海兵たちを置き去りにして、懐かしのゲルトルート号の上で、今、感動の対面が行われようとしていた。
「爺!」
「姫様」
イゾルテは満面の笑みを浮かべてムルクスに駆け寄るとその胸に飛び込んだ。……が、ムルクスはガシっと彼女の肩を掴んで受け止めた。
「姫様、お元気そうで何よりです。しかし、元気が余りすぎてお転婆が過ぎたようですな」
海の男は概して握力が強い。笑顔のままのムルクスに万力のような握力でぐぐぐぐっと肩を握り締められ、イゾルテも笑顔のまま呻き声を漏らした。
「ぐぬぬぬぅ……じ、じいっ!」
「そんなに元気が有り余っているのなら罰当番も捗りましょうな」
「な、なんでっ!? なんでいきなりトイレ掃除っ!?」
ムルクスはやれやれと首を振った。
「皇帝ともあろう者が海賊に身をやつし、命を危険に晒したのですよ? 罰は当然です。また胸に矢を受けられて……きっとまた腫れ上がりますよ?」
「だがこうするより他無かったのだ! 今ペルージャ湾を奪われては難民の非難に支障が出る。その上敵兵がペルージャ湾を渡ればアルビア半島まで占領されかねなかったのだ!
それに……胸ならむしろ腫れ上がりたい!」
即座にゴツンと落とされたゲンコツのせいで、むしろ頭頂部の方が腫れ上がりそうだった。
「い、痛たい……」
「そもそもどうして我々の到着を待たなかったのですか?」
「どうしてもこうしても、爺が連絡をよこさなかったからじゃないか。近くに来ているのなら遠くと話す箱{無線機}で連絡して来れば良かったのに」
「何をおっしゃっているのですか? この10日ほど毎日連絡を入れていましたよ。陛下の方が太陽の石{バッテリー}を抜いていたのでしょう?」
「バカを言うな! 確かにアプルンの力{太陽光パネルで充電した電力}が勿体無くて太陽の石{バッテリー}を抜いていたが、定時連絡のために毎日正午から1分だけは入れていた!」
ムルクスは戸惑ったように首を傾げた。それでもにっこり笑っているから傍目には困っているように見えなかったけど。
「おかしいですね……。我々も毎日正午の前後10分は話しかけていましたよ?」
「え……? 時間がズレてるんじゃないのか? 海の上で時刻が狂ったんだろう?」
「それは陛下の方でしょう。我々は5日前マスカレードの街(注1)で南中を観測して時刻を合わせてきましたよ」
「私だってちゃんと時刻合わせはしたさ! 互いの時刻を合わせをしてみよう。今何時だ?」
ふてくされたイゾルテがそう言うと、ムルクスは時計番の兵士に視線を向けた。
「今は何時ですか?」
「はっ! 15時42分です!」
「ほら見ろ! 私がこっちに渡った時には既に45分を過ぎていたぞ!」
しかしムルクスの長い経験と実績と部下への信頼に裏打ちされた自信は揺るがなかった。
「いえ、陛下が間違っているのです。そもそも海賊たちがまともに時刻を計っているのですか?」
「…………」
イゾルテはぐうの音も出なかった。"時間"だけでなく"時刻"を気にする必要があるのは遠くと話す箱{無線機}を所有するプレセンティナ艦隊だけであり、その存在を明かしていない海賊たちは時刻の正確さにかなり無頓着だった。うっかり砂時計をひっくり返し忘れたり、あるいは「さっきひっくり返すのが遅れたからこんどはちょっと早めにひっくり返そう」などといういい加減な運用をしている可能性もあるのだ。確かに正午は正しく観測した自信があったが、その正確さがちゃんと維持されている自信はない。前回正午を観測したのはいつの事だっただろうか……?
実のところこの時刻の齟齬は時差と羅針盤の問題(注2)なのだが、それが究明されるのは多くのプレセンティナ船がヒンドゥラ航路を行き来するようになった後のことである。
「さてさて、便所はこちらですよ」
首根っこを掴まれたイゾルテはズルズルと何処かへと引きずられていった。彼女が再び海賊たちの前に姿を現したのは4日後のことである。
プレセンティナ海軍とユイアト海賊団の混成艦隊は、20隻の守備隊を残したまま――そしてイゾルテをトイレに監禁(?)したまま――拿捕した敵船を引き連れて北へと舵を取った。海戦の勝利を知らせるためと避難民の護送のためである。あとついでに、スエーズ軍に捕虜を押し付けるために。
「最後まで陛下と行動をともにするのが近衛ですよ」というムルクスの一言でトイレ掃除につき合わされることになった俄か近衛兵たちが便器から黄ばみを消し終わり、代わりに黄色くなった4日ぶりの太陽をイゾルテと一緒に拝んでいると、艦隊はテゲレス・ユーロフラテンス川の河口に到着した。
河口と言っても港街のバスターがあるのはもう少し上流だし、そのバスターにも寄港する予定はなかった。だが河口には無視できない物があった。河口の東岸に無数の建物が立ち並び、町が出来ていたのだ。
「包だ……!」
イゾルテは思わず叫んだが、正確にはその建物はモンゴーラ語で「ゲル」と呼ばれているものだ。まあ、ハサールで「パオ」と呼ばれる折りたたみ式住宅とほとんど同じ物だけど。実際その中でモンゴーラの物はごく僅かで、ほとんどがアムリル部をはじめとした別の草原の民のものだったが、イゾルテには両者の違いが分からなかった。まあ近寄れば模様が違うことには気づくだろうけど、それが何を意味しているのかはさっぱりだ。
「匈奴軍が既にこんなところまで来ていたのか……」
あるいは何も情報が無ければこれほど驚かなかったかもしれないが、匈奴軍が年始にアカンタレ・アッパースを出発したことをセルカンから聞いていたからこそイゾルテは衝撃を受けていた。まだ1月も経っていないというのに雪を冠した険しい山脈を越えて1000ミルムの道のりを踏破して来るとは、なんという積極性だろうか! そのやる気はもっと生産的なことに使って欲しいところだが……
だが転んでもただでは起きないイゾルテは腕を組んで考えこんだ。
――やつらは海戦の結果を知らないはず……今ならもう一度騙せるか?
「そうだ、セルカンを使おう。そういえばビルジも指揮官も暗殺し損なったアイツだって罰を受けるべきじゃないか? おい、誰かセルカンを呼んで来てくれ! 罰として今度は野蛮な匈奴の陣中の下に送り込んでくれるわ!」
その恐るべき罰に怯んだのか、ムルクスの幕僚がおずおずと答えた。
「そ、それがセルカンさんという方は……行方不明だそうです」
「……なに?」
「捕虜の話では、服だけ残して何処かに消えたそうです。恐らくは自暴自棄になった兵士に服を脱がされて正体がばれ、始末されたのかと……」
「そうか……」
さすがのイゾルテも罪悪感を覚えた。暗殺者としては欠片も役に立たなかったが、彼のもたらした情報が無ければ今頃モンゴーラ軍はテゲレス川を渡っていたかもしれないのだ。ペルージャ湾の支配権がビルジに奪われていた可能性もある。彼の密偵としての功績の大きさは計り知れなかった。
「セルカン、安らかに眠れ。サブリナちゃんのことは私が責任をもって身も心も色々な意味で面倒みるから安心してくれ!」
彼女は海戦のあった南の海に向き直るとビシっと挙手の敬礼をした。周りにいた近衛兵達も南に向けて敬礼をした。彼らは近衛兵としては俄ではあったが、セルカンの死を悼む気持ちは主と同じだ。その心のこもった主従の姿には上下一心君臣同志の一体感があった。彼らの頼もしき姿を見れば、きっとセルカンも安心して眠ることが出来るであろう。
「ぶえっくしゅっ!」
拿捕されたビルジ艦隊の軍船の船倉で捕虜の一人が大きなくしゃみをした。ひしめく他の捕虜たちの注目を浴びて、彼は冷や汗を垂らしながらごまかすようにつぶやいた。
「か、|神を讃えます《“アルハムドゥリッラー》」
「「「|神があなたに慈悲を与えますように《ヤルハムカッラー》」」」
「|皆さんにも神の祝福がありますように《ヤハディークムッラーフ・ワ・ユスリフ・バーラクム”》。(注3) ああ、風邪ひいちゃったかナァ。寝ていヨウ」
彼はごろんと床に横になると顔を見られないように壁に向き合いしくしくと泣いた。
――うう、何で俺がこんな目に……。誰か俺を俺だと気付いてくれよー!
死んだはずのセルカンは、脱出するために敵兵のフリをしたことが災いして捕虜として船倉に閉じ込められていた。
一方、川岸から船団を眺めるシロタクたちも戸惑っていた。
「どういうことだ? なぜ素通りする! あれはビルジ殿の差し向けたあの女の艦隊ではないのか?」
シロタクは余裕なくイライラとしていたが、セルピナに親近感を抱いていたティムルは言い訳のように彼女を弁護した。
「この海域にはセルピナ殿の海賊団しかいなかったはずです。我々に気づいていないのか、それともここには上陸できないのかも……」
「あっちだって我々を探しているのだ、気付かない訳がなかろう! ここには船付け上陸できないのだとしても、連絡員ぐらい寄越すはずだ。それに我らがここにいることは見れば分かるのに、いったいどこに行く必要がある?」
シロタクの意見は尤もで、ティムルもそれ以上弁護は出来なかった。
「……ひとまず、陸から追手を差し向けましょう。何の目的でどこに行くのか確かめねばなりません」
確かにその通りだ。だがシロタクは更にその考えを発展させた。
――補給が来ないのはビルジの不手際だ。ならばその問題を解決するために俺が独断専行しても、それは止むを得ざることであってヤツに責められる筋合いはない!
「そうだな! それに補給が受けられないならここに留まる理由もない。可能な限り兵を進めよう」
政治的な言い訳が出来たのだ。ビルジも到着していない今この時は、フリーハンドを得たとも考えられる。彼としてはこの機会に進軍して速やかに戦いの火蓋を切って落としたいところだ。
「し、しかしこの先はこの大河を渡らねばなりませんよ? 我々だけでは無茶です!」
「とりあえずは略奪しながら上流に進もう。上流に行けばどこかで渡河出来る場所もあるかもしれない」
シロタク軍はその場に1000騎あまりを残し、テゲレス川東岸地域を北へ北へと進軍を開始した。
注1 マスカレード=マスカット
このマスカットは葡萄の品種ではなくてオマーンの港湾都市です。
注2 マスカットはムサンダム半島先端付近より南東に400kmほどのところにありますが、経度の差はだいたい3度くらいです。
1日=1440分かけて360°回転するわけですから1°あたり4分、つまり12分の時差があるわけです。
しかし、これに加えてさらにややこしいのが磁北と真北の差――偏角です。
wikipedia「北磁極」に偏角を表した地図が載ってますが、イスタンブールが5°くらいでムサンダム半島が3°くらい、アラビア半島南岸がちょうど0°です。
つまりマスカットに比べてホルムズ海峡の方が偏角が2度くらい大きい(磁北が東にズレている)訳です。
で、羅針盤に基いて真南を割り出そうとした時、地域によって偏角が変わってくるということを知らないと、ムサンダム半島よりマスカットの方が2度くらい東の方を見てしまいます。
つまり……合計で5°の違いが生まれてしまい、20分もズレることになります。
意外と砂時計は正確ですから、これだけズレているとそのズレがそのまま持ち越されてしまうでしょう。
注3 くしゃみをした時のイスラム圏での定形のやりとりです。
英語圏なら「(God) bress you」、日本なら「お大事に」といった感じですね。
しかしイスラムではくしゃみした本人→周りの人→本人という会話になります。これも祈祷の一種ということで、ムハンマド本人が厳密に決めたそうです。
ちなみにくしゃみしたのが非イスラム教徒だと微妙に台詞が違ったりしますし、あくびの場合のやり取りとかも決まってます。こ、細けぇ……




