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太陽の姫と黄金の魔女  作者: 桶屋惣八
第8章 ムスリカ編
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決意 その2

 サビーナとセルカンは穏やかな日々を送っていた。この宮殿でカンザスフタン語が分かるのはセルカンの他には軟禁されてしまった侍女のラビアだけだから、彼が付きっきりで話し相手になっていた。盲目の彼女は宮殿の外に出かけることもなく、草原の民だというのに馬に乗ることもない。風に触れるのは人目に触れない中庭の花壇を散策する時くらいだ。何故か彼女はこの散策を日課にしていた。もちろんセルカンはこの散策にも付き合って、彼女の手を引いていた。

「なぜ花壇なのですか? 健康のためなら廊下でもよろしいのでは?」

「匂いです。ここの匂いは草原を思い出します。セルカンはそう思いませんか?」

「いえ、私は……草原を知りませんので」

正確には、彼はちょっとだけハサールに出入りしていた。しかし匂いの記憶などは全く無い。完全記憶を持つ彼の部下ならばひょっとしたら覚えているかもしれないが、別に嗅覚が鋭い訳ではないので何の役にも立たないだろう。

「ああ、そうでしたね。いつかセルカンにも故郷を案内したいわ」

ニコリと微笑むサビーナに密かな罪悪感を感じつつも、セルカンは柔らかく微笑んだ。

「楽しみにしています」

 彼は非情な密偵である。だからその時が来れば、彼は何もかも切り捨ててこの地を離れることになるだろう。だが彼は確かにその日が楽しみだった。決してその日が来ることはないのだとしても、そしてこの穏やかな時間の後には必ず夜がやって来るのだとしても。

――ならば今だけは、この平穏な幸せの中で夢を見せてやりたい。それで彼女が俺を信頼するのなら、俺の仕事にとっても好都合なはずだ。

彼は非情な密偵である。少なくとも、彼は最近までそれを疑ったことは無かった。

 だが今、停滞していた彼らの運命の歯車はカラチンから遠く離れた所で回り始めようとしていた。



 シロタクはヒンドゥラ王国の旧都デレーを訪れていた。王を失ったヒンドゥラ政府は進んでデレーの城門を開き、モンゴーラの庇護の元で屈辱的な生を繋ぎ止めていた。市民たちはモンゴーラ占領軍とヒンドゥラ政府の二重支配に苦しみながらも、新たな歴史を刻み始めたこのデレーを見捨てず、健気ながらも強かにこの街で生きていた。

シロタクは草原とは違う活気を感じながら、絢爛豪華な宮殿の門をくぐった。西征軍総司令であるプラグは、ここに本陣を置いて各地方制圧の指揮を執っていたのだ。


「プラグ叔父上、モンキ叔父上の御即位の儀以来ですね。ご無沙汰いたしております」

正確にはプラグもモンキもパトーの従兄弟であり、シロタクにとっては従叔父(じゅうしゅくふ)にあたる。それを単に叔父と言っているのは……面倒だからである。

ハサールの姻戚関係も複雑だが、モンゴーラでもキルギス・カンの子孫たちはやたらと子供を作りまくってあちこちと婚姻関係を結んでいた。だから面倒なのでだいたい叔父っぽい人はみんな叔父と呼んでいるのだ。(注1)

「パトー殿のことは聞いている。兄上ともどもパトー殿には世話になった。残念だ」

「ありがとうございます。その言葉を聞けば父の無念もいくらか慰められることでしょう。……ですが出来ればお言葉だけでなく、父のために御力もお貸しいただきたい」

プラグは眉をひそめた。彼にも都合というものがある。ドルクを征服した後ならともかく、今の段階で遠く離れたハサールに大軍を送るのは難事業だ。何せその道中はジョシ・ウルスの中なのだから、途中で略奪することも出来ないのである。

「ハサールに兵を出せと、いや、貸せというのか?」

「いえ、ドルクです。ハサールでの戦も、そもそもドルクが介入してきたことで戦況が変わったのです。その恨みを晴らしたい!

 叔父上はドルクに攻め入る予定だと聞いております。その先鋒として、是非私をお遣わし下さい!」

「ほう……」

プラグは意外な成り行きに目を細めた。そういうことなら彼としても損はない。

――シロタクはジョシ家の家督相続で不利な立場のようだし、領土や財宝よりも名誉とワシの後ろ盾が欲しいのだろう。戦力としては小さなものだが、お互いに益するところはあるようだな……

 シロタクはジョシ・ウルス当主の座を狙っていたが、プラグは大汗(カァン)の地位を欲していた。正確には兄モンキの後継の地位だ。現時点ではヒンドゥラを制圧したプラグよりもツーカ帝国を征服したクビレイの方が優位な立場にいた。モンゴーラを始めとした草原の民にとって、文明とはまさにツーカ帝国のことだったからだ。「ツーカ帝国をやっつけた」と言えば「スゲェ!」と言ってくれるのに、「ヒンドゥラを征服した」と言っても「へ? どこの少数部族?」と言われちゃうくらいに知名度が低かった。だからこそ彼は、ドルクも制圧しなくてはならないのだ。だがハサール遠征の失敗でジョシ・ウルスの威光は大きく低下したとはいえ、モンキ登極の黒幕となったそのクリルタイへの影響力は未だ無視できなかった。

――ワシの支援でシロタクがジョシ・ウルスの当主となれば、クリルタイで大きな力となってくれるはずだ。悪い取引ではないな。

「もちろんだとも、シロタク殿が力を貸してくれるのならこれほど心強いことはない。だが、このヒンドゥラの制圧もまだ終わらぬ。ドルクに軍を進めるのはまだ先のつもりだったのだが」

「なればこそ、露払いをさせて頂きたいのです。兵馬の労は惜しみません!」

「ふむ、そこまで言うのならワシとしても異存はない。しかしドルクは婿殿の国だからな。皇帝である婿殿がうんと言わねば兵を出す訳にもいかん」

「……え?」

予想もしない言葉に、シロタクはマヌケ面で固まった。

「ええええぇぇえっ!? エ、エフメトが婿ですとぉ~? じゃ、じゃあ、ニルファルは第二夫人? ま、まさか叔父上の娘御が第二夫人なんですかっ!?」

「えふめと? 娘を嫁がせたのはビルジ殿だが……あー、そういえば謀反を起こしているという婿殿の弟がそんな名前……だったような?」

「……弟? でもニルファルはエフメトが皇帝だと言っていたような……?」

「にるふぁる?」

二人は揃って首を傾げた。

「よく分からんが皇帝は婿のビルジ殿だ。大方弟の方が勝手に名乗っとるのだろう」

「……なるほど。ではそのビルジ殿の許可があれば、エフメトを討っても良いのですね?」

「まあ、そういうことだな。婿殿が良いと言えばワシからもいくらか軍勢を付けてやろう。そうだな、これも何かの縁だからアリムル部の兵が良いか」

「アリムル?」

「ビルジ殿に嫁がせた娘の母方の実家だ。娘のために働いてくれるだろう」

「それは心強い。ではさっそくビルジ殿と連絡を取ってみます」


 シロタクは確かな感触に笑顔を浮かべながら宮殿を辞した。些か妙なことにはなったが、プラグ本人は乗り気のようだ。ジョチ家の特殊な立場から彼自身が大汗(カァン)を志すことは出来ないが、それ故に彼はプラグの野心にも気づいていなかった。まあ次の大汗(カァン)がクビレイだろうとプラグだろうとあんまり関係ないので、高く買ってくれる方に売るだけなんだけど。

 シロタクが出てきたのを見つけた側近の千戸長が、主の笑顔を見て自分の顔も綻ばせた。

台吉(タイジ)、首尾はいかがですか?」

「まあ、悪くは無かったぞ。ビルジという男を説得できたら攻めて良いという事になった。まあ、どんな男なのかはよく分からんのだが」

「ビルジ? どんな素性の男なのですか?」

「エフメトの兄でドルクの正式な皇帝なのだそうだ。少なくともプラグ叔父はビルジの方を皇帝だと認めている」

「はあ、お家争いですか」

「つまりはハサールとモンゴーラの代理戦争ということだな。だがそれだけにビルジを立ててやる必要があるのだろう。ここのように傀儡政府も作る必要もあるのだろうし」

 当事者の二人はそんなつもりは無いのだろうが、代理戦争の当事者は大抵自分が主役だと思っているものである。見方を変えればドルクの内戦は正しく代理戦争であった。もっとも、ドルクの内戦は既にそんな単純なものではなくなっていたのだが。

「そうそう、アムリルとかいう部族の兵も付けてくれるそうだ。ビルジにやった娘の実家だとか言ってたが、知っているか? どれほどの兵がいるのか調べてくれ」

「アムリルですか? アムリル部なら我が(ウルス)との境界に住む草原の民です。周辺の部族と血縁関係があるはずですから、我が軍にも縁者がいるかもしれませんね」

「ほう。なら早急に調べろ。そちらの方面からも働きかけた方が良いだろう。まさか叔父上の娘を粗末に扱えまいからな」

「かしこまりました」

――エフメトと皇位を争っているのなら俺とも利害が一致する。ビルジとやらにも思惑はあるだろうが、損得勘定ができるのなら俺を敵に回すことはあるまいて。

 彼にはビルジを説得する自信があった。そのためにあらゆる努力をする覚悟もあった。だが彼は、自分がサビーナの名すら知らないことに気付いていなかった。それは、彼だけでなく誰にとっても取るに足らないことだったのだ。

注1 モンゴルと関係ないですけど、三国志の劉備も「皇叔」と呼ばれていました。

皇帝のもんのすご~く遠縁(自称)のおっちゃんだからです。まあ、その血縁関係すら激しく怪しいんですけどね。

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