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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
265/354

決意 その4

警告:今回の話には[純愛]が含まれています。アレルギーのある方は発疹が起こる可能性があります。用法用量を守って正しくお読みください。

 いつもより長く過酷な悪夢が終わった時、ビルジはいつも通りこう言った。

「ジジイ、後始末をしておけ」

サビーナの身を清めるのはセルカンの役目だ。これまでも何度も何度も繰り返してきた。だからセルカンはいつも通り彼女の体を拭った。彼は信じたかった。いつもの日常が戻って来ると。

 だがいつもと違って、彼は彼女の身体を直視できなかった。罪悪感と背徳感と(たか)る欲情が彼の中で渦巻いていた。しかしいつもと違うのは彼だけではなかった。いつもは顔を背けて身じろぎもしないサビーナが、彼の震える手のひらに、そっと自分の手を重ねたのだ。彼は反射的に手を引いてしまい、寂しそうな彼女の表情にさらなる罪悪感を感じた。

――勘違いするな、サビーナは俺に救いを求めているだけだ。……いや、そうじゃない。そもそもサビーナの気持ちなんて俺には関係ない事なんだ!

 彼はなんとか取り繕おうと視線を巡らせ、床に落ちていた手紙を見つけた。宛名はカンザスフタンの文字でサビーナと書かれていた。

「サビーナ様、お手紙が落ちておりましたが、ご存知でしたか?」

「……手紙?」

 サビーナの代わりに文字を読むのもセルカンの役目だ。彼の知らない手紙があるとすれば、彼がこの宮殿に来る以前のものか、今まさに到着したものだということになる。そしてサビーナが古い手紙を持ち出してくる理由はない。そもそも彼女にはどれがどれだか区別がつかないのだから。

――しかし封は切られている。ビルジが中身を読んだのか? まあ、モンゴーラの内部情報は気になることだろうからな。

しかしそれは、密偵であるセルカンとしてもとても気になるところである。

「どなたからの手紙ですか?」

「タラクトのアブル様、と書いてあります」

「タラクト部……叔母様の縁者かしら? 読んで下さい」

「はい」


 セルカンはむしろほっとしながら手紙を開いた。


『サビーナ姫様


 突然お手紙を差し上げて申し訳ありません。

 私はあなたの叔母エキンの息子、アブルです。


 御存知の通り我がタラクト部はジョシ・ウルスに属しており、私はパトー様の御長子シロタク様の下で百戸長の御役目を頂いております。

 この度シロタク様はあなたのお父君プラグ様にご助勢し、あなたの御夫君(ごふくん)ビルジ様と共通の仇敵、偽皇帝エフメトを討つことをお決めになられました。


 プラグ様からはビルジ様の同意を得次第、先鋒としてドルク国内へ攻め入る許可を既に頂いております。

 つきましては、あなたからも御夫君に対してお取り成しを頂けますよう、お願い申し上げます。

 ビルジ様にもあなたにも決して悪い話ではないと心得ます。


                                              タラクトのケネサルの息子、アブル』


――これは……! ビルジはこれを喜んでいたのか!

セルカンは読み上げながら激しく動揺していた。モンゴーラの侵攻はまだ先のことだと考えていたのに、この文章からは来週にでも始まりそうな勢いだ。軍の規模は分からないが、兎にも角にも警告を発しなくてはいけない。しかし彼は宮殿の外に出ることも出来ないので、街に置いて来た部下と接触することも容易ではないのだ。

 だがその動揺など大したことではなかった。

「セルカン。あなたに……暇を出します」

「……え?」

「今日中にこの宮殿から出て行きなさい」

「そ、そんなっ! いったい何故ですかっ!?」

だがそれに対する彼女の答えは淡々としていた。

「あなたが間者だからです」

「…………!」

動揺とは、まさにこの時の彼の様子を表す言葉である。社会の闇を見続けてきたセルカンにとっても、この時のサビーナの言葉は、大昔にテュレイがハシムに書いたラブレター並に衝撃的だった。世間知らずだと思っていたサビーナが実は彼の正体に気づいていたという事は、彼にとって聖女だったテュレイが実は肉食系ショタコン(前科あり)だったということくらい信じ難いことだったのだ!

「な、なにを仰られるのです。だいいち私のようなジジイが――」

「初めてお会いした時から、お年寄りではないと分かっていました」

「…………」

「目の見えない私には先入観がありません。アナタの声は老人の物に聞こえませんでした。だというのにアナタは自分を『ジジイ』と言い、ラビアも――私の侍女もそれを不審がりませんでした。私にとってはそれが(◆◆◆)不審だったのです」

「…………!」

彼には圧倒的な戦闘能力も猿のような身の軽さも、超人のような完全記憶も無かったが、変装だけには自信があった。変装は完璧だったのだ。そのつもりだったのに、その完璧さが逆に彼の足を(すく)っていたのだ!

「だからあなたの手と顔を確かめました。確かに手にも顔にもシワがありましたけど、あなたの汗は不自然でした」

「……汗?」

「一番濡れているべき手の平のシワではなく、指の間が蒸れていました。だから思ったのです。きっとこのシワは偽物だって」

「…………」

精密に再現したシワには自信があったのだが、さすがの彼も汗の分泌までは計算に入れていなかった。彼女にかかれば彼の変装すら完璧では無かったのだ……。

「じゃあ最初から……? で、では、なぜ私を突き出さなかったのです? それこそビルジに突き出せば……」

口を衝いた言葉は口の中で消えた。彼女がビルジに告げ口をする理由がないではないか。セルカンを雇ったのは彼女ではなくビルジ(というかその部下のマフズンの部下の部下くらい)である。憎むべきビルジの不手際を、なぜ彼女が正してやらねばならないのだろうか?

「復讐……いえ、意趣返しですか? ビルジに対する」

サビーナは寂しげに微笑んだ。

「私は意地の悪い女なのよ」



 セルカンは自分の部屋に戻ると荷物をまとめた。密偵だとバレながら悠長なことである。普通なら取るものも取り敢えず逃げ出すところだが、サビーナにバラす意志がない以上は「ただ単に解雇された世話係」という風を装った方が何かと好都合だ。

――まさか最初からバレていたとはな。しかも意趣返しに利用されるとは! まったく大した女だよ……

だがそんな女を敵に回したビルジの自業自得なのだろう。げに恐ろしきは草原の女である。だが彼に損があった訳ではないのだ。どちらかと言えば例を言うべきだろう。

「では失礼致します、サビーナ様」

誰もいない空の部屋に向かって一礼すると、彼は荷物を担いだ。だがドアのノブを掴んだ瞬間、彼は立ち竦んだ。

――待てよ……俺の正体に気付いたのはビルジに乱暴される前のことだ。あの時から既にそこまでビルジを憎んでいたのか?

しかしそれはなさそうだ。そもそもビルジはサビーナの体以外に興味がないのだ。言葉の壁もあるし、侍女が軟禁されてしまったあの最初の夜以前に、ビルジを恨むほどの交流があったとは思えない。

――それなのに彼女は俺を突き出さなかった。確かに彼女は最初から俺のことを怪しいと思ったのかもしれないが、本当に俺を密偵だと、いや、敵方の(◆◆◆)密偵だと確信していたのか?

父親が派遣した護衛である可能性や、ビルジがモンゴーラの内情を探ろうと送り込んだ可能性もある。むしろその方が自然だろう。セルカンにしてみても、もし事前に彼女が盲目だと知っていたらここには潜入していなかったかもしれない。日記も付けず手紙も書かない女から情報が取れる可能性は小さいのだから。

――昨晩俺がビルジに歯向かったことで、ようやく敵方だと分かったのか。だとしたら、あんな事を言ったのは俺を逃がすため……か?

その推理はモヤモヤしていた彼の胸にストンと収まった。彼女らしからぬ言動も、それが彼女らしい動機によるのなら……やはり彼女らしいと彼には思えた。


 ― 私は意地の悪い女なのよ ―


「本当に、あなたは意地の悪い女だ。草原の女ってやつは、どうして誰も彼もがこんなに厄介なんだ……!」

だが彼はそんな女達に心惹かれずにいられなかった。テュレイも、サビーナも。まあニルファルは、嫌いではないってくらいだけど。それもきっと彼に流れるハサール人の父の血と、その父に許されぬ恋をしたポリーナの血のせいなのだろう。

――彼女の気持ちを無碍には出来ない。何よりこの知らせを早く伝えなくてはハシムたちが大変なことになる。だから……俺は……

 セルカンはヒゲを鷲掴みにすると、毟り取って床に投げ捨て、更に踏みにじった。もう老人のフリは出来ない。そうやって自分を追い込まなければ、彼は年老いた世話役という役柄から――それを演じる非情な密偵という役柄から――離れる勇気が持てなかったのだ。

「あばよ、爺さん」

そこにいたのはもはや老人ではなく、かといって密偵でもない。何者でもないただの未熟な男だった。



 老人の仮面を脱ぎ捨てたセルカンは街に出ると部下と接触し、ハシムへの伝言を託した。彼がビルジの出立を知ったのは、その部下からの報告からだ。まずは打ち合わせということだろう。それならば一月くらいの猶予はありそうだ。

「それと海路で女を運ぶ。二人だ。準備をしておけ」

「はっ」

彼はそれだけ命じると、夜になるのを待って再び宮殿に忍び込んだ。


 暗殺を恐れるビルジは宮殿を厳重に警戒させていた。しかし肝心の暗殺者組織を使い潰してしまった結果、その警戒もちぐはぐだ。素性の知れないセルカンがビルジに直接接触できたのも、当初はビルジもサビーナに関わるつもりが無かったからだろう。セルカンにその気があれば幾らでもビルジを殺すことが出来た。そうしなかったのは密偵としての彼にとって、ビルジはもはや殺す価値すらなかったからだ。

 セルカンは未熟な密偵だったが、内部を知り尽くしている上に内側から進入路を確保しておいたので再侵入は容易だった。更に彼は見張りの目を掻い潜り、厳重に鍵の掛かった部屋の中に忍び込んだ。そして寝台で寝ていた若い女を見つけると、騒がれないようにその口を押さえつけた。

「むっ!? むぅぅうう! ぬぅうううう!」

「静かにしてくれ、ラビア(◆◆◆)さん」

「…………!」

カンザスフタン語で名前を呼ばれ、ラビア――軟禁されていたサビーナの侍女は大人しくなった。

「手を離すが叫ばないでくれ。あなたを殺したくはないし、大人しくしてくれれば危害も加えない。話を聞きたいだけだ」

コクリと頷くのを確認して手を離すと、彼女は訝しそうにジロジロとセルカンを顔を眺めた。

「あなた……部族の人? 見たこと無いけど……」

「違う。俺はセルカンだ」

「……え? 誰?」

彼女はきょとんと首を傾げた。彼が雇われたその日の夜に軟禁されたので、実質半日しか顔を合わせていない。セルカンと聞いてもピンと来ないのだろう。

「密偵だよ。ビルジの敵だ。ジジイのフリをして潜り込んでいた」

「なっ、なんで……」

すってーーーー! と叫びそうになったところを、セルカンが慌てて口を押さえた。その行動は予想の範囲内だ。声の大きさは予想の範囲外だったが、悪意がある訳ではないことは理解できた。

「叫ぶなと言ったろ?」

コクコクと彼女が頷くのを見てセルカンは再び手を離した。

「なんで……密偵が素性を明かすのよ」

「出て行くからだ。だからバレても構わない。だが最後に聞きたいことがある」

「……何が聞きたいのよ。わたしは姫様の侍女よ。私が知ってる秘密なんて、姫さまのスリーサイズくらいだわ」

「それなら俺も知っている」

「…………」

「…………」

気まずい沈黙が流れた。余計なことを言うんじゃなかったとセルカンは後悔した。彼は未熟なのだ。

「……それで、何を聞きたいのよ」

聞かなかったことにしてくれたようだ。優しい娘である。

「仮の話だ。例えば……例えばだぞ? サビーナがビルジに耐えかねて身を隠したいと思ったとする。……どうなる?」

「……どうもならないわ。だって姫さまがどう感じてどう思われようと、姫さまは決して逃げたりしないもの」

「お前っ……! お前だって彼女が泣き叫ぶところを見ただろう? それでも平気なのかっ!?」

「そんな訳ないでしょ! 平気じゃなかったから閉じ込められてんのよっ!」

「…………」

「…………」

気まずい沈黙が流れた。思わず八つ当たりしてしまったことをセルカンは後悔した。彼は未熟なのだ。

「すまん。とにかく静かにしてくれ」

「あんたもね」

いつの間にか互いに口調が砕けてきていた。ラビアも地では蓮っ葉なようだ。まあ、ハサールの姫であるニルファルですらあんな感じなのだから、遊牧民の娘なんてみんなこんな感じなのだろう。サビーナが特殊なだけだ。テュレイだってスラム時代はガキ大将だったし。

「それで、なんでサビーナが逃げないと断言できるんだ? もちろん1人では逃げられないだろうが、お前が手を引いて連れ出せば……」

「そうじゃないの。姫さまはああ見えて勇気のある方よ。逃げないのは逃げるのが難しいからでも追われるのが怖いからでもないわ、出奔すれば大勢の人に迷惑がかかるからよ」

彼は先程リビアが言った言葉を思い出した。

「それは……お前たちの部族、ということか?」

「ええ、そうよ。プラグ様は降伏した部族の有力家系から美しい娘を差し出させているの。もちろん私達アリムル部からも。それがサビーナ様の母君よ。

 男子が生まれれば長を継がせ、女子が生まれれば政略結婚の道具になる。でも、母君からはサビーナ様しか産まれなかった。

 もし姫様が出奔なされば母君や部族の立場が悪くなるわ。二心(ふたごころ)の無い事を示すため、前線に立たなければならないかも。そうなれば部族は百人、千人の命を失うことになるわ」

 その構図に近いものはドルクにもある。皇帝に娘を差し出した貴族は、その娘の不始末で返って自分の地位を危うくすることもある。もちろん逆に気に入られれば、栄耀栄華を極めることも出来るのだが。

――だからサビーナは、ただひたすらに耐えているのか。ビルジはそれを知った上で弄んでいるのだろうか? いや、ビルジはそんなことにすら(◆◆)興味はあるまい。奴にとってサビーナは皿に盛られた料理に過ぎないのだからな。

どんな猛獣も料理になってしまえば抵抗することも出来ない。ただ人に食されるのを黙して受け入れるのみだ。

――だが、時として料理こそが人を殺すものだ……

「……なるほどな。得心がいった」

セルカンが深く頷いたのを見て、ラビアは逆に訝しがった。

「あんた、そんな事が聞きたかったの? そのために密偵だってバラしたの? バレなければしばらくは追手が付かないのに?」

ラビアの言葉にセルカンは呆れた。彼女の言うことはまったくその通りなのだ。

――賢いのかバカなのか分からん娘だな。俺が密偵だとバラしたくなくなったら、俺はこの娘を(バラ)さなくてはならんのだが……

だが彼は彼女を(ころ)したくなかったし、正体の方も隠そうとは思っていなかった。むしろその逆である。

「俺の部屋に付け髭を残してきた。遅かれ早かれ俺が密偵だったということはバレる。むしろ、そうでなくては困るだろう? 姿を消した老人が密偵だったという事実(◆◆)がなければ、その密偵がサビーナを攫った(◆◆◆◆◆◆◆◆)という推論が成り立たない」

「あ、あんた……!」

叫びかけたラビアは、セルカンにふさがれる前に自分の手で口を押さえた。

「……姫様を逃がそうって言うの? 何でっ?」

セルカンは言葉に詰まり視線を逸らせた。

「サビーナは……最初から俺の正体を見破っていた」

「ええっ!? ……そっか、姫様ってたまに鋭いことがあるからね。ひき肉の中にピーマンを混ぜておいても必ず気づくし……」

「……だが、彼女はそれを黙っていてくれた。だから、その……借りを返したいんだ! ……それだけだぞ?」

「ふぅ~ん」

ラビアはからかうように片眉を上げた。

「そ、それに、ビルジのせいで攫われたのなら、奴が窮地に立たされるはずだろっ!」

「へぇ~、ほぉ~」

セルカンはニヤニヤと笑うラビアを殴りたくなったが、それはあくまで無視することにした。

「これを姫様に渡して、お守りよ」

ラビアは枕の下から美しい緑色の石を取り出すと、セルカンに押し付けた。

「そしてお伝えして。好きなようになさいって、答えは姫さまの心の中にあるって」

その口調はサビーナがここに留まらないと確信しているかのようだった。

「お前が伝えれば良いだろう。サビーナを背負っていくのなら、足手まといがもう一人いても大して変わらん。むしろ道中で彼女の世話を頼みたいくらいだ」

「バカね、密偵が私まで攫う理由が無いでしょ。もし私が消えれば、私が仕組んだ脱走だと思われるわ。それじゃあ意味が無いでしょ?」

彼女の言うことには筋が通っていて、セルカンもその正しさを認めざるを得なかった。

――やはり賢い娘だ。密偵にスカウトしたいくらいだな

だがきっと彼女は断るだろう。それくらいならサビーナの側にいたいはずだ。

「……すまんな」

「謝らないでよ。私はもう寝るわ。あんたも急ぐんでしょ、さっさと行ったら?」

シッシと手を払う彼女に肩を竦めて大人しく部屋を出ようとすると、セルカンの背に声がかかった。

「あんたが密偵でも刺客でも構わないけど……せめて、姫さまだけは大切にしなさいよ」

彼は無言で立ち去ることも出来たはずだが、サビーナのためにここに残る彼女に対して義理を欠くように思えた。非情な密偵にはどうでもいいことだが。

「……そうしよう」

音もなく部屋を出たセルカンは静かに廊下を歩きながら自己嫌悪に陥っていた。

――俺は未熟だな。密偵失格だ!

だが彼の顔に浮かんでいたのは、(かげ)りのない笑顔だった。


 セルカンがサビーナの寝室を訪れると、そこは酷い有様だった。わずか一日留守にしただけで部屋は荒れ果ててしまっていたのだ! ……彼から見れば。

――物が定位置にないじゃないか! 水差しはこっちだし、着替えはここだ。まったく、これじゃあサビーナが見つけられなくて困るだろうが! ……って、俺は何やってるんだっ?

セルカンは暗闇の中で苦笑いを浮かべたが、手に持っていた着替えはそのまま鞄につっこんだ。勝手知ったる世話係が誘拐するのだから、着替えくらい持って行っても不自然ではないだろう。上着は粗末な物を着せないと目立ってしまうが、下着くらい絹の物を着せてやりたい。彼らしからぬ思い遣りだった。本人を目の前にして替えのパンツを漁る姿は、傍目には完全に変質者だったが。

 必要そうな物の荷造りが終わると、彼はようやくサビーナを起こした。

「サビーナ様、起きて下さい」

「……誰? もう朝なの?」

「密偵のセルカンでございます」

「セルカンっ……!?」

ばっと体を起こした彼女の顔にほんの一瞬笑顔が浮かんだが、すぐに彼女は顔を強張らせ硬い声で問い質した。

「なぜまだここに居るの? あなたには暇を出したはずです」

「私は密偵です。密偵としての私を雇ったのは、あなたでもビルジでもない。もっとも今はラビアさんに雇われていますが」

「ラビアに……?」

「ラビアさんからのお届け物です。預かってきました」

その手に緑の石を握らせると、彼女ははっとして大切そうにその石を優しく撫でた。

「不思議ね、これをラビアにあげた時にはまだ目が見えていたのに、指が形を覚えているわ。

 綺麗な緑色でしょう? 翠玉(すいぎょく){エメラルド}のように見えるけどただの石なんですって。こんな価値の無いものを、ラビアはずっと持っていたのね……」

どんな思い出があるのか分からないが、2人の大切な思い出なのだろう。

――子供の頃は目が見えていたのか。怪我か病気で失明したのだろうな。

 当然のことだが彼はサビーナの事をごく一部しか知らなかった。彼女は印象ほど単純な女ではない。密偵と分かっていながら自分の世話をさせていたような女なのだ。一月(ひとつき)ばかり世話をしただけで彼女の全てを理解できる訳が無かった。彼女を理解できていないということを、彼は理解していた。……はずであった。

――だが何故だろう、何かちょっとモヤモヤするな

とはいえそれは、ビルジに対する怒りとはまた違うものだった。恐らくは嫉妬ですらない。それはきっと……羨望だった。

「ラビアさんは言っていました。あなたの心に従って、好きなようにしなさいと」

「…………」

「その上で聞きます。私はあなたを攫いに来ました。大人しく付いて来て下さいますか?」

「それも……ラビアに雇われてのことなの?」

そうだと言えば彼女は付いて来るだろう。手段を問わず結果を求める密偵ならば、間違いなくそうすべきだ。だが彼は未熟だった。非情になれなかった。今彼を突き動かしているのは、まさにその情なのだから。

「ラビアさんに頼まれたのは届け物と言伝だけです。これは別人からの依頼です」

「……エフメト皇子?」

ビルジの敵と聞いて彼女に思い浮かぶのは、名前しか知らない義理の弟くらいだった。

「いいえ。その腹心であるコルクト・パシャ……その兄です」

サビーナが知るはずもない人物である。というか、微妙にマイナーな彼の名を知っている者がいるとすれば、このあたりではビルジの腹心マフズンくらいだろう。だがその彼も今はデレーに向かう旅の空だ。

「……誰ですか? その人が、私を?」

「ええ、その男は変わり者ですからね。自分自身が密偵として敵地に潜入し、ジジイのフリをしながらも堂々と本名を名乗るような男です」

サビーナははっと息を呑み、両の手で口を覆った。

「その人の……名前は?」

彼女の震える小さな声を、だが彼は無視した。

「密偵として研鑽(けんさん)を重ね、眉一つ動かさずに人を殺してきた男です。血を分けた家族以外に情を抱いたこともない。数多くの女を抱いてきたが、女を愛したことは一度もない」

今度は幾分大きな声で、彼女は再び問うた。

「その人の、名前は?」

だが彼はやはりその問を無視した。

「しかし未熟な男です。見捨てるべき者を捨てきれず、恋すべきでない女に恋をした」

彼女は激しい動悸に胸を押さえ、苦しそうに、だがはっきりと語りかけた。

「その人の、名前、は?」

しかし彼は答えなかった。

「そしてその男は恋に溺れ、自らのために自らを雇った」

彼女はよろけるようにして彼に(すが)り付いた。人生に期待することを忘れたはずの彼女の胸は、息もできぬほどに高鳴っていた。だが胸を重ねて彼女は知った。それは彼も同じなのだと。

「お願い、答えて! その人の、名前はっ!?」

鼻先が触れ合うようなその距離で、彼はそっと自分の名を囁いた。


「セルカン」


彼はそれ以上何も言えなかった。彼女ももう何も問わなかった。言葉より雄弁に、二人の唇は互いの心を伝え合った。


その日、一組の男女がカラチンから姿を消した。大きな歴史のうねりの中では取るに足らない、ほんの些細な出来事だった。

情熱的な恋です。背中が痒くなるほど濃いです。

しかし人妻です。不倫です。略奪婚です。

見方を変えて思いっきりビルジ側の味方をすると、トロイア戦争みたいな構図にならないこともないかも。

妻をNTR(ねとら)れて、怒って、戦争に発展する訳です。時系列が逆転してますけど。


ちなみにトロイア戦争は、有名な「パリスの審判」でトロイアの王族パリス君がアプロディーテを選んだことに起因します。

彼は3人の女神から一番美しい女神を選ぶ際、「王様になったり(ヘーラーの賄賂)戦いに勝つ(アテーナーの賄賂)より、やっぱいい女(アプロディーテの賄賂)とヤリたいよね! (ゲス顔)」とバカなことを考えたのです。

あれ? 平然と贈賄してる女神たちもヒデェ……

とにかくそんな訳で、彼はアプロディーテの選んだ美女(人妻)を寝とります。当然旦那(スパルタ王)は怒ります。おかげで実家(トロイア)は全焼しました。


焼け出されたパリスの従兄弟アイネイアース君は放浪の旅に出ます。

ちなみに彼は事件の元凶アプロディーテさんの息子です。人間とエッチするのが嫌じゃないなら、素直にパリスを籠絡してれば良かったのに……

まあ、とにもかくにも彼はイタリア半島にたどり着きます。で、彼の末裔がローマの名門ユリウス氏族……ということになっています。

カエサルが若ハゲでもやたらとモテたのは、きっと神の血のおかげなのでしょうね。

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