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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
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平安の都 その6

 セルカンは奴隷船に乗ってバブルンにやって来ていた。奴隷といっても運良く生き残った海賊崩れだ。海賊に櫂を漕がされていた本当の奴隷は、今頃愛と正義の海賊になっている。この奴隷船を操っているのも半分はそういう連中だった。

「くっそー、何で俺が使番(つかいばん)など。しかもサビーナを人質に取られたままで!」

彼はサビーナの世話を他人に任せるのが心配だった。だがこれは取引の結果なのだ。そしてその追加取引を申し出たのは彼の方だった。

「何かおっしゃいましたか?」

同行のプレセンティナ人に尋ねられて彼は慌てた。確か海賊達に小隊長とも中隊長とも言われていた男だ。どっちなのか微妙に気になる謎の男である。

「い、いや……随分と寂れたもんだなぁと思って」

「そうでしょうね。我々が入城した時はもう少し活気があったと思います。上手く行ってるようですね」

「……何だって?」

「心配してたんですよ。まだペルージャ湾の航路が安定しないから北と西への避難しか出来ないでしょう? 

 そこへ予想より早く匈奴の攻撃が差し迫っているという知らせです。この船団は奴隷をスエーズ軍に引き渡すと同時に、少しでも市民をバーレール島やカターラナイ半島に避難させようという目的があるんですよ」

「そうか、帝都を捨てるのだったな……」

「まあそれはもともと匈奴軍本隊のための戦略ですから、先遣隊に対してどうするかを協議するために私とあなたが来たんですよ」


 やがて船着場に降り立ったセルカンは、何度も来たことのある皇宮に足を踏み入れた。「なんか違和感あるなー」と思って所々に立っているスエーズ兵を眺めていた彼だが、よく考えたら違和感の最大の原因は自分が変装していないことだった。素顔でここに来たのは初めてのことなのだ。

「バール陛下、御健勝で何よりです。イゾルテ陛下からの預かりものを持参いたしました」

「はて、何だろう?」

バールと呼ばれた武人は渡された鞄の中を覗いた。

「はて、何だろう?」

見ても何だか分からなかったようだ。

「後ほど使い方をご説明致します。取り扱いに注意の必要な物でございますので、御内密にお願い致します」

「……燃え出したりしないだろうな?」

「そういう事例はありません。……今のところは」

どうやら本当に取り扱いに注意が必要なようだ。

「それでそっちの男は?」

「こちらはエフメト皇子の側近コルクト・パシャの兄、セルカン殿です」

「ほう?」

バールの目が剣呑に光った。スエーズとエフメト派は呉越同舟の間柄だ。プレセンティナが間に居るからといって、直接対面すれば緊張しないわけにもいかなかった。

――ちっ! 余計な紹介を……

セルカンの方はスエーズにこれといった印象もなかったが、密偵である彼は素性を知られることを本能的に恐れていた。もっとも、重荷を背負い込むことも恐れていたはずなのに人一倍手のかかるサビーナに恋をしたのは、その本能が鈍ってきているからかもしれないが。

「私はビルジの元に潜入していました。そこで予想より早く侵攻があることを掴んだのです」

「まさか……その情報を知らせにわざわざ?」

「その通りです」

こうやって誠意を見せることはエフメト派の評価を上げ、何らかの形でハシムたちのためにもなることだろう

「しかし……なぜ今更?」

「ええ、本来は来年の春以降だと予想して……え? 今更?」

「その話は5日も前に聞いてるんだが……。それもエフメト派から」

「「…………」」

セルカンが放った伝令がここを通過する際に情報を置いていき、それがスエーズ軍に伝わったのだ。どうやらバブルンにある密偵のアジトは機能していて、しかもスエーズ軍に協力するよう指示を受けているようだった。

――ベネンヘーリめ、何で黙ってるんだよ! いや、きっとトリスの指示だ。俺を追い払っている間にきっとサビーナに良からぬことを……!

彼は密かに唇を噛んだ。

「何か追加情報でもあるのか?」

バールに問われてもセルカンには何も答えられなかった。追加情報はサビーナに関することだけだし、彼女のことは言いたくなかった。恐らく言う必要もないだろう。

「……いえ、伝令が先に着いていて良かったです。失礼いたしました」

「ふむ? まあ、ご苦労だったな。御協力に感謝する」

バールの声には少なからず呆れの色が含まれ、空気は微妙に気まずくなった。

「えーと、では私の方からコレ(◆◆)の説明を致します。尖塔の最上階に行きましょう。セルカンさんは先に帰っていて下さい」

「……ええ、分かりました。失礼致します」


 セルカンはとぼとぼと宮殿を出た。素顔での初参内でいきなり面目を潰してしまった。しかもハシムの名前まで出してのことである。まあ、相手は主君でも何でもないんだけど、やっぱりなんだか気が重かった。

――とりあえず本部の様子を覗いてくるか。他にアテも無いしな。

 既に実家は焼けていたし、家族は全員避難していた。アジトもとっくに引き払ったと思っていたのだが、知った人間が残っていたのはなんとなく心強かった。

――いかんな、こんな風に考えること自体が危険だ。

 こぢんまりとしたアジトを訪ねると、見知った部下がたった2人留守番をしていた。本来のアジトはもっと大きかったのだが、ビルジが皇太子になった時に証拠隠滅のために焼いてしまっていたのだ。

「あっ、セルカン様!」

「脱出できたんですね。ご無事で何よりです!」

 密偵はスラム上がりが多い。密偵が小遣いをやって情報集めなどをやらせている間に有望な者に目を付け、親から買い取って次の世代の密偵に仕上げるのだ。セルカンは外国人の子供で幼いころスラムで育ち、それでいて皇室の中枢にまで繋がる特別な存在だ。部下を容赦なく切り捨てる非情な男ではあったが、同時に自ら手を汚すことも厭わなかった。部下にとっては同士のような親近感もあって、彼は信望を得ていた。

「他の者達は?」

「バブルンの人員はほとんど北部に行きました。本部機能もあちらに移動しています」

「スエーズ側に受け皿となる組織が無いので、地方の支部は基本的にそのままです。まあ、あっても閉鎖はしませんけどね」

「死んだ者は?」

「……3名です。この支部だけで……」

「そうか」

それは決して多い数ではなかったが、規模を縮小したこの支部にとっては抜き差しならない数なのだろう。

「実は……スエーズ軍入城の折にハシム様がここにお出でになられました」

「ハシムが、ここに?」

「ええ。記憶力の良い密偵を貸して欲しいと仰られたのでベネンヘーリをお貸しました」

「なるほど……」

――何であんなに気の利かない奴に特命を下したのか不思議だったが、そういう経緯でベネンへーリが選ばれたのか。

「その時ハシム様が仰られておりました。セルカン様が帰還されたら臨時首都アイコラ(注1)に来て欲しいと言っておられました。話したいことがあるとか」

「そうか……」

それはきっと、危険な仕事は離れろという話なのだろう。実際、兵が直接ぶつかり合うようになれば間諜の仕事も危険度を増す。潜入や情報工作のような間接的なものでは間に合わないから、彼らの仕事も暗殺や破壊工作にシフトするのだ。非常に徹しきれない今のセルカンでは生き残れるのか甚だ不安だった。

――このままこの仕事を続けるか、北部に行って安全な本部の仕事だけをするか……

 だがアイコラにサビーナを連れて行くのは危険だった。きっとハシムは守ってくれるだろうが、それはハシムの弱点にもなりかねない。だが今帰らなければこの中央平原はやがて匈奴軍に埋め尽くされるだろう。サビーナを連れてそれを越えることは彼にとっても絶対に不可能なことだった。

――そうか、トリスが意図したのはこれだったのか! 俺に最後の決断をさせるために!

 彼に示された選択肢は3つだった。サビーナを連れてハシムの庇護を求めるか、サビーナを置いて自分だけ北部に赴くか。そして……

――サビーナと共にトリスに従うか。考えるまでもないことだったな……!

彼はサビーナを愛している。だからといって家族への愛が消えた訳ではないのだ。

「駄目だ。俺は北部には行けない」

「えっ? また潜入されるおつもりですか?」

「いや、俺もプレセンティナに同行する」

「それは既にベネンへーリがいるじゃないですか。なぜセルカン様まで行かねばならないのですか? 我々がハシム様に叱られますよ!」

 確かにハシムは納得しないだろう。セルカンが自分のために自己犠牲に走っているのだと誤解し、自らを責めるかもしれない。サビーナの素性は明かすことは出来なかったが、一部なりとも真実を明かしてハシムを安心させる必要があった。

「それは……惚れたからだ」

「え? 何ですって?」

セルカンは顔を赤らめた。

「ほっ、惚れた女が出来たからだ! ハシムにはそう伝えとけ!」

セルカンはそう怒鳴りつけるとそのままアジトを出て行った。残された部下たちは呆然とするしかなかった。

「セルカン様が……デレた……」

「こ、これはすごいニュースだ! でも、相手は誰だ?」

「プレセンティナって言ったら……黄金の魔女じゃないか?」

「ま、まさか!」

「でもハシム様が言ってたじゃないか、イゾルテ本人が来てるって! すごい美人でエフメト様も未だに狙ってるとか……」

「…………」

2人は思った。セルカンは好んで困難な道を選ぶ被虐趣味があるんじゃないだろうかと。ずっと現場で苦労してたのは、実はそのためなのかもしれないと。



 そのころバールはプレセンティナ人士官に言われるままに尖塔を登っていた。

「何でわざわざ尖塔に登るのだ? 他の者に聞かれないためか?」

「それもありますが、見通しの良い所に登る必要もあるのです。理由はよく分かりませんが」

「じゃあ、その円形盾は何のためだ?」

「これは盾ではなく皿です。まあ、そう呼ばれているだけですけど」

「……? よく分からんな」

「ええ、私もよく分かりません」

 やがて最上階に着くと、見張りの兵を人払いして二人きりになった。

「これは我が国でも限られた者しか知らない極秘事項です。その使い方も機能も存在すらも。そしてもちろん現物を見るのも。

 外国人として初めてあなたにお見せします。これはイゾルテ陛下からあなたに寄せる信頼の証とお考え下さい」

 バールは内心「なんだかやたらと勿体ぶるなぁ」と呆れながらも、大仰に頷いた。

「それはかたじけない。秘密は守ろう」

士官もバールの言葉を聞いて頷くと、鞄からその黒い物体を恭しく取り出した。

「これが"遠くと話す箱"、イゾルテ陛下が発掘された神器です」

「……何だって?」

バールは何の冗談かと眉を潜めた。

「今イゾルテ陛下は河口近くのバスター(注2)の港におられます。まずは御覧ください」

「はぁ?」

なんでいきなりイゾルテの居場所が出てくるのだろうか。バールが首を捻っていると、士官は円形盾に突起を突き刺すと窓辺でそれを外に向けた。

「イゾルテ陛下、イゾルテ陛下。こちらバブルン、バール陛下も一緒におられます。ドウゾ」

「……何をやっとるんだ?」

「しっ! お静かに願います」

「…………」

バールはますます顔をしかめた。さっきのドルク人といいこのプレセンティナ人といい、匈奴の侵攻が近いと聞いておかしくなってしまったのではないだろうか? だがそこに3人目の声が響いた。

『こちらイゾルテ。よく聞こえるぞ』

「なっ!? い、イゾルテ殿っ!?」

バールが驚いて叫び声を上げると、士官が「しっ!」と人差し指を口にあてた。

「ですからお静かに願います」

「わ、分かった……」

彼らがそんなやり取りをしていてもイゾルテは気にせず話し続けていた。

『ちょっと遠いから心配したが、これなら使い物になりそうだな。今は尖塔にいるのか? ドウゾ』

「はい。お皿も南に向けています。ドウゾ」

『これだけ綺麗に聞こえるのはその両方のおかげだな。河口まで出ても大丈夫かもしれない。

 ところでバールにも何か話させてくれないか? ドウゾ』

「バール陛下、何かお言葉を」

2人のやり取りを呆然と聞いていたバールは、突然話を振られて尻込みした。

「い、いや、しかし、その……」

「だ、そうです。イゾルテ陛下。ドウゾ」

そんなんでいいのかよ、とバールはジト目になった。だがそのやりとりで少しだけ落ち着くことが出来た。

『なんだ、奴隷軍人(マムルーク)の王がだらしないな。

 今思ったのだが、北アフルーク語や古アルビア語が分からない奴が聞いたら、ドウゾも分からないぞ。ドウゾだけはタイトン語で統一することにしよう。"ドウゾ"』

「なるほど。じゃあ"通信終了"もそうですね。バール陛下にはそのようにお教えしておきます。"ドウゾ"」

『よし、じゃあ一旦"通信終了"だ。その後で今度はバールにやらせてくれ。"通信終了"、"ドウゾ"』

「分かりました。"通信終了"」

通信が終わると、バールはほっと溜息を吐き幾らか落ち着いたようだった。

「これが"遠くと話す箱"……神の奇跡だと言うのか……」

「そうです。どの神様の御力なのかは分かりませんが」

士官は肩を竦めただけだったが、彼にとっての"神"とバールにとっての"神"はその重みが違った。まして彼は、神の代理人たる預言者(ナビー)の後継者たる指導者(ハリーファ)の代理人たる(スルタン)なのだ! 神の奇跡を目の前にしてただ喜んでばかりいられる立場ではなかった。

――神はただ一柱、ムスリカの神だけだ。だがこのような奇跡の品は諸経典、言行録にも記されていない……

しかし現実に、今彼の目の前には奇跡があった。

――ということは、ま、まさか……イゾルテ殿が新たな預言者様(ナビー)だと!? しかし新たな預言者(ナビー)が現れないことも預言されている!

彼は頭が混乱してきた。まあ、そもそも混乱しているからこそこんなことを考え始めたのだが。

「バール陛下? どうかされましたか?」

――では、まさか、まさか……救世主様(マスィーフ)だというのか!? (注3)

「あの、私の言うとおり操作して欲しいのですが……」

――ということは、これが予言された最終戦争……。しかし予言ではまず偽の救世主(ダッジャール)が現れて世界を征服するという。

「もしもーし、聞いてらっしゃいます? ウチの陛下が待ってますんで」

――はたしてイゾルテ殿は、救世主様(マスィーフ)なのかそれとも偽の救世主(ダッジャール)なのか……

「ウチの陛下って沸点低いんですよ。相手が女性だとすぐ許してくれるんですけどね」

――救世主様(マスィーフ)を助けて共に戦うのが導かれた者(マフディー)の役割だ。まさかワシがそのような大任を任されようとは思いもよらなかったが……

「そんな訳で早くお願いできませんか? 怒らせると後が面倒ですし」

――その真贋(しんがん)をこの目で見定めるしかない!

バールは拳を握りしめた。そこを狙いすましたかのようにイゾルテの声が響いた。

イゾルテの声が響いた。

『バブルン、バブルン、こちらイゾルテ。おっせぇぇぇぇよっ! いつまで待たせるんだ! "ドウゾ"』

「ね? 男相手には沸点低いんですよ」

「…………」

――うーん、慎重に見定めねば……

 その日バールは夜遅くまで尖塔に閉じこもっていた。



 ルビアは囚われの身だった。今彼女がいるのはビルジの宮殿ではない。彼女は既に宮殿を追い出されていたのだ。

 セルカンが侵入してきた夜からちょうど10日後、宮殿の一角で火事が起こってサビーナの部屋近くだけが綺麗に焼けてしまった。ルビアは軟禁されていた部屋から出され、見つかった焼死体を検分させられた。

 部屋が焼けたことに感傷はなかった。愛着が湧くほど長く暮らした訳ではなく、思い出したい思い出がある訳でもない。ましてサビーナがセルカンに誘拐されたことを知っている彼女には、誰とも知れない死んだ女のことを悲しむ理由もなかった。それは明らかな茶番だったのだ。彼女はわざとらしく空泣(そらな)きをし、それがサビーナの遺体であるという旨の手紙を書いてサインをした。これで彼女も解放されるはずだった。

 しかし彼女がデレーに送り返されるその途中、彼女の乗った馬車が賊に襲われた。彼女自身には重要性など欠片もないから護衛もわずかで、御者ともども殺されて彼女は攫われてしまった。そして船に乗せられ、今は怪しげな海賊に引き渡されそうとしていた。せめて海賊というのがワイルドなイケメンなら良かったのだが、出てきたのは仮面を被ったひ弱な少年と鯰髭(なまずひげ)で小太りの中年男だった。これ以上に怪しい組み合わせを彼女はこれまでに見たことがなかった。


「ユイアトの旦那、お言いつけの女を攫ってまいりました。お支払いの方は現金払いで?」

「ああ、不本意だが約束は守る。今後は人攫いなどせずに、真っ当な人身売買(◆◆◆◆◆◆◆◆)に精を出せよ」

「へい、もちろんでさぁ」

 ルビアを攫ったのは奴隷商人だった。正確には奴隷商人も兼ねた人攫いだ。ユイアト海賊団が彼らを拿捕した時、商品の奴隷たちが不当に攫われた事を訴えたのである。イゾルテは彼らから奴隷を取り上げて開放したが、奴隷商人は他の商人(◆◆)から買い取ったのだと抗弁した。

 イゾルテには奴隷売買そのものを禁止すつもりはなかった。彼女はプレセンティナ人らしく奴隷の待遇や権利については開明的であったが、奴隷売買はあくまで経済活動の一環だと考えていた。待遇については言いたいこともあったが、それはそれぞれの国の宗教や文化や歴史に裏付けられた慣習や法なのだ。これを変えるのなら、それなりの原因と理由を用意しなくてはいけない。一朝一夕にはいかないのだ。

 もし誘拐しているのが取引関係にあるだけの別組織であれば、イゾルテとしては彼らの罪は問えなかった。そこで妥協案として提示したのがルビアの誘拐だったのだ。

 セルカンの留守を良いことに、お話をしたり着せ替えたり裸になってキャッキャウフフ(お風呂)したりしてすっかり仲良くなったサビーナに、「ルビアノ事ガ心配アル(通訳済み)」と頼まれてしまえばイゾルテとしても断り切れなかったのだ。

 報酬を受け取った奴隷商人の船が離れていくと、イゾルテはぐるぐる巻にされたルビアに向き直った。

「うーん、そこそこ可愛いけどインパクトに欠けるなぁ。ニルファルみたいに格好良くもないし、サビーナちゃんみたいに庇護欲を掻き立てるわけでもない。言葉が通じればエロイーザの代わりのメイドにするんだが、いまさらカンザスフタン語まで覚える気はないしなぁ」

今覚えるのならどちらかと言うとモンゴーラ語であった。

「モンゴーラ語ハ覚エナイアルカ?」

「……お前から習うのはヤダ」

もちろん怪しい言葉遣いが感染(うつ)りそうだからである。そして彼女の周りにはテ・ワ以外に直接モンゴーラ語を教えられる者がいないのだった。


 ルビアは目の前で会話を続ける2人を緊張しながら見つめていた。唯でさえ(すこぶ)る付きに怪しいというのに、言葉がわからない事がより不安を掻き立てていた。

――おっさんの方もスケベそうだけど、ガキの方も危険ね。あのくらいのガキが一番スケベなのよ。仮面で隠すくらいだからとんでもない不細工なんだろうし。

その時仮面の少年が何事か話すと中年がモンゴーラ語で話しかけてきた。

「オ前ノコトハ聞イテイル。ト、言ッテルアル」

久しぶりにモンゴーラ語を聞いてルビアは驚いたが、同時にこの中年がモンゴーラ人でないことはよーく分かった。ビルジのところの通訳より10倍は流暢だったが、同時に10倍以上怪しかった。彼女が目を白黒させていると少年の方がビシィっと指を突きつけた。

「オ前ハ……サビーナノパンツヲ洗ッテイタソウダナ! ト、言ッテルアル」

――パンツ? なんでパンツなのかは良く分からないけど、姫様の知り合いを探していたってこと? 私が姫様の居所を知っていると思っているのかしら?

「サビーナガオ前ノコトヲタイソウ心配シテイタゾ。良イ主人ヲ持ッタナ。ト、言ッテルアル」

「えっ、姫様が! 今どこにいらっしゃるの!?」

「サビーナナラコノ船デ保護シテイル。ト、言ッテルアル」

――うそ臭いわ。私を安心させて本当の居所を聞き出そうというのね!

「それは嘘でしょ? もし本当だったら何で今ここに連れて来ないのよ!」

「残念ナガラサビーナハ船室ヲ出ル事ハデキナイ。何故ナラ彼女ハ……船ガ揺レルト危ナイカラダ!」

ルビアははっと息を呑んだ。

――正論だわ! それに何だか親切だわ! 変態のくせにっ!

「高イ金ヲ払ッテマデオ前ヲ誘拐サセ……ゴホンッ! 保護シタノハ、オ前ニ役ニ立ッテモラウタメダ。サビーナニ会イタイノナラマズハ身体デ払ッテモラワナイトナ? ト、言ッテルアル」

ルビアはゴクリと唾を飲み込んだ。なぜ誘拐犯たちが彼女に手を出さなかったのか、今ようやく理由が分かった。彼女の初めてはこの少年が買い取ったのだ。その少年はずいっと彼女の眼前に進み出た。

「サア、私ノパンツヲ洗ッテ貰オウカ! ト、言ッテルアル」

「え?」

そして彼が突きつけたのは、とっても可愛らしい、そしてほのかにあたたかい、女物のパンツだった。

「へ、変態、いぃぃやぁぁあぁ!」

こうしてルビアはイゾルテの洗濯係兼サビーナの世話係になった。

注1 アイコラ=アンカラです。ずっと誤魔化してきましたが北部地方の首都ということになりました。

アンカラは現在のトルコ共和国の都で、イスタンブールに次ぐトルコ第二の都市です。

Wikipediaでは「ヨーロッパ有数の都市」と書かれていますが、思っきし小アジアにあります。

まあ、イスタンブールがヨーロッパなのは間違いないので、トルコという国をヨーロッパに含めるのはアリだと思います。

しかしこの理論だとウラジオストックもヨーロッパの都市扱いになるような気が……


注2 バスター=バスラです。チグリス・ユーフラテス川(が合流したシャトル・アラブ川)沿いにあって、港湾として古代から発展していました。

しかしアッバース朝時代の奴隷反乱やモンゴルの侵入などで一旦廃墟になり、その後再建されました。

故サダム・フセイン大統領の出身地だったので、イラク戦争当時はよく海外ニュースに登場しました。


注3 イスラム教の終末論では、3人の人物が登場します

偽の救世主(ダッジャール):なんか悪い人。なんちゃって救世主です。

導かれた者(マフディー):清く正しいイスラム教徒(の中のムハンマドの子孫)から現れるちょっとだけ救世主

救世主様(マスィーフ):イーサ、つまりイエス・キリストです。復活です。なのでこっちは神の子でもある本当の救世主

まずは導かれた者(マフディー)が頑張らないと救世主様(マスィーフ)が降臨しないそうです。

というか、いきなり救世主(マスィーフ)が降臨しちゃったら導かれた者(マフディー)に出番なんかなさそう……


ところで実際に導かれた者(マフディー)を名乗って戦争をした人がいます。19世紀スーダンのムハンマド・アフマドです。

当時のスーダン情勢はややこらしくて、直接的にはエジプトの支配下なんだけど、そのエジプトは名目上オスマン朝の属国で実質的にはイギリスの経済奴隷でした。

話を聞くだけで末期的ですね。ご愁傷様です。

このマフディー(自称)は頑張ってイギリス・エジプト軍をやっつけて民間のエジプト人まで虐殺するのですが、政権を確立した所で死んじゃいます。

後継者が指導者(ハリーファ)を名乗ってガンガン戦いますが、人望薄くて短期政権で終わります。

まあ、最終戦争だと思って参加したのにスーダンが独立しただけだなんて、宗教的にはションボリですもんねぇ。

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