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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
285/354

ユイアト海賊団 その10

久々に長文です

今までウダウダやってたので決戦は1話にまとめました

まあ、まだ大きな戦いが3つ4つありますけど……

 海賊団は夜のうちに出港するとビルジ軍が制圧した丘から見える位置まで北上して停泊し、その上で使者を送ってビルジ艦隊の撤退と引き換えにセルピナを返すという交渉を持ちかけた。

 もちろんイゾルテはビルジが約束通り撤退するとは考えていなかった。今後のことを考えれば海賊を根絶やしにして海上補給路を確保しなくてはならないのは明らかだ。だがむしろビルジ側に約束を守る気がないからこそ、彼らは簡単に了承するはずであり、実際にそのような返事を返してきた。この取引で重要なのはただ2つ、敵艦隊の襲撃を誘うことと、刺客たるセルピナを彼のそばに送り込むことだったのだ。

 暗殺は民主制時代から続くヘメタルの悪弊である。帝政の礎を築いたユリアヌス・カエサルも暗殺された。だから彼女は暗殺ではなく、詐欺と謀略に精を注いできたのだ。暗殺というお手軽な手段に一度でも手を染めれば、彼女は二度と元に戻れないかもしれない。テオドーラとのキスが彼女の性癖を変えてしまったように。だが、コルネリオを暗殺したビルジに対する憎しみが彼女の筋を曲げさせていた。

「タイミングは任せる。好きな時に殺れ」

「といっても、戦闘中じゃなきゃ俺が逃げられそうにないんだが……」

 セルカンの方も本意ではない。戦場ならともかく船上では逃げ場がないのだ。しかも彼は遠泳が得意じゃないと言っているのに、イゾルテは嫌がらせのように艦隊を陸地から離れさせていた。こんなことならビルジを宮殿で殺しておけば良かったと彼は心底後悔していた。

 やがてビルジ艦隊が近づいてくると、イゾルテはセルピナを一人小舟に下ろして艦隊を後方に下げさせた。ビルジ艦隊から一隻のガレー船だけがゆっくりと進み出てセルピナを回収すると、その船のマストに真っ赤な信号旗が上げられた。

「ベネンヘーリ、あれは何か意味があるのか?」

「いろいろな意味があります。進路を北に向けろという意味に使われた事もありますし、川を下れという意味にも、血を惜しむなという意味にも、提督の愛娘の初潮を知らしめるために使われたこともあります」

最後のは最低な使われ方だったが、とにかく決まった意味はないということだろう。つまり事前の打ち合わせ通りという意味だ。

「敵が来るぞ! 左舷回頭、戦闘準備!」

イゾルテの叫びが終わらない内に、遠くからドンドンという太鼓の音が聞こえてきた。


 一方ビルジ側の軍船に救出(◆◆)されたセルピナは、艦長らしき男に礼を言っていた。

「助かりましたわ。早速ビルジ様にお礼を申し上げないと」

「そうですか。しかしそれは戦いの後の話です」

どうやらイゾルテの想定通りビルジは約束を守る気はないようだった。

「で、でも妹達のことは私が一番良く分かっていますわ。陛下に助言して差し上げられることもあるはずです! 今すぐ陛下のもとに参らなくては!」

「なるほど、確かにそうかもしれません。しかし戦力比は2倍以上。不意を打たれなければ勝ったも同然です」

艦長は余裕綽々といった様子で海賊団を微塵も恐れていないようだった。

――くそっ、ビルジに近寄れなくてはこんな茶番まで打った意味が無いじゃないか!

「だ、だとしても、妹の助命を嘆願したいの! あんなちょっと見た目が良いだけの捻くれたちんちくりんの性悪変態小娘でも、私の妹なのよぉ~! 陛下に会わせてぇ~!」

セルピナがおいおいと泣き崩れると艦長は困ったように眉根を寄せた。

「しかし……そもそも陛下はここにいらっしゃいませんよ。アカンタレ・アッパースにおられます」

「え……?」

「それに提督からは妹君は生け捕りにするように命令されております。提督の女好きは有名ですからきっと命は無事ですよ。安心してください」

それを聞いて安心できると思う艦長の神経もどうかしているが、セルピナの頬が引きつったのはサブリナ人形{リアルドール型ドリンクサーバー}の貞操の心配をしたからではもちろん無かった。

「えーと、陛下はいらっしゃらないの?」

「ええ。しかし大変心配をしていらっしゃいましたよ」

セルピナの額に血管が浮き上がった。ビルジは春まで暇なことが分かっているのだ。しかもここはアカンタレ・アッパースから目と鼻の先である。心配していたのなら、下っ端まで楽勝と信じている戦いにくらい出向いて来いと言いたいところだ。

「……で、艦隊を指揮している提督はサブリナを生け捕りにするつもりだと?」

「ええ。妹君も大変な美女で(そそ)る体をしておられるそうですね」

ビルジ艦隊ではセクハラが罪に問われないのだろうか。陸でやったら女に総スカンくらいそうな物言いである。だが部下がこれなら提督は確かにサブリナを生け捕りにしたがっているのだろう。しかし戦闘中にいきなりベッドに連れ込もうと言う訳でもなし、今すぐその提督に近づく口実も無さそうだった。

――俺の出番が無いじゃねーか! 指揮を混乱させなくてもトリスは勝てるのか……?

このままでは海賊が全滅して彼女(?)だけが生き残るという最悪のシナリオになりかねない。呆然とする彼女の前でマストに赤い旗が昇り、遠くからドンドンという太鼓の音が響いてきた。


 ビルジ艦隊旗艦では、先日の連絡士官が赤い旗を見て提督に報告していた。

「提督、セルピナ嬢を確保しました」

「よし、海賊どもを皆殺しにしろ! ただし女頭目のサブリナだけは生かしておけよ!」

命令を受けてドンドンとリズムの良い太鼓が打ち鳴らされると櫂が一斉に動き始め、艦隊はゆっくりと動き始めた。

 船単位で生死を分けることの多い海戦で特定の人物を生け捕りにするというのは無茶な命令のように思えるが、実のところ指揮官クラスになると生存率は高い。切り込んだ場合も直接斬り合いには参加しないし、衝角戦で穴を開けられて海に投げ出されても身代金が取れそうな者は優先して助けられるからだ。

 やがて艦隊は最大船速に達し、セルピナを回収した船を追い越して海賊団に迫った。だがなぜか海賊艦隊は回頭して船腹を晒したまま動きを止めていた。これが陸上なら罠を疑うところだが、ここは海の上で陸からは5ミルムは離れているだろう。伏兵はあり得ないし、先ほど海賊艦隊が通った場所なのだから暗礁があることもあり得ない。唯一考えられる合理的な説明は、休戦が成ったと思って回頭を命じたもののビルジ艦隊の太鼓を聞いて驚き戸惑っているというところだろうか。

「フハハハ! 所詮は海賊、とっさのことに混乱している顔が目に浮かぶわ!」

提督は勝利を確信していた。倍以上の艦数で停止した敵の横から全速力で迫っているのだ。まるでTの字のように敵船中央の土手っ腹に深々と衝角が突き刺さる様が目に浮かんだ。だがその夢想は期せずして崩れ去った。太鼓に合わせてリズム良く海面を叩いていた櫂の音が突然乱れると、見る見るうちに船の速度が落ちていったのだ。

「何だ? どういうことだ!」

提督が周りを見回すとビルジ艦隊の全ての船が同じように速度を落としていた。他の士官や兵士たちも皆混乱していたが、ただ連絡士官だけが蒼白な顔をして船べりから海面を見つめていた。

「まさか……海賊ごときが、どうして"網"を……?」

「網だと? 何か知っているのかっ!?」

「かつて私はメダストラ艦隊に所属していました。ローダス島沖の戦いでプレセンティナ艦隊が用いたのが"網"です。あの"網"を櫂に引っ掛けて身動きが取れなくなり、我々の艦隊は敗北したのです!」

提督もその話を思い出した。ドルク軍でも採用しようと言う話があっさりと立ち消えになったから忘れていたのだ。なぜならその兵器は致命的な問題を抱えていたからである。

「だが、それでは海賊だって櫂を使えないではないか! やつらも我々に近づけないのなら戦いようがない! ……まさか、最初から逃げるつもりだったのか?」

 ビルジ艦隊は速度を落としながらも惰性で進み続け、その先頭は海賊艦隊まで100ミルムを切っていた。海賊が最初からこの状況を想定していたのなら混乱している訳もない。だが海賊艦隊は一向に何の動きも見せなかった。逃げるつもりならさっさと逃げているだろうし、そもそも取引など持ち出す意味が無いはずだ。だとしたら、近づかないで戦うつもりだとしか考えられなかった。

「……夜襲だ。この前の夜襲と同じことをしようとしているんだ! 全艦、射撃戦用意!」

しかし身動きの取れない彼らの艦隊は隊列も崩れ、命令の伝達ですら容易ではなくなってしまっていた。


 海賊艦隊がセルピナを下ろした後に後退したのは浮き網を撒くためだった。ペルージャ湾で網を使うのはこれが初めてのことだ。プレセンティナ軍とは違って海賊艦隊の帆走技術と射撃能力はそれほど高くないから、これはとっておきの切り札であると同時に苦肉の策でもあったのだ。だが最初から衝角戦が無いと割り切っていればいろいろとやりようがあるものだ。

「キメイラ、火炎壺をお見舞いしてやれ! 攻撃開始の合図だ!」

イゾルテの命令を受けてビルジ艦隊の先頭の船に火炎壺が打ち込まれて炎が上がると、海賊艦隊の各艦から猛烈な射撃が開始された。

 弩はこれまでに退治した海賊船から回収していたから海賊全員に渡るほどの数が揃っていたし、ビルジ艦隊に面した右舷からは使うつもりのない櫂を引っ込めて臨時の狭間(はざま){銃眼}(注1)にしていたのだ。

 かつて糞尿にまみれていた櫂漕ぎ部屋は綺麗に洗い流され、天窓も階段の扉も開け放たれ、漕ぎ手の足に鎖はなく、代わりにその手には弩があった。彼らの多くはもともと別の海賊団の舟漕ぎ奴隷だったのだが、ユイアト海賊団に解放され彼らの理念に賛同してここに残ったのだ。彼らの多くは斬り合いも出来なければ水夫としても役に立たないから、普段は漕ぎ手として働きながらいざという時には射手として安全な船内から敵を攻撃する役割を負っていた。彼らが奴隷のままならとても危なくて武器など持たせられないから、ビルジ艦隊には真似の出来ないことである。


 切り込みに備えて甲板に溢れかえっていたビルジ艦隊の兵士たちは、猛烈な射撃を受けてバタバタと倒れた。隠れる場所もなければ盾も鎧も無いのだから当然の帰結である。

「反撃だ! こちらも撃ち返せ」

切り込み前に射撃をするのは常套手段であり彼らも当然その準備をしていた。しかし弩は射撃頻度が低い上に船べりに身を隠す相手を倒すことは出来ない。相手を船べりに隠れさせることが目的なのだ。そうして敵の行動を阻害している間に敵艦に切り込むのである。しかし最初から相手が身を隠し、こちらからは切り込めない状況では何一つ役に立たなかった。そもそも牽制が目的なのだから相手を殲滅するほどの数も揃えていないのだ。

「くそっ! なぜ敵はこれほどの射撃が出来るのだ!」

「敵はこれを狙っていたのでしょう。自分たちは舷側から船べりに隠れて射撃し、我々には隠れるところもありません!」

「しかし、なぜこんな射撃を続けられる!? ええーい、下がれ! 弩を持たない兵は一旦船内に戻れ!」

一斉射撃は猛烈なものだが、それは最初だけだ。装填には時間がかかかるから射撃のペースはすぐに衰えるはずだった。しかし海賊団の攻撃は猛烈なまま持続していたのである。

 海賊艦隊でキメイラを載せているのは旗艦だけだった。小型投石器を備えているのも旗艦をはじめとした3隻だけだ。夜襲のために旗艦に移設してしまっていたのである。それ以外の船はただの弩で攻撃していただけだったが、それでも普通の船よりも遥かに猛烈な射撃を行っていた。舟漕ぎ部屋では30人の射手に対して別の30人が装填を行っていたのだ。いわゆる釣瓶(つるべ)撃ち(注2)である。そのため彼らは通常の2倍近い速度で射撃を続けていたのだが、安全な舟漕ぎ部屋からは決して出来ない攻撃のために甲板上で身を潜める者たちもいた。

「準備はいいか? 構えぇ……放てぇ!」

一斉に弓から火矢が放たれると、海賊たちは再び船べりに隠れて次の火矢を準備した。

「構えぇ……放てぇ!」

一斉に放つのは敵に火を消す暇を与えないためだ。兵士が甲板に溢れていれば火矢が何本当たろうがすぐに消されてしまうが、彼らが船内に下がってしまえば火を消す手が足りない。だからといって再び甲板に上がって来れば弩の餌食である。二律背反の状況に追い詰められた提督は頭を掻きむしった。

「くそっ! これでは倍の兵力があっても焼き殺されるのを待つばかりだ! 何か手はないのか!?」

提督に詰め寄られた連絡士官は周囲の海を見回した。

「見たところこのあたりには網は浮いていません。すでに危険地帯は脱出しているのです! 

 とにかく網を切ることです! 今櫂に絡まっている網さえ切り取ってしまえば再び動き始められます!」

「しかし、この矢の雨の中でどうするというのだ?」

「考えがあります! おい、誰か! どこでも良いから適当にドアを剥ぎとって来い! それと長い棒だ!

 あと奴隷頭に言って櫂を収納させろ! 網が引っかかるだろうから、出来るだけで良い!」

やがて届けられた棒に腰の半月刀を括りつけて急ごしらえの槍にすると、連絡士官はドアを盾にして船腹に収納されかけている櫂の間で振り回した。ブチブチと網を切り裂く確かな感触を感じながら彼は怒鳴った。

「こうです! こうやって網を切るのです!」

 これはメダストラ海では結局使われなかった対抗策だった。この対抗策が実際に使われる前にプレセンティナ海軍が火炎壺を実戦配備してしまったからだ。網を切ってる間に船が燃えてしまったら意味が無い。結局メダストラ艦隊の再編自体がおざなりになってしまい、彼はペルージャ方面に転籍することになったのだ。しかしこの海賊は火炎壺を最初に一発放っただけで後は普通の火矢しか使っていなかった。これなら網を切っているだけの余裕があった。

「なるほど! 他の者も同じように切り払え! 旗信号も上げろ! 『我に倣え』だ!」

全ての艦に伝えられるとは思えなかったが、周りの船が真似を始めれば次第にその周囲へと伝播していくはずだ。そうなれば戦況は再び逆転するはずだった。


「親分! 敵が網を切ろうとしています!」

「チッ! 大人しく射たれていれば良いものを……!」

 圧倒的優勢にたったかのように見える海賊艦隊だったが、実のところどの船も定員の半分ほどしか漕ぎ手を確保出来ていなかった。敵が再び自由を得て衝角戦を挑んで来れば海賊団に勝ち目はなかった。漕ぎ手たちの白兵戦能力も期待できないから、斬り合いに持ち込んでも数で押し負けるのは確実だ。今のうちに思い切った策を講じなければならない。思い切った策(◆◆◆◆◆◆)を。

――セルピナはまだか? 唯でさえ混乱している今ビルジを殺せば、敵は収集がつかなくなるというのに!

イゾルテはジリジリとした焦りを感じたが、はっとそれを自覚して我に返った。そんな博打に全てを委ねるのは無責任だ。

――この期に及んで未だに撤退の動きを見せないということは、既に失敗したということか? いずれにせよアテには出来ないな……

彼女は顔を上げると思い切った決断を下した。

「止むを得ない……。全艦待機! これより旗艦のみ突撃する! 自由を得る前に敵艦全てを灰にするのだ!」

唐突な命令に海賊たちはどよめいた。

「お、親分! それは流石に無茶だ!」

「せめて全艦で突撃すべきでしょう?」

「駄目だ! 漕ぎ手が射撃をやめても攻撃力があるのはこの船だけだ! それにこの船が囮になれば他の船への攻撃が減り、火矢の射撃に専念できる!」

「しかし、それでは我々がハリネズミにされかねません!」

「お前たちは下に下がっていろ。海賊団の頭目たるもの、囮になるのも役目の内だ」

イゾルテの悲壮な覚悟に海賊たちは顔色を変えた。

「そ、それじゃあ親分がハリネズミにされちまう!」

「そうだ! 万が一にも生き残れねぇ!」

イゾルテの身を案じる海賊たちに、彼女は胸を熱くしながらも怒鳴りつけた。

「ウダウダ言ってないで指示に従え! 自分たちの親分を信じろ! 決して死なないさ。なんと言ってもユイアトは不滅だからな!」

そのユイアトがとっくに死んでることは誰もツッコまなかった。無事では済まないとイゾルテだって分かっているのだと、海賊たちも分かっていたのだ。彼女は自分の身を犠牲にして彼らを守ろうとしているのだ! 海賊たちは顔を歪めて涙を流した。イゾルテ自身も悲しそうに涙を流していた。

「さあ、お前たちの親分を舳先に連れてけ!」

そう言ってイゾルテは赤い仮面を親分の顔に被せた。セルピナに反旗を翻して海賊団の主になったという設定のサブリナ{リアルドール型ドリンクサーバー}親分に!

「「「…………」」」

男たちは歪めた顔を凍らせたまま泣き止んだ。

「ううっ、気に入っていたのにこれでハリネズミ決定だ。せめて胸だけは再利用したいなぁ……」

イゾルテだけが悲しそうにぼやいていたが、男たちは無言でサブリナ{リアルドール型ドリンクサーバー}を丸テーブルごと抱えるとさっさと舳先へと運んでいった。

「ああっ、最後に一揉み……いや、なんでもない。この悲しみを敵にぶつけてやる!」

完全な八つ当たりである。だがこれで敵の攻撃はサブリナ人形とそのすぐ後ろのキメイラに集中し、人的な被害はなくなるだろう。

「キメイラと投石機は火矢を放ち続け、他の者は船内に入って漕ぎ手になれ! これより敵の旗艦に向けて突撃を開始する!」


 三段に並んだ一番上の段の櫂をようやく自由にしたビルジ艦隊旗艦は、二段目の櫂に絡まった網を切り裂きにかかっていた。

「まだか? 動くようになったところから動かせば良いだろう?」

「上の段を動かされてはその下の櫂を自由にできません。もう少し待ってください!」

まだまだ作業は続いていたが、既に周りの艦も同じように網を切り裂き始めていた。後は時間との勝負である。

「提督! 敵の旗艦が突進して来ます!」

兵士の叫んだ警告を耳にして提督たちがそちらに目を向けると確かに敵が動き始めていた。ただし、たったの一隻だけが。その船は衝角を突き入れるつもりは無いようでゆっくりとビルジ艦隊の中に分け入りながらも、四方に火矢を激しく放ち続けていた。

 その悠々とした動きを見て連絡士官は一瞬悪夢を蘇らせた。敵より優勢だったはずのドルク艦隊が網の罠にかかった時、その罠の中をただ一隻で突き進んできた巨大な帆船の姿だ。彼はその時遠目に黄金の魔女を見た。提督にははっきりとは言わなかったが、彼はその時プレセンティナの捕虜となったのだ。

――いや、あれは帆船ではない。ガレー船だ。櫂が海面を打っているじゃないか。

連絡士官は二三度頭を振ると再び網を切る作業に戻ろうとした。だが別の声が再び響いた。

「女だ! 敵艦の舳先に女がいます!」

連絡士官は嫌な予感を感じた。あの時は黄金の魔女がマストに立っていた。だが今回舳先に立っている赤い仮面に赤いガウン{襦袢}という特徴的な服装をした黒髪の女は明らかに別人だった。

「あれはサブリナです! 海賊の女首領です!」

「なにっ!? なぜ頭目があんな目立つところで突っ立ってるんだ!?」

当然の疑問である。野戦なら先頭に立って突撃する猛将タイプの武将もいないこともないが、船の舳先に立つなんてことは意味が無い。戦術的に意味が無いのなら、他の理由しか考えられないだろう。

「それは……その理由は恐らく……」

連絡士官は言い淀んだ。それはあまりにもバカバカしい話だったが、それ以外にはあり得ないのだ。彼は思い切って言葉にした。

「それは彼女が……露出狂(◆◆◆)だからです!」

その時彼女の肩を掠めた矢がいい加減に纏っただけの赤いガウン{襦袢}を剥ぎ取り、その衝撃で赤い仮面までもが落ちた。素顔と形の良いおっぱいと水縞のパンツまでもが露わになり、提督は思わず望遠鏡にかぶりついた。

「こ、これは……素晴らしい! い、いや、けしからん! 大変けしからん! あの女は俺自らお仕置きするから決して殺してはならん!」

無茶苦茶な命令に他の士官が苦言を呈した。

「しかし、この状況ではそんなことも言っていられません」

「うるさい、あの女は指揮を執っていないではないか! きっと精神的な支柱であって実務は別の者に任せているのだ! あの女は自分の身を犠牲にすることで味方を奮い立たせようとしているのだぞ? 殺してはますます奴らが勢いづくではないか!」

提督の言葉は屁理屈のようでもあったが、確かに筋は通っていた。まあ、実際に奮い立ったのはイゾルテだけなんだけど。

「しかし本当に本人なのですか? 仮面を被っていたのは偽者だからでは?」

他の士官が至極真っ当な疑問を呈すると、提督がギロリと睨んだ。

「本人でなくても美女は殺しちゃ駄目だぁぁ!」と提督は一喝しようとしたが、その前に連絡士官が叫んだ。

「あれは確かにサブリナです! 絶対殺してはいけません!」

「よく言った! 後でお前にも楽しませてやる!」

「ははっ! 有り難き幸せ!」

「「「…………」」」

息の合った二人の会話に今現在命の危機にある皆は呆れたが、幸いながら提督の声も旗艦の者達にしか聞こえていなかった。他の艦に命令を出したくてもそんなに細かい命令など出しようがない。サブリナの周りには攻撃が集中していた。

「ええーい、サブリナを狙うなと言うに!」

「ああ、美女が死んでしまう!」

それでも中々サブリナに当たらないのは、突き進む船の上の特定個人を狙うのが難しいことと、その船から間断なく無数の火矢が吐き出され続けているからだ。とはいえ、彼女の悪運も遂に尽きる時が来た。何れかの船の誰かの放った矢が吸い込まれるように彼女の左胸にトスンと突き刺さったのだ。

「あああぁぁあぁ……!」

「び、美女がぁぁぁああぁ……!」

二人は悲鳴を上げたが、それでもサブリナは倒れなかった。致命傷を受けたはずなのに!

「ま、まさかあの丸テーブルは、致命傷を受けても倒れないための……?」

「なんと! エロ……じゃなくて、美しいだけでなく武将としての覚悟まで持った女であったか……。どうせなら海の上での艦隊戦ではなく、ベッドの上でくんずほぐれつ肉弾戦を戦いたかった……」

サブリナの死を悼んだ二人は膝を付いて拳で床を殴りつけたが、冷静な士官が再び疑問を呈した。

「あのぉー、彼女、血が出てませんけど?」

「「…………」」

二人は再び望遠鏡にかぶりついた。いつの間にか突き刺さった矢が更に5本も追加されていたが、確かに彼女は血も流さず平然と突っ立っていた。

「人形じゃねーかぁぁあぁー!」

「男の純情をバカにしやがってぇぇえぇー!」

二人の怒りは怒髪天を突いた。

「突撃だ! 三段目だけでも櫂は動くんだろう!?」

「行けます! 衝角を突き入れるのは無理ですが、敵も速度が出ていませんからぶつければ足を止められます!」

「ならば乗り移って本当の敵の首領をふん縛ってくれるわ!」

彼らは怒りのあまり、セルピナがサブリナ人形を妹だと認めたことすら忘れていた。


 イゾルテは船長室から顔を出しながら――といっても丸兜{ヘルメット}をかぶって面覆い{シールド}を下ろしてのことだが――周囲を観察していた。うまい具合に敵の攻撃はサブリナ人形に集中しているようで、左右に並ぶ投石器への攻撃は少なかった。甲板には眼に入るだけでも20本以上の火矢が突き立っていたが、予めたっぷりと濡らされていた甲板はそう簡単には燃え移らないから大丈夫だ。とはいえ僅かな間に既に5名が死亡し、8人が船内に運び込まれていた。代わりの海賊はまだまだたくさんいるが、まさに彼女の目の前で死んでいくのは年頃の少女にとってきつい経験だ。そのはずである。海賊たちはそう思っていたが、丸兜{ヘルメット}の中でイゾルテは冷たい目をしていた。

――このペースなら勝てる。既に30隻は消火に手を取られて攻撃もおざなりだ。残りの戦力だけでも五分と五分、損傷が少ないだけこちらが有利に見える。あとは旗艦を黙らせれば敵を降伏させられる。

 彼女は何度も死体の山を目にし、自らも戦闘という名の虐殺を行ってきたのだ。必要とあれば心を凍らせることも出来る。必勝の確信の無い戦いで細い綱を渡っているのだから、たった5人の犠牲など――マジードとサイードとアスガルとサアドとハーディーが死んだことなど――今は気にしてはいなかった。彼女は丸兜{ヘルメット}のせいで目から流れ落ちる汗を拭うこともせず、声を枯らして叫んだ。

「もう少しだ! 既に戦力はこちらが上回った! 敵の旗艦を沈めればこちらの勝ちだ!」

「「「おおおぉぉおぉ!」」」

海賊たちの士気は衰えるどころかますます盛んになっていた。だがそこに、マストの上の見張り台から悪い報告が入った。

「親分! 2時の方向、敵旗艦が動き始めました」

「なに!? もう動けるのか!」

イゾルテは敵旗艦に目を向けたが、櫂は最上段しか動いていなかった。衝角戦は諦めてとりあえずこの海賊艦隊旗艦に接舷しようというのだろう。だがそれはそれで望むところだ。

「右舷回頭! 敵旗艦の横をすり抜けざまに火炎壺を打ち込んでやれ!」

「ま、待ってくだせえ! 他の艦も動き始めた! あいつも、あいつも、こっちのも! 全部こっちにむけて回頭していやす!」

「なんだと!?」

イゾルテは思わず船長室から飛び出して四方を見回した。比較的被害の少ない――つまりはあまり燃えていない十数隻の船が尽く彼女に――海賊艦隊旗艦に向けて舳先を向けようとしていた。どれもが旗艦と同じように碌に櫂が動いていなかったが、これほどの数ともなるとその間を縫って逃げ出すのは至難の技だ。彼女には知り得ないことであったが、これは敵旗艦のマストに上がったままだった旗信号『我に倣え』に従った結果だった。提督本人は頭に血が昇って忘れていたのだが。

――どういうつもりだ? この船を沈めても全体としての勝敗は動かしがたい。むしろこの船に拘っている内に被害が広がるということが分からないのか? それとも、乾坤一擲この旗艦を沈めることで戦況が変わると考えたのか?

 確かにその考えはイゾルテにも分からなくもない。これがプレセンティナ艦隊であったならイゾルテが死んでもルキウスがいるから国への忠誠心は小動(こゆるぎ)もしない――少なくとも彼女はそう考えている――が、簡単にクーデターが起こるような海賊集団では頭目の死が分裂を招きかねない。あるいはセルピナの復権という可能性もあるだろう。キメイラの影になってイゾルテからは見えないサブリナ人形はきっと酷い死に様を迎えたことだろうが、他の海賊船にも明らかに分かるように旗艦を制圧するなり沈めるなりしようというのだろう。

「火炎壺だ! 近づく船に叩きこめ!」

左右から幅寄せするように近づいてきた敵艦にキメイラが火炎壺を叩き込むとメラメラと炎が上がり、その騒ぎが漕ぎ手にも飛び火したのかみるみる足が遅くなった。

「よし、右前方敵旗艦にも叩きつけろ! 敵の足が緩んだら、その脇を抜けて突破する!」

ついに最後の一つとなった火炎壺が敵旗艦後部甲板に叩きつけられると、やはり盛大に炎が上がり櫂の動きが乱れた。

「取舵、進路11時! 敵旗艦の鼻先を抜けろ!」

それでギリギリ敵艦の間を抜けることが出来る……はずだった。しかしそこに眼と鼻の先の敵旗艦から大喝が聞こえてきた。

「この艦は放棄する! 敵艦に乗り移れなければ我らも、お前たちも海の藻屑になるだけだぞ! 全力で漕ぐのだ!」

一旦緩んだ敵旗艦の船足がにわかに前よりも速まると、その舳先がイゾルテの乗艦の土手っ腹に突っ込んできたのだ。

「間に合わん! 総員、衝撃に備えろ!」

叫びざまイゾルテは手近の柱にしがみついた。

 ドンッッ! ガリガリガリバキバキバキッ!

その速度差は衝角戦というにはあまりにも小さくイゾルテの乗艦は敵旗艦の衝角を簡単に弾き返していた。だが同時に致命的な被害をも受けてしまっていた。

「被害報告!」

「キメイラ、全員無事です!」

「甲板、軽傷若干名! 戦闘続けます!」

「漕ぎ手部屋負傷者5名、全員軽傷です! ですが、ですが……右舷の櫂が! 櫂がやられました!」

「…………!」

この状況で片舷の櫂を失うことは圧倒的多数の敵に乗り移られることを意味していた。それは即ち、死を意味する。

――まさかこんなところで死ぬことになるとは……。いや、最後の最後まで諦めないぞ!

イゾルテは船長室から飛び出すと腰から抜いたサーベルを一振り、マストに繋がる一本のロープを(正確には5回くらい叩きつけた後でぎーこぎーこしてようやく)断ち切った。するりと下りた帆が8時方向からの弱い風を受けて静かにはためいた。

「漕ぎ手は櫂を捨てろ! 帆走して脱出するまで敵を射竦めるんだ!」

あまりにも遅い船足にあまりにも現実味のない作戦だったが、イゾルテの覇気が未だに衰えていないことに海賊たちも奮い立った。

「そうだ! 親分が言うんだから間違いねぇ!」

「ちょうど暴れたいと思ってたとこだぜ!」

「敵もほとんど始末したんだ! あと10隻や20隻くらい軽いもんだ!」

船内に隠れていた海賊たちが敵艦の乗り込みに備えて甲板に溢れ出ると、敵艦が次々に接舷してきた。左右の投石機は最後まで散弾を放って敵を10人20人とまとめて屠っていたが、さすがに凶刃の下で悠長にバネを巻き上げることも出来ずに格闘戦を始めていた。漕ぎ手達も弩を持って甲板に上がり、震えながらも必死になって戦っていた。非力なイゾルテは戦いに参加することも出来ず、かといって船内に逃げこむことも矜持と責任感が許さず、全体を見渡せるマストの上の見張り台に登っていた。先に見張り台にいた海賊はニヤリと笑うと「親分が見張っててくれるんなら、俺は暴れて来まさぁ」と言ってするするとロープを降りていった。その強張った笑みを、覚悟を決めた笑みを、恐らく一生忘れないだろうとイゾルテは確信した。

――まあ、その一生もあと10分くらいかもしれないけどな

それでも彼女は自分に出来るせめてものことを始めた。海賊たちを奮い立たせることだ。

「海賊たちよ! 栄光あるユイアト海賊団の者達よ! この戦いの勝利は既に決した! 我らはペルージャ湾を悪虐なる偽皇帝ビルジから守ったのだ!」

イゾルテの甲高い声はけたたましい戦いの騒音にも紛れず、船中で戦う全ての海賊たちに届いた。

「「「おおおぉぉぉおぉぉ!」」」

「我々は勝者だ! 10万の避難民と1000万のアルビア人を救ったのだ!」

「「「おおおぉぉぉおぉぉ!」」」

随分とサバを読んでいたが、勢いというやつである。海賊たちは絶望的な状況を忘れて気勢を上げた。一方露骨に悪の側と断じられ、しかもそれを否定しきれないビルジ艦隊の兵士たちは一時気を飲まれていた。

「貴様ぁ! さては貴様が本当のサビーナかぁ!?」

せっかくノッているところに横槍を入れたのは、敵の旗艦に乗った身なりの良い中年男だった。ビルジの姿が見えないところを見ると実質的な指揮は彼が執っているようだ。

「貴様がビルジの犬か? 犬は犬らしくワンワンと鳴いていろ! 私と話したくばビルジ本人が出てくることだな!」

イゾルテは挑発しながら見張りが足元に置いて行った弩にチラリと目を向けた。

「うるさい! 貴様こそヘンテコな仮面で顔を隠していないで素顔を見せろ!」

「ほう? それほどお前たちを負かした者の顔を見てみたいか? ならば見せてやろう!」

イゾルテがゆっくり丸兜{ヘルメット}を脱ぐと時ならぬ風が吹き、彼女の背と髪と、船の帆を押した。風に靡く見事な黄金の髪に、ビルジ艦隊の兵士たちが皆息を飲んだ。

「我が名はトリス。トリスにしてユイアト。ユイアトにしてサブリナ。このユイアト海賊団の主だ!」

高みから胸を張り高らかに(だけど全部偽名を)名乗ったイゾルテだったが、いきなり彼女は否定された。


「違う! 私は知っているぞ! お前は……お前は、黄金の魔女だ!」


連絡士官の叫びに凍りついたのは、図星を突かれたイゾルテだけではなかった。伝説と化した恐るべきその名に、ビルジ艦隊の兵士たちだけでなく海賊たちまでもが怯んでいた。

「ほ、本当なのかっ!? なんでこんな所に黄金の魔女がいるんだ!?」

「本当です! 私はローダス沖でプレセンティナの捕虜になった時、この目で魔女を見ました! 間違いようがありません! あの黄金の髪、あの美しく整った顔立ち! そしてあのぺたんこの胸!」

「何だとコラァ! ぶっ殺すぞぉ!」

「ひぃぃいぃぃっ!」

イゾルテが反射的にちょっと(?)凄んだだけで、連絡士官は怯えて船内に逃げていった。彼のその狂態が返ってその言葉に真実味を持たせていた。

「お、お前が本当に魔女……黄金の魔女、イゾルテ……なのか?」

敵指揮官の問にイゾルテは薄く笑った。内心ダラダラと冷や汗を流しながら。

――ど、どうしよう? どうせ死ぬのなら謎の絶世の美少女トリスとして死んだ方が父上に迷惑を掛けないだろうけど、黄金の魔女だと名乗ってビビらせた方が生き残れそうでもあるし……

 彼女は時間をかせぐために|意味深で神秘的な薄笑い《アルカイック・スマイル》を浮かべながらゆっくりと回りを見回した。海賊たち一人一人と目を合わせ、燃え盛る敵船と遠くにいる味方の船にも目を向け、彼女は決断を下した。

――この程度で死を覚悟するなどお笑い草だな。私は目前の敵に目を取られ過ぎていたようだ。爺、どうやら私が死すべき時は今ではないようだぞ。

彼女はそこに絶望ではなく希望を見い出していた。彼女は穏やかで美しい笑みを消してニヤリと顔を崩したが、それでも美しいのは黄金の魔女なのだから仕方がないだろう。

「ははははは、よく気付いたな! そう、私こそがプレセンティナ帝国皇帝イゾルテ・ペトルス・カエサル・パレオロゴスである!」

太太しくも威厳に満ちた彼女の言葉に、その声を耳にした全ての者が打たれた。だが海賊たちは自分たちが騙されていたことに愕然ともしていた。これほどまでに一途に彼女を信じていたというのに、彼女は最初から彼らを騙していたのだ!

「すべては私の思惑通り! これはビルジを誘き出すために仕組んだこの茶番劇だ!

 お前たちはこの者達をドルク人の海賊だと思っているようだが、全てはプレセンティナから連れてきた精鋭たちだ。本物の海賊たちは全て魔術の生け贄としたのだ!」

衝撃の事実である。特に海賊たちは衝撃を受けた。まさか自分たちがプレセンティナ人だったとは! 自分たちの頭目が本当にプレセンティナの皇帝なのかと思っちゃった彼らだが、ここまでいい加減な嘘八百を並べられては逆に脱力感でげんなりとしそうだった。だがせっかく彼女が気合を入れてハッタリをかましているのに、これに乗っからなくてはユイアト海賊団の名折れである。

「ソウデース。ワタシ、ホントハ、プレセンティナ人ネ」

「ハッハッハ、ワタシモソーヨ」

「ワタシーモ」

「ワタシモネ」

わざとらしいカタコトの演技がプレセンティナ人をバカにしてるようでイゾルテはイラッときた。しかしここは我慢である。

「多くの生け贄によって行われた私の大魔法の結果を見よ!」

彼女が厳かに指差した北北東の方向に一同が目を向けると、そこには信じられない物があった。そこにはいつの間にか50隻以上の大艦隊が展開していたのだ! まだ5ミルムは離れていそうだが、それはビルジ艦隊がやって来た方角である。海賊団が何らかのトリックを仕掛けておく余地は無かったはずだ。

「い、いつのまに? いや、どこの艦隊だ!?」

提督は望遠鏡を掴むと一際巨大な帆船に目を向けた。そしてそのマストにたなびく白い旗に。

「ま、まさか……! あれは……あの艦隊の掲げる紋章は……赤獅子!」

「プレセンティナ艦隊!?」

「あ、あり得ません!」

「メダストラ海はこのペルージャ湾と繋がっていないのですよ!」

混乱するビルジ艦隊の兵士たちの頭上に狂女のようにけたたましい笑い声が響いた。

「あはははははははははっ! あり得ないだと? あり得ないことを実現するのが魔法だ! 私を誰だと思っている? 私はイゾルテ・ペトルス・カエサル・パレオロゴス、お前たちの呼ぶ黄金の魔女だ!」

 ビルジ艦隊の者達は恐れ慄いた。海を越え山を越え5000ミルムの距離を越えて50隻はいるだろう大艦隊を忽然と出現させたイゾルテの大魔法に! まさしく人智を超えた力である。海賊たちも恐れ慄いた。どういうトリックか知らないけど、ハッタリだけで敵を恐怖させるその舌先三寸に!

「降伏しろ。お前たちの()を差し出せば他の者は生かしておいてやろう」

もちろん彼女の言う"主"とはビルジのことである。彼女はてっきり敵旗艦の船内にビルジが隠れているものだと思っていたのだ。だが提督の方はビルジがここに居ないことを、人智を超えた力を持つ彼女が知らないはずが無いと思っていた。あの(◆◆)ビルジが我が身を危険に晒す訳がないことは、海が青いのと同じくらい広く知られた一般常識だ。ならば当然、彼女の言う"主"とは艦隊の指揮官である彼自身のはずだった。

――差し出された俺はどうなるんだ? また別の魔法の生け贄にされるのか? い、いやだ! 俺はもっと長生きしてたくさんの美女を抱きたいんだ!

彼は彼はダラダラと冷や汗を流すと、傍らにいた兵士から弩を奪い取った。

「死ね! 魔女め!」

額を狙ったその矢は重力に引かれ、とすん、と彼女の平たい左胸に突き立った。出来過ぎである。彼はそんなに射撃が得意でないのに、まるで魔法に導かれるように胸に突き刺さったのだ! そして彼女は籠状の見張り台の中でゆっくりと崩れ落ちた。数秒の恐ろしいほどの沈黙の後、提督は狂喜した。

「や、やった! 魔女を倒した! 俺がこの手で殺したのだ! 可愛くてもったいなかったけど! あの平たい胸もあと5年くらいして20才くらいになれば多少は大きくなる可能性もあったけど!」

生き残った上に大殊勲だ。彼は喜びのあまり思いの丈を正直に叫びまくっていた。あまりの出来事に呆然とし、誰ひとりとして彼に言葉を返す男はいなかった。……()は。

「私は既に19才だけどな!」

空からの叫び声と共に飛来した矢が提督の喉を貫き彼を船長室のドアに縫い付けると、一同は再び呆然として空を見上げた。そこには胸に矢を生やしたままのイゾルテが弩を手にして立っていた。それは見張り員が足元に置いて行った弩であった。彼女は精密な作業が得意だから弩の射撃だって得意なのだ。なのに戦わないのは、非力すぎて自分では巻き上げられないからである。彼女は不機嫌そうに胸の矢をむしりとったが、そこからは血の一滴も流れ出なかった。もちろん黒いチョッキ{防刃ベスト}を着ていたからだ。

「……人形? そうか、舳先のサブリナと同じか!」

「本人は遠くにいて、この人形を操っていただけなのか……」

「これじゃあ勝てる訳がない!」

 指揮官を失い、イゾルテ(人形?)が不死身であると勝手に納得して、ビルジ艦隊の兵士たちは次々に武器を手放した。戦いの喧騒が収まったことで櫂が水を叩く音に気付いたからかもしれない。碌に戦力もないはずの他の海賊船達が、敬愛する頭目の危機に我が身を顧みず応援に駆けつけて来たのだ。イゾルテの時間稼ぎはもともと彼らの到着まで持ち堪えるための物だったのだが、多少ハッタリが効きすぎて順序が前後してしまったようだ。

「降伏を許す! 海賊たちよ、ユイアト達よ! いまだ抵抗する者は殺せ。しかし武器を捨てた者は殺さず縛り上げ、怪我人は治療せよ。

 忘れるな、我らはただの海賊ではない。正義の使徒ユイアト海賊団なのだ!」

「「「おおおおぉぉおぉぉ!」」」

旗艦から上がった勝鬨を聞いて他の海賊船からも呼応するように勝鬨が上がった。それに対抗するビルジ側の声が上がらなかったことで、全ての船にこの戦いの決着が付いたことが伝わった。


 プレセンティナ艦隊が彼らに合流したのは、それからおよそ2時間後のことであった。

注1 狭間は日本の築城用語で、一般的(?)には銃眼と呼ばれます。城壁に空いた小さな窓のことで、防衛側は身を隠しながらそこから銃や弓矢を使って敵を攻撃します。

日本の城の場合、鉄砲狭間は丸や正方形や三角、弓の場合は縦長の長方形の形が多いようです。

何でかは分かりませんが、たぶん射撃姿勢の問題でしょう。鉄砲なら銃身を狭間に置けるのでどんな姿勢でもあんまり関係がありませんが、弓矢だと直立姿勢で射撃しないと碌に狙えません。でもって人によって身長差がありますし、まして敵の位置が遠いと敵を狙いつつその遥か上に向けて射たないと当たりませんから、上下に広い視野が必要なはず。まあ、このへんは想像ですけど。


注2 「つるべ撃ち」は異なる2つの意味で使われています。

一つは「ツタ(つるべ)」のように横一線に並んだ射手が連続的または一斉に射撃することです。つまりはごく普通の一斉射撃ですね。

そしてもう一つは、井戸の水を汲み上げる「鶴瓶(つるべ)(井戸で使う綱を付けた桶)」のように桶から桶へと水を入れ替えるように装填済みの銃(または弩)を射手に渡すことで連続して射撃出来るようにする射撃法です。射手と装填手を完全に分けるということですね。

後者は手渡しにかかる時間的なロスを考えると野戦で使うのは効率的ではありませんが、籠城戦などで射撃場所(銃眼とか)が限られている場合は人間が入れ替わるより銃だけを入れ替えた方が効率的です。

また特に優れた射手がいる場合は、彼に多くの射撃機会を与えられるという効果もあります。

しかし2つの射撃法は全然違いますよね。何で同じ言葉になっちゃったんでしょう?



 敵に舷側を見せて射撃戦を行うというのは、日本海海戦の丁字戦法をヒントにしました。まあ丁字じゃなくてT字だとか、そもそも日本海海戦は丁字戦法としては失敗しているとかツッコミはありますが、とにかく土手っ腹を見せて彼我の射撃能力比の最大化を図る作戦です。

しかも長距離射撃で一番難しいのは左右角ではなく距離に合わせた仰角ですから、敵船の真正面もしくは背後から狙うと前後にマージンが取れて当てやすくなります。

もちろん矢の場合は船べりに隠れられたら意味が無いですけど、切り込みに備えて甲板に兵士が溢れかえっている状態では当て放題に近いでしょう。切り込む時には鎧も盾もありませんし。

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